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漂海民<羽原又吉>

■漂海民<羽原又吉>岩波新書 20161119

紀州の漁民は明治になって真珠貝をとりに豪州などに渡ったが、通説と異なって江戸時代以前から海を越えていた、と、1960年代に羽原が主張したと聞いてこの本を手に取った。真珠は広島方面の仲介者の手を経て、博多で中国人に売却されたという。その証拠になる文書はなく、今は羽原の説を疑う人が多いが、彼が断言するには、古老の証言など何らかの根拠があるような気がする。
 瀬戸内海の家船、中国の蛋民、カンボジアの湖の民など、船を家にする人々を紹介する。この本ができた1960年代までは日本にもそういう人たちがいたのだ。
 日本の漂海民は近年まで入れ墨や抜歯、洗骨の埋葬儀礼を受け継いでいた。古代以前の習俗が近年まで残っていた背景には、船住居という特殊な環境があるという。
 鐘ケ崎のアマ−家船が方々へ移動あるいは移住した結果、鐘ヶ崎系統のアマといえる一群のアマ部落が成立した。
 一般漁村では、女子が漁船に乗り込むことが禁忌とされたが、アマの部落では、禁忌の観念が希薄だった。輪島海女の結婚では、婚約後数カ月から数年の間、妻は実家で働き、夫は妻のもとに通った。母権的な社会に見られる結婚形式だった。。
 鐘ケ崎以外にも、日本の家船にはいくつかの系統があった。
 瀬戸内海の能地を親村とする系統の家船は、外海から産卵のために入ってくるタイが、急激に浅いところに出て浮き袋の調節がきかず一時的に浮くところを網ですくいとった。肥前瀬戸の系統は、魚突きがすぐれ、網を引いて魚をとることも次第に覚えた。
戦後、瀬戸内海には、復員者、軍需産業からの転業者で船をすみかに漁業する家族が若干あらわれた。芸備諸島の島では昭和30年ごろ、十数世帯が船住居をはじめた。ミカン畑が海岸までのびて、地価が高騰し、漁家を建てる余地がなくなったからだった。
潮岬近辺の漁民は、出漁のため船に乗り移ろうとするときなどに、ツヤと独語したという。御崎明神の神がはじめて上陸したところは、潮岬と大島との間にある通夜島だとされ、この通夜から出たらしい。アマの本場である博多湾には「津屋崎」があり、尾鷲・引本ではツヤ、三輪崎ではツイヨ、古座ではツイヨロと独語する漁民がいた。志摩方面にも同様の習慣があった。漂海民のつながりなのかもしれない。
 クジラとりは東海地方や紀伊半島などで行われていたものが九州に伝えられた。捕鯨のハザシの出身は、鐘ヶ崎をはじめアマ部落が多かった。ハザシは、クジラの動きのままに浮き沈みするので、平素から絶えず息を詰める練習を怠らなかったという。現代の太地などの捕鯨文化にも、アマ文化の痕跡が見られるのかもしれない。

