■平凡社ライブラリー 20210430
「奥地紀行」は、当時の日本人にとって当たり前だったことが、外国人の目を通して記録されており、現代の我々の欠点や習俗がそのころに根をおろし、今も無意識に支配していることを示していると宮本は言う。
バードがさりげなく書いた断片的な文章から、時代相を大きくとらえ、地域的、階層的な特色を導きだして民衆社会の様子を再現する。
日本全国を歩いて記録してきた宮本にしかできない離れ業だ。
たとえばバードは蚤に悩まされつづけるが、日本人の旅行記には蚤があたらいまえすぎたからほとんど記録されていない。戦後DDTをまくまではどこにでもいた。宮本も調査でいつも困っていた。
仕事の様子や生活の様子が家の外から見えることにバードは驚く。
「店」というのは「見せる」ことだった。戦争の少し前からショーウインドーが発達し、人間が奥へ入りこんでしまう。「その時に日本の伝統的工芸が滅びはじめたのだと思うのです」。たしかに。つくっているところを見せなくなって商品の価値が品質と値段だけになってしまった。その点、昔ながらの食べ方を残したのが調理を見せるにぎりずしだという。
多くのムラは貧しくて、人々は服を着替えず、バードから見ると不潔極まりなかった。
山のムラの着物は、麻か藤布が多かった。繊維を裂いてつむいで糸にして着物1人分を織るのに1カ月かかった。多くの着物を補給できないから汚い生活をせざるを得なかった。宮本が歩いた戦前でも、垢をためた子が多く、鼻水を袖でふくから、袖口のピカピカ光った服を着ていた。
幕末や明治の外国人の紀行文には裸の人が多いと記されている。着物を汚さないように、働いている時には裸になった。昭和50年代でも、ステテコに腹巻き姿で路地を歩いていたのを思い出した。
日本人が風呂好きで清潔というのは、江戸や大坂などの都市部に限られていた。東北地方に風呂が普及するのは戦後であり、風呂釜の産地だった広島県から東北地方へすごい勢いで売れたという。
日本の官僚制の非効率も、武士社会の遺物らしい。
日本の官僚社会にはもともと事務がなかった。税金は庄屋がとりたてて帳簿をつくるから勘定方は盲判を押すだけ。それに時間がかかり、係長から課長、部長と届くまでに数カ月もかかった。それを見かねたのが渋沢敬三で、大蔵大臣のとき、報告があまりに遅いから、みずから事務室へ出て印を押した。国際電電会社の社長になると、個室を廃して社長以下全員が一室で働くようにした。お互いに見えると遊べなくなり、文書が30分で上がってくるようになった。
盲目のあんまについての文章から、東北地方に盲人が多かったのは、性病の淋菌が目に入ることが原因だと考察する。淋病は近世初期に日本に入り、江戸中期から広まった。東北地方では、ハタハタや鰯、鰊といった魚が一気に獲れる時期が決まっており、水揚げされる場所や市が立つムラに商人や売春をする女性たちが集まった。そこから病気が周囲に広がった。
当時、中国人は、同じ黄色人種だけどいすに腰をかけていたから日本人よりも背が高く、長崎では中国人の家へ女中奉公に行くことを誇りにしていたというのも目からウロコだった。日清戦争までは中国人は日本人より高く見られていたのだ。
===============
▽17 富士のことを一般には「せんげんやま」と言っていた。江戸時代に入ると富士という名が着いて期、富士へ登る人たちが結んだ講を「冨士講」と言うが、それ以前は浅間講を結んでいた。
▽22 入れ墨は、風俗壊乱するものとして、明治になって消えていってしまう。
▽27 西日本では、通りを中心にして町がつくられる。江戸では、通りの名ではなくて、地域の名が町の名になる。大阪から来た人が住んだ所には通りに名が着き、そうでない人たちが住んだところにはブロックに名前がついて……
