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死の民俗学 日本人の死生観と葬送儀礼<山折哲雄>

■岩波現代文庫20200627
Ⅰ 死と民俗 遺骨崇拝の源流
 インドは火葬するが骨は川に流す。アメリカ人は遺体をきれいに整えて本土に送るなど、肉体的側面を重視する。エジプトのミイラ文化につながる。それに対して日本は、遺骨を尊重する。
 だが万葉集を見ると遺骨を崇拝するという観念がまったく見られない。
 弥生時代から古墳時代前期にかけては「殯」という葬法が用いられた。首長を葬送する場合におこなわれたのが他にも広まった。遺体を何カ月も何年も安置し、腐敗し、骨になるのを待つ。
 仏教によって火葬が広まると、殯を前提とした古墳にかわって火葬墓が増えていった。同時に土葬風習が根強く継承されていた。
 平安時代は、藤原氏の墓地の木幡でも骨は鴨川の流水に投棄された。死屍を遺棄して顧みないのが普通だった。遺骨尊重に変わるのは11,2世紀ごろだ。その傾向を象徴的に示すのが高野山への納骨という現代までつづく風習の定着だった。この風習は、貴族によって先鞭をつけられたが、高野聖によって庶民の間に広まった。「納骨」を生み出す背景には浄土教の流行と来世信仰の浸透があるという。
 火葬は仏教とともにインドから伝えられたが、インドでは骨は流される。日本では殯の伝統があったから、二次葬の形で葬る納骨という風習が残された。

Ⅱ 神話に現れた世界像
 スクナビコナノカミや浦島子のニライカナイや常世国には陰惨な死のイメージはない。
 その視点が失われ、「芦原中つ国」に生きる人びとの視点が確立したとき、「中つ国」の周縁に広がる世界は死の穢れや恐れのイメージに彩られた。スクナビコナノカミや浦島子が生きていた世界は陰惨な過去に釘付けされ、観念上の黄泉の国が誕生した。こうして、記紀神話の基本構造をなす高天原ー芦原中つ国ー黄泉国の三層の世界が成立した。これを水平的な視点で把握し直すと、伊勢ー大和ー出雲という地上的な軸が形成された。
「世界」を現世に局限し、あの世とのつながりが喪失することで、死の観念が鋭く意識され、ユートピアとしての常世国がネクロポリスとしての黄泉国に変貌していった。
 ギリシャの古代都市は中心部のアクロポリスと埋葬地である市外のネクロポリスに区分された。両者を切断するのは「城壁」だった。エジプト王国ではナイルの「大河」だった。
 奈良盆地の古墳は、周辺の丘陵地帯に展開している。ネクロポリスが盆地を円周状に取り囲んでいた。
 古事記の最初の神々が姿を消すときは「隠れ」た。神は永遠に死なずただ隠れるのみだった。イザナミだけ例外だった。
 天孫3代は、その天降りを通して、神から人間に切り替わり、死によって姿を消すようになった。
 天皇を埋葬する領域が「山」や「丘」や「坂の上」から「野」や「原」へと移動する。その転調は11代垂神天皇やヤマトタケルの死に見られる。その後の王権は、ネクロポリスの拠点を河内の「野」や「原」に建設するようになった。
 生死の領域が山塊にとりまかれた世界のなかで共存していた関係が、野や原という新しい異界イメージの導入によって、互いに引き裂かれた関係へと転じた。
 古代的なネクロポリスの構造が、大和から河内への開口部の出現で崩れはじめたとき、世界像そのものが大きな変化し、その変化は仏教の導入によってさらに加速した。

Ⅲ 大嘗祭と王位継承
 天皇制の長さの秘密は霊の原理にもとづく継承方式だという。
 新嘗祭は、古くから農民の間で行われていた風習が、7世紀の天武・持統のころに宮廷にとりいれられた。秋から冬にかけて天皇の生命力が衰弱するため、本来の姿にもどすという性格だった。それが代替わりの時に大嘗祭と称された。
 収穫祭の終わった時期の新嘗祭が神道による冬の祭りだとすれば、空海によって導入された正月の後七日御修法は密教方式にもとづく春の祭りだった。新嘗祭と御修法は、天皇の生命の永続性を内と外から強化する相補的な儀礼体系を形成していた。
 天武天皇以降1200年にわたって天皇の葬儀には仏教が関与していた。それが破られたのが明治天皇の時だった。遺体は真夏の盛りに1カ月半ものあいだ殯宮に置かれた。仏教僧はまったく関与しなかった。父親の孝明天皇は、仏教僧による入棺、埋葬だった。

