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路上の映像論 うた・近代・辺境<西世賢寿>

■路上の映像論 うた・近代・辺境<西世賢寿>現代書館
 筆者はNHKの元ディレクター。近現代の時代のなかで滅びつつある、精神文化のなかに地下水脈のように流れてぉた口承文芸や語り物芸能の世界を「語り物としてのドキュメンタリー」という形にしてきた。
 「大菩薩峠」も福島原発事故も、八重山・奄美、沖縄の島唄の歴史、在日の世界……、いずれも近代という時代の辺境から生々しく発せられた人間たちの声に耳を傾けて番組をつくってきたという。

□大菩薩映像論
 「大菩薩峠 果てなき旅の物語」は番組完成までに10年以上をかけた。
 中里介山の「大菩薩峠」は全2万枚、明治43年の大逆事件の直後から、昭和16年まで30年近く新聞連載として書き継いだが未完のまま終わった。
 大逆事件など閉塞的な時代状況のなか、中里は、西洋的な知の世界からはなれ、辺境の土地にまつわる伝承や芸能、語り物や俗謡を取り入れながら、土着の世界に入りこみ、仏教思想へも傾倒していった。
 養蚕地帯で信仰の対象でもあった瞽女、小栗判官をはじめとする熊野詣をするライ病の人たち、近代国家に追いやられ、簒奪されていった民衆の想像力や「物語」の復権を介山はめざした。国家や権威や権力や、何物にもとらわれず、自由にかつ自立して、未来に向かって生きつづける姿を描いたという。

□境界の家で(福島、沖縄)
 福島の原発間近の小良浜の漁師と、沖縄から米国へ渡り、福島で原発技術者として生きた男性を描いた。男性の先祖は「学問も財産もなくてよい。家を支えるくさびのように、人のため、世間のために尽くしなさい」という言葉をのこした。そんな伝統的な倫理がいつしか消えていく。
 当初は東電の担当者も現場技術者も一体となって、原発を正常に安全に維持しようと懸命につとめてきた。だがいつしか現場力が弱まり、倫理観が薄れ、東電の隠蔽体質が強まっていったという。
 伝統的な価値や倫理を失ったことが福島の事故の背景にあることが見えてくる。

□月ぬ美しゃ
 八重山諸島の民謡は、旋律は明るく、洗練された民族音楽という。情歌や物語歌の世界には、人頭税や道切り(強制)移民、新村開拓の苦労、マラリアや津波などの災害の苦しみや悲しみが反映されているという。
 1771年の大津波で、石垣島の島民の半数近くが犠牲になると、首里王府は、波照間島から島民418人を強制移住させた。
 17世紀初頭の薩摩の琉球侵攻以降、薩摩への貢租をひねりだすため、八重山・宮古の島々だけに、15歳から50歳の男女すべてを対象とする人頭税を課した。
 さらに西表や石垣島で新村開拓をするため、付近の島から移住させる「島分け」を強制した。
 西表島の旧崎山村(廃村)は波照間島から280人が強制移住させられた。130年後の明治30年には人口72人にまで減った。
 日清戦争後、明治31年に徴兵制がしかれ、御嶽信仰から国家神道へ、若い男女の毛遊び、方言も禁止される。八重山ではサトウキビ工場や炭鉱が開発された。
 20世紀になると、東洋一の工業地帯となった大阪や、ハワイ、ペルー、ブラジルへの移民が急増した。人口の12%以上にのぼった。
 太平洋戦争末期にも、波照間の全島民1590人に西表島への強制疎開命令が出された。西表島の南風見田はマラリアの猖獗地で、大正時代に廃村になった場所だった。上陸した米兵の食糧になるからという理由で、牛馬、豚、ヤギ、鶏などの家畜を殺すよう命令し、それらは日本軍の食糧としてひそかに石垣島に運ばれた。1590人ほとんどがマラリアに感染し、488人の命が奪われた。
 戦争などあずかり知らない小さき世界、島人たちがもっとも大事にしてきたものを、踏みにじり、差別し、ことごとく奪い去ってきたのではなかったか。

