■文芸社20211031
筆者(1934〜2018)は、近江兄弟社を社長として倒産の危機から救った立役者。
ヴォーリズの建築は有名だけど、彼が近江兄弟社の創始者とは知らなかった。
近江兄弟社の名も、近江さんという兄弟がつくった会社だと思っていたが、「人間みな兄弟」というキリスト教の教えから来ていた。キリスト教の教えを実践し、稼いだ金を社会貢献に使い「神の国」をつくることをめざす企業だった。
ヴォーリズがメンソレータムをアメリカから輸入しヒット商品に育てたが、兄弟社が混乱している間に、ロート製薬が、メンソレータムの製造販売権を取得してしまった。以来、近江兄弟社は「メンターム」の名で売ることになった。それも知らなかった。
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(日本名・一柳米来留)はキリスト教伝道をめざして1905年に八幡町(近江八幡市)の滋賀県商業学校(八幡商業高校)の英語講師になった。滋賀県商業学校は、近江商人の「士官学校」とまでいわれていた。
「耶蘇教」「切支丹」への偏見で2年で職を失って以後、さまざまな事業を興す。
全国から建築の仕事を依頼され、大丸大阪心斎橋店や関学、同志社、神戸女学院、明治学院……などを設計した。昭和18年までの38年間に1600の建築物を手がけたとされる。軽井沢は外国人宣教師たちによって町づくりがはじまり、のちに日本人の別荘地としても開けていった。ヴォーリズもそれにかかわった。
1913年、京都の設計事務所を発展させて「ヴォーリズ合名会社」を近江八幡に設立した。これが近江兄弟社グループの母体となった。
1920年前後からメンソレータムを輸入しはじめる。売れ行きが伸びて、1931年に近江八幡に製造工場を建設する。メンソレータムが、「神の国建設」の資金源に育った。
比叡山からおりてキリスト教に改宗した仲間が結核になり、隔離病室になる棟を建てた。それが結核患者の「近江療養院」となり、「ヴォーリズ記念病院」に発展した。
貧しい共働き夫婦を助けるために「プレーグラウンド」という保育所(後の近江兄弟社幼稚園)を開いた。
戦後になると「近江兄弟社小学校」「近江兄弟社中学校」「近江兄弟社高校」……それらを統合して「学校法人近江兄弟社学園」を創設した。
1940年に開いた「近江兄弟社図書館」は1975年に市に移管され近江八幡市立図書館になった。
近江兄弟社グループの最高意思決定機関である常任委員は2年ごとの選挙で選ばれた。正社員とその妻が投票権をもっていた。「人間みな平等、みな兄弟」だから職階制度はなく、給与も基本的に一律だった。子どもの教育費用は会社持ち。住宅も、会社が無償で貸した。企業に家族主義、平等主義を取り入れ、「神の国」というヴォーリズの理想を具体化していた。
だがそれが足かせになっていく。
メンソレータムが好調すぎて営業努力を怠るようになる。常任委員制度も、社員の人気取りをした人が選ばれるようになる。職階や賃金差がないことも、競争心をなえさせた。社会主義の経済破綻と同様の事態に陥った。
筆者が入社したころには、給料は近江八幡では最も低いと言われ、月給1万円ほどの給料袋には5000円しか入っておらず、残りは「社内銀行に利息○分○厘で貯蓄」という紙切れがはさみこまれていたという。
メンソレータムの製造販売権をロート製薬にとられて1974年12月に会社整理が倒産した。
筆者を中心に経営再建を試み、ロート製薬と、兄弟社が類似商品を販売しても異議を申し立てない、という内容の和解をして、「メンターム」の名で売ることになった。
同時に「自転車部隊」による小売店訪問のセールスを開始した。再建スタート時に社員はピーク時の1/4の80人程度に減らした。5年ほどで黒字転換を果たした。
本当のクリスチャンは、世の中の闘いに勝ち抜いていけるたくましさをもち、社会に奉仕し、世の中をよくしていかなければならない。
熱心な信仰家だからこそ、資本主義というシステムのなかで能力を発揮してお金を稼ぎ、そのお金は社会のための奉仕に使う。