Ⅳ 浄穢の中の王権
 天武の死から持統の即位までは4年かかった。前半の2年2カ月間、天武の遺体がそのまま宮殿に安置されていた。
 屍体が「骨」だけの状態にならなければ、死者の「霊」が他界におもむくことができないと考えられ、新しい君主が誕生するには、殯の儀礼をへて新しい時間が回復される必要があった。
 持統までは、「都」と「王権」の運命が表裏一体とされ、天皇一代ごとに宮を変えるならわしだった。それが、藤原宮遷都を契機に廃絶された。
 持統は埋葬の前に火葬にされた。遺体にたいする「火」による浄めという観念が浮上してきた。
 平城京への遷都と同時に、譲位による王位の継承が恒常化した。死を媒介とする王位継承を回避するためだった。
 天武の殯は2年2カ月、持統は1年、文武は5カ月、元明は1週間だ。殯期間の短縮は、死の穢れを早期に終結させるためだ。穢れを浄めるイデオロギー装置として仏教が再認識された。
 火葬の導入によって、一代一宮制が崩れ、仏教イデオロギーが王宮の儀礼と観念のうちに急速に浸透した。王権の継承場面からの死穢の排除という課題が追求された。
 遺体の腐敗を媒介とした死と再生という観念は、ダイナミックで循環する時間意識を培養していた。それが律令制以後の「直線的時間」へ変化した。同時に穢れとの共生から穢れからの分離の段階へ移った。

 仏教は屍体の腐敗にたいするタブーの意識を植えつけた。仏教で大事なのは遺体の穢れから解放された「霊」の存在だった。

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▽2 (イギリスの歴史家)壺に「死者の灰」をうやうやしく保存する日本人は、屍体を切り刻んだり、猛禽の処理にゆだねたり…する異文化の人々と同じ平面で眺められている。

Ⅰ 死と民俗 遺骨崇拝の源流
▽22 戦死者の遺骨を「英霊」とし…社会的に追悼する行事が定着し始めるのは、日中戦争の開始と同時だった。
…各地の招魂社は昭和14年4月からは護国神社とあらためると共に、1府県1社ときめられ…
▽25 万葉集には遺骨に対する尊重や崇拝の観念がまったく欠如している。
▽26 インド 骨灰をガンジス川に流す。骨灰の水との融合が魂の天上への再生を約束するのであって、骨灰自体の価値はほとんど問題にされていない。問題にされるのは火の浄化力と水の浄化力出会って、骨の神聖性は意識されていない。
▽27 アメリカ人 米兵の遺体をきれいに縫合して化粧を施し、本土に送って遺族と対面させた。遺体の肉体的側面に重大な関心を占める。エジプトのミイラ文化に通い合うともいえる。
▽30 柳田国男「先祖の話」 人は死んでも霊はこの国のなかにとどまっている 顕幽2界の交流が繁く、いつでも招き招かれる いまわのきわの念願は必ず死後には達成されると信じられていた 人は生まれかわって、同じ事業をつづけると信じられていたこと。日本人の霊魂観の4つの特質。
▽41 弥生時代後期から古墳時代前期に整えられた葬法に「殯」がある。はじめ首長を葬送する場合に行われ、やがてそれ以外にも広まったが、古墳時代の終焉とともに衰えた。
▽46 仏教の流入と同時に、殯を前提にした古墳にかわって火葬墓の数がしだいに増大していった。(火葬はそれ以前からあったが)
 …火葬がしだいに浸透しても、同時に土葬風習が根強く継承されていった。
▽50 遺骨軽視から遺骨尊重へ。11,2世紀ごろ。高野山への火葬骨を納める風習がしだいに一般化するようになった。
 藤原氏の墓地の木幡。骨は鴨川の流水に投棄していた。
 道長の前後の時代になって、しだいに遺骨尊重の観念が高まった。
 …ほぼ11世紀を境に貴族の葬制の変化のきざし=遺骨の尊重=がみえだした…。
 遺骨尊重の傾向を象徴的に示すものが高野山への納骨という風習の定着と言える〓。初期の例は12世紀中頃。故人の遺髪を高野山に納める風習もあり、その分布も全国にまたがる。
 高野山への納髪・納骨の風習は、貴族によって先鞭をつけられたが、高野聖によって庶民の間に急速に広まっていった。
▽54 遺骨の尊重の観念をすすめるうえで大きな役割を果たしたのが、浄土教の普及と来世信仰の流布。
▽56 平安時代のネガティブな無常観としての「死穢過敏症」か荒、鎌倉時代のポジティブな無常観としての「白骨崇拝」への転換。
▽57 平安時代、貴族だけでなく、一般の庶民も風葬ののちに、死屍を遺棄して顧みないというのが普通だった。
「納骨」を新たに生み出す理由のひとつとして、浄土教の流行と来世信仰の浸透。
▽60「納骨」 殯の葬法が表面だけ仏教化したもの。火葬は仏教とともにインドから伝えられたといわれるが、インドでは骨は流されて納骨はされない。殯の伝統があったから、二次葬の形で葬る風習を残した。
▽63 本土における両墓制的な慣習は、墓の場所をかならずしも埋葬地の1カ所に限定せず、遊離した霊魂をまつる霊地を墓としている。納骨における霊移しの考え方も同様。 五来

