■集英社新書 20201118
石牟礼道子の「苦界浄土」は水俣病がテーマなのにある種の豊かさがあふれていた。自然とのつながり。アニミズム的な世界。文学の想像力……学生時代に読んだとき、その理由はわかるようでわからなかった。
この本は、江戸文化の研究者である筆者が道子の魅力を解き明かしている。
道子の生涯を貫く苦悩は、近代社会に入ることのできない自分に由来するが、彼女は前近代の社会を礼賛していたわけではない。
日本の結婚制度は、男性の通い婚にはじまり、婿取り婚になり、江戸時代に嫁入婚が定着するが、江戸時代はまだ女性が親と一緒に子を育てる形が継承されていた。「おなごのくせに」といった女性をおとしめる表現は使われなかった。そうした言葉が頻繁に出てくるのは、嫁入り婚が定着し、家父長制が確立された明治からだという。
道子も「家」に苦しみ、新婚4カ月までに3回自殺未遂をした。高群逸枝や平塚らいてうを通じて女性差別の問題に目覚めた。
欧米の女性解放運動は、近代的自我を確立し解放しようとするが、日本では、らいてうの「元始女性は太陽だった」にあるように、時代をさかのぼって古代へと向かう。らいてうも高群も、女性が解き放たれる場を、近代的自我ではなく、母なる自然界のなかに求めた。道子も、近代的自我は孤立や排除をもたらし、人間世界を豊かな方には導かないと考えた。
筆者は道子を「もだえ神」と評する。水俣病患者を前にして、なにもできないけどそこに駆けつけて一緒にもだえ苦しむ。近代以前のシャーマンにあったそんな力を道子は受け継ぎ、あらゆる「いのち」と共感する。彼女の作品には、自我から発せられるメッセージはない。彼女は苦界にあるいのちの代弁者であり、作品のなかにはいのちの声が深く響いているだけだという。
天草の乱を描いた「春の城」には天草四郎というもだえ神が登場する。年齢も職業も立場もちがう人々が、苦しんでいる人たちを見すてておけず、加勢する。そして、3万7000人の農民や切支丹たちは、幕府軍によって殺戮される直前まで「生活」を手放さず、自分たちが守ってきた海や大地の豊かさを語りあう。
チッソ本社前で座り込む水俣病患者も同じだった。絶望に覆われると人間は動けなくなってしまう。だからおばあちゃんたちは、季節ごとに巡ってくる故郷の行事や、海や山で採れる自然の恵みのありがたさに話を咲かせ笑い合った。それが闘う原動力になった。
ほんとうにそうだ、と僕も思う。妻が死の床にあるときでも、カレーを口にして「やばい長生きしてまう!」と叫んだのを聞いて大笑いした。死を間近にしても笑いがあった。
道子の作品は、絶望や滅びを描くが、そのかたわらで常にいのちの物語が息づいている。季節の描写は瑞々しく、花や虫を愛で、傷ついた人の背中をさする人たちが登場する。そのいのちが無残に殺されても、時を経て復活する予感がある。道子は、仲間が水銀毒で次々に命を落としても、そこに死なない魂を見ていた。死なない魂は、時空を超えて何度でもよみがえってくると考えた。
「昼も夜も祈らんば、生きておられんとばい。人間の罪、わが身の罪に対して祈っとばい。だれにも水俣病は引き受けさせちゃならんけん、私どもが引き受けていくとばい」と語る水俣病の人たちは現代の「人柱」であり、神に近い存在と感じていた。
いのちは受け継がれる。ちゃんと生きた魂は朽ちることなく時空を越えてよみがえる。道子の文章を読むとそんな希望を感じられる。
「絶望のどん底に落ちたとき初めて、祈ることを体験し、魚や虫に対しても、ああ、お前たちも一緒だねって思える。……自分が絶望しなきゃ、人の哀しみはわからないですよね」
絶望でさえも、希望の種なのかもしれない。
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▽13 パンデミックは1918年の「スペイン風邪」が最初だと言われている。その前のペスト、天然痘、コレラは、それぞれの地域で個別にゆっくりと、長い時間をかけて広がった。…コレラは幕末明治に外国船によってもたらされたが、世界を短期間にかけめぐる状況ではなかった。
▽28 昭和10年代には代書屋(現在の行政書士)…生年月日も生まれたところの住所も知らず…依頼人。
▽50 石牟礼 近代的な自我というものを言うようになってから、自我を言い立てるあまり、人のことを考えなくなりましたね。
▽53 高群逸枝「女性の歴史」で、女性の差別の問題などをとらえることができました。「おなごのくせに」とよく言われておりましたね。
…女性解放運動というよりは、新しい共同体をつくるにはどうすればいいのかと、そういう方向に心が向かいました。
