■岩波文庫20210413
学生時代に読んだときは何がおもしろいかわからなかった。和辻が日本の美を発見し、「風土」の哲学の基盤になった本だと何かで読んで30年ぶりに再読した。
読みはじめは退屈だったが、彼の感動と大げさな表現を通じて、だんだん引き込まれ、その寺や仏像を見たくなってくる。
聖林寺の十一面観音は天平随一の仏像で「抽象的な空想の中へ写実の美を注ぎ込んだガンダーラの心……雪山の彼方に地上の楽園を望んだ中央アジアの民の憧憬の心……極東における文化の絶頂、諸文化融合、あらゆる者を豊満の内に生かし切ろうとした大唐の気分が包んでいる」。
法華寺の本尊十一面観音は「隠微な蠱惑力」「官能的な美しさ」。薬師寺金堂の本尊薬師如来の横顔は「とろけるような美しさ」。中宮寺観音は「ひとつの生きた、貴い、力強い、慈愛そのものの姿」
そして「もし近代の傑作が一個の人を写して人間そのものを示現しているといえるならば、この種の古典的傑作は人間そのものを写して神を示現しているといえるであろう。……もっとも人らしい形のうちに、無限の力の神秘をあらわしている」と記す。
建築についても、唐招提寺の金堂は精神においてギリシア的で、「天平以後のどの時代にも、これだけ微妙な曲線はつくれなかった。そこに働いているのは優れた芸術家の直観であって、型にはまった工匠の技術ではない」と評価する。
寺や仏像の美のなかに、インドのガンダーラや、アジャンター壁画のグプタ美術、さらにはギリシャからの影響を見て取る視野の広さと深さも魅力的だ。
たとえば仏像の着流しのような服はインドやギリシアにつながる装いだという。戒壇院の仏菩薩はそうした装いなのに、四天王や十二神将はシナの装いなのは、仏菩薩などの姿ははっきり決まっているが、あとの大衆は勝手に思い浮かべるほかなかったため、国々で特有の幻影が生み出されたという。
広隆寺の弥勒菩薩は、肉付けが写実的で、もっともガンダーラの様式をあらわし、西洋彫刻に近いという。
グプタ朝の芸術はインドに植えられたギリシアの芸術的精神が花開いたものであり、インドはヨーロッパよりも1000年前に文芸復興期を迎えたと和辻は考える。聖観音の作者は、ガンダーラ美術の間に育ち、グプタ朝の芸術にひたり、漢人の美術をも知る人であり、そのすべてを結晶させる地として、大和の山河が都合がよかった……と和辻は想像を広げる。
そして、ペルシアやインドや西域やシナよりも日本がギリシアに似ているのは、「気候や風土や人情に置いて、あの広漠たる大陸と地中海の半島ではまるで異なっているが、、日本とギリシアとはかなり近接している」「シナやインドの独創力に比べて日本のそれは貧弱だった。……しかしその独自な性格はあらわれた。……インドの肉感的な画も、(日本的な)涙に濾過せられる時には、透明な美しさに変化する」。それがギリシア人の美意識に近いのだという。
▽34 広隆寺の弥勒菩薩 わが国の仏像のうちでもっともガンダーラの様式をあらわしている。肉付けが写実的、……シナ風の装飾化の動機に煩わされずに、端的に人体をつくりだしている。わが国の仏像で西洋彫刻に最も近い。
▽37 アレキサンドル大王もアテナイの国立浴場喪、東洋がもと。温浴を楽しむ伝統は、中世以後のヨーロッパにはあまり栄えていない、
▽44 新薬師寺本堂 天平建築らしい確かさ。簡素な構造をもってして、これほど偉大さを引証する建築は他の時代には見られない、
本尊の薬師像、別の堂にある香薬師像。
▽50 浄瑠璃寺 村の隅にこの村の寺らしくおさまっていた。……周囲と調和した堂の外観がすばらしかった。
▽55 戒壇院。仏菩薩はインド風あるいはギリシャ・ローマ風の装いなのに、何故護王神の類いはシナの装いなのか……仏菩薩などの姿ははっきり決まっているが、あとの大衆は勝手に思い浮かべるほかはなかったために、国々でそれぞれ特有の幻影が生み出された、というわけであろう。従って、シナ風の装いをした四天王や十二神将の類いは、シナ美術の独創をあらわしているかもしれない。
▽三月堂の不空羂索観音。
……天平随一の名作を選ぶということであれば、わたしは聖林寺の十一面観音を取るのである。
▽62 奈良博物館
▽68 聖林寺十一面観音 抽象的な空想の中へ写実の美を注ぎ込んだガンダーラの心も認められる。雪山の彼方に地上の楽園を望んだ中央アジアの民の、激しい憧憬の心も認められる。極東における文化の絶頂、諸文化融合、あらゆる者を豊満の内に生かし切ろうとした大唐の気分が包んでいる。
▽72 もとこの像は三輪山の神宮寺の本尊であって、神仏分離の際に、古神道の権威におされて路傍に放棄せられた。ある日偶然に聖林寺という真宗寺の住職が通りかかって、自分の寺へ運んでいった、というのである。
▽76 百済観音 ガンダーラもしくはインド直系。それがシナに入ってまず漢化せられた。
▽117 中唐玄宗の時代に至っては、貴人の食膳にはインド料理、ペルシャ料理、ローマ料理の類いまでも。士女は競って西方(おそらく準ギリシャ風の)衣服を漬けた。一般民衆までが西方の風を好み、女の服装などは、ほとんどギリシャ風に近かった。
▽129 法華寺の本尊十一面観音。天平の観音のいずれにも見られないような一種隠微な蠱惑力を印象する。密教芸術にはとくに著しく肉感性が表れてくるように思われるが、あらゆるものに唯一真理の表現を見ようとする密教の立場から言えば、女の体の官能的な美しさにも仏性を認めてしかるべきである。……光明后をモデル?
