■日本文化の形成 上 <宮本常一> ちくま学芸文庫 20180723(再読)
宮本の観察眼の鋭さ。いまにつながる風習のなかに、縄文や弥生、海洋民族の痕跡を見いだし、それを壮大な歴史に紡ぎ上げてしまう。刺激的で楽しい。
縄文人は毛の深い人たちで、新しく海の彼方から来た人たちは、縄文人をエミシと呼んだ。海の彼方からの移民の波は2つあった。
ひとつめの波は、稲作をもたらした。稲には、湿地を好む長粒種(インディカ)と、水を落とす必要がある短粒種がある。日本には、ヒマラヤの東の谷の棚田で生まれた短粒種がまず伝わった。伝えたのは、呉越の内乱で越から船で逃げてきた人々だった。漁労をしながら朝鮮半島南部から北九州にかけてに住みつき、稲作や南方の風俗を日本にもたらした。彼らが「倭人」であり、海の交通の支配者だった。倭とヤマトはもとは別のものだった。
後漢書は、倭人ははだしで生活している、と記した。日本人の大半は明治30年代までははだしだった。南から来た人間だったからだ。
「任那」は滅びたが、その後もずっと倭人が住み続け、鎌倉時代まで「日本館」(倭館)があった。蒙古によって日本館が滅びて日本と朝鮮の間が断ち切られ、倭寇が登場した。
倭人につづく第二の波が、鉄器をもつ騎馬民族だった。海を支配する倭人に鉄や銅を与えることで海を渡ったのではないか。鉄をもつ騎馬民族が邪馬台国を滅ぼして大和王朝を築いた。西暦370年ぐらいから、古墳のなかに馬具がたくさん出るようになったのはそれを示している。中国由来の稲作を中心とした祭祀的な王朝の上に、朝鮮から来た人たちが武力的な国家をつくりあげた。
この王朝は、大陸の流れをくむため先祖を祀った。伊勢神宮の内宮は先祖をまつる。一方、外宮に穀物の神を祀るのは、卑弥呼たち稲作民族の風習だった。
靴を脱いで家にあがるのは弥生式文化の特色で、土間があるのは縄文文化の名残りという。鎌倉時代までは竪穴に住む人が多く、昭和10年代まで竪穴式の住居形式は残っていた。彼らは最近まで、ドングリとかトチの実、カシの実などを食べてきた。
畑作は、もとは焼畑だったが、大陸から来た秦氏が蚕を飼うために桑を植えることで定畑化した。秦氏は馬を放牧するから、人が住む場所の外側に垣をつくり、その内側で作物をつくる。それが垣内(かいと)畑、つまり定畑として発達し、その後、垣の外にも畑が広がった。近畿にカイトという地名が多く残っているのはこれに由来する。
縄文時代も農耕はあったが、農地が移動した。それが、一定の所で作られるようになってきたのが弥生文化。
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▽爆発で積もった比較的黒い層はまだ新しい。それ以前に吹き上げられたものは赤。関東ローム層の赤い土は、何百万年前から爆発し堆積したもの。この赤土層から黒曜石が出てきた。黒い土の層は古いものでもだいたい1万年前。(〓大山の黒い土)
▽おしりの蒙古あざによって南米の先住民族がモンゴロイドであることがわかる。
▽60 古い縄文人は、死体が遠くへ遺棄されたという形跡がない。…現代にいたるまで、屋敷内に墓を設けるという習俗が青森県から九州まである。そこがだいたい畑作地帯で狩猟文化も残っている。
▽65 物忌みするなどの穢れの考えは稲作文化が生んだもの、…座敷があって、家に入ったら靴を脱いであがるのは、弥生式文化の特色。土間があるのは縄文文化の名残り。
▽80 岐阜県の高山では、冬になると若者が、田んぼを掘り起こして籾殻を強いてわらの屋根をかけ、夜なべ仕事をした。「ほおかむり小屋」。昭和十年代にはたくさんあった。▽88 黄土は肥料をやらなくてもものができる。一番良いのは赤土。それが多いのが南米。コーヒーをつくるとき、ほとんど肥料をやらない。ケニアも肥料なしにいくらでもトウモロコシができる。2番目によいのが黒土。3番目が黄土。日本の土はそれより一段低い淡黄色の土の分類に入る。火山灰土になると、肥料を使わないと作物が作れない。そういう地帯には焼畑が多い。
