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西国巡礼の寺<五来重>

角川ソフィア文庫 20200619

 五来の四国遍路についての本を読んで、西国巡礼も読んでみることにした。
「宗教文化」は変化するが信仰の原点は日本でも欧州でも同じであり、信仰のもっとも素朴なかたちとして巡礼が起きる。「世界中どこでも、歩くこと、めぐることという二つの信仰が巡礼を生み出しました。…体を使った信仰でなければ実際に身につく信仰になりません」と言い、「めぐる」という宗教の原点が残る寺を五来は評価する。
 たとえば京都市上京区の釘抜地蔵は年中まわっている人がおり、お年寄りが休む場所として、お茶堂を開放している。石切さんのこともきっと評価するはずだ。
 三十三ヶ所巡礼は十一面観音の信仰からはじまるらしい。三十三ヶ所のうち、十一面観音は7体(うち清水寺は千手十一面観音)。十一面観音は山と関わりが強く、千手観音は水と関係が深い。
 行場では神社と寺が一緒になっており、信仰の主体はお宮で、宗教儀礼で社殿に入れるのは神主だけだった。高野山でも坊さんは拝殿までしか入れない。弘法大師が永遠に生きているとされるのは弘法大師が山の神と一体化したから。どこの寺でも奥の院は山の神様をまつっていた。仏教が入る前に別の信仰があり、それが奥の院という形で残った。
 霊場の位置が厳しい山のなかから中腹に下り、麓に下がるにつれて宗教の本質を失い、教理中心の仏教は体で信仰するということがなくなってしまった。
 お寺や習俗の原点がどこにあるのかを追求するのがおもしろい。
 五重の塔の起源は、石を積んで菩提を弔う積石信仰にあり、それを盲人が担っていた。最初は山科の四宮でやっていたのが、後に鴨川になる。鎌倉時代中頃に、生仏が「平家物語」に節をつけて歌うところから平家琵琶が生まれた。壺坂寺が盲人救済するのは、仏教そのものが昔から寺に盲人を保護していたからだと考えられるという。
 石山寺のように岩盤の上に本尊を安置するのは、山中での修行で石の上に本尊や厨子をおいておつとめをした名残りらしい。なかには仏像の首だけを持ち歩いた山伏もいた。下諏訪の神社の隣の、大きな自然石の上に仏像の頭が乗った「万治の石仏」を岡本太郎は「世界でいちばん不思議な仏像」と言ったが、それは自然石の上に仏像の首だけを載せたものだという。
 京都の松原橋から清水寺に上がっていく元の五条通りは、昔は亡くなった人を車に乗せて鳥辺野の葬場へ運ぶ道だった。葬送をする人たちの上前をはねていたのが、生者の世界と死者の世界の境目にある六波羅蜜寺や珍皇寺だった。
 33カ所のうち、六角堂と革堂、穴太寺、六波羅蜜寺、葛井寺、興福寺南円堂などは平地にある。本来は修行の場だから町中にあるのはおかしい。革堂や六角堂はマリア信仰と同様、水の信仰のために霊場化した。「へそ石」あたりに出る水の周辺に人が住みだしたから「へそ石」が京都の中心とされるようになったと考えられるという。
 親鸞は六角堂で夢のお告げを見る。八角円堂や六角円堂は、この世のものではない死の空間であり、そこに入って出てくることは「擬死再生」の意味があったという。
 明治までは死者を他の地へ運んで葬る習慣があった。滋賀県高島町の阿弥陀山には湖東の人々が葬られた。その以前の水葬の名残が竹生島の信仰だと筆者は推測する。
 熊野に古墳がひとつもないのは、死体を海に流したり沈めたり、海岸に置いて風葬にするという習慣があったからだが、竹生島もそうだった。漁網にかからないように、島周辺のいちばん深いところに沈められたと考えられるという。

【要訪問】
・葛城山の行場は、一の宿の友が島から28の宿の亀の瀬(柏原)まで26の行場があり、どこを掘っても経筒が出てくる。
