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山の宗教 修験道案内<五来重>

■山の宗教 修験道案内<五来重>角川ソフィア文庫 20201019

 麓の民が山々を自分たちの先祖の霊の行く山「神奈備」として拝んでいた。死者の霊は山へ行き、霊をまつる宗教者として狩人がいた。それが修験道の山の開創者になった。
 大峰・熊野の山伏が勢力圏を拡大することで、そういう在来の宗教の点が線で結ばれたのが「大峯修験道」だった。熊野の本宮、新宮、那智ももとは別々だったのが、平安中頃に提携するようになっていった。
 熊野の勢力は、九州の彦山や沖縄まで広がり、宗教界を制覇した。民間神楽のほとんどが山伏系統であり、さかのぼれば熊野に結びつくという。
 熊野に古墳がないのは、水葬や風葬があったからだ。十津川の川原に河原墓という墓をつくり、洪水が来ると流れて白骨が散乱した。本宮の砂州は、骨が流れ寄るところだった。那智の「補陀落渡海」も死んだ者を舟に乗せて沖で沈める水葬だった。風葬の清掃者が烏だから神聖な鳥とされた。
 山伏にとって最高の行は、自分の身を捨てて、すべての人の穢れを背負って死んでいくことにある。熊野では、捨身ばかりでなく焼身もあった。
 富士には「人穴」が無数にあり、人骨が見つかる。一種の風葬の場だった。そこで何人もの修行者が入定している。羽黒三山にはミイラが残っている。
 山が地獄であるとか、浄土であるとかいう観念ができてくるのは、風葬があったからだと筆者は考える。「山」を信仰するのではなく、山にぼっていく霊を信仰するのだという。

 今まで訪ねた場所の不思議な風習もいろいろ解きほぐしてくれた。
 富山の配置売薬の起源、島根半島のウップルイ海苔の語源。五百羅漢の意味、「最御崎寺」の語源、「潮井採り」の広がり、インドの仏教が消えた理由……。

□熊野信仰
▽9 ふつうは江戸時代に入っても、神社には別当がおり、優越していて、神主は祝詞をあげるときだけ頼まれるという実態だった。…中世のなかごろから神主側の巻き返しがあり、伊勢神道というのが出来、あるいは唯一神道、吉田神道というものになり、江戸時代に入ってから復古神道でもって仏教の地位を落としていく。それが結果として廃仏毀釈になったので、山伏も一時なくなる。
▽10 楠と梛が熊野の神木。
▽12 山岳宗教、修験道は仏教渡来より古い、ということを言っている。
▽14 原初的には、それぞれの麓の民が山々を自分たちの先祖の霊の行く山「神奈備」として拝んでいたものが、大峰/熊野の山伏が勢力圏を拡大して、点を線で結んだのが「大峯修験道」。本宮、新宮、那智はもとは別々だったのが、それぞれの修験集団のなかで、お互いに提携して宣伝しようということになって…その時期は平安中頃と推定される。
▽16 彦山も熊野の勢力下に入っている。源頼朝の全国制覇より早く、熊野は宗教界を制覇した。…現在全国で3000社の熊野社があるが、その10倍も20倍もあったと思います。…鎌倉時代には沖縄に入っている。宗教界の覇者だった。
▽18 熊野の秘密は3川合流点にある。音無川と熊野川と岩田川。そこに中洲ができた。洪水でつかるところだから新鮮だったと思います。…水を隔ててある世界というのはいつも穢れがないということになっている。「大湯原(大斎原)」
▽21 廃仏毀釈から仏教が立ち直るため、明治30年ぐらいから、仏教統一論というのが出てくる。…しかし、インドの仏教と日本の仏教ではまるでちがう。日本では僧侶は妻帯している。
▽24 山伏にとって最高の行は、自分の身を捨てて、すべての人の穢れを自分が背負って死んでいくことにある。熊野では、捨身ばかりでなく、火定といって焼身もあった。
▽26 伊弉冉。古事記には、その墓は伯耆と出雲の境にある比婆山と書かれているが、日本書紀には熊野の有馬村と書かれている。このちがっているのが、実は伊勢・熊野非同体説の一番の根拠になるのです。…古事記の記述が、非同体説になるが、伊勢の神の母神の墓が熊野にあるという信仰が、伊勢と熊野を結びつけた。…熊野は最初は伊勢から参詣した。
▽28 水葬儀礼がある。那智の方も「補陀落渡海」がある。実際は水葬で、死んだ者を舟に乗せてめはりをして放してやる。沖で沈める。
 本宮にも。十津川の川原に河原墓という墓をつくり、洪水が来ると、流れてしまって白骨が散乱する。
▽30 風葬の清掃者が烏。
…熊野には古墳がない。
 熊野の中洲と十津川の水葬、補陀落渡海、狩人も山の司霊者といわれるように、死者の霊は山へ行きますから、その霊をまつる宗教者として狩人がいた。修験道の山の開創者になる。
〓「死者の国」である妙法山には納骨がおこなわれる。現在では三重県と和歌山県の信仰圏の人が納骨をしています。
▽32 本宮の砂州は、水葬されるものが流れ寄るところであったのではないか。そういう死者の霊は、祀らなければたたるし、祀れば恩寵の神になるということで、、食物の神様になる。「家津御子神」といった。
▽34 王子社というのはみな熊野信仰(東京も)。
▽36 九十九王子 社殿を持っていないもののほうが多い。森だけ。これは古い神の祀り方です。
▽38 (熊野は源氏と関係が深い)北条政子はたびたび熊野を参った。彼女が献上した大きな湯釜が本宮に残っている。
▽41 民間神楽のほとんどすべてが山伏系統。それをさかのぼれば熊野へ結ばれていく。熊野信仰は修験道界を制覇していた時代がある。
 熊野信仰は南北朝時代に衰えてしまう。

