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作業中)海の熊野<谷川健一・三石学編>

■海の熊野<谷川健一・三石学編>森話社 20161119
□谷川健一
▽9 土佐の捕鯨は、太地から習ったといわれます。壱岐の鯨漁は熊野の漁師を雇ってはじめたとされています。五島の有川も紀州湯浅の人が捕鯨を行ったのをかわぎりに、古座浦の人を招いて操業したのが突漁による捕鯨だったとされています。五島の中通島の奈良尾には、湯浅湾に面する広浦から鰯網漁民が多くで稼ぎに行きました。奈良尾には、広浦からきた人々の無縁仏が今も数多く残されています。宝暦4(1754)年には広浦には漁網が36張ありましたが、そのうち35が関東及び四国に出漁するというありさまでした。
…長崎県の式見村には椿の葉を巻いて煙草を吸う風習がながらく残っていました。これはもともと熊野地方に見られる風習なのです。
▽24 出雲と熊野の共通点 地名・神名・神社名など一致するものが多い。
競漕は双方にある。速玉神社の御船祭と美保神社の青柴垣神事。地名も、忌部郷、須佐郷があり、速玉神社、伊達神社、須佐神社、加多神社(加太神社)、熊野坐神社もある。イザナミの墓も、古事記では、出雲と伯耆国の境の比婆山、日本書紀では熊野の有馬村に葬ったとしている。
常世としての出雲は、常世としての出雲は、常世としての熊野と相似でなければならなかったのでは。双方に水葬の痕跡がみられ…
…奄美大島の北で二つに分かれて日本海の出雲と太平洋の紀伊半島とを洗う黒潮文化に原因があると思う。もと一つの文化や意識が二つに割れたのでは。古代人の意識には、かつて一つのものが二つに分裂した過程がそのまま捉えられていると私は考える。
□三石学
▽36 鳥羽の青峯山や本宮大社奥の船玉大権現などに対する漁民の信仰が篤く、遠く伊豆半島の漁民からも信仰されている。
▽38 七里御浜は、紀伊半島のあらゆる種類の岩石が熊野川により新宮河口に運ばれ、熊野灘の海流によって磨かれ形成された20数キロにわたる砂礫海岸(〓碁石の石なども?)
…熊野市には「鯨で建てた学校」。1890年に20メートルもあるオオナガスクジラが打ち上がった。木本小学校の改築問題が浮上して資金に困っていた。鯨を売却した資金で建て替えて、二階建ての新校舎が明治17年に完成した。木本海岸にはこの鯨の供養碑が残されている。〓〓
…明治初年、串本の稲村崎の海岸に1本の巨木が漂着し、漁師の房右ヱ門が見つけ、恩のある神田家にゆずった。この木で建てられたのが、神田家の稲村亭である。無量寺のすぐそば。「わが国産の樹種ではないと思われる。杉にあらずもやや近し」という謎の大木。屋久島の杉が黒潮に乗ってやってきたと考えるのが一般的だが、レッドウッドに似ているとすれば北米産とも考えられる。〓〓
…沖縄海洋博のおり、シチズン時計が中米コスタリカ沖で流した時計入りカプセルは、日本の沿岸にも漂着している。
▽42 八丈島には、150年ほど前に熊野から漂着したカヤノキで建てられた料亭がある。アシタバ料理を専門とする「いそざきえん」。江戸末期に熊野川の筏が豪雨で熊野灘に流され、八丈島に漂着したという。
▽43 1522年、補陀落渡海で那智の浜から船出した日秀上人が琉球の金武湾に漂着し、多くの神社仏閣を再興した。おそらく黒潮反流(熊野逆流)でたどりついた。
…2009年11月に七里御浜沖で座礁したフェリーありあけも向岸流(反流)に乗せられたのだろう(〓海保の話にならないか)

□桐村英一郎
▽66 熊野の祭で、「海への眼差し」を強く感じるのは、速玉大社の御船祭や、古座川の河内祭である。御船祭は、海からきた神が河口の蓬莱山に寄りつき、もう一つの聖地である御船島にいたるという形。
河内祭は、河口沖に浮かぶ九龍島に来る神を上流までお迎えするというのが原型だったと思われる。そこに水軍、捕鯨という栄光の物語が重なり、現在の形になったのだろう。