▽140 (万葉の時代)新来の文化の圧倒的な影響のもとにあっても、彼らの生活の中心は恋愛であった。……当時の婦人には夫を変える自由があるとともに、身をゆだねる男からいつ捨てられるかわからない危険もあった。
▽144 天平の女は、詩歌においても政治においても宗教においても、天平時代ほど女が活躍した時代はほかにない。恋においても、多夫にまみゆることを辞せなかった。鏡女王は白鳳期の代表的人物3人とも自分の夫とした。
▽154 唐招提寺の金堂 天平以後のどの時代にも、これだけ微妙な曲線はつくれなかった。そこに働いているのは優れた芸術家の直観であって、型にはまった工匠の技術ではない。
▽173 弘仁期には天平時代末期のデカダンスへの反動がある。同時に継続もある。この間の変遷よりもむしろ弘法滅後100年間の変遷の方がはるかに著しい。……今の洋装のように体の輪郭を自由にあらわしていた女の衣装も、立ち居に不自由そうな十二単(長い髪)に変わっている。住宅としては寝殿造りが確定した。文芸では「万葉集」が「古今集」の歌に変わる。仮名書きがおこなわれて、散文がつくりはじめられる。
……外来文化を土台としてのわが国人独得の発達経路とみられるべきである。
▽175 平安朝の和文は漢学の素養の少ない女の世界から生まれ、漢字交じりの文は漢文をつくる力のない武士の階級から生まれ、口語体は文章体をさえげしえない民衆の間から生まれた。……やむを得ぬ必要から押し出されてきたというところに、日本人の創造としての意味があるのではないだろうか。
▽177 薬師寺 講堂の薬師三尊 何百年も土中に埋まっていたのを徳川時代に発掘してこの寺に移した。
金堂本尊薬師如来「とろけるような美しさ」をもった横顔 雄大で豊麗な、柔らかさと強さの抱擁し合った、円満そのもののような美しい姿。
▽185 天武天皇 殺生戒を守って肉食を禁じた。これ以後、日本には獣肉を食う伝統が栄えなかった。
……(鹿鳴館の文化のように)結髪や衣服の唐風化が急速におこなわれた。
▽191 薬師寺東院堂の聖観音。世界に比類のない偉大な観音。美しい荘厳な顔、力強い雄大な肢体。……もし近代の傑作が一個の人を写して人間そのものを示現しているといえるならば、この種の古典的傑作は人間そのものを写して神を示現しているといえるであろう。……もっとも人らしい形のうちに、無限の力の神秘をあらわしている。
▽200 玄奘三蔵が18年にわたるインド西域の大旅行を終えて新文化とともに長安に帰ったのは大化元年にあたる。8年後の遣唐使の時、新文化にふれたのだろう。……聖観音をつくった天才は、おそらく玄奘三蔵と関係のあるものであろう。
▽203 グプタ朝の芸術はインドに植えられたギリシャの芸術的精神がその最大の花を開いたものである。その意味でインドはヨーロッパよりも1000年前に文芸復興期を現出していると言える。
この芸術は、あきらかにインドの芸術であるが、ギリシャ的なものが潜んでいる。そのギリシア的なものによってグプタ朝の芸術はシナに激動を与えたのである。
玄奘は、大宗に外遊の罪の赦免をこうた。その上奏文が太宗を動かし、彼を迎える人夫や軍馬を送った。帝王に支持された西域からシナへの凱旋。……わたくしの空想した聖観音の作者は(玄奘とともに東に来た)この種の西域人である。彼はガンダーラ美術の間に育った。グプタ朝の芸術に激動を受けた。そうして10年近いシナ滞在が、漢人の美術の素朴と勁直とに愛着をもたしめた。彼の身には東洋のあらゆるよきものが宿っている。それを結晶させる地としては、大和の安らかな山河はまことに都合がよかった。
▽220
▽234 当麻寺〓が役行者と結びつき、中将姫奇蹟の伝説を育てていった。二上山。
▽252 三月堂 左半分が天平時代の線で、右半分が鎌倉時代の線であるが……
