MENU

とうわ よもやまばなし<紺野雅子>

■20211018
 1日中かかった結婚式。貧しい家には負担だった。風呂は3,4日に一度しか水をかえないから垢で真っ黒だった。膳も洗うのは3,4日に一度。
 うんちは肥料になるから自分の家でするようにする。馬糞を拾って歩いた。
 嫁は暗いうちから働き、昼間は農作業、夜は夜なべ仕事……
 福島県二本松市の東和地区のばっばが方言で描いた昔話。ひょうひょうとして楽しい。

=====================

【結婚】▽22 午前10時に花婿が嫁の家にきて……15時に迎えが来て、花嫁道具をトラックに積み……婿宅につき、祝宴、23時すぎ花婿と花嫁がねばり餅つき……午前1時、、近所や集落のお手伝いの人に対する慰労の宴。すべて終わるのは午前3時半。(合理化の必要性がよくわかる)
▽42 「女子3人(娘)あるといろりのほど灰まで浚われる」と言われた。それほど嫁入り道具は大変であった。女の赤ん坊が生まれたら、まず桐の苗を植えろといわれたもんだ。……嫁に行ぐとき……桐の箪笥をもたせることができるから。
▽三郎=スコップ ▽組=やしき ▽葬式=ざざんぼ
▽46 旧東和村には小学校が7校(針道、内木幡、外木幡、下太田、上太田、北戸沢、南戸沢)あり、7校大運動会が開かれた。
▽100 昔は秋の庚申の日にはお祭りがありました。役員が甘酒をつくり……お参りに来た人に1杯ずつごちそうします。
▽114 今も継続している十九夜さま(講) 陰暦9がつ19日の夜、やしき(班)の婦女が家に集まって、掛け軸をかけ安産を祈願した。重箱に酒の肴を持ち寄り……お茶を飲みながら話をした。月がでたら、みんなで拝んで「ごっつぉさま」と解散した。
▽125 双体道祖神 道祖神は道枝の神として道のわかれる所に多くあり、才の神という字名で今日までつがれているところが多い。
 この地方では、自然石のみごとな男根をまつってある道祖神を才の神として信仰してきた。
 双体道祖神は神奈川・静岡・山梨・群馬・長野などが多く、それより北にはないとされてきた。ところが木幡治家の学頭宿坊跡にあるのがわかり……1715年ごろ
▽127 木幡の大杉。幡まつりのいわれとなっている源氏の白旗に見えたという杉の雪。
【糞は肥やし】▽128 馬糞浚い 昭和10年ごろ、羽山に朝、草刈りに行く人が馬を引いて登った。行き帰りに馬が垂れた糞をさらってこいと祖父にいわれた。畑に積んで堆肥にした。
▽131 ヘチマ水は化粧水 咳止め薬にも。
▽137 南戸沢の熊野神社 「かんぷら御祈祷」 かんぷらを煮て、塩をまぶした簡素なもの。
【地震の原理】▽139 鯰の床げえり(寝返り) 鯰が何匹も重なったりして、何十年も同じ格好で寝でっから、くたびっち、床げえりしんだど。……その時地響きがしんの。それが地震で、その時がぼっと海の水が動ぐから津波がガバッと寄せでくんだぞ
 プレート・テクトニクスを知らない先人たちが語り継いできたことにたまげてしまう。
▽145 杤人山(口太山)は姥捨て山。老人が捨てられたという大きな岩屋。
▽146 戸沢の嘉市っ殿という隠居。白い馬で……しょっちゅう出歩いているから国有林を払い下げするらしい情報をキャッチするや、上戸沢・北戸沢一本化をはかって申請し、国の出先機関の仙台まで馬に乗って通い、村の有志たちとともに250町歩を払い下げるにいたった。現在の戸沢石平財産区の林野である。
 地域産業の養蚕にも着目し、クワの改良を進め、新品種「強兵」を全国的に普及させた。冬期間の仕事として凍豆腐を考案し「ヴィタミン凍豆腐」として特許を取り、木幡の杉山利久さんと共同で販売した。
【清潔感】▽150 椿油売り 伊豆大島から年に1回ぐらい若い女性たちが家ごとに歩いてきた。……頭の毛を洗うのは年2回くらいであった。