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▽7 漂海民のような生活様式が起こるのは、何か異常な外的圧力を考慮しなければ説明しがたい。日本では中世社会が、漂海民誕生の舞台として一番ふさわしいようである。
…日本の漂海民は、近年まで入れ墨、抜歯などの古俗が一部に保存されていたし、洗骨の埋葬儀礼がたしかめられたところがある。…古代以前の習俗が近年まで残ることを可能ならしめたとすれば、船住居という特殊な環境を考えるべきであろう。
▽9 漂海民の「陸上がり」
…陸上に土地・建物を所有するようになったのは、根拠地の墓地がかわぎりであった…
▽12 戦後、瀬戸内海には、復員者、軍需産業からの転業者で船をすみかに漁業する家族が若干あらわれた。芸備諸島のある島では昭和30年ごろ、十数世帯が船住居をはじめ、漂白漁業をしている。この島では、ミカン畑が海岸までのびてきて、漁家を建てる余地を奪った。その上、地価が高騰したのである。
▽24 漁業とよびうるものは、農業の存在と、漁民・農民間で行われる交換経済との二つを、前提条件にしている。
…縄文文化は、その全時期にわたって魚食の歴史につながっているといってよい。農業の発達はばんだ地域での、狩猟・漁労的新石器時代文化として位置づけできる。
▽37上代からの漁民は、農耕社会から成立した政治的首長の人身的支配をこうむり…この拘束から脱して、漁民が営利的自由経済生活を確立してから後も、漁業は常に農耕社会に何らかの形で組みこまれ、従属的な地位に置かれた。漁業生産が、農耕社会の消費を前提にしていたからである。
▽44 漁船のはじまりは、一本の樹木をくりぬいてつくった独木舟であった。和船の発達は独木舟を基礎としている。縄文後期になると、独木舟の先端をとがらす工夫をはじめ…乗り手の快適さを増し、安定をはかるため船底を平にした平底船を生む。
弥生式文化になると、ゴンドラ風の船である。…古墳時代には、舷側板を継ぎ足した船…船内は船板(デッキ)が張られている。
▽49 中世から近世における五島列島の状況を見ると、武士の残党、または瀬戸内海、紀州沿岸の漁民が、盛んに移住している。北国から柴田勝家の孫2人が…上陸し製塩に従事した…。
紀州有田郡広村の漁民は、毎年初秋より、カツオ釣りの出稼ぎ漁業に来ていたが、慶長年間になって、奈良尾へ移住した。
野母崎半島の野母崎は、熊野浦の漁民夫婦が漂着して開発したといわれる。
▽53 紀州の串本・潮岬・大島などの漁民は、戦前まで毎年オーストラリア沿岸に貝類採取の出稼ぎ漁業をおこなっていたことで知られているが、その出稼ぎは明治以前にさかのぼるのである。鎖国を続けていた江戸時代の日本ではおどろくべきことである〓。乗り組んだのは男だけであり、真珠を持って帰国した。真珠は広島方面の仲介者にわたされ、博多で中国人に売却されたという話である。
遠洋出漁に際して、まず潮岬の御崎明神に参拝し、拝殿周囲をしきつめた黒色の玉石1個をかならずたずさえ、帰国するまで、日夜いかなる場所にも肌身を離さない。帰国するとその石を2個にして返納し、無病息災であったことを感謝した(〓〓節分の石と共通点は?)
参拝のとき、あるいは出漁のため、船に乗り移ろうとするときなど、何か行動に移る瞬間に、ツヤと独語すること。御崎明神の神がはじめて上陸したところは、潮岬と大島とのあいだにある通夜島だという〓〓。この通夜から出たのではないかと思うが、確かなことはわからない。…万葉時代からアマの本場である博多湾には「津屋崎」がある。尾鷲・引本ではやはりツヤ、三輪崎ではツイヨ、古座ではツイヨロと独語する漁民がいた。この習慣は志摩方面にもみとめられたという。
▽55 上方漁民の関東への出稼ぎ。摂州の佃・大和方面から江戸を中心とした地方への移動。慶長18年、徳川氏から漁業特権を得た。日本橋の小網町にあったが、寛永年間に鉄砲洲に移り、さらに正保年間にいまの佃島に定住した。この間、魚問屋を開業し、これが日本橋魚市場の起こりになった。摂州漁民は特権植民。
紀州方面その他の漁民は、政治権力のバックをもつことなく、出稼ぎした自由拓殖。彼らの関東漁業の開発はイワシ網が中心である。
▽67 今日の有名なアマ部落は、たいてい海女で、海士はすくないといわれる。本州・四国・九州全体では昭和13年ごろの調べでは、海士より海女がやや多いが、ほとんど相半ばしていたという結果が出ている。
…女子が漁船に直接乗り込んで漁業を行うことは、一般漁村ではきびしい禁忌とされている。…海女は舟霊が女神だと知っているが、それだけにとどまっていて、女人嫌忌の観念がきわめて希薄である。これが、アマ部落と一般漁村との大変異なる性格である。
女尊の観念がもともとアマ部落には強かったふしもみとめられる。輪島海女の結婚を見ると、夫が妻の住居を訪ねる形式を踏んでいた。婚約後、数カ月から数年の年期を決め、妻はそのまま里で働き、その間、夫は妻のもとに通うのである。…母権的な社会に見られる結婚形式。
▽73
▽81 毎年正月、2月ごろ、鐘ヶ崎から能登へ出稼ぎにきていた。七ツ島、舳倉島でアワビをとり、年の暮れになると帰国していた。永禄年間(1558~69)あるいは同12年に移住してきた、という説。…現在のように海士町の地に落ちつくのは慶安2年(1649)、一説では寛永年間(1624~43)である。
▽95 クジラとりは東海地方や紀伊半島などで行われていたが、これが九州に伝えられた。技術的な指導に当たったのは熊野の漁民だといわれている。…赤肉は食用に、白肉からは油をしぼり、灯火に使われた。鯨油を稲田にいれて、ウンカの発生を止めることにも使用される。骨は漁具の材料となり、細かく砕いて肥料として役立てた。
▽99 捕鯨のハザシの出身が、鐘ヶ崎をはじめアマ部落が多かった。ハザシは、クジラの動きのままに浮き沈みするので、平素から絶えず息を詰める練習を怠らなかった。
▽105 鐘ヶ崎のアマ−家船が方々へ移動あるいは移住した結果、鐘ヶ崎系統のアマといえる一群のアマ部落が成立したように、日本の家船にはいくつかの系統があった。
瀬戸内海の能地を親村とする系統の家船。
肥前瀬戸の系統。魚突きがすぐれ、アワビをとることも上手。同時い網を引いて魚をとることも次第に覚えた。
▽114 瀬戸内海。島が多いから潮流も複雑。能地の漁民の行き先は、浮きタイの名所。外海から産卵のために入ってくるタイが、急激に浅いところに出た場合、水圧の急変に浮き袋の調節がきかず、一時的に浮く現象。そこを網ですくいとる。
▽133 明治元年の塩飽本島での漁民暴動は、差別待遇の撤廃を要求する人権獲得の運動だった。
塩飽衆は、中世から近世に、海運界の先進的リーダーだった。河村瑞賢によって開かれた西廻り航路も、当初のうちは塩飽衆の独占事業だった。
…大名以外が領地できなかった時代に、塩飽諸島だけは、水主650人の一団があたかも領主のように島治の権利・義務を享有した。大名小名に対するものとして、かれらを人名とよんだ。人名たちによって自治制がしかれていた。

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