□大阪・河内音頭行
 河内音頭は、村々の口説節音頭が、浪曲の節回しをとりいれて、三味線やギターが加わって、現代の語り物芸能として発展した。櫓を主催するのは、かつての農村共同体を基盤としたムラだが、芦原橋や河内松原など、解放同盟が主催する櫓もあった。ヤクザの親分衆が主催する盆踊り大会もあるため、在阪のテレビ局すら取材を敬遠してた。
 あちこちの盆踊りとちがって、河内音頭こそは本来の、数少ない、地熱を感じさせる、民衆のなかに生きた芸能だった。
 河内音頭で演じられるのは、中世以来の説経節の演目や、時事ネタを取り入れた「新聞詠み」、広島の被爆乙女を主人公にしたものも含まれた。

 新今宮駅の北側には、皮革産業の拠点として発展した都市部落、渡辺村があった。明治維新後、仕事を求める人で長町スラムが形成されたが、明治36年、新世界に開催が決まった内国勧業博覧会を契機に一掃される。行き場を喪った下層労働者、職人、芸人たちが集まったのが釜ヶ崎だった。飛田は、刑場のあった大きな墓地で、それが千日前墓地と合わせ、明治のはじめに阿倍野に移され、その跡地に大正5年に遊郭がつくられた。
 盛り場や悪所、被差別部落、寄場が隣り合う近代都市・大阪のディープサウスだった。
 新世界から飛田界隈にかけての一帯が、現代日本の盛り場で、近世的な「悪所」の面影を残す唯一最後の場所だという。

□涯ての詩聲 金時鐘と吉増剛造
 金時鐘は済州島の弾圧から逃れて密航船で脱出、猪飼野にたどりついた。
 朝鮮戦争による特需で、猪飼野にも兵器や弾薬の部品を製造する仕事が回ってくる。金時鐘さんは祖国防衛青年行動隊のメンバーとして、工場主の家を、仕事を請け負わないようにと説得し、聞き入れられないと、実力行使もした。だがその後、北の共和国の画一的・教条主義的思想からも、国内の総連組織とも訣別した。
 金時鐘は、北でも南でもなく、ましてや日本でもなく、「在日」というディアスポラな詩と生を、生きてきた。
 悲痛な思いで朝鮮語を勉強し、そうして覚えた朝鮮語を、現代日本の底辺校であえぐ若者たちに伝えようと湊川高校で教鞭を執った。「私は彼らに、朝鮮語を辱める側の日本人にはなって欲しくはなかった。出口のない彼らにこそ、真に学ぶことの意味を知ってほしかったんやね」と。

========抜粋=======
□大菩薩映像論
▽10 浅草には15館近い映画館がならんだ…最後まで残っていた、浅草中映劇場、浅草名画座も2012年その幕を閉じた。
▽「大菩薩峠 果てなき旅の物語」完成までに10年以上をかけた。
▽14 中里介山「大菩薩峠」全41巻、2万枚にしてなお未完。明治43年の大逆事件の直後から、昭和16年まで30年近くにわたって、新聞連載として書き継いでいった。
▽25 大逆事件。閉塞的な時代状況のなかで、西洋的な知の世界から、土着の世界へ、辺境を旅して、その土地にまつわる伝承や芸能、語り物や俗謡を取り入れながら、仏教思想へも深く傾倒していく。…北一輝も、宗教的信仰的領域に踏み込んでいった。
▽39 大菩薩峠 1897メートル。頂上には「妙見の社」が会って、「沈黙交易」の場所だった。武蔵川からは魚や塩、糊口州側からは米。無人の交換がされた。
▽国定忠治 語り物の源流としての瞽女唄。
▽60 瞽女たちは人々にとっての信仰の対象でもあった。養蚕地帯では、瞽女の唄を蚕に聞かせると、たくさんの繭が取れるという民間信仰もあった。
▽62 小栗判官 熊野詣の道々にはライ病の人たちが…。物語の底辺には、そうした人々への深く、限りない共感が込められている。
▽63 長岡系の最後の瞽女のひとりで、無形文化財にもなった伊平タケ。自分の唄が文字にされることを大変嫌った。
▽67 天皇制ナショナリズム 民衆たちがそのなかで生きてきた民間信仰や土俗的な宗教観を超越する「国家神道」イデオロギー。
▽84 近代国家システムに根こそぎ追いやられ、限りなく簒奪されていった民衆の想像力ーー「物語」の復権。…介山のつくりあげた人物たちは、旅をつづけ、たえず変身し、欲望し、流転して、おのれの夢を生きつづける。国家や権威や権力や、何物にもとらわれず、自由にかつ自立して、未来に向かって生きつづける。〓〓