▽28 東京では荒れ地を開くとその人の者になる。それを散野(さんや)と言った。山谷はそれ。散野、三谷、山谷などももとはサンヤと読んだ。
▽31 蚤は戦後アメリカにDDTを振りまいてもらうまでは、どこにでもものすごくいた。私も調査で一番困ったのは蚤なのです。
▽33 日本の馬は小さかったから、馬車は発達しなかった。馬が大きくなったのは、明治になって陸軍で馬を使うようになり、改良をするようになってから。
馬が小さいということは、田んぼに使うことができない。犂をひく力がない。だから東日本では明治になってようやく犂を使うようになった。西日本では犂を牛にひかせていた。
▽36 当時、中国人は日本人より高く見られていた。同じ黄色人種だけど、座るということがなく、腰をかけていたということから中国人は背が高かった。……長崎では……中国人の家へ女中奉公に行くことを誇りにしていた。
▽55 日本の紀行文で、蚤のことが出てこないのは、蚤のいることが当たり前だったから。
▽56 関東では裸が多かった。関西には「じんべ」というものがあって、風通しがよく、紐で結ぶので帯がいらない。ごく最近まで大阪の人は平気で着て歩いた。その下にステテコ(今のステテコではない)をはく。女だとじんべの下に腰掛をして、割合涼しいもので、西日本では裸になることが少なかった。
▽61 蓮は、日本だけでなく、インドでもヨーロッパでも尊ばれた。だから根を食べることに驚いた。日本では、米を作るには深すぎるというような所に蓮が作られた。
岩国では、駅の東側の桑畑だったところを蓮池にした。吉野川の下流も。
▽64 関東から東北にかけてみそ汁の摂取量は非常に多かった。秋田県の桧木内の調査では、30日間に100回みそ汁をすすっていた。
▽73 日本では「店」というのは「見せる」ことだった。仕事を、つくっているところを見せた。それが家の前を開け放つこととつながってきた。
戦争の少し前から日本でもショーウインドーが発達しはじめる。人間が奥へ入りこんでしまう。その時に日本の伝統的工芸が滅びはじめたのだと思うのです。自分たちでつくっているところを見せなくなってしまったから。(〓輪島の塗師屋)
古い食べ方を残したのがにぎりずし。料理するところを見せる。
▽86 江戸時代は宿場に荷つぎ問屋があり、荷をもっていくと宿場からつぎの宿場まで運び、そこでまた馬をかえて次まで送った。幕末になって往来が多くなると、街道近くの人は助郷でひっぱりだされる機会が増え、運輸交通を行き詰まらせてしまう。……明治になって陸運の制度ができると、賃金が高くなり、ひっぱりだされるのではなく、自分の自由意志で働くようになる。だれでも働けるというのが明治の制度だった。その中枢になるのが陸運会社で、駅から駅をつないでいくという輸送法ではなく、駅を越えて「通し」でいくようになる。
▽90 昭和25年ごろには、鹿児島県の田舎を歩いていると、ほとんどの子が真っ裸。……ペリーの「日本遠征日記」では、神奈川あたりで舟に乗っている人がみな褌ひとつで裸だった。着物を汚さないように、働いている時には汗が出るので裸になった。
▽96 この山中の着物は、麻か藤布が多かった。繊維を細かくさいてつむいで糸にして……着物1人分の1反を織るのに1カ月かかる。これが生糸になると、うんと能率が上がる。植物の皮の繊維をとって着物を織ることがどれくらい苦労の多いものであったか。多くの着物を補給することができなかったかがわかるのです。汚い生活をせざるを得なかった。
▽99 女も腰巻きひとつで裸。戦前は各地でこういう状態だった。
▽102 今の日本の女性は若く見られるが、この当時は22歳の人が50歳ぐらいに見えたという。
▽103 大内という宿場歯、昔の姿を比較的残していて、草ぶきの家がずらりと並んでいて、日本では昔の面影を残している唯一の宿場ではないか。〓