・那智の妙法山。納骨の場所であると同時に、女人が登れるので、「女人高野」。現在でも和歌山県から三重県の海岸よりの人はみなここに納骨する。
・東大寺の二月堂と三月堂。三月堂の不空羂索観音。圧倒される乾湿の大きな仏像。
・比良明神も白鬚明神も強力な修験のいたところ。現在でも回峰行。
・即成院 那須与一の塔 平安時代末の塔。日本で一番古い石造宝塔かも。それと六波羅蜜寺の阿古屋の塔、大津市の逢坂山の先にある長安寺の牛塔の3つがいちばん古い石造宝塔
・六波羅蜜寺の宝物館空也像と平清盛像。
・善峰寺 源算の庵室があったのが開山堂。京都一望。木像の須弥壇の下が入定窟。善峰寺ほど堂塔がよく整っているところはない。家光の側室の桂昌院の余徳。…宝物館も。
・坂本の西教寺 不断念仏はいまでも。3人のお年寄りが交代で10分に1度ぐらい鉦を打って、南無阿弥陀仏をとなえる。〓600年間つづいている。
・長命寺 本堂の裏に大きな磐座。磐座宗教があったため十一面観音がまつられている。山の上の寺と山の下の寺を今の場所に持ってきて聖観音をまつった。山の上の十一面観音と山の下の千手観音をまつって三尊一体にした。
・観音正寺 頂上に近い磐座が奥の院。琵琶湖が見える。
・石馬寺という寺は、非常に優れた十一面観音。
・蒲生野の石塔寺 白鳳の百済様式の三重の石塔。近江はだいたいが渡来人によって開発された。湖東の3ヵ寺(愛東町の百済寺、甲良町の西明寺、秦荘町の金剛輪寺)は渡来僧によってひらかれた。
・観音正寺には人魚のミイラ。
・葛井寺は渡来人が建てた。ひとたび衰えたのち、葛城修験道の中に組みこまれた。
・三十三番華厳寺 妙法ケ岳中腹の奥の院と立岩洞窟にこもる行者が今もいる。
・比叡山の横川にある元山大師の墓〓は、不浄な者が行くと谷にとばされる魔所。
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▽8 宗教の本質は変わらない。宗教文化は変わりますが信仰の原点は変わりません。…巡礼・遍路は、原点を思い出させるという大きな特色があります。
▽11 「めぐる宗教」イザナギ・イザナミが天の御柱を巡ったという話から現れる。
 年中まわっている人がいるのは、京都の釘抜地蔵(上京区千本通)〓、ここはお年寄りが休む場所として、お茶堂を開放しています。
▽12 出雲大社 宮司が亡くなると水葬にした。境内の池の中に沈めた。
▽17 巡礼は地獄・極楽のくり返し。大峰山も。
 葛城山の行場は、どこを掘っても経筒が出てきます。一の宿の友が島から28の宿の亀の瀬(柏原)まで26の行場があります。
▽21 九峰修行 日光、富士山、立山、白山、伯耆大山、石鎚、彦山
▽22 辺路(ヘジ)から遍路へ。海と陸の境を巡る修行。
▽24 伊予の北半分では、亡くなった人の霊は厳島の弥山に行くという信仰が強い。一般的に人が亡くなったということを「あの人は広島にたばこを買いにいった」。弥山が霊のいく世界だったから。
▽26 三十三ヶ所巡礼の最初だと考えられるのが、十一面観音の信仰。
▽28 神社を管理するのは寺で、お寺とお宮の関係を考えると、信仰の主体はお宮です。宗教儀礼のときに社殿に入れるのは神主さんだけ。高野山も坊さんは長床という拝殿までしか入れません。…高野山も弘法大師が入る前から狩人がまつっていた。狩人そのものが狩場明神としてまつられています。
▽清水寺
▽43 本来の五条大橋は、松原橋と現在呼んでいる橋。
▽47 青岸渡寺は明治になってできた。名前もそれまでは如意輪堂といっていました。
▽50 妙法山。本来は法華経の山だった。納骨の場所であると同時に、女人が登れるので「女人高野」と呼ばれた。現在でも和歌山県から三重県の海岸よりの人はみな、ここに納骨します〓。