真剣に働くことによって正当な報酬をうけ、フェアな競争に勝って利益を上げるという資本主義の原則は、プロテスタントから芽吹いたのではないか、と筆者は考える。「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の格好の事例だったのだ。
そして稼いだ金を社会に還元することで「神の事業」として認められると考えた。
ヴォーリズと近江商人が直接つながりがあったかどうかはあきらかではないが、多くの共通点があると筆者は言う。
玉田盛二市長は「近江商人の倹約精神、それはもったいないと言うことと同じで、今で言うリサイクルの勧めであり、……ヴォーリズさんは社会奉仕をどんどん手がけていかれた。そこには近江商人の血が流れていると思えてなりません」「ヴォーリズ氏こそ近江八幡の中興の祖」と語っていたという。
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▽1932年に自宅として建てられたのが「一柳記念館」
▽53 バッファロー市に、メンソレータム社の本社がある。
▽1920年前後、メンソレータムを輸入し、売り込みをはじめる。
最初、クリスチャン関係者に販路を求めた。教会などに置かせてもらい、徐々に売れはじめた。
売れ行きが伸びて、輸入では間に合わなくなり、自社製造へ。
1931年、近江八幡にメンソレータムの製造工場を建設。
類似品が出まわり、最盛期には200社ほどがつくって対抗しようとしてきた。
メンソレータムが、「神の国建設」の大きな資金源に育った。サナトリウムや幼稚園、図書館など社会奉仕のための投資に乗り出していく。
▽71 比叡山からおりてヴォーリズにひかれて改宗した人が結核になり、隔離病室になる棟を建てた。それが「ヴォーリズ記念病院」のはじまり。
結核患者の療養施設「近江療養院」を1918年に開く。
▽75 共働き夫婦を助けるために「プレーグラウンド」(保育所)。
戦後になると「近江兄弟社小学校」「近江兄弟社中学校」「近江兄弟社高校」……統合されて「学校法人近江兄弟社学園」になっている。もっとも古い幼稚園も「近江兄弟社幼稚園」に。
▽79 1940年には「近江兄弟社図書館」。昭和50年に市に移管され、近江八幡市立図書館に。
▽89 1941年に帰化が認められ、「一柳米来留」に。「米国から来て留まる」の意味。
▽97 兄弟社グループの最高意思決定機関は常任委員だった。2年ごとの選挙で起用。正社員が投票権をもっていた。正社員の奥さんも含まれた。職階制度はなく「人間みな平等、みな兄弟」。会社名が示すように「みな兄弟」となって家族ぐるみで運営されていた。給与も基本的に一律。扶養家族の数によって増減した。子どもの教育費用は公立私立を問わず会社持ち。住宅も、会社が手当てして家賃は取らなかった。
まさに「神の国」ヴォーリズの理想が現実に描かれていた。
▽99 メンソレータムが好調すぎた。営業努力をしなくなってしまう。
常任委員制度も、適材適所ではなく、社員の人気取りをした人が経営にあたるようになる。職階制度がなく賃金格差がないことも、競争心ややる気をなえさせた。
メンソレータムの売り上げも落ちてきて……経営者である常任委員は2年交替だから責任がうやむやにされる。
私(筆者)が入社したころには、給料は近江八幡では最も低いと言われていた。月給1万円ほどの給料袋には5000円しか入って織らず、残りは「社内銀行に利息○分○厘で貯蓄」という紙切れがはさみこまれていた。ボーナスも1カ月分ほどだった。
メンソレータム社へのロイヤルティが跳ね上がる。……
1974年12月、会社整理。倒産。〓
▽116 ロート製薬が、メンソレータムの製造販売権を取得。(妻はがんにおかされて、……ホノルル州のホテルで「5月10日、妻死す」というテレックスを受け取った)
ロート製薬が再建資金の一部として3億円を提供。兄弟社が類似商品を販売しても異議を申し立てない、という内容の和解。「メンターム」の名で売ることに。
戦時中にメンソレータムに似た商品が出まわっていたころ、兄弟社は訴訟を起こした。その時裁判所から「メンタームは固有名詞ではなく、一般名詞とする」との判断が下されていた。また近江兄弟社は「近江兄弟メンターム」の商標登録で許可を得ていた。そのことが30年以上たって役だった。