▽110 東日本で鋤が使われるのは明治になってから。馬が小さく、人間の肩より低いぐらい。轡をはめないので制御しきれなかった。
▽113 貧しくて死んだりする場合、一番多いのが首つり。
▽124 明治のはじめごろは、主食・副食という区別が少なかったのでは。「米よりも黍やそばに、大根を加えたのが主食になっている」。大根も主食物だった。副食物はみそ汁や塩漬けしたものだったのでは。
▽127 脚気が多かったのは軍隊だった。高木兼寛という海軍軍医総監だった人が、麦、糠、小麦を食べるとよいと民間でいわれていた説を試してみて、治ることを発見。日清戦争がすんだころから、軍人に麦飯を食べさせるようになり、急に患者が減った。高木は男爵をもらい華族になり、「麦飯男爵」と呼ばれた。それから後に鈴木梅太郎博士によって、ビタミンの問題ということが解明される。
▽130 新潟県の北の方では貧しく暮らしていた人たちが多かった。……新潟を出て、峠を越えて米沢盆地に出るまでの間はたいへん貧しかった。米沢盆地はエデンの園のように豊か。
▽131 宿屋にはどこでも三味線が。南にいくとさらに数を増して、奄美大島から沖縄の蛇皮線になると、すごい数になる。
▽148 日本の官僚社会にはもともと事務がなかった。税金は庄屋がとりたてて帳簿をこしらえるから、勘定方は目を通すだけ。盲判を押すだけ。でもそれに時間がかかり、係長から課長、部長と届くまでに早くて3カ月、長いと半年かかった。それを見かねたのが渋沢敬三先生。大蔵大臣のとき、報告があまりに遅いから、大臣みずから事務室へ出てきて、取りあげて印を押し……国際電電会社の社長になると、個室がいけないのだと、社長以下全員椅子を並べて事務室を大きな一室にした。お互いに見えると遊べなくなり、下から文書が来ても重役のところまで早いときは30分かからなくなる。
非効率は、武家社会から引き続いたものだった。
▽157 日本では巡査が一段高いところにいるような気がした。巡査はほとんど昔、侍だった人たち。それがそのまま警官の気風になって今までつづいているのでは。
▽162 当時の秋田は久保田といっていた。
▽166 贈り物には熨斗をつける。昔は熨斗鮑。今は手に入らないから印刷したものを箱につける。今はもう漁業民族だという意識を失っているが、明治の初年ごろまではそういう意識が皆のなかにあったと見てよい。
▽169 エコノニミー(子ども本位呼称法)があるところでは子どもを大事にする風習があり、日本もそうだった。本人の名よりも「○○のお父さん」という風習があった。電車で子どもを座らせ、周囲の人もその特権を認めている。子どもに対する一種の神聖観があった。
▽171 千葉県に同じ時期にどの農家にも豚がいた。横浜の外国人に売るため。さつまいもで飼っていた。……目先の変わったものだとすぐに飛びついていくという性癖があった。
▽174 秋田でも、オランダ人を招いて港を切り開こうとしていた。福井県の三国港もオランダ人がつくった。阿賀野川の発電所工事もこのころから設計がはじまる。
▽176 性病が流行りはじめ、淋菌が目に入ると、たいてい盲人になる。この病気は、近世初期に日本へ入ってきたが、江戸中期ごろから一般に広がっていく。東北地方が目立って多かった。……海岸の少し人の集まるような村々には売春婦が多かった。魚が捕れるとき、市が開かれるときなどに、売春をする。それで病気をもらって周囲へ広がっていく。能代の北の八森という漁村はハタハタがよくとれた商人がたくさん集まってくる。……八森には、目が見えない男女が意外なほど多かった……東北では魚の非常に大量にとれる一時期がありそれがハタハタであったり、鰯であったり、鰊であったりした。
▽182 人が死んだときに用いられる色は、今では黒になっているが、一時代前は白で、さらに黄色も用いられていた。黄色からしたが一般民衆も使える色だった。白、黄、茶、紺などの色で巧みに配色して色を引き立てるためには縞柄がよいので、日本では縞の着物が流行った。
