20080709 河出書房新社
他者に依存したり卑屈になったりするのではなく、主体性をもち自立したヒト・コミュニティが外の文化を積極的に吸収することによって、文明・文化は進歩し、コミュニティは発展する。そうした取り組みのつみかさねが「伝統」を形づくる--。
古代の歴史から現代の公共事業の問題までをも、そうした視点で切りとっている。国家主義のように「伝統」を純粋・不動のものと見るのではない。
たとえば西日本にしかなかった鋤(すき)を、東北日本で最初につかったのが津軽平野だった。それによって深おこしができるようになると、生産量が5割増になった。オシラサマがかぶってる布をはがしていくと、昔の布がでてくる。最初は木くず、次に麻の布、絹、木綿がでてくる。外の文化を吸収していく過程を示している。
古代においては、大陸からきた秦氏が蚕をそだてる「畑」も「機織り」もロクロももたらし、それが木地師につながる。木地屋の技術は漆と必ず結びつく……。宇治茶を江戸に送る信楽焼きの茶壺が集積したことが、狭山茶が生まれる礎となり、狭山茶ができたことが関東の焼き物を発展させた。関西の酒が江戸に送られて樽がたまったとこが、練馬の大根漬けを生み出した……。
物が移動し、情報が移動し、そこに創意工夫をくわえる人がいることで、文化がそだって伝統がはぐくまれる。外の文化を受け入れる素地を持っているか否かによって、社会が進歩するか停滞するかの境目になっていたという。
伝統とは、卑屈ではない自立したコミュニティが「よりよい生活」をもとめるなかで培われる。そういう「主体性」の基盤が他文化を吸収する力になってきた。だから主体性をぶち壊し依存体質に導く補助金行政や東京一極集中には筆者はきびしい目をむける。
問屋の町だった大阪の凋落については、昭和30年ごろに本社を東京にうつしはじめ、「我が店」意識から「雇われている」というサラリーマン意識をもつ町になったことがきっかけだという。これも「主体性の喪失」である。
農協合併や市町村合併の問題もとりあげている。地域社会で産業をおこし経営を確立するための生産単位は10-50ヘクタールくらいと算出し、「生産組合の指導がそれほど進まないうちに、生産組合を大きくすることだけ進んでいる」と、中身が成熟していないのに枠だけ拡大するという農協合併や町村合併を批判する。「内在的・主体的でない巨大化」はまさに平成の合併の問題だった。
個々人レベルでは、現代の人間は人間としての能力が下がっていると指摘する。高度成長以前は納豆やみそは家でつくったし、ときに家も手作りで建てた。私たちの世代は市場という外部に「依存」し、それなしには生きることさえできなくなっている。
「他人が築きあげたもののなかにあって、自分は高くなっているという気がするだけであって、一人一人はずうっと下がっている」と筆者は言う。親から子へ持っているものを伝えていけば、文化は高まっていくはずなのに、そうなってない。「文化の蓄積」がなくなってしまった。何千年にわたって蓄積してきたムラの知恵・生きる知恵が、わずか4,50年で失われたことを考えると、現代の市場中心社会の異常さがよくわかる。
宮本常一の書いたもの語ったものはとてもよいのだが、索引がなかったり、はじめて発表されたときの状況説明がなかったり、文献目録が不十分だったりと、編集の手抜きと稚拙さが気になった。
———-抜粋・メモ————-
▽12 鋤(すき)は、東日本にはなかった。名古屋から西だった。東側では鍬で田をおこしていた。スキがはいるようになって深おこしができるようになると、生産量が5割り増しする。東北日本で最初にスキがはいったのが津軽平野だった。
文化が交流しあって、その文化を受け入れる素地を持っているかどうかということによって、その社会が進歩するか、停滞するかの境目になっていた。日本海側に面した津軽。太平洋側は、大きな風が吹くと流されたが、日本海側は時化がくれば浜へあげることができた。
▽14 海が荒れるとすぐに海岸に船をつける。だから遭難がなかった。江戸時代に遭難が増えるのは、船は帆でうごくようになり、櫓をほとんどつかわなくなるから。櫓が主の船は、波のないときに船を走らせる。日本海の交通は、想像以上の量と質だった。
▽23 津軽の「こぎん」 郷土文化というが、そのもとになるものは、周囲から流れ込んできた文化をどう受け止めるかということに意義があり、そうして地域社会の文化は高まっていった。 オシラサマがかぶってる布をはがしていくと、昔の布がでてくる。最初は木くず、次に麻の布、さらに絹、次には木綿。そして木綿の時代が一番長い。