 お正月とか凍豆腐をひく時に、にがりを混ぜ、すんでから箱に布をしいて型にとおす時のその桶にたまった水で「ほら頭洗いよ」なんて言われた。豆から出る油がとりーとめんとの役目をしていたと思う。頭が臭いということはなかった。植物性の食物しか食べなかったので全部吸収されていたのではないでしょうか。
▽153 藁仕事 ゴム靴だの、ビニール合羽だのロープだのなかったから、昭和27年ごろまでは何でも自家製で、冬の藁仕事があった。12,3歳から草履つくり、15,6歳から草履、うす靴、みの、かじんな(荷縄)、20歳くらいから深靴、ずんべ、はばぎ、馬の靴、牛の靴。
▽163 ばあさまの穴は「俺の穴」 壁の穴は「ネズミの穴」だべ だからばあさまの穴は「じいさまの穴」
▽167 嫁さ行ったらお姑さまの機嫌とっていせいしっと円満なんだから、椀こ取りかいされるまでがまんしてつとめろよ、といわれたもんだない。
▽177 父に赤紙
▽183 神風特攻隊の叔父の手紙 享年19歳
▽199 兵隊行く前に 「私が教えてやっから」 男ははじめてを「筆おろし」、2,3回目を「筆ならし」という。女ははじめての時を「はつわり」または「はつもの」
▽220 子羊の尻尾切り 
▽229 天ぷらは年に何回かしか食わながった。お盆と、お祭りの引き出物用とするくらい。杉の葉っぱにあげた天ぷらをのせ「油きり」にした。ばあさまが数えながら、いろりであげてるそばで、ばあさまの目をぬすみ、手をのばして、とって逃げで、おごらっちゃ。
【嫁】▽231 母は17歳で農家に嫁いだ。じいさまに「ぬるぐねえがえ?」と聞きさ行くど、きまって「ぬるいがら焚えでけろ」というんだ度。そして低い声で「焚ぐ真似をしていろ」と言う。「俺の脱いだ……のカグシさ飴玉入ってっから、それもってってなめろ」。
 爺さまに慰めでもらったがら嫁つとまったど、私が嫁入りが決まった時話してくれた。
 その爺さまが死んだ日の夕方に私が生まれたんだど。
【清潔感】▽232 すいしろ(風呂)の水は、水桶を天秤棒で担ぎ、4がたから5がたの水が必要だった。低い井戸から高台にある家までタップタップの水を担ぎ上げるのは嫁の仕事で容易ではなく、男衆が昼寝しているときに水くみをした。
 風呂の水はひと晩では捨てずに、3から4晩くらい、入浴した。数多の家族が入るので垢が浮きあがり真っ黒になり、風呂から上がるときにはヨンザヨンザと体をゆすぐってからあがったもんだない。
▽237 演芸会 昭和20年ごろ、村に若い者がいっぺいいだ。……青年団も活発で、区ごとに集まって練習をし、演芸会を1年に1回、秋の収穫が終わったころに盛大に開催した。……練習には、ゆで豆、ゆで栗、ゆでとうみぎ、サツマイモ、甘柿などを持ちこみ……。
【貧しさ】▽245 百姓は野良着や縞の袷袢こしかなかったがら、葬式ができると、とずげ(悔やみ)に行ぐ時は借り着をしていった。帰ってくるのを待っていで、まだあたたかい着物・羽織を来て出かける。3人くらいが借りて来たというのない。
 お祭りにも呼ばれると借り着をしなくては行けなかったど。
【卵は貴重品】▽257 すたまご 白い石膏でつくった卵。
▽259 小さいころ、にわとり、2,3羽くらい放し飼いで飼っていました。1日に2個くらいのを毎日ためておいて、木の箱さ籾殻を入れ、割れないようにして閉まっておいた。10日1回くらい卵買う人が横だこしこをしょって来た。みんな売ってしまう。1個2銭五厘のようでした。母は、……卵を売った金で砂糖を買ったり服とか買ってくれた。私は7歳、姉が9歳のとき、姉が風邪ひいてご飯も食べないでうんうんうなってねていたら、母が「困ったなぁ、卵でも食え」って二つ割っかいでくれた。普通には卵など食ったことがないので喜んで食べた。