▽128 メンターム発売と同時に小売店訪問のセールスで「自転車部隊」。今もつづく。
▽131 1980年3月決算で黒字転換。
再建スタート時に社員はピーク時の1/4の80人程度に。現在は180人体制。人数の割り出しはもっとも暇な時をベースとしている。
▽134 「第2創業の展開」の「新経営基本理念」
1、「商業と信仰の両立」による社会奉仕を実践する。
2、総員の経営参加により、顧客、株主(財団法人)、社員の共信共栄をめざす。
3、働くことからバランスのとれた人格形成をはかり、「豊かさ」を探究する。
この根底に流れるのは、理想郷を描いたヴォーリズのキリスト教精神であり、企業観である。(近江商人と類似〓)
▽159 ヴォーリズの建築 使う人と環境に対するやさしい心配りが根底に流れている。
▽162 結核患者が蔓延するとみれば「サナトリウムをつくろう」となり、貧しさゆえに育児に手が回らない家庭が多いとみれば「保育所をつくろう」となり、幼稚園や花嫁教室へと広げる。書籍が手に入りにくいとみれば「図書館を造ろう」となる。
ヴォーリズ氏が金稼ぎにはしたたかで、利益増大に必死になっていたのは、すべて社会事業に注ぎ込むのが最大の目的だった。
▽166 「神の事業」「事業を通じて信仰の証しとする」
意志の強い熱心な信仰家だからこそ、資本主義というシステムのなかで、自己の能力を十分に発揮して、お金を稼ぐ。稼いだお金は世のため、人々のために尽くす元手とする。自己を犠牲にしてでも社会に奉仕する。
……社会の隅っこでじーっとしていて、祈りばかり捧げているのでは、真の信仰家ではない。……あくまでもたくましく、したたかに、そして、しなやかでなければならない。
▽176 社名に「兄弟」を使ったのは、「人間みな兄弟」というキリスト教の教えに準じたから。
……グループ全員を兄弟として扱い、職階制度を設けず、給与差もつけず、グループ員すべてを家族のように遇していた。教育や住宅を含む福利厚生にも手厚かった。経営幹部層は選挙によって登用され、人気を区切って多くの人たちの参加を許した。
企業に家族主義、平等主義を取り入れた。
……ヴォーリズが病に倒れてからそのような運営に弊害が生じて……経営が傾いていった。
▽179 病院は結核撲滅のための「近江療養院」からはじまった。
「プレーグラウンド」という保育所が近江兄弟社学園のはじまり。
▽186「信仰と商売の両立」というスローガンを掲げる以前は、「神の国建設運動」とか「福院と宣伝と実践」というスローガンもあった。
▽189 近江商人とヴォーリズには多くの共通点。
近江商人は天秤棒をかつぐ行商スタイルで商域を広げていった野がはじまり。脚で稼いだ。財をなして大都市に出店し、豪商とよばれるようになった商人も。
▽197 玉田盛二市長「近江商人の倹約精神、それはもったいないと言うことと同じで、今で言うリサイクルの勧めであり、……ヴォーリズさんは社会奉仕をどんどん手がけていかれた。そこには近江商人の血が流れていると思えてなりません」
▽203 1995年からはじまる第2次経営5カ年計画。「新経営基本理念」
1、「商売」と「信仰」の両立による社会奉仕を実践する。
2、総員の経営参加により、顧客、株主(財団法人近江兄弟社)、社員の共信共栄を目指す。
3、働くことからバランスのとれた人格形成をはかり、「豊かさ」を探究する。
▽207 メンタームの技術を生かして売り出したのが「メンターム薬用スティック」を代表とする「リップケアシリーズ」。主力商品に。
▽213 ほとんど同じ成分、同じ品質の商品で、70年以上売れ続けているのは異例。長寿商品として日本の7不思議。
▽221 兄弟社と関係が深い「重い知恵遅れの子どもの施設・止揚学園」
▽223 (病院の)この一帯は、厳寒に悩まされる琵琶湖畔にあっては、うそのように暖かい区域。北側を山に囲まれた南向きの斜面にあるので、冬の温度は近江八幡の中心部より10度も高い。夏は同じく10度低い。
▽232 玉田市長「ヴォーリズ氏こそ近江八幡の中興の祖」。まちづくりを率先遂行したと評価。
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