▽25 三味線 じょんがら、は、天草の影響。卑屈であってはそういう受け入れ方はできない。対等のものとして、自分たちの生活を豊かにするものだとして受け入れていった。遠くで起こったものを生活に合わすように、生活のペースに作り直していった。
今、青森県では、そういう津軽的な文化が失われ、東京の色一色に染まっていくことが、果たして地域社会における自主性を確立することにつながるものであるかどうか。……発展というのは自己自身が立派に主体性を持っていて、どのように生活に貢献するかということを図って吸収していく、そのことが伝統ではなかろうか。
▽33 獣の血は神聖なもので、それを飲むことで活力が得られるという考えかたは、江戸時代の人のあいだに常識として存在していた。それが消えるのは明治以後。そういう動物がどんどん減って、そういう犠牲をおこなうことがなくなっていった。「シシ祭り」のようなものが残っている。シシがとれなくなることによって、モチを代表にするようになった。
▽34 豊作を祈るときは、生霊を捧げる。神主のことを「祝(ほうり)」というのは、「屠」とも書いた。本来神主とは、ほうられるものであったのでは。遣唐使には、「持衰(じさい)」というものが乗った。神主のようなもの。ところが途中で難船するようなことがあると、必ずその人は海の中に投げ入れられる。霊力を失ったときには神に捧げられてしまう。少なくとも鎌倉時代までは、そういう習俗が残っていた。
よその世界の人の首を切ってまつる、という形がでてくる。畑作時代全般にそれはみられた。アステカも。「首を切られる」という言葉が今もあるのは、そういう習俗のなごりではないか。
▽39 稲作文化の発達に伴って、呪力をもつものが血以外のもの、「水」にうつったのではないか。犠牲をささげる行事がへり、大事な行事は、夏のさまざまな水祭りになる。川裾祭り。これにのっかって発達したのが祇園祭。1000年前に悪病がはやったとき、牛頭天王の祭りをしないからだ、となった。牛頭天王は朝鮮で死んだスサノオノミコト。播磨の広峯にまつっていたのを、八坂におむかえして、御神体を御輿にのせて、二条城の南にある神泉苑という水がわきでる池で御神体を洗ってお祭りをした。これが祇園祭のおこり。
八坂から神泉苑にいくときに、たくさんの矛をたてた。一本の棒の先にたくさんの紙を結ってつけた大きな御幣だった。だから古い頃には祇園祭のことを「御輿洗い」といった。
このように、水が大切なものになると、神に対して犠牲を奉っていた祭りが、変化してくる。延喜式をみると、血を捧げたという内容がなく、供えるものは酒になる。血が酒にかわった。稲作を媒介として血が水に変わった。
稲作が定着するとともに、血の神聖さが、血の忌みに変わっていった。それには仏教の影響も大きかった。
▽51 今の文化はあとずさりを始めている。草葺きの家をいま建てる能力のある人がいるか? 他人が築きあげたもののなかにあって、自分は高くなっているという気がするだけであって、一人一人はずうっと下がっていっている。人間の持つ能力は、親から子へ持っているものをどう伝えていくかということ。それによって高まっていくはずだが……
▽63 砂金がとられたのは中世から。江戸時代に岩から掘り出す金がつかわれるまでは砂金で、それが貨幣として流通した。金沢は、金を採ったのでは。……中国の山地では砂鉄を採った。砂鉄を採る地帯には不思議なほど綿織物がでてくる。そういう技術は朝鮮から秦氏がつたえた。秦の始皇帝の子孫が朝鮮に移り住んだ。そのなかの融通王が120軒ほどの民をつれて日本いきた。その落ち着いたのが京都の太秦。それが京都の発展につながる。祇園も朝鮮系の神様。その秦氏が、日本に養蚕をもってきたとされる。西南日本にはハタという地名が多い。幡多も博多もハタ。そこには秦氏がいた。蚕を飼うために桑をつくる。そうういものをつくるためにひらいたのが、「畑」と言ったのでは。布を織る機もハタ。秦氏が畑をひらき機を織る。それにもちいたものがすべてハタと考えてよい。……
