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仏教と民俗 仏教民俗学入門<五来重>

■仏教と民俗 仏教民俗学入門<五来重>角川ソフィア文庫 20201006
 お盆やお彼岸、葬式や年忌、位牌といった習俗は仏教だと思われているが、実は本来の仏教ではなく、仏教伝来以前の日本古来の在来宗教の名残だという。
 日本の在来宗教は先祖の霊に対する信仰だった。祖霊は山にすまうから、山を神仏と見立てる信仰が育まれた。山や川を信仰するのも一般のアニミズムではなかった。
 中国直輸入の仏教でつくられた奈良の大寺院も、律令国家の庇護がなくなると、沙弥・優婆塞・聖、山伏・毛坊主・願人などと賎視された行基ら勧進僧の力で支えられた。勧進僧は穢れを罪とする在来信仰い基づき、罪穢れをはらうという名目で喜捨をあつめた。彼らが、素朴な祖霊崇拝や山岳崇拝を基底とした庶民仏教をつくりあげた。

 村落共同体の講は、もとは共通の祖先をまつる在来宗教の氏神祭りだった。それが仏教化して先祖講になり、その基盤の上に、浄土真宗の報恩講や、真言の大師講が成立し、庚申講や念仏講も祖霊をまつった。庚申塔や道祖神をムラはずれに立てるのも在来の祖霊信仰によるものだった。
 庶民の仏壇は、仏教以前の祖霊信仰につながる位牌が中心だった。寺院の9割以上を占める菩提寺は、仏教的原理ではなく、祖霊信仰という日本の民族宗教によって成り立ってきた。
 日本人の宗教の対象は祖先であり、墓であり、その御霊を家に持ちこんだ位牌、仏壇だった。正月すらも先祖祭りだった。インド直輸入の仏教とは様相をまったく異にするものだった。
 明治以降、庶民の信仰を下支えした下級僧侶は消滅し、インテリ化した僧は、庶民の宗教的欲求を迷信とか俗信といって蔑視するようになる。修行と祈祷と葬式をきらい、現代の「知恵の宗教」から庶民は拒絶されてしまった。

 毎時以降、多くの神社の祭神は記紀に記された高級な神格におきかえられ、その他は草祠または淫祠とされた。抑圧された民衆の信仰は、終戦とともに、タタリのような託宣的要素や、祖霊供養による滅罪信仰を内容とする新興宗教という形で爆発的に流行したという。
 この本を読むと、年中行事や宗教の慣習の重要さに気づかされる。
「村落社会をささえる健全な精神は、つねに伝統と宗教と共同性に裏付けされており、それが都市の精神的頽廃と崩壊の救いのなる日が来るであろう」「年中行事を、一時的な便宜とさかしらのために放棄することは、日本の将来の生命のためにも悔いをのこすことになろう」と筆者は記す。
 熊本の私の祖母は、法華経を仏壇の前で毎日よんでいた。近所の人に好かれ、巡礼者が来ると団子や茶を振る舞っていた。今から思うと祖母の人柄は宗教と共同性に裏付けされていた。農村からそれが失われたのがこの半世紀だったのだ。
「盆行事や大念仏が満月の太陰暦15日を捨てたとき、やはり伝統をすてる第一歩があったとおもわれる」という指摘も旧石鎚村の歩みを取材したからその通りだと思った。
 レヴィストロースは、ブラジルのあるインディオのムラが、家の配置を換えるだけで宗教や伝統を失ってしまった例を紹介している。日本の場合、暦を失うことで祖先の霊に裏打ちされていた伝統や倫理を失ったのではないだろうか。

「聖火」の伝統も仏教以前の信仰の名残らしい。根本中堂の不滅の法灯は、信長の焼き討ち後、山形市郊外の立石寺から不滅火をもらった。羽黒山の荒沢寺の常火堂には昭和24,5年まで焚かれていた。厳島の弥山頂上の「消えずの火」は今もつづいており、原爆広場の平和の灯の元火のひとつになったという。さらにその火を四国88番札所大窪寺に移した。
 日本の聖火は、仏教以前からの不滅なる精神のバトンなのだ。火をともしつづけることは2000年の伝統を受け継ぐことになる。だからこそ平和の灯は消してはならない。

 五来は、いま求められる宗教の要素として、行基や空也のような「歩く旅」をあげる。「座る旅」「乗る旅」は、密室に閉じこもって人々とのふれ合いがない。遍路を経験したから、歩くことと信仰のつながりが実感としてよくわかった。