□境界の家で(福島、沖縄)
・ 富岡町の原発間近の小良浜の漁師
・ 原発技術者の名嘉幸照さん 沖縄から米国へ渡り、福島で原発技術者として生きた。
▽115 当初は、東電の担当者も、現場の技術者も一体となって、まだ完成されていない技術を、原発を正常に安全に維持していこうと懸命につとめてきたと名嘉さんは言う。いつしか現場力が弱まり、東電の隠蔽体質葉強まっていったという。

□月ぬ美しゃ
▽125 彫刻の金城実さん 尼崎の定時制高校や天王寺の夜間中学で教える。
▽139 八重山諸島の民謡は、琉歌の影響が少なく、旋律は明るく、洗練された民族音楽であるという。…深い情感と哀感を漂わす情歌や物語歌の世界には、人頭税や道切り(強制)移民、新村開拓の苦労、マラリアや津波などの災害……苦しみや悲しみが反映されている。
▽140 1771年の大津波で、島民の半数近くが犠牲に。首里王府は、波照間島から島民418人を強制移住させ、白保のムラの再興に当たらせた。
▽146 八重山が琉球王朝の支配下になって、17世紀初頭の薩摩の琉球侵攻以降、薩摩への貢租を軽減させるため、八重山・宮古の島々に人頭税を実施する。15歳から50歳の男女すべてに、課税する過酷なもの。
 さらに西表や石垣島で新村開拓を進める。「島分け」と呼ばれ、付近の島から強制的に移住させ開墾に当たらせた。移住先は、マラリアなどが猖獗をきわめる未開地が少なくなかった。
 …人頭税は明治36年、宮古の農民たちによる撤廃運動が功を奏して廃止されるまで270年間もつづいた。
▽150 旧崎山村(西表=廃村) 波照間島から280人が強制移住させられた。明和の大津波のころには525名だった人口は130年後の明治30年には72人にまで減った。
▽154 琉球処分。旧体制からの解放とみなす人々がいる一方、親清国派の士族たちを中止に日本併合への抵抗運動があり、宮古島等で、日本の同化政策への激しい不服従運動も起きる。
…日清戦争を機に、沖縄の支配層とそれに連なる知識人たちは、自ら進んで、同化政策と忠君愛国の思想を受け入れていく。「日本人以上に日本人になりきる」ことが差別と後進性から抜け出す途だと…
 …いまだ参政権もなく、鹿児島出身の知事奈良原繁の藩閥専制、植民地主義的な政治支配のもとに置かれる。…それに闘いを挑んだのが、謝花昇だった。
▽156 日清戦争後、明治31年に徴兵制がしかれ、御嶽信仰から国家神道へ、若い男女の毛遊び、方言も禁止されるなど……
▽189 20世紀になって移民増大。東洋一の工業地帯として発展した大阪へ。ハワイ、ペルー、ブラジルへ。沖縄は全国1の移民県。人口の12%以上。
▽161 波照間島の全島民1590人に西表島への強制疎開命令。西表島の南風見田はマラリアの猖獗地で、大正時代に廃村になった場所。…上陸した米兵の食糧になるからという理由で、牛馬、豚、ヤギ、鶏などの家畜を残らず殺すよう命令を下す。それらは後に日本軍の食糧としてひそかに石垣島に運ばれたという。
…1590人ほとんどがマラリアに感染し、488人の命が奪われた。
 …戦争などあずかり知らない小さき世界、島人たちがもっとも大事にしてきたものを、踏みにじり、差別し、ことごとく奪い去ってきたのではなかったか。

