■流れ施餓鬼<宇江敏勝> 新宿書房 20160907
熊野川と日置川流域を舞台にした小説6編。高校卒業後、炭焼きや林業で暮らしてきた著者の体験や古老から聞いた話をもとにしている。
タイトルとなった「流れ施餓鬼」は、麦わらの舟に新仏をのせ、火をつけて流す田辺市下川上の盆行事だ。稲わらでは火がつきにくく、すぐに沈んでしまうから、この行事のためだけに地元で麦を栽培している。この舟は男たちが引っぱって川に流すが、過去に一度だけ女性が参加したという。それを耳にした著者が、肺病の男性と女教師の悲恋の物語に仕立てた。
「団平船の熊野」は、熊野川沿いの小津荷(田辺市本宮町)という「船師」の里が舞台だ。団平船は、上流の奈良県十津川村から河口の新宮まで木炭などを運び、新宮から上流へはコメなどを積んで人力で引っ張り上げていたが、昭和30年代に川沿いの国道が開通して全廃された。小津荷で出会った明治生まれの元船師の話をもとに小説にした。
「新宮 川原町界隈」は熊野川河口の速玉大社の近くの川原にあった町を描く。大雨のたびに家屋を分解して高台に避難する町だが、最盛期は商店や宿が100軒以上もならんだ。1935年に河口の橋ができて衰退した。アユのなれずしや野菜などを「振り売り」する女性と、アユをとる男性の恋のてんまつを描いている。
どの作品も、ウナギやアユ、ズガニ(モクズガニ)をとる様子や、伐採した丸太をせき止めた水で流す方法、女性が椿の葉でタバコを吸った「柴巻き」など、かつての習慣や生業、風俗を事細かに描いている。
いま、熊野川も日置川も上流にダムができて水量が減り、水がにごり、魚も減ってしまった。宇江氏の小説に描かれるさまざまな怪異現象も遠い世界のことになった。「自然に囲まれて暮らしていると、理屈では説明できないことがしばしば起きう。今は失われてしまった、熊野の川や森の本当の豊かさを文章で再現したかった」という。
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□流れ施餓鬼
日置川の支流・安川。嶋野遺跡という縄文時代の遺跡も。
▽ ウナギの穴釣り。…ウナギをさばくには、キュウリの葉をそえて胴体を握りしめるとすべらん。
…女は椿の葉っぱでまいて刻み煙草を吸う。柴巻きという。
…シバエビは農薬をまくようになっておらんようになってしもうたのら。
…ズガニはモクズガニとも言う…秋になると産卵のためにまた海へくだるんや。そのとき餌をつけた竹の籠を沈めておくんやな。
…里芋は皮をつけたままで、塩を入れて茹でたわ。火で焙って食うたし、茶粥にいれて…
□埋もれゆく家郷
山の中、道路から離れたところにいくつも集落があり、家があった。ヒョウタン淵、ゲンゲンボ、ジョロウ淵…とそれぞれ地名がつけられていた。人がいなくなって、地名もまた忘れられて行く。
…コサメ(アマゴ)のとりかた。
…沖平から下流10キロばかりには、嶋野遺跡(下川下)がある。…宇江の一族が沖平に住むようになるのは明治36年以降。
…柴巻きは刻み煙草を椿の青い葉っぱでまいたもの。五島列島などでもみられたが、いちばん濃厚なのは熊野地方で、しかも明治生まれの女性が最後であった。
…テッポウとうのは木材を流送するための貯水施設。川をせき止めて堰をつくった。堰より下流の川が干上がると、コサメ、ウグイ、アユ、ウナギ、チチコ(ハゼ)を拾う。
…冬はワサ(罠)をかけて野兎をとった。
…昭和40年代までの20年間は植林ブーム。スギとヒノキを植えさえすれば山はよい値段で売れた。ブローカーが跳梁して…米や野菜をつくるのがばからしくなって、田畑に木を植える者もいた。
…わたしも、田畑だったところにスギやヒノキの苗を植えた。畔の石垣を掘って壊した。柿や桃など果樹の木も切って捨てた。
…自殺したいっちゃん。都会に出て建具職人になり、労働運動へ。「赤旗の歌」の替え歌の「焼酎の歌」。
…わたしは半世紀以上にわたって沖平の植林に手をかけてきた。…いずれ景気のよい時代もくるだろうと、期待したからである。…しかし、80歳に近い年齢になってみると、生きているあいだにかねになるかどうか、かなり心もとない。…おもえば長い歳月にわたって木と遊ばせてもらったのである。…人間にとって肉体労働は本来は心地よいものではないかとさえ思った。