…母は病床から「草によろしう言うてくださいませ」。…日ごろから、よろしう言わなければならないものが身の回りにたくさんある。そういう者たちで世界は成り立っていると思い込んでいたし、いまもそう思っています。
▽57 前近代において「家」というものが企業であり、商業であり、農業でもあって、家とはものを生産して流通させるところであり、同時に消費するところでもあった。
▽61 共同井戸から水を天秤棒で運ぶ。風呂を沸かすときは20往復。10人家内の給仕。肥桶運び。
▽65 日本の結婚制度…男性の通い婚にはじまり、婿取り婚になり、江戸時代に嫁入婚が定着する。でも江戸時代は、女性の家系に息子のような扱いで養子縁組して入るというかたちも多く残っていた。つまり女性が自分の親と一緒に子どもを産み育てるかたちがまだ継承されていた。…それゆえ、このあたりまでは「おなごのくせに」といった女性の存在を貶めるような表現は使われなかった。そうした言葉が頻繁に使われるようになるのは、嫁入り婚が定着し、家父長制が確立された明治期ごろからだろうと推測している。
…武士階級は藩からの給料を男から男へと伝承していく。明治以降の家族制度は、その男性継承の戸主の権限だけが補強され、…なんの権限もない女性への強い差別意識が庶民の世界にまで広まっていったのだろう。
▽69 女たちの哀しみの中心には常に家というものがあった。…道子は18歳で最初の自殺未遂をし、新婚4カ月でも3回目の自殺未遂をしている。
▽80 欧米の女性解放運動は、自我を確立し、近代に向かって解放の道を歩むというストーリーだが、日本は逆方向にむかう。らいてうの女性宣言に象徴されるように、時代をさかのぼり、元始、古代へと向かう。らいてうも高群も、女性が解き放たれる場所を、近代的自我ではなく、母なる自然界のなかにあることに着目した。古代、女性は自然界における中心的存在として、太陽のように位置づけられていた。
▽85 高群は、息切れするこまぎれの自我ではなく、天然そのものの生命律をもっていて……近代的自我は孤立や排除をもたらしこそすれ、決して人間世界を豊かな方には導かないと、道子は知っていたのだろう。…高群 母系に連なる共同体への夢想。
▽94 鶴見俊輔は、石牟礼道子の論文や随筆を古代人の目で見た「劇」だという。現代人は、生活者として古代の感覚を取り戻すべきだと言い続けた。彼のまなざしは、いつも民衆や庶民の側に向いていて、その人たちのなかにきらめくものを発見したり注目したりする。
▽96 水俣出身の詩人、谷川雁。近代は村共同体と向き合わなかったために、大きなものを失った。
▽100 「新しい共同体」 島原・天草一揆を描いた「春の城」。男も女もなく、身分差も宗教のちがいもない。みなが生き延びるために「闘う共同体」として、つながり合う。チッソ本社での水俣闘争も。
▽104 春の城には天草四郎というもだえ神が、苦海浄土には石牟礼道子というもだえ神が登場する。苦しんでいる人に寄り添う。なにもできないけれど、駆けつけて一緒に闘い、一緒に苦悩する。…年齢も職業も立場もちがう人々が、差別され、苦しんでいる人たちを見すてておけず、加勢する。…死んだ先まで忘れがたい絆…そんな共同体を道子は水俣の人々ともに実際に体現した。
▽110 被害者である前に、泣きも笑いもする生身の人間としてそこにいたのである。
▽112 絶望に覆われると、人間は一歩も動けなくなってしまう。だからこそおばあちゃんたちは、笑いを本能的に取り込んで、深刻さや絶望を少しでも回避しようとする。
▽129 野菜の味がわからなくなった人々が高い金額を出して「グルメ」になる。道子にはどうにも理解できない。道子にとって食べ物とは、自然をいただくことだからだ。
▽135(春の城=3万7000人の死)最後のときがすぐそこに近づいていても、一揆に参加した人々は、決して「生活」を手放さない。自分たちが守ってきた海や大地の豊かさを語りあう〓〓
チッソ前の座り込みでも…季節ごとに巡ってくる故郷の行事や、海や山で採れる自然の恵みのありがたさに話を咲かせる。それがまた闘う原動力ともなったのである。
▽141 3万7000人が玉砕していく物語を書きながら、死んでも死なない深い魂をそこに見ていた。仲間が水銀毒で苦しみ次々に命を落としても、道子はそこに死んでも死なない魂を見ていた。死なない魂は、時空を超えて何度でもよみがえってくる。〓〓
▽142 「カムイ伝」を通して江戸の社会構造の根源を読み解こうと…