▽274 魚を焼いて食うときは「ほうの木の葉っぱ拾ってこう」と言われた。大きな皿の代わり。洗い水も汲まなくてはならないからで、そのまますてられるので便利だった。
【膳 清潔感】▽278 お膳 丸や四角の足つきのお膳。居所で筵の上さ車座に座って食べた。……並ぶ順番もあった。
 膳にはめしわん、汁わん、皿、箸が会った。食べ終わると椀や皿はべろで、ようぐ嘗めておっ伏せでしまって戸棚に重ねておいた。3,4日洗わねがった。
 じいさまは食い終わると椀さ湯をそそいで、たくわんでよぐまわりを洗い、その湯をのんだ。
 その人が死ぬと、そのお膳をそのままお墓に持って行き、墓参りごとに椀にごちそうをそなえた。塗のはげた膳が、2,3年はあった。
【嫁】▽294 ……孫が次々産まれる。姑も若いがら、わが子も生まれる。一緒に遊ぶが、いつも叔父叔母がいばっていじめて泣がせる。花を摘めばとっかいす。ぐみも、桑の実も食っちまう。
 ある日、姑がりんごの皮をむいたりんごをわが子に食わせたので、孫は皮を食うほかなかったど。姑は孫をこてんぱんにいじめるので、嫁はわが子を脇さすわらせて姑さまに、たっぴらになって謝ったもんだない。
【嫁】▽296 姑が90歳で脳梗塞で倒れた。10日間意識不明であったが、右半身麻痺で3カ月後退院し、10年間在宅介護であった。……実家の母に愚痴を言うと、いつも母が言った。「お前が死んだとき、三途の川を渡り、閻魔さまの前で極楽か地獄行きか裁かれる時にな、年寄りを介護した者は必ず特別な点数が足されで、条件なしで極楽行きになれんだぞ」と諭されたもんだ。
 99歳と7カ月の姑を看取り、今はそれを信じて主人の介護をしていんのやれない。
【糞も肥料】▽312 奉公人は人の家に方向に出ていても便所だけは家に帰ってからするようにしていた。そうすると奉公先では「これはくその役にもたたない。そんな者は頼みたくない」と言われた。昔は肥料として糞や小便を買ったので大事なものであった。風呂水も便所におとし、肥料として作物にかけた。
 国民学校時代には、児童も便所のくみ取ってかついで下肥にした。契約をしていた農家が何軒かあった。糞が尊い時代があったんよ。
▽314 蚕さまはだいたい1カ月くらいで繭になり、製糸会社に売り渡す。
 昭和50年代は1年の掃立の回数を増して収繭量を高めた。掃立日、5月18日、24日、7月5日、18日、8月2日、20日、9月3日、15日と8回の掃立で春蚕から初冬さんまで飼育した家もあり、夜も寝ないだり、眠らないだりしてやった。
 繭出荷後「たなおろし」といって餅をつき、使用人たちを招いて慰労をしたもんだない
【清潔感】▽319 終戦、小学1年生でした。……鼻水をたらして、青〓2本たらして、鼻どの前を赤く爛れている子が何人もいた。着物の袖口がはなかみだから、カペカペと光って固ぐなっていた。
▽「どんぐり教室」7校が並行になり平成22年に統合した床暖房の小学校。
「昔は、おやつなんて何もねえがら、みんな腹へってだの。近所の童子(わらしこ)だち集まって、ワラワラど山だの畑だの土手ままだのはねまわって、草の実、木の実、花、茱萸だの苺だのスカンポ、何でも食ったもんだぞ」っていったら、すかさず1年生が「雅子ばっぱ、なんでコンビニさ行がねがったの?」ときた。
 いやあ、たまえた、こまげた、びったまげだ。
【嫁】▽322 私は昭和33年に百姓の嫁になった。5人姉妹の2番目だった。姉は婿様をむかえ19歳で跡取りが生まれた。家族は13人で、母は39歳で祖母となった。
 ……嫁ぎ先も11人と大家族で養蚕・田・煙草の経営である。おてんとさまが見えない時は掃く・拭く・磨く・洗う・つくろう。日中は野良仕事。食いつなぐのにやっとのくらしだった。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次