■岩波ジュニア新書20210604
愛農会と小谷純一を知りたくて入手した。生徒数60人の私立農業高校、愛農学園農業高等学校(三重県伊賀市)の歩みと、老朽化した校舎を減築という手法で再生する様子を紹介している。
デンマークは、1864年にプロシア、オーストリアとの戦争に惨敗したあと、「神を愛し、人を愛し、土を愛す」という「三愛精神」にもとづいて多くの学校を建設し、人づくりをすすめ、人づくりをつうじて豊かな国をつくった。その歩みを紹介した内村鑑三(1861~1930)の1911年の講演が評判となり、三愛精神を建学の精神として、東海大学や酪農学園大学などがつくられた。1964年に開校した愛農高校もその精神を受け継いだ。
創設者の小谷純一は京大農学部を卒業し、終戦時は和歌山青年師範学校で農学を教えていた。侵略戦争に加担した責任を感じて退職。田90アール、畑50アールを耕す生活をはじめた。
家で農業を担う若者たちと学び農村を改善する運動ができないか考え、1945年12月に自宅に若者16人を集めて「愛農塾」を開き、増産技術を教えた。当時は戦争によって田畑は荒れ、食糧不足は深刻だった。農家は増産技術を求めていた。愛農会の運動は全国に広まり、すぐれた農業者を講師にした食料増産の講習会を各地で開いた。稲作りやイモ、果樹栽培、酪農、養豚、養鶏……多いときは会員数10万人を超えた。
「農業はすばらしい! 人間が生きていくためには絶対に必要な仕事です。それに、農業は楽しいし、やりがいもある」と小谷は訴え、地域づくり、村づくりも重視した。「人づくりによる家づくり、家づくりによる村づくり、村づくりによる平和な国づくり。よりよい社会をつくるためには、自分自身はどう生きるのか。まずは、自分をつくることが先決です。農業者である前に、良心をもった人間になってください!」と小谷は訴えたという。
三重県の田中覚知事から「農業高校をつくってほしい」と求められ64年4月に愛農高校を開いた。
1971年、保護者の梁瀬義亮医師が「農薬の害と有機農業の重要性」という題で講演した。梁瀬医師は医療活動をしながら原因不明の病気が増えていることに気づいた。調査の結果、農薬、除草剤、化学肥料が原因だと指摘し、有機農業への転換を提唱した。有吉佐和子の「複合汚染」も彼の言葉をとりあげた。
それまで愛農高校では、農薬と化学肥料を使って高収益をあげる教育に重点を置いていた。講演会後、小谷は全校の生徒、教職員を集め、「自分のやり方はまちがっていた。これからは無農薬でいきます」と宣言し、「もうかる農業」から「生命を育む有機農業」へと教育方針を大転換した。
そんな歴史をもつ愛農高校の3階建ての校舎は老朽化して耐震性に問題があった。保護者だった筆者は事務局長としてかかわることになった。
新しい学校をつくるため、生徒と教職員の意見や要望を聴く場を設けると、「木造で平屋か二階建て、こぢんまりした校舎がいい」「地元の木を使って」「自然エネルギーを活用したい」「子どもと、ちょっと座って話せる場がほしい」……といった声が集まった。
業者の決定は、完成した設計図を選ぶのではなく、設計者という人そのものを選ぶ「資質評価方式」を採用し、面接とともに彼らがつくった建築物を実際に見て選考する。
選ばれた建築家は、耐震性を増すために3階建て校舎を2階建てに「減築」して活用することを提案した。OMソーラーを導入して冬の暖房費は従来の半分になった。
民主主義を大切にした愛農高校らしい校舎づくりの経緯は小説のようだった。
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▽学校法人 愛農学園農業高等学校(三重県伊賀市)生徒数60人 日本で唯一の私立農業高校。全寮制による有機農業教育。
▽24 無教会主義の内村鑑三(1861〜1930)は1911年、「デンマルク国の話」と題して講演した。1864年にプロシア、オーストリアと戦争して惨敗。肥沃なホルスタイン州とシュレスウィヒ州を失った。……荒れ果てた土地にモミの木を植えつづけ、豊かな国をつくっていった。……講演は評判となり、デンマークブームが起きた。「三愛精神」という復興を支えた考え方があることも知られていく。「神を愛し、人を愛し、土を愛す」この精神にもとづいて、デンマークでは多くの学校がつくられ、教育によって人づくりをすすめ、人づくりをつうじてデンマークの復興を実現していった。
この三愛精神を建学の精神として、東海大学や酪農学園大学などがつくられた。愛農高校もそのひとつ。
▽32 1963年に創立。64年4月に開校。初代校長は小谷純一。
1910年、和歌山市生まれ。京大農学部を卒業。終戦時、和歌山青年師範学校で農学を教える教授。敗戦2カ月後の10月に退職。「侵略戦争であることに気づかずに、私は賛同し協力した。その反省から愛農運動はスタートした」
