■南方熊楠 森羅万象に挑んだ巨人<中瀬喜陽> 別冊太陽 2016105
▽8 荒俣宏
1990年代からの熊楠再評価の機運。熊楠の草稿類を解読しつづける松居竜五さんたちの活動、「ミニ熊楠」とも呼ばれた故・後藤伸さんたちによる神島生態系調査の継続などは、重要な進展の一例といえる。
…エコロジー ヘッケルも熊楠も、学問分野としては植物生態学と限定しておきながら、その実践面や根底の思想については植物と生態学の両方の境界を取り払ってしまった。…ヘッケルは後年にいたりエコロジーの定義を拡大し「とりわけ動物と植物の友好的な関係」に注目した。
神をも無常の存在だと言い切った熊楠も、宇宙は「物」と「心」とが交わって形成する「事」の世界であると述べた。直接かかわりがないように見えるものも、見えない相互関係を結んでおり、「世界に不要のものなし」と断じた。熊楠のエコロジーという用語には、実践の面で、科学をこえる完成のメッセージがこめられていた。
▽「田中神社の風景美観と紫藤の優雅なること、並びに現時植物学上の大問題たる松葉蘭発生研究に最好の場所」と讃え…
▽22 田中神社。楠の巨木。大型の手水鉢が木の幹に飲み込まれてしまっているのがわかる。100年以上かけて太く肥えた幹に取り込まれてしまったらしい。
▽30 慶応3年生まれ。夏目漱石、正岡子規、尾崎紅葉、幸田露伴、宮武外骨も。
▽56 1900年、33歳で帰国。那智・田辺に定住。
▽68 田辺町近郊の集落で、比較的自然植生に近い環境が維持されている場所というと、神社林である。闘鶏神社をはじめ、湊村の横手八幡、神子浜の神楽神社、磯間夷神社、西の谷村の西ノ王子、万呂村の須佐神社、稲成村の稲荷神社、鳥ノ巣の対岸の神島、岩田村岡の田中神社や八上神社…高山寺とその境内に隣接する。
1906年ごろから神社合祀が推進されるようになる。…小集落ごとの小祠が合祀廃社とされていく。自分の採集品のなかから新種として記載報告された第一号のアルキリア・グラウカ(アカウツボホコリ)を採集した猿神社が廃社となり、神林のすべてが破壊されたのを目の当たりにして…
▽74 和歌山県は戦前多くの新聞が発行された地域である。田辺に限っても、現在の紀伊民報につながる「紀伊新報」(明治44〜)や田辺新報(大正13年〜)など、実に16紙が発行されていた。明治33年刊行の「牟婁新報」は初期社会主義運動の拠点のひとつをなした格別の存在だった。
▽83 安藤みかん アメリカ時代に知ったグレープフルーツを気に入ってしまった。ビールと牛肉も大好物。熊楠が常連だったのは、近所の楠本牛肉店(〓現在も銀座通りにある)
▽86 神島歌碑建立 昭和5年、神島に立つ行幸記念碑。熊楠の自詠自筆の「一枝もこころして吹け沖つ風わが天皇のめでましし森ぞ」の歌が刻まれている。
▽87 中瀬
「学問と決死すべし」 学問を見過ぎ世過ぎの道具とする学者には容赦のない批判の矢を放っている。…大学にいて他人の研究状況をいち早く関知したとて何が偉いものか、学者のなかには情報の入らない灼熱地獄の密林で死と隣り合わせの研究をしている敬服すべき人々がいる。田舎で情報に疎くとも研究に没頭している者と、中央にいて情報収集に明け暮れている者とどちらが学者としてあるべき姿なのか、と。(熊楠の存在があるから、中瀬や後藤のような在野の研究者が多いのか?〓)
▽92 土永知子 鳥ノ巣海岸から見える白い砂浜は、かつて「おやま」の頂にまつられていた「たけみかづちおのみこと」…に参拝する人々が上陸したところで…今も朽ちた鳥居の跡や、山頂までの石組みがのこっており、かつては漁民の信仰を集めていたことがうかがえる。明治42年に村社に合祀され、今は山頂のテイカカズラの茂みのなかに「神島大明神」の額がかかった小さな祠があるのみである。
これだけ近い島が、原生林の状態を保つことは不可能である。かつては信仰のおかげで、ある程度安定した森林が維持できた。合祀のため神はいなくなり、「こやま」で小学校舎改築費のために伐採がはじまった。…「明治44年、こやまはすでに丸禿にされてしまった」と熊楠は書いている。…熊楠の死後、大きな台風や戦争があり、…昭和の調査で「おやま」のタブノキが激減しているのがわかったが、お金にかわる有用木だったので、そのほとんどが盗み去られた可能性がある。
1990年代には鵜が集まったため、生態系のバランスが崩れ、「おやま」でも大木が倒れた。…「こやま」では崩壊地をおおうハマカズラの大群落が見られる。蔓植物は森林の傷を保護する絆創膏なのだ。今の「神島」はさまざまな攪乱から必死で回復しようとしている包帯や絆創膏だらけの森林なのである。今後、神はいずとも、熊楠発の「エコロギー」の思想によって「神島の森」の回復は見守られていく。〓
▽100 2004年の高山寺における大量の土宜法竜宛書簡の発見。従来30通足らずが確認されていたが、43通もの新たな書簡が発見された。…粘菌の変形体から子実体への移行の際に、ひとつの細胞の内部に生きた細胞と死んだ細胞が共存していることに熊楠は注目した。
…神社合祀令だけが壊滅的な打撃を与えたというわけではない。そして、この頃はまだ限定されていた森林破壊を決定的にしたのは、熊楠の没後、1950年代以降の林野庁によって進められた植林政策である。杉の苗を植えるごとに補助金を出すという政策によって…紀伊半島の植生は一変した。
▽117 夢日記〓
目次
コメント