▽55 熊野信仰はすべて海から入ってきました。熊野水軍ができるように造船技術が優れていたので、山伏たちは海から布教しています。だから遠いところに布教できた。隠岐島も、国東半島も熊野信仰。
 新宮と那智は「海の熊野」、もうひとつは巨岩と洞窟を持つ「窟の熊野」、もうひとつは「山の熊野」。三熊野という場合は必ずしも三山を指すのではない。
▽61 修験道で不滅の聖火がなかったところはない。
▽65 高野山 金剛峯寺は全山の名前。
 …弘法大師は永遠に生きているという考えができるのは、開山は神だという観念があるから。山の神と同体化し、即身成仏すること。それが開山堂。高野山の奥の院は、本当は開山堂といってもいいのです。本当の奥の院はどこでもその山の神様をまつっていました。高野山の山の神と弘法大師が一体化したわけです。
▽71 一遍上人の時宗が熊野に入ることで、庶民がたくさんお参りできるようになりました。穢れを祓ってくれる名号札をつくって、不浄除けの札を持っていれば、女性でもいつでもお参りできるようになった。それが熊野に時宗が入ったもとです。
▽73 大峰修験最後の捨身者である林実利の墓。明治17年に那智の滝から座禅の姿のまま捨身。明治時代は那智神社よりも実利の墓のほうに多くの人がお参りしました。
▽79 紀三井寺
▽82 日本でも欧州でも、巡礼の宗教的な構造は同じです。ロウソクをあげるのも、お願いすることも。庶民の宗教の底にあるものは、ひとつにして共通だと思います。信仰のもっとも素朴なかたちとして、どこでも巡礼が起きています。それが宗教の原点です。
▽83 鎌倉時代までの西国巡礼は、プロの遊行者の修行。
▽89 東大寺の二月堂と三月堂。三月堂の不空羂索観音。圧倒されるような乾湿の大きな仏像。
▽93 日本の仏教は、聖徳太子の時代から、妻帯を許しています。聖徳太子は在家仏教を日本仏教の根本に据えたのでした。親鸞聖人も、和讃でそのことにふれています。
▽94 興福寺は藤原氏の氏寺で、春日神社の神宮寺。
▽98 比叡山も、平安時代中頃からは学問する坊さんはほとんどおりません。みんな堂衆になってしまって、神輿振りをしたり、神木を持って歩くということばかりやっていました。
…勉強する者はほとんどいなかったのが、中世の興福寺です。どこのお寺もそうだったと考えていいだろうと思います。
▽123 五重塔の起源は、石を積んで人の菩提を弔うこと。日本人には石を積んで菩提を弔う積石信仰があります。それを盲人たちがやっていました。最初は山科の四宮でやっていたのが、後に鴨川になります。それが鎌倉時代中頃の四条天皇の時に、生仏が「平家物語」に節をつけて歌うところから平家琵琶ができたと伝えています。
 壺坂寺が盲人救済するのは、仏教そのものが、おそらく平安時代のはじめごろから、自分の寺の中に盲人を住まわせて、…保護したのだと考えてよろしいと思います。
▽130 真言宗のはじまりは、親族合名会社のようなもので、一族で構成されました。
▽147 上醍醐寺は文化財が豊富。 開山堂はいちばん高いところに。聖宝理源大師が伽藍配置をするとき、本来は准てい堂を高いところに建てるべきなのに、そこを空けておいたのは、自分がそこに埋まるためでした。
▽147 修験道理論では、ある山の山の神は「女体神」として拝まれます(だから「女体山?」) 女体神は丹生都比売神という姫神として拝まれました。…山の信仰では、坊さんであるより神様です。弘法大師は神様だから病気も治してくれる、厄も祓ってくれる、神様と同じ働きをしてくれるという信仰が発生したわけです。
▽166 仏教以前の行者たちが、山の奥深く住んでいたということを示すような説話は、どの山にもあります。石山寺も清水寺も。
