20080715 岩波ジュニア新書
嘉田氏は新幹線の新駅着工をとめ、ダムの建設に異を唱える話題の滋賀県知事である。この本を読むと、彼女はまさに、フィールドワーカーとして滋賀県の隅々まで歩いた滋賀県版の宮本常一であることがよくわかる。
埼玉の農家に生まれ、京大の探検部にはいり、アフリカでフィールドワークをしてアメリカで研究生活をおくる。探検部の先輩には米山俊直らがいたという。
西洋じこみの近代主義の技術ではなく、地域に古くからつたわる知恵、ムラにつたわる知恵を積極的に評価して、地域の再生をはかり、水害をふせぎ、住みよいムラをつくっていくうえでの指針にしようと努力する。民衆の知と住民の主体性をなにより重視する視点は、宮本常一や稲葉峯雄らにつながる。
水と生活が密接にかかわっていたころの記録と記憶をほりおこし、ホタルをもとに環境汚染のレベルをはかる手法をあみだし、昔の写真と今の写真をくらべることで、「水」との関係の再構築をはかる。ひとつひとつは地道で小さなとりくみでしかないが、背後には長年人々が受けついできた民俗的な知恵が息づいている。
選挙キャンペーンのスローガンとなった「もったいない」という言葉も、フィールドワークのなかで出会った、庶民の生活哲学をしめす言葉だという。稲葉氏ならばこれが「石のぬくもり」となるところだ。
徹底的に歩いているからこそ、選挙で予想外の強さを発揮し、知事当選をはたしたのかもしれない。
----------覚え書き-----------
▽14 母 便利になったけど、ガスで誰かにもってきてもらわないといけない、と、かまどを残す。水洗便所ができても「下水処理場が壊れたら困る」とくみ取り便所を残した。みそもしょうゆも自家製、山羊も飼っていた。地の粉でうどんを打って食べた。……大地に根ざした自立した暮らし。
▽22 1974年彦根の稲枝地区の甲崎という集落へ。共同で炊飯事業、共同託児……アメリカから輸入された農業改良普及制度の生活改善運動でやっていた〓
兼業農家になり、女性だけでも農業ができるように農業カレンダーを考案。各家にわき水があり、洗濯したり野菜を洗ったり。が、1970年代に愛知川中流域に工場ができて次々に枯れる。
▽27 社会学で環境を研究している人はほとんどいなかった。徹底的にフィールドワーク。「湖岸の水利用調査」は鳥越皓之さんがリーダー。
▽28 米山俊直さんの「日本のむらの百年」のなかに、江戸時代から村の日誌をもっているマキノ町知内という記述がある。
▽37 知内 琵琶湖岸の井戸は鉄分が多く、飲み水に適さない。湖岸のヨシなどが蓄積して、金属分がたまり水質を悪くした。そこで、湧き水を集めて流れる前川の水を利用。昭和30年代にはいると、農薬使用がはじまり、前川の水に不安をいだきはじめる。→簡易水道づくり「蛇口ひねったら水がでるなんて、ほんとうに天国に来たみたいやった」 洗濯機を導入、入浴回数もふえ、排水は、かつてのスイコミ(土壌浸透)やスイモン(排水貯水槽)では処理しきれずあふれだし、前川に流れでた。生活とかかわりをもっていた前川の記憶が薄れるにつれ、排水を流すことに対して遠慮がじょじょになくなっていった。……生活用水がしだいに「遠い水」になっていく。
1965年に一級河川に。1976年、コンクリート張りにと県が提示。住民が疑問を呈し、3面ではなく側面のみのコンクリート化になった。
▽47 明治になり、1896年の河川法制定を契機にして、琵琶湖とそこにそそぐ河川利用は、住民の手を離れ、次第に行政の管理下におかれていく。
▽48 明治時代、共同体である村は、合併後も、生活に必要な権利すべて政府に召し上げられることに抵抗する。そして慣行権として水を利用する権利を勝ち取り、村を中心に水利組合ができる。漁業権も、明治政府はすべて国有化したかったが、抵抗が大きく、「法人でなくても実際に実在して活動している組織には権利を与えよう」という「実在的総合人」という概念をつくり、漁業権を与えた。実在的総合人というのは本来の村組織。水利組合、漁業組合、森林組合と名前はさまざまだが、それらの実態はどれも村。
こうした実在的総合人による所有形態を「総有」と呼ぶ。「共有」とはちがって、権利を切り売りできない。永続使用が目的。
▽51 戦後、農地改革で村有田を奪われる。49年の水産業協同組合法によって、漁業者以外の村人は、漁協組合員になることができなくなる。その結果m、知内村の手から、漁業組合と漁業権とが離れ、漁業収入が村の財政基盤からはずれた。