奈良の寺にも秦を名乗る人が従い、ロクロをひいた。百万小塔はロクロにかけなければ作れない。経文の軸木にもロクロが必要。国家が統制しているときは、近江の杣にいた。平安時代になると政府の手をはなれて、民間の豪族が寺をたてる。律令国家が解体し、そこに働いていた人たちが地方に散っていく。木地屋の根拠は永源寺町。そこに蛭谷と君ケ畑というところと2カ所残っている。近江六ケ畑があったが、残りは滅びた。ここから全国に散らばった。これも秦氏と関連するだろう。木地屋の技術は、必ず漆と結びつく。漆がなければ腕はすぐ割れてしまう。
自分たちの身分を証明するため、後朱雀天皇のにせ綸旨をもって歩く。菊の御紋をつかうようになる。それで伝説が生まれる。木地屋の住んでいたところは、たいてい、平家の落人伝説がある。むしろその伝説を木地屋が持って歩いたのでは。
比叡山の第三代の天台座主・円仁。東北の寺寺は円仁がひらいたことになっている。伝説だと思っていたら、事実らしい。下野の国の出身だったから、郷里をだいじにした。
四国八八カ所は弘法大師が開いたというのも伝説にすぎないと思っていたが、死後300年くらいの平安時代の記録がではじめた。弘法大師も讃岐の出身だから、四国を自分の行場にした。
口で伝えていく伝承が確実に残るのは、だいたい四〇〇年は確実に残ると見てよい。嘘もはいるあろうけど、そのなかにほんものがあるということ。
▽71 佐渡の小木民俗博物館 民具3万点集まっている。それを見ると、ほとんどの人が「わあっ」と言う。それは民衆の力。民衆の力をみつけるのが民俗学。
▽76 狭山茶の発展。茶は密封しないとかびが生えて発酵する。だからブリキをはった茶箱にいれる。それがなかった時代は、茶壺しかなかった。それを一番つくったのは信楽。宇治の茶を江戸に送るためだった。江戸におくった茶壺はからっぽになる。あいた茶つぼを利用して狭山に茶業が起こってきた。茶業が発達すると茶つぼが足りなくなる。そこで信楽の職人が、常陸の笠間に移って焼いたのが笠間焼。そこの連中が飯能にうつって焼いたのが飯能焼。
青梅の町ではどの家にも江戸時代の信楽の茶つぼがある。多い家には20くらいある。
東京の練馬の大根漬けがおきたのも上方に原因がある。西宮や堺で酒をつくり、樽回船ではこんでくる。あいた酒樽を利用して、漬物がおきる。今でも酒樽が漬物樽として利用されている。
文化というのは、ある物がからみあっていくことで、高められ、広がっていく。
▽81 浅草の太鼓師の宮本宇之助 昭和12年に日支事変がおきるとコンクリートの倉をセメントで修理しはじめる。そこに太鼓の胴をどんどん買い込む。「戦争は負ける。東京は爆撃されるだろうから、爆撃されても家が残るようにやってるんだ。……戦争は必ず済む。日本は負けてしょげきっているんだ。そのときに人間の心をぱあっとするのは、太鼓なんだ」 実際そのとおり、貯えていた太鼓の胴は年ほどの間にすべて出払った。
▽90 北海道アイヌの萱野茂 本多勝一という人が本気になってその活動の世話をしている。私の片棒かついでやっている。
▽95 江戸時代以前は、みんな輪になって輪の中でしゃべっている。われわれは輪になることを忘れてしまった。舞台にのぼさせないと、芸術を思わなくなった。民俗の実践運動として、輪になる、輪になってものを考える、というものを打ち立てて行ってみたい。
こんな信仰がある、といったつまみ食いではなく、その土地にある文化全体を、あらゆる角度から攻めて行って、全体としてつかんで行く。全体として発展させていくようなシステムを考えていくこと。その中心に、公民館などがあってくださるとありがたい。
▽104 隠岐
▽110 牧畑 隠岐の畜産が萎縮したのは、技術開発がなかったから。草を牛が食べない。草の長さが30センチ以上になると食べないからだ。牛が食べるのは10センチまで。計画的に、牛を移動させて草を食べさせ、食べきれない草は干し草にしてきたら、隠岐の畜産は伸びたはず。
発展させていくにはみんなで考える機会をもつようにしなければならない。部落の顔をつきあわせて、部落のなかのことを処理するのではなく、これを島全体で考えていくことが大事。そのためには、島1周道路を考えてもよいのではないか。
▽115 ワカメの芽の根 あれをとってしまうと、ワカメがはえなくなる。アワビがつかなくなる。……水産業をおこすには、細かいところまで海の知識をもっていないと、も内がおきる。
▽116 入れ物だけが立派になる。中に盛られるものが立派であって、その囲いをしている入れ物が発達していくというシステムに切りかえない限り、離島はよくなりようがない。いくら立派なものをたてても、それが島の人たちに文化として受けとめられない限り意味がない。
