◾️晃洋書房20200705
お遍路の記録をまとめる上で参考にできないかと思って手にとった。
江戸時代、お蔭参りがはやったとき、庶民の6人に1人が伊勢を参った。当時の旅は伊勢神宮を参るだけではない。西国33ヵ所をまわったり、四国の金比羅さんを訪ねたり、富士に登ったりした。延長2000キロ超の大徒歩旅行だった。ただし、金比羅さんに行っても遍路道までは歩かなかったようだ。
驚くべきはその歩行距離だ。
東北地方の庶民による1日平均の歩行距離は、男性34.9キロ、女性28.6キロ。多い日は1日60~70キロにも歩いた。最も長い距離を歩いた庶民男性は1日75キロ。女性は59.7キロという。
同行者間の取り決め文書によると、日々の歩行距離は10里(39キロ)を目安とし、それが12里(46.8キロ)ないしは13里(50.7キロ)に及びそうな場合は、同行者間での相談が必須だと記されている。旅人にとって無理のない歩行距離の上限は50キロ程度だった。
僕が遍路道を歩いた経験では1日30キロまでは普通に歩けるが、40キロに近づくとヘロヘロになる。45キロは無理だった。50キロを普通に歩くというのは現代ではアスリートレベルだ。
なぜそんなに歩けるのか。
まず歩き方が今とは異なるという。かつての日本人は、右手と右足、左手と左足が同時に出るような「ナンバ」という歩き方だった。
外国人の記録をひもとくと、日本人の歩行は、つま先歩行、前傾姿勢、小股・内股という特徴があった。かかとのない履物だから、つま先から着地し、つま先で地面を蹴るようにして歩いた。前傾姿勢によって体重を推進力に生かしたのだろう。
飛脚は、足を後ろへ高く上げ、手を横に振り、ナンバ(半身)の姿勢で走った。駕籠かきも、両足を交互に前に出すのではなく、常に一方の足を前方、もう一方の足を後方に置くことで、半身姿勢を維持した。籠の揺れを最小限にするとともに、肉体的負担も軽減できた。「半身姿勢を保ったまま、片方の足で身体を推し進め、反対の足でバランスを取るような動き」という。
そういう身体技法が興味深かった。できれば、そういう身体技法をどうやって身につけられるのか示して欲しかった。
そのほか、わらじの交換の頻度とその値段、杖の使い方、宿の値段など、当時の旅の様子を具体的に明らかにしている。貨幣経済の浸透で物々交換の必要がなくなったことが、旅の荷物の軽減につながったという指摘も納得できた。
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▽文政13年のお蔭参りは日本人の庶民の6人に1人が伊勢参宮をした。
▽7 お伊勢参りといっても……近畿周回型、四国延長型(金比羅だけ)、富士登山セット型がある。
▽11 1里=36町=3.9キロ、1町=60間=109メートル
東北地方の庶民による1日平均の歩行距離は34.1キロ。男性は34.9キロ、女性は28.6キロ。総歩行距離は2000キロを優に上回る。
▽18 多い日は60〜70キロに達していた。最も長い距離を歩いた庶民男性は1日75キロ。女性は59.7キロ。(定説は1日10里だった)
同行者間の取り決め。日々の道中の歩行距離は10里(39キロ)を目安とし、それが12里(46.8キロ)ないしは13里(50.7キロ)に及びそうな場合は、同行者間での相談が必須だと記されている。
旅人にとっての無理のない歩行距離の上限とは、50キロ程度のところに求めることができるでしょう。
▽23 出生時平均余命 17世紀には20代後半から30代前半、18世紀には30代半ば、19世紀になっても30代後半。乳幼児死亡率が高かったから、平均余命は、5歳程度を過ぎれば50代に到達。
▽35 宿の出立は4〜7時、到着は16〜18時。1日に歩いた時間は平均10時間程度。
▽44 かつての日本人は「ナンバ」の姿勢で歩いた。右手と右足、左手と左足が同時に出るような歩き方。
演劇評論家の武智鉄二は、手を振らない半身のナンバの歩行を農耕生産における半身の姿勢と結びつけて理解しました。「農民は本来手を振らない。手を振ること自体無駄なエネルギーのロスであるし、また手を振って反動を利用する必要が、農耕生産にはない」武智は、日本古来の歩行が今日的な歩行へと変化した直接的な要因を、明治期に義務教育で採用された兵式体操に求めた。
▽47 日本古来の歩行がナンバだったと断定することはできませんが、近代以前の日本人の歩行が今日の私たちとは異質だったという考え方は、どの識者にも共通しているといえそうです。
▽49 西洋人が気づいた日本人の歩行の特徴。足を引きずること、歩行の際に音が生じること、つま先歩行、前傾姿勢、小股・内股。女性の歩行を「すり足で歩き……」