▽260 法隆寺 寄棟造の単純明快なのに比べて、金堂の屋根に複雑異様な感じがあるのは、入母屋造りのせいであるともいえよう。この建築がとくにシナ建築らしい印象を与えるのもそのせいであろう。
▽263 唐招提寺金堂は、エンタシスこそ消えているが、精神において実にギリシア的である。
▽277 法隆寺金堂壁画とアジャンター壁画の酷似。ガンダーラの直立した、衣の厚い菩薩像よりは、アジャンターの画の方がこの観音に近い。この壁画がグプタ朝絵画の流れをくんだものであることは確かであろう。グプタ朝芸術はおそらくガンダーラ美術の醇化であろう。ギリシア精神のインドにおける復興とも見られるであろう。もともとインドの偶像礼賛の風はギリシアの伝統をうけついだもの。グプタ式の芸術はそれをインド風に育てたものといえるだろう。
▽280 ギリシアから東にあって、ペルシアもインドも西域もシナも、日本ほどギリシアに似ていない。……気候や風土や人情に置いて、あの広漠たる大陸と地中海の半島ではまるで異なっているが、、日本とギリシアとはかなり近接している。……シナやインドの独創力に比べて、日本のそれは貧弱だった。しかし己をむなしくして模倣につとめる間にも、その独自な性格はあらわれた。……インドの肉感的な画も、(日本的な)涙に濾過せられる時には、透明な美しさに変化する。そうしてそこにギリシア人の美意識がはるかなる兄弟を見いだすのである。
▽288 夢殿秘仏(夢殿観音) これを見出したフェノロサの驚異。厨子は200年以上開かれていなかった。数世紀の間、ただ1人の日本人の眼にさえ触れたことがなかった。
ほとんど黒人めいた大きな唇。「この像が朝鮮作の最上の傑作であり、推古時代の芸術家とくに聖徳太子にとって力強いモデルであったに相違ないことを了解した」(フェノロサ)
▽297 中宮寺観音 ひとつの生きた、貴い、力強い、慈愛そのものの姿。……まことに至純な美しさで、また美しいとのみでは言い尽くせない神聖な美しさ。……その印象はいかにも聖女と呼ぶにふさわしい。聖母ではない。……慈悲の権化である、……純粋な愛と悲しみとの象徴は、その曇りのない純一性のゆえに、徹底したやわらかさのゆえに……
▽304 ……親しみやすい、優雅な、そのくせいずこの自然とも同じく底知れぬ神秘をもったわが島国の自然は、人体の姿にあらわせばあの観音となるほかはない。
グプタ朝時代に発達したインド独自の芸術様式。
インドのグプタ朝時代に生まれた芸術様式で、特に仏像やヒンドゥー教の神像の彫刻に見られる。代表例はアジャンター石窟寺院の仏像と壁画である。クシャーナ朝時代のガンダーラ様式ではヘレニズムの影響を受けてギリシア風の彫刻が主流であったが、グプタ様式ではギリシア的要素は一掃され、純粋なインド風の表現となったとされる。特に仏像では繊細な衣の襞をまとい、手足の輪郭を強調するのが特徴で、中央アジアのバーミヤンなどを経て北魏時代の雲崗などに伝わった。
優雅で繊細なグプタ仏
グプタ様式の仏教美術としては、アジャンター石窟の壁画が最も典型的なインド独自の様式を示しているが、仏像彫刻ではマトゥラー美術と言われる、マトゥーラで作られたものが代表的である。左の写真の仏像は5世紀のマトゥーラ仏で、グプタ様式を代表する名品とされている(インド・カルカッタ美術館蔵)。その風貌は、ガンダーラ仏に比べて気品とか優雅とか表現され、その衣文は薄い衣のひだがやわらかく繊細に、かつ様式的に描かれていてギリシア風のガンダーラ仏とは異なっている。アジャンター石窟寺院の壁画が法隆寺金堂の壁画の源流とされているように、仏像彫刻もグプタ仏が中国を経て日本の仏像彫刻に影響を与えていると考えられる
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