…昔の沖平は、畑は美しく耕されて、栗、桃、梅、李、梨など果実の木もあり…牛も飼っていて…外部から隔絶された小さな世界だが、まるで桃源郷のようだった。
…もし異常気象や戦争の勃発によって世界的な食糧不足がおきれば、…また沖平のような辺鄙な土地に入り、先祖がしたように開拓を始めるだろう。そうなればよいのだ、ともわたしは考える。
□かわうそ(戦争のころの話)
日置川の最上流。いちばんの上流は木守〓〓。
…シイタケ 高級品は支那へ輸出して、中華料理や漢方薬の材料にもなるそうやで。
…木守から村役場のある合川までは、川沿いの牛車道だと5時間ばかりかかる。険しい八丁坂を面川の里へ越えるほうが近道で、3時感ほどで行くことができた。
…ゴンパチ(イタドリ)の枯れた殻で編んだ細長い大きな籠で、…魚が入ると出られないじごくのしくみになっている。
□新宮 川原町界隈
新宮展二階建てで白壁の家が多く、ほとんどは屋根を瓦で葺いており、重厚なたたずまいが美しい。経済的い豊かな町なのである。…川原町は土手と川の間の浜の砂利の上にできた町。…どの家も間口二間奥行き3間で広さは6坪…昔は百軒以上あったのが時代とともに減っていると言われていた。
…渡し舟はお城山のふもとの池田と、上流では相筋のはずれの音基にもあるのだが、成川だけが県道とされていて料金もいらない。
…多衣子はなれ寿司をこしらえた。鮎を使うなれ寿司を新宮の人は知らない。家では十津川生まれの母親がおてのもので…(〓対岸の浅里ではつくっていたのでは?〓)
…飯をにぎって細長くしたのを鮎の腹に入れる。桶の底にウラジロを敷きつめ…
…新宮はじめ熊野川流域は森林地帯で田畑は少なく、米はほとんど外から移入されていた。
…団平船も夏のあいだは帆をかけて川をのぼった。三反帆。
…アユ 立津呂や亀島の瀬のかみしもに百パイちかい小船が錨を打ってならぶことも。怖いのは夜流れの筏。重い筏にあてられると、船は木っ端みじんに砕けてしまう。
…足袋の先に唐辛子を入れる…ひりひりする刺激で足先が温もった。
…プロペラ船、肥汲み船。
□団平船の熊野
小津荷。船師の里で団平船は常時20パイ前後もあった。働き盛りの男たちはほとんど川で稼いでいた。団平船は長さ6間に幅は1間と、プロペラ船を別にすれば、熊野川ではいちばん大きい荷船である。
…川原町。宿屋や飲食店、土産物屋などが70軒ばかりも軒をつらね…。
…小津荷 音無紙をすいている。ここだけに伝わった産物。(〓今は?)
…新宮では浮島遊郭の常連になっていた。公娼、120,30人もいた。
…昭和6年、田辺市から本宮村までの自動車道が開通した。船師にとって重大な出来事だった。…田辺から本宮までトラックだと5時間ほどだが、新宮から団平船をひいて本宮へのぼるには2日がかり。雨で増水すれば船は動かない。新宮の商売人は本宮の得意先を田辺にとられることになった。
…昭和16年に太平洋戦争がはじまった。トラックは、燃料のガソリンがなくて木炭をたくようになり、運搬能力が落ちた。船はひっぱりだこなのである。
…熊野大橋ができるとともに、県営の渡し船も廃止されて、人々は川原を通らなかった。十軒あまりあった宿屋も消えてしまった。残っているのは、4,5軒の鍛冶屋と造船所だけ。
…熊野川に水力発電ダムをつくる計画が動いていた。…小鹿につくる計画で、堰堤の高さは80メートルとなり、上流の6つの村約4000戸が水没する予定で、本宮大社もほかへ移転するという。…小鹿は砂利が深すぎるとして取りやめに。
…昭和28年の未曾有の大洪水。
…椋呂と大津荷の道路は昭和33年に通じた。新宮とのあいだの船の荷物は完全になくなった。まもなく国道168号として、新宮から奈良県五條市までの開通が見込まれている。筏はすでに姿を消しており、プロペラ船の十津川航路も廃止された。
□ある渡し守のはなし
…船は百年以上たった杉の木の赤芯でこさえるんや…
…熊野川が氾濫する夏から秋のあいだ、満州や朝鮮に稼ぎに行ったんじゃ。
…萩に映画館ができたのもその頃やった。5日に1回夜だけやるんやだ。
…三里大橋ができたのは昭和33年じゃった…鉄の吊り橋や。(渡し船が終わる)
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