爪先歩行。「足の半分の履物」=足半 足の指とかかとは完全に台座からはみ出し……。「かかとのない履物の存在は、つま先で地面を蹴るようにして歩く日本人の歩行容態をよく反映している」(野村雅一)
「誰も皆、足のつま先で歩く。その足を踏み出す時には、かならずつま先から先につく。」
前傾姿勢。「まっすぐな姿勢で歩いたり、あるいは立ったりするのを一度も見かけなかった。かならず体を半ば前にかがめて……」
▽63 西洋人の歩行は、鼻緒を足先にかけて進むような日本人の歩行とは異質だった。かかとが固定されていない日本の草履が、歩きにくい履物だった。
▽66 長距離を歩くために裾の部分をまくり上げ、股引を着用するといった工夫がなされた。…草鞋は、台座に足がしっかり固定されたものでした。
▽77 柳田國男「坊の歴史」 川田順造「運ぶヒトの人類学」
日本の旅人は、一本の棒を杖にしたり、物を引っ掛けて運んだり、休息用の便利グッズにしたりと、巧みに使いこなしてきた歴史を持ちます。棒をめぐる多様な身体技法を習得していたのです。
▽79 男性の杖の携行率は高くても3割程度。男性の旅人にとって、杖は長距離の歩行をサポートする道具としてほとんど機能していなかったのかも。
女性の携行率は明らかに高い。ファッションだったのかも。
▽82 平安末期から室町中期 頭上運搬が20%、肩運搬が40%、背負い運搬が40%。江戸後期にかけては、頭上が20%、肩が55%、背負いが25%。肩運搬が高まった。①棒の片方に荷をつけて1人で担ぐ。②棒の中央に重い荷を荷つけて前後2人で担ぐ。③棒の両端に重い荷をつけて1人で担ぐ。
▽84 飛脚 「足を後ろへ高く上げ、手を横に振り、ナンバ(半身)の姿勢のままで走る」
「片踏み」「半身姿勢を保ったまま、片方の足で身体を推し進め、反対の足でバランスを取るような感じの動き」
▽86 駕籠かき 「両足を交互に前に出すのではなく、常に一方の足を前方、もう一方の足を後方に置くことで、半身姿勢を維持していく……。籠の揺れを最小限にでき、駕籠かきの肉体的負担が軽減される」
▽92「西洋風」の身体技法では天秤棒の重みに耐えられませんが、半身姿勢のまま前方の腰を軸にして進むことでバランスのとれた運搬ができるのだそうです。
……3つとも、半身姿勢を維持した片踏の身体技法が運搬時の疲労軽減の役割も果たしていた。
▽95 杖を用いた休息の身体技法。……杖をつきたてた棒の上に荷物を乗せる格好で、休憩する。
▽106 旅人の大半は草鞋を着用。……街道のいたるところで草鞋を買えた。
▽114 草鞋の購入間隔は平均40〜50キロ。水分に弱いから雨天時は短い。
▽121 金1両=銀75匁=銭6300文。賃金ベースで換算した現代感覚、コメの値段で換算した現代価値(前者が後者の約6倍)
江戸庶民の日収は400〜500文。支出額を差し引いて手元に残るのは100文程度。
江戸近郊の世田谷地域で、1826年時点で日雇いで得られる額は、男性でわずか124文程度。農村の人の収入は、都市住人と比べるとかなり低額だった。
▽129 大坂〜丸亀の金比羅船 船中3泊して1300文。
▽131 旅の遊興として男性が心待ちにしていたのは、遊女と酒宴を催したり一夜を共にする行為だったといわれています。
▽132 伊勢参宮覚 庶民の旅費は1日につき平均430文。江戸の商人や職人の日収に届く金額で、近郊の農民の日雇い賃の3倍以上。…短くて数週間、時には数カ月におよぶ旅費を中下層の庶民が個人負担で準備するのはほぼ不可能。
▽145 一里塚。1604年以降、交通制度として整えられた。道標(石標)は1町(109メートル)ごと。街道には「並木」を植栽。
▽148 村では便所は道路に向けて建てられている………近隣農家にとっては、肥料を回収できる。
▽151 元禄期ごろから農村にも貨幣が流通。物々交換から解放され、身軽に。近世の旅人は、金・銀貨を利用したが、必要に応じて宿場などで両替しながら旅をした。
▽153 荷物の運搬システムも。
▽157 街道の道幅 人馬が行き交うことができる2間(3.6メートル)以上の幅が必要。それより狭いところは拡張した。
▽159 近世の街道には、すれ違う際に「左側通行」の慣習があった。武士が左腰に帯刀していたから。
▽165 旅行文化に変革をおよぼしたポイントは、1889年の東海道線の全線開通と言われています。男性が2週間以上かけて歩いた東京〜神戸をたった1日で結ぶ。
▽197 これだけの歩行能力を持った近世の旅人は、現代人から見れば「アスリート」です。
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