▽169 比良明神も白鬚明神も強力な修験のいたところです。現在でも回峰行。
▽170 東大寺造営 琵琶湖の北で木を切って、木津に集める。石山造仏所ができて、そこにお寺が作られた。東大寺の材木の余材で石山寺がつくられた。
 石山寺 本尊は岩盤の上に立っています。山中修行で石の上に本尊さんや厨子をおいておつとめをした。…山伏の中には仏像の首だけをもって歩いた人がいたのでは。信州下諏訪の神社の隣に、大きな自然石の上に仏像の頭が乗った「万治の石仏」があります。岡本太郎は世界でいちばん不思議な仏像だといいました。謎を解けば、自然石の上に仏像の首だけを載せたものです。
▽174 真言宗のなかで古い文献が残っているのは、石山寺がいちばんです。
▽181 庶民信仰が盛んであるほど、それにつれて貴族も参ります。たいていの霊場はまず庶民が集まって、庶民がするなら我々もということで、そのあとから貴族たちが来ます。
▽184 鎌倉時代になると、「源氏物語」のような愛欲を書いた小説は害悪だということになる。
▽196 三井寺 新羅明神の後ろに古墳が分布していました。渡来人たちの神だということになろうかと思います。
▽200 今熊野観音寺 那智と同様平安時代は千手観音だったが今は十一面観音。
 後白河上皇のころ、熊野三山に次いで重んじられていたのは若一王子。京都では北白川にあり、江戸に勧請されたのが阿須賀神社の若一王子。飛鳥山という桜の名所があり、その下に王子という駅があります。
 新那智山といわれたものが鎌倉時代にはいって若一王子に転じて、十一面観音になったと考えられます。
▽202 竹生島も中禅寺湖の中禅寺も千手観音。二月堂にしても長谷寺にしても、山の観音信仰は十一面観音が多い。
▽203 珍皇寺はもとは愛宕(おたぎ)寺。現在は珍皇寺と念仏寺に別れて、念仏寺は大正年間に愛宕山の麓に疎開。(〓新しいのか)
▽205 八十八カ所でも、もとはお寺の奥に行場があるという構造。三十三カ所も二十六番法華山一乗寺は厳しい行場。
▽207 もとの五条通である松原橋が清水寺に上がっていく道。…昔は亡くなった人を車に乗せて運んだので、車大路といいました。
 …鳥辺野の葬場 葬送をする人たちの上前をはねていたのが、六波羅蜜寺や珍皇寺。
▽210 昔はよく、髑髏が着に突き抜かれて上に上がっていたことがあるそうです。それでそのやなぎを切って三十三間堂を造ると上皇様の頭痛がやむでしょうということで造られた。
▽214 即成院 那須与一の塔 平安時代末の塔。それと六波羅蜜寺の阿古屋の塔、大津市の逢坂山の先にある長安寺の牛塔の3つが日本でいちばん古い石造宝塔と考えられる。
▽218 六波羅蜜寺 空也が建てたのは五条坂を上がる途中にある西光寺。
▽227 昔の実践は、それをすることによって何かを受けようというのではなくて、自分の持っている負い目を苦行なり奉仕によって払っていこうとするものだった。それが庶民信仰。…人々が困っていれば、それを解決してあげて自分の罪を滅ぼします。見返りをなんら期待することなく、こちらから払う。…野にさらされている者があれば、丁重に葬ってやって、念仏札を置いてくるということが自分の罪を滅ぼすひとつの方法として行われたのです。
…空也聖たちは葬式に関与することが多くなりました。
▽237 六波羅蜜寺の宝物館は自由に拝観できます(今は600円)。なかでも空也像と平清盛像はたいへん有名です。
▽240 33ヶ所のうち、平地にあるのは、六角堂と革堂、穴太寺、六波羅蜜寺、葛井寺、興福寺南円堂など。修行の場だから本来は町中にあるのはおかしいのです。…革堂も六角堂も水の信仰のために霊場化した。…泉があるところに出現するマリア信仰と同じ。