▽68「立川流」の髑髏崇拝。
 チベットでは、風葬にされた後の頭蓋骨を酒杯に加工したり、手や足の骨で呪具や笛を作る。
▽75 西欧中世の「死骸趣味」 
「人骨によって人造巌窟風に飾られた墓地」ローマのカプチン教会(別名骸骨寺)の墓地、サンタ・マリア・ドゥラ・モルテやパレルモの地下墓地などはそういうまがまがしい光景が見られる。要所要所が、遺骨や小骨をもって造られている。
 聖遺物への崇拝は、死骸にたいする信仰だった。
▽86 15世紀の一休「骸骨」、蓮如も。
 納骨信仰の発生とならんで、骨に関する禁欲的な美学が追求されることになったことは、偶然の符合ではないだろう。
▽88 11、12世紀における納骨信仰の形成。死の問題を「霊と肉」の二元構図ではなく、「霊と肉と骨」という三元的な立体構成のなかで考察することが必要では。
Ⅱ 神話に現れた世界像
▽110 スクナビコナノカミや浦島のニライカナイや常世国のイメージには陰惨な死の観念がない。
 その視点が失われ、「芦原中つ国」に生きる人びとの視点が確立したとき、「中つ国」の周縁に広がる世界はにわかに死の穢れや恐れのイメージによって彩られはじめた。この視点の逆転が、現世と他界の境界にくさびを打ちこみ、スクナビコナノカミや浦島子が生きていた世界を陰惨な過去の領域に釘付けするようになった。観念上の黄泉の国が誕生した。
 それによって、記紀神話の基本構造をなす高天原ー芦原中つ国ー黄泉国の三層の世界が成立することになった。
 これを水平的な視点で把握し直すと、伊勢ー大和ー出雲という地上的な宇宙軸が形成された。
▽112 古代出雲では中心部から見て周縁にあたる地域の地下をヨムツクニ、ヨミと考えていたのではないか。
▽115 「世界」を現世に局限することで、死の観念が鋭く意識されるようになる。…ユートピアとしての常世国がネクロポリスとしての黄泉国へと変貌していく。
(つながり喪失→死が暗く)
▽116 ギリシャの古代都市は中心部のアクロポリスと埋葬地である市域の外側のネクロポリスに区分された。死者の国と生者の国を切断するのは「城壁」だった。
 エジプト王国ではナイルの「大河」だった。
 大和平野・奈良盆地の古墳は、周辺の丘陵地帯に展開している。平野・盆地を円周状に取り囲む「ネクロポリス」。山の稜線が境界線。
…その後、古墳が奈良盆地の外に進出するようになると、そうではなくなるが。
▽125 古事記の最初の神々が姿を消すときは「隠身」という形式。神は永遠に死なずただ隠れるのみ
 イザナミだけ例外。古事記では「出雲国と伯耆国との境の比婆という山」に葬られた。日本書紀では紀伊国の熊野の有馬村に葬られた。
▽132 天孫3代は、その天降りの行為を通して、神から人間への切り替えを実現する。「隠身」から「埋葬」へ。陵墓への埋葬という段階を減ることで、神々は死を迎えることになった。
▽136 天皇の遺体を埋葬する領域が「山」や「丘」や「坂の上」の領域から「野」や「原」へと移動する。その転調の兆を告げるのが11代垂神天皇の場合。第2の兆がヤマトタケル。伊勢国の「能褒野」で葬られ、大和の「琴弾原」、河内の「旧市邑」にも陵がつくられる。…その後の王権は、ネクロポリスの拠点を河内の「野」や「原」に建設するようになる。
▽139 天皇の「死」の領域が「大和」から「河内」へと転換。…生死の領域が山塊にとりまかれた世界のなかで共存していた関係が、野や原という新しい異界イメージの導入によって、互いに引き裂かれた関係へと転じた。死の領域が不可逆的なものとなり…。
▽146 古代的なネクロポリスの構造が、大和から河内への開口部の出現によって崩れはじめたとき、世界像そのものにも大きな変化が生じることに。その変化は仏教の導入によってさらに加速する。
Ⅲ 大嘗祭と王位継承
▽154 ド・ゴールは神扱い。引退後、隠遁先のコロンベという田舎に巡礼のように訪れるようになる。死後もその墓二、年間100万人の巡礼者がくるようになる。病気になった時に快癒を祈る人々の流れができあがる。政治的なパワーと宗教的な聖性が結合していた。
▽158 天皇制の長さ 霊の原理にもとづく継承方式。