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Ⅰ 現代と民俗
▽庶民を相手にする下級僧侶は、沙弥・優婆塞・聖あるいは山伏・毛坊主・願人などと賎視された。明治以降になると、教団組織の再編と僧侶養成機関の充実などで、下級僧侶はすべて消滅するか、大学教育を受けてインテリ化し、素朴な庶民の宗教的欲求を、迷信とか俗信とかいって蔑視するようになる。
僧侶はインテリ化して修行と祈祷と葬式をきらい、ホワイトカラーの職業を正業とする限り、もはや仏教は庶民の宗教ではなくなっている。
古代からの仏教の基層を支えてきた庶民は、現代の「知恵の宗教」から完全に拒絶された。
庶民は、「行動の宗教」を求めている。行基や空也の仏教がそれである。
厳しい修行のなかで、超人間的な呪力をたくわえた宗教者のあらわす奇跡をまちのぞんでおり、奇跡の非合理生を求めて、宗教を信じるのである。
▽13 人間は自然という空間の座標と、歴史という時間の座標の上で人間性を回復する。それは「歩く旅」ではじめて味わうことができるものである(車の旅のむなしさと疲れ〓)
▽15 鈍行列車を選んで、田舎の小駅におり、つぎの小駅までをあるく、という旅の方式を実行していた。…1枚の切符で民俗探訪の効果を最大にあげようとして、はじめた。
▽17 貴族は輿や車で、武士は馬で旅をしたのにたいして、庶民は草鞋で旅をした。「座る文化」(怠惰と好色と陰険)、「乗る文化」(歩くものを見下す怠惰な優越感)、「歩く文化」にわけられると思う。…西行も芭蕉も歩く旅から生まれた文学だから、健康な野性味がいつまでも庶民の心をとらえる。…歩く旅にはあたたかい庶民の心のふれあいが会った。座る文化も乗る文化も、自分だけの密室に閉じこもって、こうしたふれ合いがない。(〓マイカー旅行のむなしさ)
▽20 いま奈良・京都の大寺院に宗教としての仏教があると思う人は、よほどのお人好しである。そこには古寺巡礼などはあり得ない、古寺巡観があるだけだし、それもギリシャ的美学で偶像の表面をながめまわすだけである。
▽28 俗信と迷信の識別。民族的信仰現象のなかで社会的に容認されているものは俗信、反社会的な実害をともなうものは迷信。…雨乞いは俗信だが、狐憑きや犬神つきなどの差別は迷信。
…死んだとき逆さ屏風を立てたり、高盛飯に一本箸を立てて供えるような習俗は俗信であって、仏教以前からの民族宗教の残存形態として伝承されている。お盆の魂祭りと同じく、日本民族の霊魂観念というものを根底において成立したものなので、葬送習俗全体を迷信といって否定すれば、庶民の宗教観念の根を断ち切ってしまうことになり葬送は死体の処理だけに終わることになろう。
▽32 古代の「聖火」 根本中堂の不滅の法灯 信長が比叡山を焼いたとき消えたのを、山形市郊外の立石寺〓から不滅火をもらってつないだ。
…立石寺のような山岳霊場信仰は仏教伝来以前からのもので、そうした霊場信仰の中心が不滅火だった。立石寺の不滅火は、実は金堂の法灯ではなくて、奥の院常火堂の炉火だった。その奥の院の常火は明治2年の常火堂焼失で消えた。廃仏毀釈の嵐の中で、再び燃えることなく、炉址だけが床下に眠っている。
…羽黒山の奥の院、〓荒沢寺の常火堂に、昭和24,5年まで焚かれていたが、大戦後の荒廃のなかで消えた。
▽35 炭火の不滅火ならば、近江の土山の選挙の神様として、代議士の信仰を集める若宮神社〓にも、聖火がある。
 しかし昔ながらに大榾を焚いている不滅の聖火は、厳島の弥山頂上に「消えずの火」としてつづいている〓。
 これを移して、原爆広場の平和の灯の元火のひとつとした。
 日本の聖火が不滅なる精神の継承であるかぎり、平和の灯は絶対消してはならない。(88番の原爆の火、火を灯しつづける意味は仏教以前からの日本をつなげること〓そういう意味があったのかぁ)
▽38 古代寺院はすべて仏教大学だった。…学問研究の伝授の場として講堂が必ずあった。
▽42 綜芸種智院は平安時代の私立大学の打ちで、庶民子弟の入学をゆるした唯一の大学だった。僧侶養成機関というよりは、仏教精神による社会教育の大学だった。ミッションスクールの大先輩。学生は僧俗共学で、僧侶も、世間一般の学問である儒教、道教を一般教養として学んだ。これは社会に目を開いた空海の、すばらしい教育的ビジョンだったと思う。〓(一般教養を重視した空海)
…しかし、空海の大学教育への理想は20余年で敗北。伝法会という真言学生だけの閉鎖的な教育機関に逆もどりしてしまった。
▽50 伝法院は高野山にはじめてできた常設大学。真言宗大学林から高野山大学へと発展。
▽51 覚鑁(興教大師) 真言宗を時代に適応させるために、真言と念仏の結合をさせた。大日如来と阿弥陀如来は同体であり・・・と言いだした。念仏盛行の中世の胎動を感知したためあろうし、高野聖を味方につける必要があったからである。(真言の念仏の融合〓)
…紛争によって彼は逃げ出して、根来へ。根来と高野にわかれた大学は、現在の大正大学と高野山大学に分かれて存続している。