□羽黒修験
▽49 熊野と吉野が提携して「大峯修験道」をつくり、全国の山岳宗教のひとつの作法として伝播していった。そのヘゲモニーが、鎌倉末から南北朝出なくなる。吉野も焼かれる。熊野も内紛で衰え酢。そうすると各地方の修験が独立の宣言をする。
▽51 羽黒山寂光寺。廃仏毀釈でなくなったが、そのときに3寺岳、頑として神官にもならないし、農民にもならなかった。それが寂光寺のなかの奥の院の荒沢寺と正善院、金剛樹院。
▽53 もとは三山とも真言宗だったが、寛永前後に天台宗にしてしまった。湯殿だけは肯んじなかった。弘法大師のつながりを証明するため、弘法大師と同じように入定する。湯殿にだけミイラができた謎を解明するかぎです。
▽61 常念仏 600年も絶やさないのが比叡山の坂本にある西教寺〓〓。
▽63 鉄龍海という人は、明治14年、あるいは明治元年に入定した。
□日光修験
▽79 箱根、丹沢、高尾山、赤城山、榛名山、妙義山にも修験があった。日光がその全体を制覇しておった。
▽90 山の神というよりむしろ水の神を祀っていた。千手観音のいる世界を補陀落世界。この湖なり山なりは「二荒山(ふたらさん)」「補陀落(ふだら)山」と呼ばれ、これが二荒山→日光山になる。
…千手ケ浜から西は湿地帯に。戦場ヶ原。千手ケ浜が戦場ヶ原になった。そこから神様の戦の伝説ができてくる。
▽100 修験の山は葬式を嫌う。鞍馬寺も葬式をしない。2里ほど京都側の市原にある「卒塔婆小町」の小町寺で葬式をする。山伏、現代は鞍馬寺の坊さんの葬式をする所。念仏寺は鞍馬の村人の葬式をする。じつは鞍馬の村は「火祭り」でわかるように、修験の村だった。どちらも鞍馬から2里も離れたところで葬式をしている 
□富士箱根
▽113 山梨側、吉田の北から登る道はあとで開けた。平安・鎌倉時代は村山口。
…享保17年の不公平の裁判の記録を元に、富士宮浅間神社は、最高裁までもっていって、静岡県から富士山の八合目以上を奪い取った。だから現在は八合目以上は富士宮浅間神社の所有です。
 …しかし神体山というのではない。「神奈備」の山です。1神社の私有するべきものではない。
 富士山も他の山と同じように、死者の霊の往く山という考え方があった。だから富士山には地獄があるという信仰が出てくる。
▽115 文化・文政のころに富士信仰がはやり、「富士講」ができて、いたるところに富士山をつくる。高いものは10メートルもある。駒込の富士神社の富士山はそのくらいある。たいてい1メートルか2メートル。長谷川角行という人が人穴に入定したことが流行のきっかけ。
 食行身禄63歳で入定。新田次郎「富士に死す」
 …罪を自分の生命でもって償う。それが山伏の入定。
 …吉田の浅間神社には、長谷川角行と村上光清、伊藤身禄の3人の祠が祖霊堂という名前で立っている。
▽119 浅間 アサマ、アサというのは火という原アイヌ語と推定される。阿蘇もアサから転じてアソとなった。火を噴く山という意味。
 富士山には人穴というのがたくさんある。人骨が見つかることがある。一種の風葬の場。
 山が地獄であるとか、浄土であるとかいう観念ができてくるのは、それに先行するところの風葬があったからというのが私の主張です。
▽128 インドの仏教は密教化することで滅びた。最後になって金剛乗教ができて、性的な喜びは悟りの喜びそのものだ、それを体験しなければならないという。実践するのはふつうの女の人手は行けないから、そうした女性を使う。それで滅びてしまった
 それを知っていて、本当の仏教は日本だと鎌倉時代の人たちはみんな言うのです。だからいまの仏教学者が、インドの仏教を本物のように言うのは嘘です。