□三石学
▽83 花の窟。熊野は甲斐国とならんで丸石信仰のさかんな地域。丸石には神霊が宿り、霊力があると信じられている。

□山本殖生
▽90「山が海に突っ込んでいる」ような熊野の地勢は、平野が少ない。統一王権は成立しにくかったようだ。そのためか、下里古墳を除くと、紀伊半島南部の熊野には古墳がない。
▽91 少彦名命が熊野の御崎から常世郷へ渡ったともいう。神武天皇即位前紀には、兄の稲飯命と三毛入野命が、熊野灘で暴風に遭い、嵐を鎮めるため常世郷に往った神話も有名である。…これらの神話伝承は、古代熊野人の水葬儀礼の神話化という。
▽92 …和深近くに伝わる「シオミ」と呼ばれる習俗。告別式の夜、青竹とワラゾウリ、ツトにくるんだ握り飯、上部を破いた麦わら帽子を持ち、真浦の浜へ行く。青竹に草履と握り得飯をくくりつけて、帽子をかぶせる。その後、歯の折れた櫛で頭髪をとき捨てる所作を人々がくり返した後、櫛は海に流す。死者の霊魂は浜辺から海の彼方の浄土に旅立っていくのだと聞かされるという。同様の風習は田並地区にも伝わっている。
田辺市新庄町の跡ノ浦では、波打ち際に「人捨場」「さんまん」と呼ばれる場所があり、亡骸が自然に沖へ流れていくように葬ったという。
平維盛の山成島での入水往生は、補陀洛浄土への往生を意識した渡海儀礼だった。
…1722年の宥照上人の水葬を最後に「渡海」は終演する。

□三石学(熊野市教委)
▽107 青岸渡寺は、インドから熊野に漂着した裸形上人が、那智の滝で厳しい修行をして観世音菩薩を感得して開基したと伝えられている。
▽113 熊野市波田須町 徐福の祠と墓がある。昭和30年台に徐福の宮に通じる市道工事中に、中国秦の時代の大型半両銭が多数見つかっている。〓〓(徐福伝説の真実性)
…徐福上陸地とされる場所に共通しているのが、航海の際に山当てとなる富士山形の蓬莱山の存在である。

□川島秀一
▽164 関東出漁は、熊野漁民よりも、上方や上方に接している紀州の漁民が早かった。江戸の佃島を造立したのは、摂津西成郡田蓑村などの漁民。加太浦の漁師が元和年間(1615~24)に九十九里浜にイワシの地引網漁を導入して漁場を開拓し…房総のタイ網は、同じ元和年間に湯浅の栖村角兵衛によって「鯛桂網漁業」がおこなわれたという。正保年間(1644~48)には、広川の漁民が外川浦(銚子市)の漁場を開設して、波戸などの港の建設に貢献した。
…印南の〓は…
▽174 紀州のカツオ船が、春と夏に、餌イワシと飯米を積み込んで「沖泊まり」をするほどの「遠海」でカツオを釣ることが、(唐桑半島の漁師にとっては)驚きであったことがわかる。

□田中弘倫
▽178 16世紀後半には、知多半島から伝わった捕鯨が熊野地方でもはじまっていた。

□稲生淳
▽195 近世はじめに三河で開発されたといわれる「突取式捕鯨」は、南下する鯨とともに、伊勢から志摩、熊野へと伝わった。熊野では三輪崎浦の漁師たちがクジラを追って南下し、宇久井浦、勝浦、森浦、太地浦、古座浦、樫野浦などに捕鯨を伝えたといわれている。
▽204 紀伊木本駅と尾鷲駅が結ばれ、紀勢本線が全通したのが昭和34年。

□宇江敏勝
▽213 川原町というのは、今の熊野大橋の下から、速玉大社のかみの相筋のあたりの川原にあった。百数十軒もの小さなバラックが軒を連ねて商いをしておった。

□川口祐二
▽230 磯の権利を買った業者は海女が必要だから、志摩の海女から韓国海女へと人が変わる。…志摩のある漁村では、村の漁師と結婚した済州島の海女が、地元の海女に混じってもぐっている。
…2009年から10年にかけての済州島海女の数は…紀伊長島、尾鷲、熊野市…で、総勢50~55人ぐらいだろう。〓(〓海女の現場の国際化)

□青岸渡寺  田中弘倫
▽261 青岸渡寺 明治7年に青岸渡寺という名になるまでは如意輪堂と称していた。
…廃仏毀釈で如意輪堂も廃されることになり、明治4年本尊が市野々にある宝泉寺に隠して安置されることになった。が、明治7年、廃堂を復興し、翌8年にこれを本堂として天台宗青岸渡寺を創立した。

□奥熊野の銅山  田中弘倫
昭和40年代後半まで盛んに採掘された。その間、江戸時代には鉱毒による公害問題が起き、その影響は今日までも若干つづいている。…後誠介氏は「古くから南紀は銅山地帯」「古代熊野が日本書紀に登場するのは、鉱山があったからかも知れない」と述べている。

□隠れキリシタン娘 中田重顕

▽291 明治政府は、浦上の切支丹村民すべてを遠方各藩に流罪する方針を決定。浦神村800戸中700戸が切支丹とみなされ、総流罪が決まった。その数4000人。紀州藩に流されたのは289人。17歳の岩永キク。
身柄を預かった庄屋たちは、切支丹に少しも人道に違う扱いをしなかった。だが、和歌山藩は歴史に汚点を残す苛烈極まる扱いをした。死亡96人、転宗52人、信仰を守って帰郷52人…。