▽117 〓農協合併 市町村合併の問題
地域社会で産業をおこし、経営を確立していこうとすると、その生産単位は10-50ヘクタールくらい。それならばがっちり固めて、1つの生産形態として育てることができる。生産組合はそれくらいの単位で生まれてこなければならない。ところが、生産組合の指導がそれほど進まないうちに、生産組合を大きくすることだけ進んでいる。町村の合併もそういうこと。
布施村は見事にその逆手をいっている。ひとつの生産体が自治体になっている。強硬に西郷町との合併を拒んだ〓
▽124 佐渡の八珍柿の指導者 羽茂町の試験地には、柿畑のなかに10人くらい泊まれる家をたて、一升瓶を棚に入れてある。今では名所になって、観光バスでやってくる。そういう拠点ができるとかわってくる。……地元にそういう人がひとりあることがどれだけ有り難いか。そこへ行けばお互い話したことが実る、このことが私が佐渡に行っているもとです。
1人でも2人でも両方の間を絶えずつなぐ人が必要。佐渡の場合は私の大学の卒業生がずっと行っている。これが地域開発では非常に大事な条件になる。小木の宿根木の民俗博物館。はじめは百姓道具をこちらがいって集めていたが、このごろは、地元の人がもってくる。それをみんな受け入れる。そういうふうに無限にみんなが持ってきて集まってくれることは、そこが本物のセンターになってゆくということ。今までがらくた扱いだったものを、逆にこれは大事ともり立てていくことが起こってくると、地域開発は成功しはじめる。
【核になる人・もの・場 それを外とつなげる人=ネットワーク】
▽130 離島の低さを本土並みに引き上げるということが離島振興政策の中心だった。ところが「本土並み」というのはあいまいで、いつまでたってもそうならない。たとえば、先端の科学が離島に本当に応用されているか? 淡水化装置くらい。他にレベルの高い科学が島に応用された例を知らない。
▽132 離島振興の側から島をたずねると、どうしても、こういう政策の結果はどうか、という話題になる。道がよくなったとか、漁港ができたとか、そういうことしか見てこない。でも実はそういう島は必ずしも良くなっていない。
話しあいというのは、お世辞を言ったりするのではなく、まず痛みをおぼえる問題からとりあげてみるべき。
種子島にいったとき、講演をたのまれた。「とにかくここはどうしようもない。いまは薩摩芋を作っており、畑も石垣にかこまれた小さい畑が無数にあって転作もできない(=三崎と同じ〓)」と言う。「私は話をするけれども、私の言うことを本当に実践するのか。実践しなければ話してもしょうがないから」「石垣をとって大きな畑に直し、芋を作ることを止めて、オカネのあがる砂糖きびに切り替えてみないか」という話をした。……徹底した基盤整備へ。
活動が主であって、設備投資が従である状態がのぞましい。
▽136 自己資金が乏しいから、中央で作る計画に従属するという悪循環を繰り返している。こういうことをやれば補助金が出るぞということでやる仕事が多すぎる。
こうすることで良くなるということではなく、こういう事業があって動けばそれだけお金が入ってわれわれの生活がその部分だけ安定するという形で事業が進められている。つまり、自分たちでその生活を高めるために周囲を固めていく機会をほとんど持っていないということに大きな問題がある。
……毎年お盆になると、皆が道の修繕をする。日本人のもっている集団思考性を温存し、あるいは新しい方向にもっていくための努力がなされただろうか。むしろ行政は壊すほうに力が注がれていた。たとえば「地域エゴは許されない」ということで否定された。地域連帯性を壊してきた。(=〓生活環境主義)
▽142 「国や県からの金が出ることが決まらなければ、具体的に町からとるべき施策を決めることができないという」本来はその逆でなければならない。中間に立つ農協自体が指導性を失ってしまっている(〓中間団体の衰退)。
息子が柑橘の品種を切り替える。農協も役場も相談に十分に乗ってくれない。認識が十分にない。技術も持っていなければ、どういうルートに乗せて商品にしていくかという研究もしていない。
農協は農民の経営団体であり、指導団体であるはずなのだが、農村の困窮に対する対策すら真剣に検討している組合が少ない。「われわれは農協を相手にしていない」という声。