……そういう色に染めるのによい布となると、絹か麻になる。木綿ではさえた色が出てこない。そこで木綿の多くつくられる西日本では、来、茶などは縞の場合には使うがあまり多く用いられず、たいていは紺一色を生かして使う。つまり紺と白をうまく配色する、いわゆる絣が発達する。だから、絣というのは西日本が大きな産地。……逃げ道はいくらでもあって、目につかないところで赤いものを着るのはよい。下に着る長襦袢や着物の裏は赤くてよい。ですから昔の着物は、裏返すか、上に来ているものを脱ぐと大変美しい。
▽184 三味線が日本に入ってきたのは400年ぐらい前。はじめは沖縄の蛇皮線で、それが堺に来た。日本では大きな蛇がいないので、次第に猫の皮が多く使われるようになった。
▽191 子どもは自分たちだけで遊び、大人の手を借りない。……子どものケンカに親が出るというのは一番嫌われた。
▽192 日本人はきれい好きである、というのは、江戸、大坂や京都などのまちに見られた現象であって、村へ入ると、風呂のないところが非常に多かった。とくに東北地方に風呂が普及しはじめるのは、今度の戦争がすんでからなのです。
風呂釜はおもに広島県でつくられるが、戦後それが東北地方へすごい勢いで売れた。戦前は、すごく垢をためた子が多かったし、鼻水を袖でふくものだから、袖口のピカピカ光った服を着ている子が多かった。……日本人がきれい好きというのは……もとは沿うではなかった。
▽194 凧を揚げなくなったのは、電線が張られてから。「いろはがるた」は夏でもおこなわれていた。
▽197 ねぶたは七夕祭りだった。ねぶた流しがおこなわれた。願望を書いて川へ流した。……やっかいなねむりを流す。ねむりも病のひとつと考えた。だからねむり流しとも行った。それがなまってねぶたになり…………秋田の竿灯と同じ行事だったことがわかる。
▽198 米国人宣教師によって津軽のリンゴがはじめて栽培される。……乳牛を買うことを実践したのが笹森儀助。津軽藩の武士だった。武士たちの生活を維持しようと岩木山の麓を拓いて乳牛を飼いはじめる。乳の出る牛を東京にもっていき、売り広めた。士族授産事業のほとんどは失敗しているが、これは成功している。乳牛を飼うことと、リンゴを作ること。
▽221 北海道の鰊。噴火湾、明治中頃突然とれなくなる。火山の軽石が沈み、海藻が生えなくなり、こんぶが育たなくなり、魚が来なくなった。それ以後、鰊は西海岸だけでとれるようになる。その中心が江差。……肥料として瀬戸内方面へ運ぶ。漁場がどんどん北へ、利尻、礼文まで延びて、ここで日本の鰊漁は終わる。産卵に来る鰊をとるわけだから増えなくなる。樺太の西岸を南へ下ってくる鰊だった。
▽224 「彼らは(アイヌ)ただの犬です。人間ではありません」と伊藤。アイヌを人間扱いしていなかった。
▽237 昔は着物を着て風呂に入った。ゆかたというのも@「ゆかたぎぬ」のぎぬがとれたもの。……日立の古い書物を見ると、江戸時代のはじめまでは湯帷子を着ていた。元禄より少し前からは着物を着て湯に入ることはなかった。……着物を脱ぐようになって次は、男はふんどし、女は腰巻きをして入った。
▽243 アイヌは毒矢をつかった。日本は毒を使うことがほとんどない。江戸時代には毒を盛られて殺されることはほとんどない。中国の歴史ではほとんどが毒殺。……武田信玄が川中島の合戦でアイヌが毒矢を使うと言うことで戦力として使っている。自分で毒を製造するのではなく、毒をもっているアイヌを軍人として使った。
▽251 東日本では離縁になることを嫌って、そういう女は二度と結婚できないといわれたが、西の方へ行くと離縁なんて平気で、男が気に入らないと、さっさと女の方が出ていくことがしばしばあった。
コメント