日本は土が悪いから、常畑がなかなか成立しなかった。
…稲作は、鉄の鋤と鍬を必要とした。鉄のとれるところで稲作が発達した。
▽92 三次盆地周辺には円墳が3000ぐらい分布している。これらは鉄を採った人たちでは。
▽135 沖縄の豊年祭は8月15日。沖縄ももとはあわを一番多く作っていた。だからアワ盛、という。米よりもアワの方が重要な意味をもっていた。
▽165 古い時代に日本に入ってきた食物のなかに、ゴマ、キュウリ、クルミといった胡の字がつくものが多い。胡は西の方にいた種族。北方へつながる文化。
▽168 古い時期にあらゆる技術が隅々まで広がっておったということは、稲作集団がたいへん大きな役割を果たし、大陸から新しい技術を持ってきた人たちが、征服者として乗っかったのではなくて、指導者として乗っかってくれた。
▽170 首狩り。日本の場合は武士だけがやっていて、ほかの連中はいち早くやめてしまった。…焼畑だとか、ミレット、小粒の穀物をつくる民衆の中に見られる儀礼。収穫祭のときに神に捧げるのは大事な祭りの条件だった(イフガオ〓)。弥生時代、脳みそを食った跡がある。
▽176 戦前の焼畑では、大根やカブラが、サトイモとならんで重要なものだった。
▽185 水さらしの技術は、澱粉を処理しようとすることから起こってきたのでは。水ざらしの調理は、日本の食文化のひとつの特色。澱粉を食べるときに水ざらしをするから、熱を加えればノリ状になる。はじめからモチにならざるを得ない。ソバもサトイモもアワも餅状になる。
焼き畑でカリ分が多くなると、作物からえぐみがとれる。大根も辛みが消えて甘みだけになる。
▽241 日本の焼畑は南方系と北方系とにわかれるのではないか。ソバとアズキだけは共通するが、朝鮮半島から広がった北方系の焼畑では、一番最初にヒエやソバをつくり、次に豆類(獣にあまり食われないアズキ)、さらに大事なのはダイコンとカブラ(スズナ、スズシロ)。南の方は最初につくるのがアワとソバ、ヒエのかわりにアワになる。次につくるのはイモ(コイモ、サトイモ類)。終わりにアズキをつくるのは共通している。
▽246 定畑の場合は柵を作ることが多いが、焼畑では少ない。害獣がわりあいやってこないから。アズキの葉は、牛なんかもあまり食べない。ダイズは食べられてしまうから焼畑ではつくらない。
…害獣が荒らされないもののなかで代表的なのは麻。上総とか総(ふさ)というのは、反物のことをいっている。反物以前の麻の糸のことを○総と。
▽…漁村集落のほとんどの住居が田の字型ではなく並列型の間取りになっているものが多い。船構造がそのまま陸上がりしたものと見てさしつかえないのでは。
▽257 奈良時代の律令国家が解体して、もう一度、祭祀を中心とする国家が復元してくるのが平安時代であった。戦争をすることがほとんどなくなるなかで、祭祀を中心とする政治をおこなうようになった。平安貴族はすべて高床の家に住んでいる。稲作儀礼の古いものがそのままその次の時代に復活して…
▽258 済州島の海人と日本の海人との交流は、ずっとあり、その交流の先が鐘ケ崎であったという伝承が今も残っている。済州島の海人は女だけがもぐっている。17世紀ごろは、男も女ももぐっていた。…日本の場合は、男の働く場が別にできたことによって、男と女の稼ぎの分離が起こってきた。
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