▽145島の観光 熱海の観光 実は地元の人はうるおっていない。旅館も明治時代から地元にあるのは1軒だけ。元からそこに住んでいる人たちの幸せになっているかどうか……
▽148 青ヶ島 一時は青年は1人になった。山田常道先生がすみつき、村長になる。今は青年が10人を越えるようになった。
▽155 大山崎あたりは完全な湿地帯だった。昭和12,3年ごろは無数の沼が今の10倍以上あった。山麓の道を通る以外に大阪へでる通路がない。それが山崎街道。だから天王山が重要だった。南側は巨椋池や横堀の池が防いでいた。それが京都に都をおいた理由。
京都と大阪は別ものの社会。京都にはいる生サバが若狭から来ていて、大阪から、という話はない。京都の文化は北へつながっていた。江戸時代初めに西回り航路がひらかれて日本海側の物資が下関をまわって大阪へ送られるようになったが、それまではすべて、敦賀か小浜を経由して京都へ送られた。
延喜式をみると、京都にきた魚は海の魚はたいへん少ない。鮎かサケが多い。当時は由良川をサケがのぼっていた。その時期から北へつながっていた。戦国時代に孤立していながら京都が生きのびたのは、何本かの道をとおって北国とつながっていたから。明治時代まで、閑院宮家御用達といったブリを届ける家が能登にあった。北国の経済圏に属していたことは、正月の魚にあらわれる。サケやブリ、数の子は北の魚。
……内海からの道は淀川だけでも30いくつも関所があった。それが物資の動きを邪魔した。北のほうは関所がない。
京都は応仁の大乱はあったが、その後は比較的平穏に暮らした。
▽161 大阪平野は条里制が敷かれて集落がかたまっている。班田収授をやると土地を割り替える。そうするとどこの土地をもらうかわからないから耕地のそばへ家を建てられない。だから古くから密集集落が発達した。
鎌倉か屁イワンの終わりごろから割り替えがおわる。と、平野のところどころに家を建てる人たちがでてきた。密集した集落が形成される時期と、その周囲にバラバラと家がつくられる時期があったのではないか。
▽161 真宗の寺の特色は、すぐ民衆を結束させて門前町をつくること〓。それを守るために外側に堀をつくって、貝塚の町ができあがる。戦争が頻発するようになると、条理田のなかにあった家は堀のずっと外側へ集まり、貝塚の町に結びつく。耕地と分離して、上代と同じ形のようなものが戦国争乱のなかにできあがってくる。いっぺんは散ったんだけど、また集まった。
▽p169 終戦後、大阪府につとめる。知事から、百姓をくどいて生鮮野菜をまかなってほしい、といわれた。自転車で、大阪府下のだいじな村は全部歩いた。……
▽172 高槻や茨木、枚方、八尾などが発達するのは、城下町だったところもあるが、綿が集まってきたことが大きい。集まった綿を糸に紡いで織る。するとそこに問屋ができる。
たくさんの菜種をつくって、種油をとる。生駒の山麓線にあった急流には、種油をとる水車があった。六甲の麓にもあるが、ここは、菜種と米の両方をついた。
大阪では寒天のテングサもつく。それは百姓でなく資本をもったものがもつ。それが問屋になる。高槻は寒天の問屋がだいぶあった。
線香をつくっているところもある。杉の葉をつき砕いて粉にしてそれをかためる。
こうして水車は年がら年中働いている。工場工業が発達しはじめて、近くに問屋があって加工することで、つぎの製品がでてくる。
久宝寺、八尾、富田林は木綿織りが中心。そんな町が村々の結節点としてできあがる。その結節点の上に大阪が乗っかる。
関東の町と関西の町は根本からちがう。関西の町にはタコの足がない。
江戸は、高輪の泉岳寺の先が江戸の町の境で木戸があったが、町はずっとつづく。甲州街道は四谷に木戸があったが家は新宿まであった。中山道は東大の少し北の追分けまでが江戸のはずれだったが板橋まで町がつづいた。どの町も一里ないし二里ぐらいのタコの足がずっと出ていた。
大阪には全然ない。たったひとつ天下茶屋が難波からつづいた町だったが、ふつうのたこ足とちがって、その南に住吉大社があったための、一種の宿場町だった。
たこ足は、飯を食えない村人がでてきて、小さな店をつくる。郷里の人が多く出てくると、物をもってくる。それを店先で通行人に売るとか、食べ物屋をやるとか、馬や牛の世話をするとか……という形でできてきた。名古屋から東にみられる町の特色だった。