□奄美・流浪の唄者 里国隆を探して
▽172 奄美大島南端に浮かぶ加計呂麻島。島尾敏雄の妻、ミホさんの故郷。「海辺の生と死」 旅芸人や行商人…が来る。
▽178 加計呂麻島呑ノ浦には、魚雷艇・震洋特攻部隊が配備され…特攻隊長は28歳の島尾敏雄だった。
…喜界島は、知覧から飛び立った特攻機の中継地点だった。
▽187 奄美大島名瀬市 里国隆ははじめて籍を入れた妻イノさんと暮らす。すでに45歳。…ベトナム戦争時はコザへ。照屋林助と会う。それを通じて竹中労と知り合い、本土でレコーディング。
▽189 コザ暴動 米兵の車が女性を死亡させ…米兵の車を焼き払い…燃え上がる車を囲んでおばあたちが、カチャーシーを踊り出し…。
▽192 名瀬市の永田橋 島唄と郷土料理の店を営む西和美さん 国隆に教えを乞い、今では島唄の第一人者。

□大阪・河内音頭行
(河内音頭の世界がこんな奥深いなんて)
▽204 釜ヶ崎。能や説経節など中世からの宗教芸能的な記憶を今に伝える四天王寺や小栗(熊野)街道、芝居町の悪所に端を発し、庶民・細民の盛り場として発展した千日前や新世界、じゃんじゃん横町や飛田新地、猪飼野…東京などではついぞ出会うことのない濃密な、ディアスポラな空気が流れていた。
…河内音頭は、村々の口説節音頭が、浪曲の節回しをとりいれて、三味線やギターが加わって、現代の語り物芸能として発展していく。…櫓を主催するのは、かつての農村共同体を基盤とした村ーー町会単位だが、芦原橋や河内松原など、解放同盟が主催する櫓もあった。
▽206 ヤクザの組の親分衆が主催する盆踊り大会も。在阪のテレビ局すら、河内音頭の世界はややこしいと敬遠していたほどだ。
▽207 戦争で焼け跡と化しようやく復興してきた昭和20年代末、最初に大々的な盆踊り大会が開かれたのが、三角公園だった。
▽208 あちこちの盆踊りとちがって、河内音頭こそは本来の、数少ない、地熱を感じさせる、民衆のなかに生きた芸能と言っていいだろう。
▽213 「河内十人斬り」明治26年の事件。犯人2人が金剛山中へと姿をくらまし、警官隊を翻弄しつづけた。…山の力に包まれて鬼神と化した…楠木正成の一党の怨念ひそむ山塊。
▽217 十人斬りのヒットは、押し寄せてくる近代文明への、民衆自身の無意識の心的作用だったのかもしれない。
▽222 金剛山中の山村。700年もの間、戦の記憶を盆踊りの場に育んできた。踊りつづける村人たちこそ、山の民の軍勢、楠木党の末裔にちがいないと想像した。
▽227 河内音頭で演じられるのは…中世以来の説経節の演目…「河内十人斬り」をはじめ時事ネタを取り入れた「新聞詠み」…広島の被爆乙女を主人公にした「サチコ」…
▽238 …「俊徳丸」の説話の究極の舞台は、アジールとしての寺社、四天王寺であった。…古くから貴賤を問わず民衆たちの篤い信仰を集めてきた。西門は西方浄土の入口として衆生の崇敬を集め続けた。…四天王寺の南門は、熊野へとつづく熊野街道への起点となっていて、説経節の俊徳丸は、この道を人々に手を引かれ、…南門へとたどり着いたのである。
▽243 俊徳丸の苦難の姿。人々のライ病患者に対する無知や偏見、差別が色濃く表れているのは否めない。
…患者たちは、…近世以降まで、その偏見のゆえに、生まれ在所を追い払われ、神仏にすがり、人々の功徳をたよって流浪の人生を送るほかに生きる術はなかった。…戦後になっても1953年に患者の隔離を定めた「らい予防法」が制定され…
▽246 大正5年に新設された飛田遊郭。