自宅の田んぼ90アール、畑50アールを耕す生活をはじめた。
近所に、経済的な事情で学校を中退し、家に帰って農業をはじめる生徒たちがいた。「わしも生徒たちもおなじ百姓になるのなら、一緒に学びあい、協力しあって農村の改善運動ができないか」
1945年12月、自宅に若者16人が集まった。16から21歳の若者たち。この学習会を「愛農塾」と命名し、農作物の増産技術を青年たちに教え、これからの日本はどうあるべきかを語りあった。
若い働き手が戦争に駆り出されたため田畑は荒れ、食糧不足は深刻だった。農家は増産技術を求めていた。2カ月後には参加者は70人を超え、愛農会と名称をあらためた。
1948年に第1回長期講習会。3週間にわたって参加者と寝食を共にして農学を教え、実習をおこなう。
全国各地に広がり、すぐれた農業者を講師に迎えて、食料増産のための講習会を開いた。稲作り、イモ作り、果樹栽培、酪農、養豚、養鶏。多いときは会員10万人を超えた。
1955年、活動の本拠地を和歌山市から三重県青山町(合併で伊賀市)に移した。
三重県の田中覚知事から「農業高校をつくってほしい」という要請を受け、農業高校をつくることに。64年4月に開校し、41人の1期生を迎えた。
▽40 1971年、愛農高校で「農薬の害と有機農業の重要性」という講演会が開かれた。講師は保護者の梁瀬義亮さん(奈良県五條市で個人病院)。梁瀬さんは医療活動をしながら原因不明の症状や病気が増えていることに気づいた。
「複合汚染」では梁瀬さんの言葉を紹介。「農家の人たちに胃病と肝臓病が急増しています。戦前にはなかった傾向です。原因は何やろと思いました。もちろん食物や、と最初から分かっていたのですが、食物の何がいけないのか分かりません」
調査や実験の結果をふまえて、病気の原因は、農薬、除草剤、化学肥料であると警告。有機農業への転換を提唱した。
それまで愛脳高校では、農薬と化学肥料を使用し、農業で高収益をあげる教育に重点が置かれていた。講演会が終わってから小谷先生は全校の生徒、教職員を集め、「自分のやり方はまちがっていた。これからは無農薬でいきます」と宣言した。
「もうかる農業」から「生命を育む有機農業」へと教育の方向を大転換した。
有機農業とは、単に農薬や化学肥料を使わない農法ではない。太陽エネルギーと、土と水を利用し、安全でおいしく、生命力のある食べ物をつくる農業。でも当時は、「農薬や化学肥料を使わなかったら、農業はできない」と信じられていた。
▽43 第1期生の霜尾誠一さん 長年にわたり学校の理事長をつとめてきた。舞鶴市の西方寺平という集落。
1962年中学2年のとき、1週間の愛農夏期生活学校に参加。全国から中学生80人ほどが参加。「農業は冬枯れだけど、今にきっと春が来る!」「農業はすばらしい! 人間が生きていくためには絶対に必要な仕事です。それに、農業は楽しいし、やりがいもある」と小谷先生。
農業ってダメじゃない。それだったら、やってみたい、と思ったんや。
1964年、第1期生として入学。
小谷先生は地域づくり、村づくりの大切さも語った。「人づくりによる家づくり、家づくりによる村づくり、村づくりによる平和な国づくり。よりよい社会をつくるためには、自分自身はどう生きる野か。まずは、自分をつくることが先決です。農業者である前に、良心をもった人間になってください!」
▽67 西方寺平、2000年に最初の移住者。現在は6家族に。2002年には息子の共造さんが帰ってきた。愛農高校の同級生の添田潤さんもくらしはじめ、2人が中心になって移住を呼びかけている。
▽95 新しい学校をつくるため、生徒と教職員の意見や要望こそ、いちばん聞きたい。「語りあう会・学ぶ会」を開きたい(組合運動の経験)。
▽99 語りあう会「木造で平屋か二階建て、こぢんまりした校舎がいい」「地元の木を使って」「自然エネルギーを活用したい」「子どもと、ちょっと座って話せる場がほしい」……
▽104 業者を選ぶのに「資質評価方式」 完成した設計図を選ぶのではなく、設計者そのものを選ぶ。「人そのもの」を選考する。設計者へのヒアリングと、つくった建築物を実際に見ることで選考する。
▽131 3階建てを2階建てに減築。廃棄物量が減る。
▽ OMソーラーであたたかい校舎に。
▽198 もう1棟新校舎をつくるとき。大震災。東北の愛農高校卒業生たちも避難してきた。宿泊棟や同窓会館は70人の人でいっぱいに。
▽203 3階建て1500平方メートルだったのが、2階建て1000平方メートルに。2010年に完成。新しい校舎は500平方メートル。2013年10月に完成。
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