▽246 親鸞が六角堂で夢のお告げを見る。夢のお告げは六角堂とか八角堂で受けるものだということが、伏線としてあったと思います。
 八角円堂、六角円堂は、この世の者ではない異空間をつくったもの。お墓を構造上八角にしたものとして造ったのではないか。モガリのなかに入るのは、あの世に行ってくるということ。再び出てきたときは、健康な者として生まれかわるという再生の儀式をするのが、円堂の意味だとおもいます。「擬死再生」
▽258 学匠 堂衆。鎌倉時代になると比叡山には学匠はほとんどいなくなって、僧兵だけが山を占領することに。室町になると、この人たちは信者たちから祀堂銭を集める。そのカネを酒屋や土倉のような金持ちに運用させる。カネを貸し付けて利子を取って、比叡山に利子の一部を返す。それが織田信長に焼かれた原因だといわれています。焼き討ちで中世の比叡山の歴史は幕を下ろして、また新しい学匠の山になっていきます。
▽261 「へそ石」京都の中心という話。「へそ石」あたりに出る水の周辺に人が住みだしたと考えれば、なぜへそ石が京都の真ん中だといえるのかという合理的解釈になるのではないか。
 人が集まって、水を汲んだり、洗濯をしたり、…という場所からはじまって、水の神様がやがて観音さんになり、それが聖徳太子や救世観音の伝説を生み、それを宣伝する堂衆が住むようになり、霊場かができた野だろう。
▽274 鏡に穢れを移して、捨てるという信仰。鎌倉時代以前から鏡を投げるということがあった。鏡にかわって土器になったのが「土器(かわらけ)投げ」
▽285 善峰寺 源算の庵室があったのが開山堂。京都が一望できる。木像の須弥壇の下が入定窟。入定という概念は、亡くなった後もこの世にとどまって人々を救ってくれるという信仰から生まれます。
▽289 25人の人が集まって講をつくり、往生院というものを造る。25人の結衆。代表的なのが、三千院にある往生極楽院。…自分の家に寝かせておくと、妻子が愛しいとか、この家を残して死ぬのは心残りだとか思うからいけない。隔離病舎のようなところに移してしまったら、その執着がとれてしまいます。だから、妻子に世話をさせないで、25人の結衆の24人の者が世話をします。
▽291 高野山の奥の院 竹筒の竹が発掘された。お骨を竹の筒に入れて霊場に葬るのが一般庶民の納骨だったと思います。
▽294 三十三カ所でも善峰寺ほど堂塔がよく整っているところはありません。家光の側室の桂昌院の余徳がある寺です。宝物館もある。
▽302 坂本の西教寺 不断念仏はいまでおつづいている。3人のお年寄りが交代で10分に1度ぐらい鉦を打って、南無阿弥陀仏をとなえます。今は朝9時頃から5時頃まで。〓600年間つづいている。穴太寺ではなくなってしまった。
▽305 穴太、穴穂、室生、賀名生(あのう)、丹生は水に関係がある。とくに丹生は水の信仰。高野山中腹の丹生都比売神社について水銀の出るところだというが、丹生の神は沢の神です。
▽311 竹生島宝厳寺 神社の側 弁天さんの本地は浅井姫。水の神様。それが宝厳寺のなかに入っていたので、神仏分離の時に分離した。かつては浅井姫を水神とする農耕信仰と、水に関係がある千手観音の信仰がひとつになって、弁天信仰と千手観音信仰が矛盾なく並立していました。
▽312 明治ぐらいまでは死者を他の地へ運んで葬る持越葬法があった。
 高島町に阿弥陀山という山があり、非常に広大な墓地を持っている。被葬者は湖東の人々。船に死者を積んで運び、阿弥陀山のふもとに葬った。
 そのもう一つ前が竹生島であろう。風葬・水葬がおこなわれた時代の日本人は、本土から離れた島に死者を送るということをよくやりました。