 新今宮駅の北側には、皮革産業の拠点として発展した都市部落、渡辺村ーー西浜があった。明治維新後、仕事を求める人で長町スラムが形成されたが、明治36年、新世界に開催が決まった内国勧業博覧会を契機に一掃されていく。行き場を喪った下層の労働者、職人、芸人たちが集まったのが釜ヶ崎地区だった。…飛田も、近世には刑場のあった大きな墓地で、それが千日前墓地と合わせ、明治のはじめに阿倍野に移され、その跡地に、難波新地などにかわって新たな遊郭がつくられた。…盛り場や悪所、被差別部落、寄場が隣り合って形作られてきた、まさしく近代都市・大阪のディープサウスであり、辺界であった。
▽247 かつて芸人村だった「てんのじ村」の石碑。飛田の商店街から入った路地奥には三味線をかたどった「猫塚」。(沖浦和光さんの案内)
…新世界から飛田界隈にかけての一帯が、現代日本の盛り場で、近世的な「悪所」の面影を残す唯一最後の場所であろうと…
▽248 冥界と俗界、あの世とこの世の境界の盆踊りの場で河内音頭は唄われてきた。
▽254 本田哲郎神父 1942年台湾生まれ。古い二畳間のアパートに寝起き。
▽256 「大菩薩峠」の世界、福島原発事故、八重山・奄美、沖縄の島唄の歴史ーー、いずれも皆、中央ではなく周縁、近代という時代の辺境から生々しく発せられた人間たちの聲に通い合っている。そのかそけき声に耳を傾けるとき、私たちが自明のものとして暮らしてきた、近代のナショナリズムや国民国家的な幻想が、もっと自由でアナーキーな成道と共に、見つめ直されていくだろう。〓〓
□涯ての詩聲 金時鐘と吉増剛造
▽267 済州島の弾圧から逃れて密航船で脱出、猪飼野へ
▽吉田茂は朝鮮戦争を日本の復興のための「天佑」であると言い、日本中が朝鮮特需に沸き返っていた。猪飼野にも兵器や弾薬の部品を製造する仕事が回ってくる。金時鐘さんは祖国防衛青年行動隊のメンバーとして、工場主の家を、仕事を請け負わないようにと説得にまわる。…聞き入れてもらえないと、実力行使に出た。…
▽276 済州島の4.3事件 それ以後、済州島は共産暴動の島とされ、島民たちへの徹底した弾圧。…戦闘部隊のみならず、島民・農民たちへの無差別の大虐殺がつづいた。翌1949年の前半までに3万人以上の島民たちが犠牲に。
▽282 逮捕された島人たちが、4,5人ずつ針金で手首をくくられ数珠つなぎにされ、海に投げ捨てられる……
▽286 金時鐘は、北でも南でもなく、ましてや日本でもなく、あえてそうした「流民の記憶」…の地平に立って、したたかに強靭に「在日」というディアスポラな詩と生を、生きていくのである。そもそも「在日を生きる」という言葉自体、時鐘さんがつくりあげ、血肉化したものだった。
▽297 作家の中上健次らとも交流。ひとりの自由な越境者でありつづけること、それは、被差別部落や奄美・沖縄からの移住者など、日本社会の片隅で生きる人びとへの共感あふれるまなざしともつながっていく。
 …湊川高校で朝鮮語の教師。
 …悲痛な思いで朝鮮語を勉強して、そうして習い覚えた自分の朝鮮語を、もし分け与えるものがいるとすれば、現代日本の底辺校であえぐ若者たちしかいないと思った。
▽301 朴正熙も全斗煥も旧日本軍閥の人脈につらなる親日派ーー民族反逆者だった。…光州事件では民間人160人以上が犠牲になる…事件の首謀者とされ絞首刑となった5人の若者たちのため、一篇の詩を書き上げる。
▽304 猪飼野という地名も1973年に消えてしまった。
▽317 福生市の隣駅、羽村のそばに残る五ノ神の「まいまいず井戸」。カタツムリの渦巻きのようにらせん状に砂地を掘り下げていった、その底に泉が湧く小さな井戸が掘られている。〓
 南島の「降り井」やアイヌの聖地であるアフンルパルの穴。アフンルパル戸は、海岸または河岸の洞窟。そこを通ってあの世から死者の幽霊が出てきたり……。
▽324 島尾ミホの「海辺の生と死」〓
▽327

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