■中公新書ラクレ 20200925
筆者は過去に、サンティアゴ巡礼や熊野古道などを歩いた。仕事と家事、看病による過労で体調を崩して、現実から逃れるように2017年に遍路に出た。
阪神大震災で妻と娘を亡くした男性は「悲しみは癒えることはない…夜がつらい。目をつむると子どもの顔が走馬灯のように浮かんでね…」と語った。火葬場で2300体を見送ったおじさんとも出会った。外国人遍路のユリウスは、「(啓示をあたえてくれる)サインはいっぱいあるのに見逃している人は多い。なぜなら先ばかり見ているから。だから僕は『今』しか見ないと決めたんです」。
後半になるにつれて、不思議な出会いや神秘的なことが起きる。「偶然が重なる」という形の「サイン」は「気づき」を与えてくれる。そのサインをキャッチできるかどうかで、遍路の中身は大きく変わる。
私も2度遍路をした。一度目に気づかず「奇跡」に二度目に気づいた「奇跡」があったから、筆者の言うことがよくわかる。
遍路道はメタファーに満ちている。身体を使って歩いているとそのメタファに気づく。筆者の本職の俳句もたぶん同じなのだろう。
無力さに苦しむとき、身体を酷使して祈りを捧げることで、心の痛みがやわらぐ。歩きつづけるなかでしこりが解け、自分に寛容になる。
遍路で筆者は、先祖や亡くなった人、今生きている人との間の見えない「縁」のなかで生かされ、「大いなる力」によって導かれていることを感じたという。
「遍路も俳句も、過去や未来にふらふら彷徨する頭を「今、ここ」に引き戻してくれる手段です」という筆者は、宗教家の域に達していると思った。
「星の巡礼」のパウロ・コエーリョは、つらくても前へと歩きつづけ、直面する新しい状況に誠実に向き合うことで、代償として恵みを受け取ることができるという。
「夜と霧」のヴィクトル・フランクルは「人間に残された最後の自由は、どんな状況にあっても、そのなかで自分の態度を決めることだ」と書きつ、「それでも人生にイエスと言う」ことをやめなかったという。
筆者が引用したそれらの言葉も印象に残った。
□第1章 発心の阿波
▽27 参拝することを「打つ」という。「納め札」が木や銅でできており、柱に打ち付けていたことの名残。数え切れないお接待。「南無大師遍照金剛」と3回唱えて納め札を渡すのが礼儀。
…遍路の「理由」をお遍路さん同士は暗黙の了解のように誰も尋ねない。
▽32 平等寺の大師堂には昭和初期の箱車。足の不自由な方が箱車で引かれて参拝し冷水を飲んだところ、じきに歩けるようになったそうだ。(寺のわきの同じ宿に)。
□第2章 修行の土佐
▽津呂港、紀貫之が京へ帰る折りに、10日ほど風待ちをした。
▽47 吉良川町。蔵や家の外壁に瓦の小さな庇が幾重にもついている。「水切り瓦」。台風から漆喰の壁を守るため。備長炭を船で大阪に運び出していた。
▽50 阪神大震災で妻と娘を亡くした遍路。「悲しみは癒えることはないですね…とくに夜がつらい。目をつむると子どもの顔が走馬灯のように浮かんでね…」。倒れるまで回り続けるつもりだという。
▽53 「病気になるということは、体が頭の暴走を止めようとすることなんやな」…肉体を酷使する厳しい修行は、ちぐはぐな頭と体を一つにするための手段かもしれない。
…国分寺の北東1キロにかつて土佐の国府があり、紀貫之が4年間赴任した。
▽57 膝の靱帯を傷めてからは、先々まで宿の予約をするのはやめ、体と相談しながら次の日の予定を組むことにしていた。
…雪蹊寺は長宗我部家の菩提寺。廃仏毀釈の後、山本太玄和尚が復興。
▽58 種間寺からの旧道。新川川にかかる「涼月橋」は明治中頃の石橋で、「メガネ橋」の愛称。
…福島を毎月のように訪ね、とくに会津や飯舘村、相馬市とはご縁が深い…
▽61 波介川を越えると里山に。840メートルの塚地坂トンネル…(峠ではない)
…60歳以上の男性 奥さんを亡くされて供養で歩く方が多いそうだ。
Yさん、50になる前に奥さんが逝ってしまった。「つまらん話をしてしまったね…でもはじめて人に妻のことを話しましたよ…」