▽160 新嘗祭の伝承は、古い時代から農民の間で行われていた。やがて宮廷にとりいれられ、宮廷祭祀のなかで洗練される。その時期はほぼ7世紀の天武、持統のころではないか。
▽177 後七日御宗法 空海の働きかけで。天皇のために加持祈祷をするシステム。
▽180 新嘗祭 秋から冬にかけて天皇の生命力が衰弱していくので、それを賦活して本来の姿にもどすというのが新嘗祭のそもそもの性格だった。
 それが天皇の代替わりの時に大嘗祭と称された。
 収穫祭の終わった時期の新嘗祭が神道方式による冬の祭りだとすれば、正月の御修法は密教方式にもとづく春の祭りという性格だった。新嘗祭と御修法は、天皇の生命の永続性を内外の両面から強化する相補的な儀礼体系を形成していた。
 御修法は、明治4年に停止せしめられた。その後の再興の運動によって明治16年から東寺の灌頂院で復活した。
▽162 天武天皇の時代以降1200年にわたって天皇の葬儀には仏教が深く関与していた。それが破られたのが明治天皇の葬儀。遺体は真夏の盛りに1カ月半ものあいだ殯宮に置かれていた。この間、仏教僧がまったく関与しなかった。
 孝明天皇の葬儀では、仏教僧による入棺、埋葬だった。泉涌寺。承久の乱のあとに死んだ天皇の埋葬を幕府をはばかって他の寺がはばかるなか、泉涌寺が受け入れた。それ以後、公室の正式の菩提所となり「御寺」と呼ばれるようになった。
▽185 平安時代以来、天皇の遺体も火葬だった。1654年の後光明天皇の時以来、土葬方式にあらためられた。
Ⅳ 浄穢の中の王権
▽202 天武の死から持統の即位まで4年の歳月が流れた。その空白期間の前半の2年2カ月間、天武の遺体がそのまま宮殿に安置されていた。
▽205 持統までの天皇の各世代は、一代ごとに宮を変えるのがならわしだった。「都」と「王権」の運命が表裏一体とされた。それが、持統の藤原宮遷都を契機に廃絶された。
 持統の殯は1年だった。だが埋葬の前に火葬にされた。…遺体にたいする「火」による浄めという観念が浮上してきている。
▽213 平城京への遷都と同時に、譲位を契機とする王位の継承が、恒常化しつつあった。死を媒介とする王位継承を回避しようとする意識があるように思われる。
▽215 天武の殯は2年2カ月、持統は1年、文武は5カ月、元明は1週間。
 殯期間の短縮は、死の穢れを早期に終結させるため。…火葬も…死によって生ずる一切の穢れを往生の内部から駆除するイデオロギー装置として仏教の儀礼が再認識された。
▽220 殯の短縮が伝統的な死の観念からの解放をもたらす一方、恒常的な都の建設が仏教の儀礼装置を導入することによって穢れの排除機構をつくりだした。
▽222 屍体が「骨」だけの状態にならなければ、死者の「霊」が他界におもむくことができないとする観念は、多くの文化圏で知られる。新しい君主が誕生するには、殯の儀礼をへて新しい時間が回復される必要があった。
▽223 火葬の導入によって、一代一宮制が崩れ、仏教イデオロギーが王宮の儀礼と観念のうちに急速に浸透していった。王権の継承場面からの死穢の排除という課題が追求された。
…天皇位の「一系制」という直線的な時間意識。律令国家の諸制度を内面的に律する時間感覚。
 腐敗を媒介とした死と再生という観念は、ダイナミックで循環する時間意識を培養したのではないか。「循環する時間」から律令制以後の「直線的時間」へ。穢れとの共生の段階から穢れからの分離の段階へ。
▽224 仏教は屍体の腐敗にたいするタブーの意識を植えつけた。仏教儀式は「屍体」とは関係なくおこなわれた。大事なのは遺体の穢れから解放された「霊」の存在であり…
▽226 死穢のゆるやかな推移のなかでの即位・大嘗祭から、浄穢のラディカルな分離のなかでの即位・大嘗祭への転換。
▽231 インドと中国における「東洋的専制」という軸にたいして、チベットと日本における霊魂の転生にもとづく「神権制」の軸という対立の構図。
Ⅴ 二つの肉体
▽242 ダライラマ13世が世を去ったのは1933年、その2年後に14世になる子が生まれた。14世が正式に誕生するのはさらに5年たった1940年。

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