□越中立山
▽133 最初は、剱岳の方が立山だと思われていたようです。
▽135 日本のあらゆる山岳宗教の山は、文武天皇の代から奈良時代の半ば以前くらいのところでほとんど踏破された。それまではタブーとされた者が、山の頂上を踏むという気風がおこった。
▽138 崇高なる山のたたずまいが、宗教感情を起こさせて山岳宗教がおこったというのが最近までの考え方だが、死者の霊がおると信じたのが、山岳宗教の神奈備信仰のおこりであると考えます。
▽145 室堂 「立山曼荼羅」を見るとたくさんの小屋があって、参詣人が泊まったように見えますが、そこでお経を写した。
▽148 地獄谷を下りて行きますと、いちばんとっかかりのところが、房治荘(雷鳥沢ヒュッテ)といういちばん古い地獄谷の旅館です。その周辺は石仏と石塔でいっぱいです。
▽150 芦峅寺のムラ外れに、三途の川と称する川がある。東へ抜けるところに、右へ曲がったところに「閻魔堂」がある。「姥堂」が明治維新以降亡くなったので、姥堂の姥さんを閻魔堂に移し同居させている。
▽154 売薬のはじまり。立山修験の生活の方法は、経帷子を売った。みやげと称する御札と薬ももっていった。これを越中藩が取りあげて、岡山の医師を招いて「万金丹」を調整させた。立山修験の檀那場をそのまま使って、配置売薬というものがはじまる。