▽147 近代に入って、「食べること働くことの原型」でもある共同体が失われるとともに、人々は出会いを失い、つきあいや会話のなかにあった言霊をも失ってしまった、と道子は嘆息したのであった。
▽168 絶望のどん底に落ちたとき初めて、祈ることを見たり体験したり、生物との連帯感を感じたりするんじゃないでしょうか。ああ、お前たちもこんな風に生きていたのかと、魚とか虫とか…に、お前たちも俺たちと一緒だねって思う若者が、出てくるんじゃないかと思います。…自分が絶望しなきゃ、人の哀しみはわからないですよね。(〓〓遍路)
▽170 「悶えてなりとも加勢せんば」とは、悲嘆にくれる人を心配してなにをおいても駆けつける。駆けつけるけれども、なにもできないでただ立ち尽くして悶えているだけ。そのような人のありようだという。そこにはなんの計算も見返りを求める気持ちもなく、相手の気持ちに乗り移るがごとく「瞬間的に悶える」のだという。
▽186 「自分はあの人だったかもしれない」と自分の魂が強く呼応する。道子は幼少期からその感覚をもっていて……
▽194(患者に)自らの罰を担わせたという意識で見た人がどれだけいただろうか。遍路と向き合った人々であれば、自らの罰を見つめ、せめて彼らが生きて行かれるようにと、たとえ1銭銅貨であっても手渡した。それは自分と「不可分の関係」だることを知っていたからだった。(〓お接待)
▽201 日本には「共視」によって価値観を共有し、言葉を交わす術を育んできた文化があったのではないか。これはもだえ神の生まれる「場」なのだ。立場が異なっても相手のあり方に対峙するのではなく、とにもかくにも駆けつけて、一緒に感じ、一緒に見る、という道子のもだえ神の特質は、日本の文化のなかから出現している。
▽205 自分自身が目の前の一本の松になり、そこから句を詠む。道子のいう「成り代わり」がすでに古代の文化に息づいていたのである。木々や草木、けものたちの精霊と魂を交歓し合っていた古代の人々は、常に溶解と隣り合わせの危うい生命を保っていた。
……あらゆる境界をいききした石牟礼道子は、とうとう生体膜が消えて、自然と宇宙に合体した。それは道子が常に願望していたこと。しかし同時に哀しい。
▽214 仏教の論理では死んでしまえば無に帰るだけ。つまり亡霊など存在しない。…日本の演劇その他の文学、文化には、仏教には存在しないはずの「向こう側の世界」が設定される。祖先礼拝の考え方とも通じている。なにしろ、日本人の仏壇のなかには仏陀はおらず祖先がいるのだ。…実は一般家庭に仏壇が置かれるようになったのは江戸時代である。…檀家制度が始まって仏壇は変わる。家に仏壇が入るようになり、過去帳、家系図、位牌などが安置されるようになった。おそらく「家」概念が広く庶民にまで広がっていった過程でその持続が重要になり、持続のための記憶が祖先崇拝となり、寺がその情報管理を担う、という関係ができていったのだろう。「あの世」が西方浄土ではなく、もっと身近に存在するようになったのである。
▽231 死の世界からこの世に現れて語り、また戻っていくのが能の構図だが、道子の新作能は死者を救済して終わりではない。「不知火」も「沖宮」も、死の世界を描きつつも、朽ちることのない生命の光を、我々に告げ知らせることの方に重点がおかれる。……闇の奥に息づく光であり、再生への祈りである。
▽235「昼も夜も祈らんば、生きておられんとばい。人間の罪、わが身の罪に対して祈っとばい」……道子は「人間は、ありえないような過酷な運命のなかで、かくまで気高くなれるのかと思った」と述懐する。水俣病の人たちは現代の「人柱」であった。
「だれにも水俣病は引き受けさせちゃならんけん、私どもが引き受けていくとばい」
……道子は晩年、人の行けない道を歩いてきた患者さんたちが、しだいに神に近い存在になっていく、と言っていた。
▽249 道子の作品には、絶望や滅びを描く傍らで、常にいのちの物語が息づいている。どんな災禍の渦中にあっても、季節を巡る自然描写は瑞々しく、花や虫を愛で、傷ついた人の背中をさする情愛のある人たちが登場する。そのいのちが無残に殺されても、時を経てやがて復活するいのちの予感がある。……「滅び去った後に生まれ変わる力があれば」という道子の祈りはどの作品にも共通して読み取れる。
▽251 道子は、苦界にあるいのちの代弁者である。そこには作家の自我から発せられるメッセージ性や主張、使命感のようなものは一切見うけられない。極論すれば、いのちの声が深く響いているだけと言っていい。(シャーマン〓)
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