Ⅱ 年中行事と民俗
▽67 村落社会をささせる健全な精神は、つねに伝統と宗教と共同性に裏付けされており、それが都市の精神的頽廃と崩壊の救いのなる日が来るであろう。オコナイのような年中行事を、一時的な便宜とさかしらのために放棄することは、日本の将来の生命のためにも悔いをのこすことになろう。(〓失われてしまった。阿蘇のばあちゃんの時までは健全な精神があった。宗教と共同性に裏付けされていた)
▽75 三田の城主だった九鬼氏は、節分に「鬼は外」といわないことで有名だった。豆は鬼を追い払うものではなくて、厄をうつしはらうために体をなでて捨てるものだった。
 他に、鬼を先祖とつたえる家は、大峰の前鬼村、後鬼村。粉河寺奥の中津川の村人は鬼筋の修験者として名字帯刀を許された。
 …鬼を邪悪なものとした仏教のせいで、鬼がせっかく子孫の厄を祓ってやろうと近づいてくる野に、大豆を投げられて追い払われるようになった。
▽91 奥三河の段嶺村 盆の大念仏 中世の大念仏が村落に定着したままのこったらしい。竹下翁は「盆踊り」とよんでいた。
 新盆の家で、新仏の祭壇の前ではげしい踊念仏「はねこみ」をする。・・・それから夜を徹しての普通の盆踊りになる。
▽100 いまや盆も正月も…日取りさえ生活の便宜主義で変えてゆく。…盆行事や大念仏が満月の太陰暦15日を捨てたとき、やはり伝統をすてる第一歩があったとおもわれる。(〓石鎚村。自然や異空間とのつながりが切れて、伝統が力を失い……〓)