大阪にたこ足がないのは、その周囲に町があったから。村々はそこに終結し、そこから品物が大阪の、仕立て問屋へ送られ、そこから各地へ送られる。京都の南もそうだった。ヨーロッパの町と変わらない性格をもって発達している。
大阪は町のなかの町。江戸は村の延長だった。
飯能とか八王子とかは、絹織物をとおして江戸の問屋と結びついている。府中には、問屋が一軒もなかった。問屋のあるような町なら鍛冶屋もあるし、染め物屋もある……けど。物を売ろうとしたら、八王子に行くか、江戸まで出なきゃいけない。府中の人は物を売るのに浅草にでていた。
大阪の町は問屋でできている。問屋と周囲の村が結びついている。町を大阪が結びついている。問屋のあるところに郊外から人がくる。いちばん問屋に近いところへ電車の終点をもたなきゃいけないから、難波に南海の終点があり、上本町に近鉄の終点がある。京阪は天満まで来ている。環状線と結びついているのは阪神と阪急だけ。
東京の場合は、もとは環状線のなかへ郊外電車ははいっていなかった。環状線の駅がターミナルになっている。
▽176 問屋の町だった大阪はある日、突然、サラリーマンの町になる。昭和30年ごろから大きな変化がおきる。大阪を本社としていた会社が東京へ本社をうつしはじめた。そうすると、今まで「これが我が店」と考えていた人が、雇われているという意識をもつようになる。
それまでは大阪に、郊外住宅地はほとんどなかった。昭和35年ごろまで、郊外はみな田んぼだった。
大阪は小作人がひじょうに多かった。副業化がはやく進んだから生活できた。土地を借りるのもあたりまえ。難波あたりは、200ヘクタールをもっている角堂二郎左右衛門という地主がいた。天王寺あたりも木村家がもっていた。吹田はほとんど金子家の土地だった。それらは借地代がひじょうに安い。だから物価も安くなる。このあたりは、家を建てても土地は借り物。関東では見られぬ風習。借地の上にたっている家のほうが割合が多いから、家賃が安い。東京の家賃のだいたい半分。品物に地代をかけることが少ないから大阪は物価が安い。
▽ 179 終戦少し前、野菜が底をつく。百姓が「カボチャの茎食わさんか。芋の葉っぱと茎とをね、野菜のかわりに配給せんか」。それで野菜に困らなかった。芋の葉はあくがつよいから、石灰を入れて煮てあくをとる必要があった。だから一握りずつ石灰をつけて売った。そういうことは大阪だからできた。
京都は、農村地帯を完全に抑えていた。丹波・丹後までの農村の協力があれば野菜には困らなかった。じつは山城の国一揆の古い精神が、昭和20年まで生きていた。昔の一揆はみんな大人衆。それが庄屋になっているから、結束すると物がでた。〓
▽180 終戦後、大阪では焼け跡に100万人以上の人が住んでいたのに、栄養失調はわずか千人だった。周囲の村が都市民のために協力した。「下肥がないから蔬菜の供出ができない」というとき、大阪市衛生局と電気局が協力して、下肥を市電で今の阿倍野までもってきてくれる。それを郊外電車につんで富田林までもっていって成功した。くさいから肥電車を夜に走らせた。そういうシステムが、戦争のどさくさのなかでやれた。
▽191 家を二つもつ慣習 広島では、城下のできるときに問屋になったのが50軒ほどある。国衆が地方にいると危ないから、城下町に強制的にあつめて問屋業を営ませた。加賀でも同様のことがあったから、土豪は金沢にも家をもった。
今でも能登あたりで町村長をつとめるとみんな金沢に家をもつ。〓
唐津にも同じ風習。村長はみな唐津の城下に家をもつ。
近江商人もほとんどがそう。ほとんどが大阪商人になって、大阪に大きな店をもち、郷里にも家がある。
焼き畑の村 椿山なんかの人は全部が高知市に家をもっている。
大塔村でも、ほとんどの人が奈良盆地にもうひとつ家をもっている。
▽195 夏みかんと萩 萩に武家屋敷が残っている。中下層の武士達は、東京に移住した。家を売らずにそのままにして移住したものが多い。東京で落ち着くと萩の家を売るが、食い詰めてないから、そのまま残る。
萩の町に残った士族には、広い屋敷で夏みかんをつくらせた。当時は夏みかん20本つくっていると、子供に旧制中学を卒業させることができたという。百石くらいの家だったら屋敷は1反以上ある。すると30本ぐらい植えられる。
▽206
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