財産づくりのため、知内川の河口の浜を開発し水泳場とキャンプ場を整備。平成にはいって、オートキャンプ場も運営。
▽58
▽62 松林 川の入り口に木陰になる木を植え、魚がよりやすいようにした「魚付林」
最初に村の「記録」をつけはじめた庄屋さんは、「後世に村の出来事を知らせたい」と書いた。村人自身で自分たちの地域を管理しなくてはいけないという主体性を認識していた。
▽68 過去の知の蓄積は、自主性・主体性を守りたい者には武器となり、助けとなる。権力を維持したいものにとっては、脅威にもなる。権力者は時として、過去を、遅れたもの、不都合なものとして捨て去る場合がある。
▽78 「わしらは手分けして24時間水質のデータをとっているけど、わしらの町では真夜中の午前2時ごろ、一番水質が悪い。客が帰ってからいっせいに洗い物をするからや。けど、郊外の住宅街では午前10時頃が一番汚い。奥さんたちがいっせいに洗濯するからや。……自分たちで集めたデータは愛着がわくが、パソコンのデータには愛着がわかんな」
▽86 家々をまわり、水道が入る以前、飲み水はどうしていたか。トイレはどこにあったか……600集落で聞いてまわる。水環境カルテをつくることで、カバタなど自然な水利用へのとらえ方、見方も、貧しく恥ずかしいものという考えから、環境に適した素晴らしい工夫だと、認識が次第に変わってきた。針江築は、エコツーリズムのツアー客がどんどんやってくる。針江以外にも、高島市の深溝とか太田にもカバタがある。水を求めて大きな工場が進出した湖東にはほとんどカバタは残っていない。
▽115 日本では屎尿は肥料として有効利用された。欧米では肥料として使う文化がなかったから、水源地を伝染病から守るために下水道がどうしても必要だった。上下水道が発達すると、水辺から人が離れていく。屋外への洗濯は自然な水への信頼の証だが、それ以降は見られなくなった。
スイスレマン湖では、湖岸で洗濯する1900年頃の写真がみつかり、もうもうと湯気が写っている。洗濯にお湯を使って煮沸消毒していた。その熱湯を使う伝統が引き継がれているから、現在でもフランスでは、洗濯機に温度設定機能が付いている。最高温度は90度まである。
▽118 鳥越先生の「水と人の環境史」
▽123 河川関係の審議会や委員会では、河川改修やダム建設の理由が、河川水量の制御という河川工学的な資料で説明する。被害者の視点や被害地の状況を具体的にしめした資料はほとんどなかった。「何年に死者何名、何ヘクタールの農地が水につかった」という数値だけ。ある流域で、過去の水害被害をくわしく調べると、死者が出たのはダム建設が予定されているはるか上流の山間部での土砂災害だった。
125 水害当時の被害写真を見てもらいながら、被害状況をうかがうと、新しい橋ができたけど、その横に古い橋の跡が残されていて、堤防が低かった。そこからあふれた。さらに、戦争で男手がとられ、土砂や石をとりのぞくなどの河川補修ができていなかった。また、川沿いにあった半鐘が戦争で供出させられて、危険を知らせる手だてがなかった。
▽148 明治の淀川改修 瀬田川の南郷洗堰。 宇治川と巨椋池を切り離し川を連続堤防で囲い込む。淀川下流放水路の付け替え。
大阪はニューオリンズよりはるかに恐ろしい地形。もともと低いところを流れていた宇治川と大和川を堤防で高い位置に閉じこめてつけかえた。大阪市で淀川の堤防が切れたら、天六あたりから地下鉄に水が流れ込み、地下鉄も地下街もすべてが8時間で水没する。
桂離宮は、洪水を受け流す。高床式にして、生け垣の笹を編み込みにして洪水の水の流れを弱め、土砂とゴミを遮断するフィルターとしての役目をはたすようにした。防災ではなく減災の考え方。……堤防で人と川を分断してきたことが、もろい地域をつくってしまった。
▽163
▽165 屎尿を利用したエコトイレが開発されはじめた〓。便器に穴を2つつくって大小便を分離し、小便は栄養分が多く病原菌などがあまり含まれていないからそのまま肥料に使う。大便は大腸菌などを含んでいるので、発酵し無菌化して肥料として使う。アフリカで活用実験。
▽176 上下水道が早く完備された沖島では、近年、洗濯のしあげのすすぎを、琵琶湖で行う人がでてきている。琵琶湖への信頼の表れ。
▽189 「もったいない」 フィールドワークの現場のあちこちで、生きた生活哲学として教えてもらった。=民衆の言葉=石のぬくもり
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