Ⅲ 祖先崇拝と民俗
▽104 庶民は現実的で、日常的で、低俗な信仰しかもたない。庶民が観念や空虚な論理のはいる隙間もない、きびしい生活を生きているためだろうとおもう。
…墓が年中行事のアクセントであるとおなじく、仏間は1日のリズムのアクセントである。朝のお茶も仏壇にあげてから出ないと、庶民はおちつかない。…日常的でマンネリズムあるけれども、庶民生活のゆとりと安らぎがそこにあることを…
▽109 インテリ層は、インドにも経典にもないお盆やお彼岸、葬式や年忌が日本仏教をささえ、家庭の仏教を仏壇が支えていることを正しく評価できない。
▽110 浄土真宗の仏壇がとくに立派である理由。…初期の真宗寺院は在家とあまり差別がなかった。真宗僧侶が半僧反俗、悲僧非俗だったことに対応。このように在家とあまりちがわない寺院を「道場」とよんだのは大宝律令以来。
 私度僧とよばれた説教者の道場は、一間には仏像を安置する仏間があったはずで、この仏間が寺院になっても「お内仏」とよばれている。浄土真宗の檀家の仏壇が「お内仏」といわれるのはこの伝統による。
 …不相応に大きな仏壇をそなえた真宗の檀家こそ、親鸞聖人が理想とされたl真宗寺院そのものの姿。
 …檀家の仏壇が立派なのは、在家が寺であり、寺が在家であったという教団の本質があらわれていることを意味する。
▽116 浄土真宗は講を基盤として成立しただけに、仏壇が重要視されたのであって、門徒報恩講をお粉枠なったところでは、大きな仏壇は無用の長物化してしまった。
…村落共同体の祭りとしての講は、そのもとは共同体の共通の祖先をまつる氏神祭りであり、これが仏教化して先祖講になったものである。この先祖講の基盤の上に、浄土真宗の報恩講や、天台宗・真言宗の大師講が成立し、庚申講や念仏講なども祖霊をまつり、葬式法事を共にする講に変形した。したがって仏壇にまつる仏も、そのような祖先をシンボライズする信仰対象であるから、そこに位牌がまつられる理由は十分にある。
▽121 庶民の仏壇は仏像を安置するものではなくて、位牌をおさめるものであることがわかる。しかし祖先の令の象徴として仏像を安置する仏壇も存在する。とくに浄土真宗のように、集団的な講をおこなう本尊として、個人の家の仏壇がもちいられる処では、仏像や名号が仏壇の中心に安置されるのは当然である。(〓ご本尊が必要とは必ずしも言えない。あくまで位牌が中心=仏教前の伝統から〓)
▽122 日本人は死者のまつり方に特色。死者を葬った墓でその霊をまつらず、別の場所に霊のみを移してむかえてまつる。二重に墓をつくる両墓制〓(紀伊半島)
▽124 すべて民間の宗教行事は、村落共同体、あるいは信仰共同体(講)の行事だった。それが個人や家の独立分化にともなって、家の行事になった。
▽128 日本の庶民には「先祖になる」という理想があって、生きていたときの個性を早く消滅することによって生前の罪を消し、浄化された祖霊になることをのぞんだ。したがって特定の人物以外は生前の名を墓に刻み、位牌に書くこともなかった。「個人を忘却させる」ことが「成仏」だったのである。戒名の名の一部に生前の名の一字を入れる流行は、個人主義を宗教のなかにもちこんだようなもの…
▽131 村なり檀家なりの死者は共通の祖霊として、共同体全部でまつるのがお盆。その時祖霊の依り代として「三界万霊」碑が立てられる。
▽132 施餓鬼法要や報恩講は、われわれが一人で生きるのでも死ぬのでもなく、生きても死んでも共同体の一員であるという思想をあらわしている。〓〓(阿蘇のばあちゃん)
 …日本人の庶民の宗教は、その基底において浄土真宗も禅宗も真言宗も日蓮宗も、相通じるものをもっている。
 …浄土真宗の仏壇でも共同体のまつりや講と密接なつながりがあるという結論。
▽138 香川の佐柳島 積石墓 海石をつみあげた埋め墓が海岸に延々と広がっている。
▽142 道や辻や村の境、あるいは墓の入口まで送り出された悪霊の形代が、やがて向こうから来る死霊や悪霊をふせぎとめる神の姿に変わってくる。それが塞の神であり、道祖神であり、辻地蔵であり、六地蔵である。
…災厄の源としてきらわれた死霊が、やがて昇華して家を保護する祖霊にかわり、ついには村を保護する神霊ともなる「霊魂の昇華現象」
▽152 学問寺、浅草寺のような祈願寺、菩提寺・村落寺院のような滅罪寺。あまりに大きな差があって同じ仏教からうまれたとはかんがえにくい。
 東大寺のような学問寺は、古代には国家の保護のもとにあったが、中世以後は、何らかの庶民信仰を集めなければ維持できなくなった。鎮護国家寺院から庶民信仰寺院へ、現代は観光寺院にというのが、学問寺の歴史である。
 祈願寺は、いわゆる霊場になったものが多い。仏教の教理と関係なく、もっぱら庶民の現世利益の祈願にこたえるのを使命としている。
 菩提寺は、墓を守るためにできたもので、祖先崇拝信仰をもとにしたものだから
かならずしも仏教教理を必要としない。9割以上を占める菩提寺が、実際には仏教的原理によったものでなく、日本の民族宗教によって成り立っているということは重大な事実である。
▽154 日本人の宗教の対象は死んだ祖先であり、墓であり、その御霊を家のなかに持ちこんだ位牌、仏壇であるといえよう。インド直輸入の仏教と日本の仏教のあいだの違和感としてののこるのである。
…正月すらも先祖祭りだったのである。