 〓熊野に古墳がひとつもないというのは、古代、風葬と水葬という原子葬法があったためです。死体を海に流したり沈めたり、海岸に置いて風葬にするという習慣が長くあったために、そこが聖地になったことがわかりつつあります。
 竹生島もそういうところでは。
 竹生島周辺の湖底から完全な形の弥生式土器が出る。琵琶湖のいちばん深いところで水葬が行われたのではないか。網をかけてもかからないように。
▽327 長命寺 本尊は表向きは聖観音ですが、千手観音と十一面観音が一緒になった聖観音だと説明しています。が、千手観音が中心。
 本堂の裏の方に大きな磐座がある。奥の院が磐座。山岳宗教、磐座宗教があったために、十一面観音がまつられています。
 山の上の寺と山の下の寺を今の場所に持ってきて、聖観音をまつった。山の上の十一面観音と山の下の千手観音をまつって三尊一体にしたという歴史的背景をしのばせる。
▽336 観音正寺 頂上に近い磐座が奥の院。琵琶湖が見える。
▽342 〓石馬寺という寺は、非常に優れた十一面観音。
 蒲生野〓の石塔寺 白鳳の百済様式の三重の石塔。近江はだいたいが渡来人によって開発された。湖東の3ヵ寺(愛東町の百済寺、甲良町の西明寺、秦荘町の金剛輪寺)は渡来僧によってひらかれました。
▽349 渡来人は水準器をもってきた。傾斜を測りながら水路を造り、たくさんの土地を開墾した。
 やがて渡来人だけの特技でなくなると、特権的な繁栄を失って、日本化する。 
▽350 山の上のお寺で火をたいた。こういう人をヒジリ(火治り=聖)といいます。聖はもともと火を管理する者でした。
▽観音正寺には人魚のミイラがあるそうです。
▽354 律令国家をつくろうとする者にたいして、反動的な人たちを代表したのが大海人皇子です。
…大陸の道教的なものが入ってきたときに、山岳宗教が修験道に変わる契機になる。
…大化改新が進んでいくなかで、反動が起きたのが藤原京の時代。天武天皇は反動のリーダーでした。文武天皇の時に役行者を訴え出て、伊豆に流すという事件が起こります。政治の流れのなかで、宗教も無関係ではなかった…
▽356 葛井寺は渡来人が建てた寺。渡来人が特権的な立場を失って、葛井寺も衰える。それが何らかの形で庶民信仰に変化していく。
 ひとたび衰えたのち、葛城修験道の中に組みこまれた中世寺院。
 葛城修験は、1番から28番まで歩くには、1番は加太沖の友ケ島。海のほうからのぼって金剛山に行って、水越峠を越えて葛城に入り、二上山に登る。葛井寺は逆峰の起点になった。
▽365 本尊の十一面千手観音は立派。
▽380 三十三番華厳寺 妙法ケ岳中腹の奥の院と立岩洞窟にこもる行者が今もいる。
▽384 山岳寺院だったから弘法大師という人間が超人間化した。永遠に生きた人と定義するのは、山岳寺院というものがそうするわけです。
 比叡山の横川にある元山大師の墓〓は、不浄な者が行くと谷にとばされる魔所だといわれています。 
▽385 まず山の神様が信仰対象になる。仏様としてまつられても、本当は山の神様です。観音さんは山の神様です。山の神様は女体神。
 華厳寺の十一面観音は女体神としての特徴を持っている。高野山では丹生都比売という女の神様が丹生都比売神社にまつられています。
 …山岳寺院なら開山堂が奥の院に当たります。…怖い開山さんがいないとお寺はダメになります。
▽392 四国は戦後になってやっと札所の体裁を整えたところもあります。そういうところは信仰の機運も高くて、立派な住職もおられます。
▽393 世界中どこでも、歩くこと、めぐることという二つの信仰が巡礼を生み出しました。…体を使った信仰でなければ実際に身につく信仰になりません。…自らをくるしめることによって信仰をするのが巡礼です。

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