▽66 宮崎建樹さん 2010年冬、遍路道の調査のため山に入り、転落して亡くなっているところを発見された。立てた道標は2000を超える。
▽68 先を急ぐあまり貴重な出会いを逃している人が多いように見えた。
▽72 GW 海辺の宿はどこもいっぱいで、旧中村市に宿を押さえた。幸徳秋水の故郷だ。遍路道沿いにも「憲法9条を守ろう」のポスターが貼られていた。
…全長1.6キロの伊豆田トンネルを歩く
▽75 ペカディジョを糺す唯一の方法は、つらくても前へと進み歩くことだと「星の巡礼」のパウロ・コエーリョはいう。歩きつづけ、直面する新しい状況に誠実に向き合うことで、代償として恵みを受け取ることができるのだ。
…生きるとは変化を受け入れること…変化をしなやかに受け入れ、何かをあきらめ何かを捨てて前へ進み、歩きつづけていれば、いつか恵みを受け取るにちがいない。
▽76 ジョン万次郎。無人島で143日間の生活の果てにアメリカの捕鯨船に救助された。…万次郎が持ち帰った知識は、幕末志士や岩崎弥太郎など、若者に大きな影響を与えた。
▽79 真念庵 四国遍路で最初の案内書をつくる。
□第3章 菩提の伊予
▽85 松尾峠「純友城址まで350メートル」なんてあったっけ? 景色がよいらしい。
▽96 中務茂兵衛 女性との結婚を反対されて家を飛び出し、四国遍路に。以来一度も故郷に帰らず、生涯独身を貫き遍路をつづけた。反抗と純愛。
…お遍路の神秘体験。…「偶然が重なる」という経験を度々している。…偶然の重なりは一つの「サイン」として私たちに「気づき」を与える。「共時性」と言ってもよい。
…サインをキャッチできるかどうかで、遍路は大きくちがっていく。
▽98 仏木寺 大師が牛を引く老人に会い、牛に乗って進むと、大きな楠の枝に宝珠が光っていた。大師が塔から東方に投げた宝珠出会ったことから、堂宇を建て…。「家畜堂」は、家畜の安全祈願のため、信仰されてきた。牛や馬の草鞋などが奉納されている。最近はペットの供養に来る人が多いそうだ(一次産業は信仰につながりやすい)
▽107 大瀬 曽我十郎首塚。僕は行かなかったか。
「サインはいっぱいあるのに、見逃している人は多いと。なぜなら先ばかり見ているから。だから僕は『今』しか見ないと決めたんです」(ユリウス)
▽113 宿で外国人に会わないのは、彼らのほとんどが野宿だからだ。…日本人のお遍路さんは…皆一刻も早く宿に入ろうと、速いペースで歩く。
▽119 石手寺。衛門三郎の逸話。…懐中電灯で照らして40キロ。サンティアゴ巡礼の折の最長記録が40キロだった。
▽123 円明寺。隠れキリシタンを黙認していた。当時をしのばせるキリシタン燈籠。
▽125 火葬場で2300体を見送ったおっちゃんとの出会い。
▽131 横峰寺。香園寺の駐車場には宝寿寺の臨時礼拝所「札所問題」で。
▽132 白装束は、昭和28年のバスツアーと共にはじまった比較的新しい習慣。
▽134 前神寺は、石鎚山の別当寺として石鎚信仰の中心だった。神仏分離で一時廃寺。現在の場所に再興された。本社の鳥居をくぐると山門。「これは山門ではなく神門なんです。注連縄がはられているでしょう」。仁王像ではなく一対の天狗像がまつられ、神仏習合だった時代をしのばせた。ご神水も石鎚山の伏流水。〓打ち抜き
(〓用水路のきれいな旧遍路道、はずれた。それも偶然だったのか。同じ道を歩いたらつらかったろう)
▽139 別格霊場十四番椿堂常福寺「歩き遍路の方はお接待です」と納経料を受け取ってくれない。
□第4章 涅槃の讃岐
▽148 弥谷寺の本堂は、仁王門から540段の石段。…岩壁に埋め込まれた大師堂。…俳句茶屋にはサンティアゴ巡礼の「ウルトレーヤ(もっと遠くへ)」「スセーヤ(もっと高みへ)」 もっと遠くへ、もっと高みをめざして、日々歩く。
▽153 五色台とは 青峯、黄峯、白峯、黒峯からなる山塊の総称。瀬戸内海に突き出るようにそびえる。…崇徳上皇の御陵。白峯寺から根香寺へは50丁。5.45キロ。沿道には41基の丁石が残る。