Ⅳ 庶民信仰と民俗
▽160 奈良時代に老いても、反律令的私度僧は盛んで、そのような庶民宗教を組織して、大仏建立の勧進に成功した行基も…と批難される…勧進僧集団の頭目にすぎなかった。古代の庶民の仏教は、沙弥・優婆塞・聖の勧進の結果として成立した。
▽162 勧進僧は庶民の心をとらえるために、民族宗教と仏教の融合をはかり、素朴な祖霊崇拝や山岳崇拝を基底とした、庶民仏教をつくりあげた。…「日本霊異記」から「今昔物語集」をへて中世の説話文学にいたる文学的風土が、すべて勧進によって開拓されたものであることも、記憶する必要があろう〓〓
…平安中期になると、寺領荘園は在地土豪によって蚕食され、…勧進に依存せざるを得なくなった。…奈良の仏教的庶民信仰は、このような勧進の結果あらわれるのであって、その典型的な例を、元興寺極楽坊が示している。
…極楽坊が今日まで残った理由は、庶民信仰に支えられていたから。
…倒壊寸前だった。廃滅から救ったのは智光曼荼羅があったため。
▽167 日本の民族宗教における穢れを罪とする考え方に、仏教の罪業観を結合した滅罪信仰を勧進聖はたくみに利用して庶民のこころをつかんだ。罪穢れをはらうための作善をすすめて、庶民の喜捨をあつめた。
…滅罪を前提とする往生信仰を雑行雑修として、ただ弥陀の本願にたのむという専修念仏が法然や親鸞によってとなえられた。これは日本仏教と浄土信仰の純化であったにもかかわらず、庶民は滅罪とむすんだ往生を信じ…
▽179 元興寺極楽坊は、智光曼荼羅にたいする浄土信仰に支えられて、平安末から鎌倉末期まで庶民信仰の中心としてさかえた。ところが鎌倉末期からこの寺への納骨がはじまり…
 日本の固有の信仰における死後の世界が、苦に満ちた煉獄であるという観念に支配されたもので、浄土教の極楽往生よりも、密教による滅罪が庶民をとらえた…
▽181 高野山納骨も、恐山や羽黒山の納骨も、山上の霊場におさめることに意味があり、山形の立石寺では、全山いたるところの風蝕洞窟に投げ上げられる。山形県の西村山郡、北村山郡地方には「骨掛け習俗」があり、火葬後の骨また骨をつつんだ菰を、墓側の樹に書ける。この習俗は沖縄にもあって、明治末までは洗骨した髑髏を芭蕉布に包んで、風葬地の周囲の樹に吊したという。
 このような信仰は勧進聖によって仏教化されて、造寺・造塔や維持に役立った。しかしその本質はあくまでも民族宗教に根ざしたもので、集団による多数作善にあり、、これによって死後の滅罪を、目的とするものであった。
▽188 馬頭観音 養蚕の守り神。農耕一般の守り神として、二股大根をあげて豊作を祈願する。馬の守り神。東日本に多いのは、関東に馬耕が発達していたためだろう。
▽195 すべて農民の信仰は農耕も養蚕も牧畜も、祖霊信仰につながり、この精神的基盤なしには仏教信仰も普及しなかったことを、路傍の馬頭観音は物語っている。
▽204 明治以来、多くの神社の祭神は記紀に記された高級な神格におきかえられ、その他は草祠または淫祠として合祀か、抹殺して神名すらも不明に帰したものが多い。
…抑圧されたプリミティブな祖霊的神格にたいする民衆の呪術的信仰は、終戦とともに新興宗教として爆発的流行を見た。新興宗教にタタリとかオシメシとかの託宣的要素と、祖霊供養による滅罪信仰が顕著なのはそのためだろう。