□稲生淳(和歌山県教育センター学びの丘所長)
▽304 「瀬戸内海」という呼び方じたい、The Island Sea の翻訳後として、明治以降にもちいられるようになったと言われている。
▽322 羽原又吉「漂海民」には「串本、潮岬、大島の漁民のオーストラリアへの出稼ぎは、明治以前にはじまっていた」と記されているが、確かな証拠はない〓。大島や潮岬には「灯台建設にやってきた英国人技師が土地の青年をつれていった」という話も。

□辻本雄一
▽329 新宮の町は、ゆったりと開けた平野を形成しているわけではない。千穂ケ峰という山塊が大きく川を湾曲させ、屏風のように立ちはだかっているし、今では全く跡をとどめていない臥龍山(都市開発や改良事業によってじょじょに切り崩され、1981年には完全になくなる)が、丘陵のように町中を南北に遮っていた。
▽330 木材の道は、新宮と江戸深川とを結びつけ、ハイカラな気風と先進的・開明的な気質を培うのに役だった。
…明治になっても、新宮の人々の目は東京に向いていた。新しい文化をこともなげに取り入れる素地を培った。
▽333 開明的な思想を表すひとつの表徴として、写真術への関心と普及とをあげることができる。大阪の天王寺開発のきっかけとなったといわれる明治36年に開かれた内国勧業博覧会で、熊野の風景写真の先駆けをなした久保昌雄の「雨中の瀞峡」が特選に選ばれている。…明治末、新宮には最低4軒の写真店が存在していた。
田本研造。記録写真のパイオニアとして、北海道開発を記録。榎本武揚や新撰組の土方歳三らの肖像写真、旧幕府海軍の軍艦「回天」などの写真を残した。
▽337 新宮中学の第1回卒業生(明治39年)は、一高や三高への入学生を出すなど、優秀な学年として語りぐさになっているが、29人中6人が「英文学研究のための渡米者」と記されている。ちなみに田辺中は2人、和歌山中はゼロ。当然受け入れ先には熊野の人々がいたはずである。
…明治42年新宮中学を中退して渡米した石垣榮太郎は、アメリカで片山潜をはじめ社会主義者と出会い…抵抗の作家として名をなしていく。太地の出身だった榮太郎は、鮮やかな捕鯨船の絵を描いていた父の仕事を見習いながら育ち、父を頼って渡米したのだった〓〓
▽349 戦時下進められた1県1紙の統合にも、地理的な状況も考慮されて制度がゆるやかであり、戦後も、各市町村ごとに1,2紙の小紙が発刊されつづけた。新宮ではさらに旬間の「熊野商工新聞」や「サンデージャーナル」なども刊行され…同人雑誌の「紀南文学」…研究誌としての「熊野誌」なども刊行されている〓
▽「特別要視察人状勢一班」の大正5年の項には「和歌山ハ陰謀事件刑死者大石誠之助ヲ出シ現在要視察人中
ニ同人の兄玉置酉久(農業)、甥ノ西村伊作(材木商兼銀行重役)、大石真子(鉄工業)、同事件服役者成石勘三郎妻ノ弟タル小淵虎市(役場書記)、同峰尾節堂ノ弟慶吉(新聞探訪員)、思想頗ル険悪ニシテ基督教ヲ基礎トシ主義ノ普及ヲ図レル沖野岩三郎(牧師)等ノ存在シ尚神奈川在住加藤時次郎ノ弟時也ノ潜メルアリ三重ニハ……殊ニ両県下熊野川沿岸ハ夙ニ一種ノ思想ノ浸潤セル土地ナルヲ以テ此ノ方面ハ将来頗ル注意警戒ヲ要スルモノト認メラル」とあって、このような記述は毎年のようにくり返されているのも事実である

□桑原康弘 地名分布

□熊野川か新宮川か 田中弘倫
▽ 昭和45年に一級河川になり、建設省の管理にうつって河川名が「新宮川」に統一されて波風が立つようになった。
昭和50年ごろ、新宮高校教諭の福井正二郎氏らが「熊野川の名を守る会」を結成。
首長や議会の知らないままに、熊野川沿岸の関係自治体が、昭和48から51年にかけて、「熊野川は通称名だから新宮川に訂正してほしい」という調書を提出していたようだ。沿岸住民の意に反して出されたミステリアスな「調書」だった。
こういった要求にこたえて昭和53年に国土地理院は「新宮川(熊野川)」の名を地形図につけたのだという。
運動がみのり、平成10年、『一級河川 熊野川」が正式に復活したが、水系名は新宮川のまま。
▽403 十津川村では「十津川」であり、本宮では「音無川」、北山村では「北山川」。十津川・北山川が合流する旧熊野川町菅井より河口までを新宮川・熊野川と呼んでいたこともある。
▽407 統一的な故障は確立せず、明治の文人たちや行政、マスコミにさえ表記上の乱れが頻繁に見られ、その混乱ぶりは現在終息しつつあるもののまだ後遺症として残っている。…熊野川と正式に名称を確定したのであれば「熊野川水系」と訂正するべきであろう。

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