…「五色台子どもおもてなし処」 「喝破道場」と「四国八十八カ所遍路小屋プロジェクト」が共同で建設。お菓子とハーブティー。女性専用の宿泊所も併設。香川大の学生が内装を改修。次の世代に遍路を継承する取り組み。
□黛まどかさんへの八十八問 西垣通
▽171 あと2回、別格二十番札所を含む108ヵ寺巡礼、三度目は逆打ちを。
▽終わりに近づくほど、空虚感のようなものに襲われました。満ちていく感覚と虚しくなっていく感覚が同時に沸き起こり、混在して、不思議な感覚のままサンティアゴ・デ・コンポステーラに着きました。
…サンティアゴ巡礼では、小さな一歩もたゆまず重ねてゆけば……ということを「身体」に刻んだ…四国遍路では、私たちには「見えない世界」があるのだということをいっそう強く感じるようになりました。…先祖や亡くなった人、今生きている人と人の間に見えない「縁」が縦横無尽につながっていて、その中で生かされていること。私たちの意思ではコントロールできない「大いなる力」によって導かれていること。
▽185 重い理由を簡単には口にできず、また自身がそうであるから、人にもあえて、尋ねようとはしない。
…何もできない無力さに人は苦しむ…そんなとき身体を酷使して一心不乱に祈りを捧げることで、心の痛みをやわらげることはできるはず。…大自然の中を歩きつづける。最初は黙っている人たちも、ある日ふっと話しはじめるのです。心をひらかせるのは、自分自身です。歩く中で少しずつしこりが解けていき、自分に寛容になり…。
▽191 外国人の多くはサンティアゴ巡礼やカンタベリー巡礼の経験者。…途中での出会いにはとても敏感で貪欲でした。「幸福は目的地にはなく、あなたが歩く道沿いでにおいをかぐ花のなかにある」
▽194 当時のサンティアゴ巡礼道にはコンビニも自販機も公衆トイレもなかったので、地元の人にたよるしかなかった。…「奥の細道」ではすでに失われてしまって二度と取り戻せないものが、北スペインにはありました。
…(今は)観光名所になり整備やサービスが行き届いてしまい…
▽202 西洋は「信じる宗教」で、日本は「感じる宗教」と表現しているのは山折哲雄。…いつかは終わりが来るという直線的な時間感覚はクリスチャンに強く感じます。
▽212 日本人の遍路の大方は六十代以上の男性です。奥さんをなくされて供養のために遍路に来ている人が大半でした。
▽215 1976年の「大地の子守歌」。石鎚山が舞台。捨て子のおりん。育ててくれたおばあさんが死んで、娼婦にさせられる。視力を失い、お遍路さんになり…
…「夜と霧」のヴィクトル・フランクル「人間に残された最後の自由は、どんな状況にあっても、その中で、自分の態度を決めることだ」とし、「それでも人生にイエスと言う」ことをやめませんでした。変えられない運命には、どのような態度で対応する蚊、それによって人生の価値は決まるというのです。(〓意味は変えられる)
▽219 支えてくれたのが「祈り」でした。かなうかどうかは別として、「祈る」行為が人生の苦境を救うなら、否定すべき点はないと思います。
…「子どもには明日も昨日もないの。ただ、今、ここを生きているだけなのよ」
遍路も俳句も、過去や未来にふらふら彷徨する頭を「今、ここ」に引き戻してくれる手段です。
▽227 中務茂兵衛。長兄が34歳で亡くなると、中務家は傾く。茂兵衛は、遍路から何度も生家に送金していた。
▽227 パリ お金がなくても楽しめる場所がそこここにあるということを感じた。夕涼みのピクニック。ワインとチーズとパンで楽しむ。フランス人から見た日本の若者像「彼らの関心は、おいしい・楽しい・新しい」
▽240 遍路はメタファ、つまり暗示に満ちています〓俳句も
▽246 パウロ・コエーリョとのつきあい。…遍路や巡礼には「メタファ」があふれています。身体を使って歩いているとそのメタファに気づき、考えるようになります。ニュートンの「リンゴ」です。
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