Ⅴ 聖と民俗
▽212 苦行や作善による滅罪が、霊場の巡礼や霊山の登拝となる。平安末期から三十三観音霊場巡礼とか高野詣・熊野詣がさかんになるのはそのためだ。
…六十六部回国納経 日本全国をまわって納経する。
 …中世の遊行の宗教は、造寺造塔…を名目とする勧進と、滅罪の代受苦を名目とする苦行を内容とした。神道も仏教も禅も密教もすべてをとりいれた。
▽214 念仏系の遊行聖が中世遊行者の代表格。西行と一遍と道御ら。中世寺院の造営や再興は遊行者の勧進に依存した。民衆の側も、かれらの唱導によって仏教や神道の信仰にふれることができた。
 古代信仰における遊幸神をむかえる観念が残っていて、遊行者を「大師の身代り」「阿弥陀如来の使者」などとして遇した。〓
 遊行者が活躍し得た時代が中世。ところが中世の終末とともにその観念は薄らぎ、遊行者は単なる「宿借り」「物乞い」としか考えられないようになり、近世にはいるとその姿を社会からも文学からも没してしまうのである(〓遍路文化は中世の遺物?」)
▽237 西行の世俗性・回国性・勧進性は高野聖以外の何者でもない。このころの聖は高野の西麓天野に別所をかまえて妻子などもおいたらしく…
▽250 京都最大の葬場だった鳥辺野には、空也の寺六波羅蜜寺の支配をうける三昧聖(隠坊)が住みついた。
…クグツや唱門師、山伏、盲人琵琶法師によって日本中にばらまかれた民俗芸能と郷土芸能は、いわば「世捨て文化」の名残り。
▽252 古代国家が解体して、あたらしい政治体制を生みだしてゆく平安末期の動乱は、典型的な「世捨て文化」の時代。世捨てという行為は、末法思想からくる絶望感のためだと説明されているが、私は頽廃した貴族政治へのレジスタンスであり、乱世への批判でもあったとおもう。…都やはなやかであるが農村はますます貧しく、…群盗となり一種のゲリラ戦を展開。その指揮者は「濫悪の僧」で、部下は「私度沙弥」出会った。この時代の革命勢力は聖の集団だった。〓
…かれらは一方では社寺の勧進活動を請け負い、一方では社寺境内とその所領を守護する僧兵の役割をはたした。勧進活動をするときは聖であり、僧兵活動をするときは堂衆とか行人とか客僧とよばれた。
…院政期になって、こうした大きな聖集団をかかえこんだのは高野山が早かった。…のちに高野聖集団に。
▽256 西行の出家は、勧進組織のなかに身を投ずることによって、生活を保証され、また風雅な旅を可能にした。…妻子とともにあったと信じてよい。…俗界と絶縁せぬ世捨てコソ、ほんとうの世捨てだという俗聖の思想があらわれている。西行の世捨ても貴族社会へのレジスタンス。…北面の武士としてわがままな貴族に奉仕する身は、今日の管理社会の比ではなかったであろう。
…北面の武士というものは、武家社会の武士ではなくてガードマンにすぎない
▽260 西行の芸術は「世捨て文化」の典型。貴族や官僚の管理社会から脱出して、自然界と庶民のなかにとびこむことによって達成された。だから彼の世捨ては孤独になることではなく、隠棲にも遊行にも妻子や友人をともなっていた。
▽263 円空からみれば、木はそのまま仏や神名のだから、まったく手を加えずともよかった。…円空も木喰行道も、流木そのものを仏像に彫ったのも、このような思想からであった。

Ⅵ 修験道と民俗
▽268 日本人の山岳崇拝は、自然現象としての山そのものを神とするのではなく、その山に鎮まる霊を神とする。霊魂信仰の一種。…ヨーロッパでは山に妖精が住むということは信じられているが、これを神とすることも、霊魂の集まる世界、地獄や浄土とする信仰もないということだった。…山に登って神と対話し、神秘的な宗教体験をえようという山の宗教は生まれなかった。
▽269 修験道は明治に一時廃絶した。…堂舎も境内も山林も、神社のものになってしまった。…その後の新興宗教はいずれも修験道の庶民信仰を部分的に継承したものが多い。…日本人の庶民信仰は山の宗教をはなれては成り立たない。…もう一度、山の宗教を思い起こすべき時が来ているようにおもわれる(〓内山節)
▽272 「大宝律令」の僧尼令では「焚身捨身」を禁じなければならないほど捨身が多かった。
▽275 羽黒山 秋の入峯修行はもと75日だったのを、ちかごろでは8月24日から7日間に短縮しておこなわれている。
▽290奥三河の北設楽郡内に20余か所あった花祭りも、ちかごろは10カ所前後になり、古い祭日をまもらずに正月三が日にすべてすませてしまうというありさまである。

解説
▽295 俗信として見下しがちだった善男善女の信仰。庶民側の日本仏教史
▽299 基層文化からあきらかにする道を民俗学がひらいた以上、これを日本仏教文化の研究の上に適用することは当然。その結果、従来の教理的研究や哲学的研究や歴史的研究で究明されなかった日本仏教の文化現象が解明されれば仏教学全体の前進に役立つだろうと思う。=仏教民俗学

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