□白山
▽160 熊野修験に次いで日本の修験道界を支配した。南北朝以後になると熊野修験を追い払って、全国に白山神社が増える。青森から鹿児島まで。
▽166 別当出合から弥陀ヶ原、室堂に泊まり、七つ池を巡って、岩間温泉のほうに下る。
□伯耆大山
▽187 江戸幕府出した諸山法度に、「学問専一たるべし」といいうのがあり…日光の修験がダメになったのも、修行よりは学問重視のためです。…しかし比叡山が失ったいろいろなものを大山では遺したので、学問も法会も声明という声楽のほうもよく残った。
▽195 出雲大社。もとは奥の院である浮浪山鰐淵寺が支配していた。もうひとつ上で支配していたのが大山。
▽197 山伏の子孫が玉造の長谷川家で、保性館という旅館を経営している。
▽200 島根半島の西の日御碕、東の美保関、どちらも聖なる火をたく場所。日御碕の東に十六島。ウップルイとは、日御碕の下の磯に生えた海苔。その海苔を山伏が彦山の山麓にまで配って歩いた。この海苔を食するものはすべての病、災いを打ちふるうべし、と書いて打ちふるうがウップルイになった。みんなふるい落としてしまう。それを十六善神影向の地にちなみ、十六をとってウップルイと読んだというのです。
 そういうふうに「神の寄り来たる」場所に生えている海藻まで神聖なので、平田市の一畑薬師にも、目の悪い人は毎朝、海岸まで行って、海苔を拾ってきて上げていた。
……隠岐の西の島には焼火山というのがあり、…ここで炊いている火と日御碕が航海する舟の目印だった。
▽204 五百羅漢。亡き人に似た顔を見て、ああここにもう来ているだなと思って安心して帰る。そういう意味で五百羅漢はつくられるので、山岳宗教と葬墓史というのはじつによく相応している。…弥谷寺がそう。お参りした人がみな位牌供養で位牌を立てる。原簿ができていて、何年何月のどこそこのだれそれの位牌というと、サッと出るようにできている〓〓。
▽208 大山の修験の勢力は平安時代以降は衰え、中国地方は石鎚修験の勢力が入ってくる。…中国地方は草刈場。大山の勢力がなくなり、いろいろな「修験から蚕食された場所になった。
□石鎚山と室戸岬
▽213 ギリシャ人は、アニミズムというのは物が生きているのだと考えた。日本人は物が生きているのではなくて、物のなかに霊があると考える。ですから肉体を日本人は意外に粗末にする。ギリシャ的な考えを継承するヨーロッパの考え方からいえば、肉体が非情に大事です。…ベトナムでの死体はエンバーミングという方法を講じてアメリカに空輸された。日本人は、石一つだけが壺や箱のなかに入ってきた。
 物を主体にするか、霊を主体にするかということ。
 ギリシャ人は神を彫刻であらわした。インド人は、仏を仏足石で表現した。足跡さえ描けば、その上に見えない仏さんが立っていると思った。
▽217 高野山で冬でも山ごもりするようになったのは、土室というマントルピースが、発明されたから。祈親上人という高野山を中興した人が発明した。
 石鎚では1450メートルの成就社に人がやっと住んだ。
▽220 瓶ヶ森がひとつの石鎚山信仰の前身と言われている。もうひとつの中心はは横峰寺。法安寺というお寺の跡がある。その左の三叉路が星ケ森。弥山と天狗岳が一直線に見える場所。ここが中社にたいする下社。もうひとつ下へ下がって、現在の石鎚神社口ノ宮と前神寺へ。
▽221 空海が山岳修行をしたのは、虚空蔵求聞持法という記憶をよくする法を大学生らしい茶目っ気ではじめたことにその動機があったのです。求聞持法は雑密といい、程度の低い仏教だといっていた。祈祷師のやるようなことになっていた。空海はそれをやった。そういうところに空海の偉さもあると思います。
▽223 虚空蔵求聞持法のところには火がある。「不滅の火」がある。それが残っているのは、弘法大師が求聞持法をおこなったといわれる安芸の宮島の山上、弥山の霊火堂の「消えずの火」。もとは虚空蔵求聞持法堂のなかにあった。…昭和の初めごろに焼けて外へ出してしまった。いまは霊火堂に。原爆広場の平和の灯の元火になった。虚空蔵求聞持法を修することがすなわち聖なる火を守ることだという信仰を類推させる。
▽227 大峯・熊野の信仰が移ってきた。そのもうひとつ前には、弘法大師が大峯信仰をしながら石鎚を開いたことに関係がありますが、山頂には元は1メートルの高さの3体の蔵王権現があったといわれています。非常に傷むので、金仏になる。それが神仏分離と同時に県庁に持って行かれ、前神寺に渡り、現在は前神寺の蔵王堂に祀ってあります。〓
▽228 中世から近世にかけて、前神寺と横峰寺が別当を争い、長い訴訟をした。信者は二分され、仏教関係の法の信者の統一もできていない。
▽232 香川県大内町水主(東かがわ市)の水主神社。村の中に熊野三山がある。「水主の新宮風呂」が有名。「湯聖」というものが風呂を焚いて、そこへ湯治にみんなで行く習慣があった。
▽233 四国は修験道の中心として、弘法大師以来ずっとつづいてきた。さらに以前の飛鳥時代の寺跡まである。非常に古い信仰。
▽235 最御崎寺。ホツミサキは美保関のホと同じで、ホというのは先端という意味もあるが、同時に火という言葉。「火つ岬」と考えるといい。
 金剛頂寺(西寺)にも修験の痕跡。行当岬は行道岬。

□九州の彦山
▽245 九州の修験の特色は洞窟信仰。大陸の石窟寺院の影響があると考えていますが…
▽250 修験の山というのは三神三容といい、俗人の形と、女性の形と、坊さんの形の3つでできている。山の神さんは女性ですから女体になり、それを祀る狩人は俗体になり、それを仏教で祀るようになって修験道がはじまると、頭をそった坊さんが加わる。これは開祖です。山の神と、それを祀る神主さん、それを修験道として開いた坊さん、それが全部神格化されるので、峰が3つある。
▽261 潮井採り。修験の山にはどこでもあった。修験の山ではなく、山中の村ではよくやりました。高野山の奥の花園村。昭和20年代まで、代表3人が堺まで塩水をくみに行った。村中の家の竹筒に分ける。一年中それを浄めに使う。笹を挿しておき、パッパッとふる。(熊野にも〓)
▽266 洞窟信仰というのは、古い人間が横穴に住むような時代の残存と、大陸の石窟寺院の伝統の両方とが合わさった物。

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