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森のバロック<中沢新一>

■森のバロック<中沢新一>せりか書房1992年 20160119
南方熊楠の生涯のうちで「もっとも深く体験されたもの」だけを注意深く取り出そうとした、という。
粘菌研究者としての熊楠、民俗学者としての熊楠、奇行を繰り返した熊楠……それぞれを断片的に紹介する伝記や解説書は多いが、彼の思想と研究の全体をとらえて「これこそが熊楠の核心だ」と示してくれる本はほとんどない。
熊楠のとてつもない視野の深さと広さをもっとも表現できているのは、私が読んだなかでは鶴見和子だった。鶴見を越える、あるいは鶴見に近い「熊楠」を見せてくれるのではないかと思って手にとった。
難解な部分も多いが、筆者自身が熊楠になりきった記述によって、熊楠の全体像をとらえられているのではないかと思えた。中沢の文章の難解さは、熊楠の文章の難解さにつながるものなのだろう。熊楠の先進性を同時代の人が理解できなかったように、現代の私も、熊楠が憑依した中沢のコアの部分までは理解できないのかもしれない。
熊楠は「熊」と「楠」というトーテミズム的な名によって、自然との深い共生の感覚を体験できるようになったという。動植物と人間を連続してとらえるトーテミズムは、キリスト教的合理主義からは非合理的とさげすまれたが、未開社会では、自然の中での位置や生命の流れ、人生の意味などに哲学をあたえるものだった。トーテミズム的な人間の生は、「主体」にとじこもることがなく、自然の多様な世界にみずからを開くことになった。
熊楠にとっての真の学問とは、自然に人間を接合する技術だった。外部から自然を「観察」するのではなく、みずからをその一部としてつながっていくというあり方をもとめた。
アメリカ時代の熊楠は山野を渡り歩き、ロンドンでは「書物の世界」を渉猟した。日本にもどると那智の山にこもり、ひたすら生命の源泉を追求する隠棲生活を送った。この3年間で、トーテミズム的な生命直観が、独創的な南方マンダラに発展した。
熊楠の文章は、どこが入口でどこが出口なのかわからない。植物から下ネタへ、世界の民俗の話題へ…と、自由自在に話が飛ぶ。この文体こそ、マンダラ的なのだという。
「南方マンダラ」は、土宜法竜への書簡にだけその概要が記されている。
熊楠によると、あらゆるものが「心」と「物」の交点に生まれる「事」として現象している。「物界」では因果応報(原因と結果)が確実におこるが、「心界」ではおこるとは限らない。「事」は心界につながっているから、「心界」の働きである人間の知性には、「事」を「物」のように対象化してあつかうことはできない…と考えた。ここには、量子論によって明らかにされた、観察者が対象に及ぼしてしまう影響の問題が先取りされていた。
「事」が及ぼす力は「胎蔵大日中に」痕跡をつくりだし「名」として構造化されて残る。「名」の痕跡を出発点にする現代の構造人類学と同じ視点だ。構造主義には「名」が発生する以前の空間はとらえられないが、「南方曼荼羅」は、空間や物質が生成され、「心」が生まれ、「事」の世界が形成され、その「事」のなかからエクリチュールである「名」が生まれてくると考えた。その意味では構造主義をも越えていた。
神話の解釈も、構造主義を先取りしていた。
熊楠が滞在した英国では、未開社会との出会いで文化人類学が生まれ、それが、自らの根っこに関心をもたせ、「フォークロアの学」を生み出した。そこでは、農民漁民の伝承のなかにキリスト教以前の痕跡が残されていると考えられた。
熊楠は、人類史を進化論的にとらえることに反発した。「…スペンセルなど、何ごとも進化進化というて、宗教も昔より今の方が進んだようなこといえど、受け取りがたし」と書いた。未開の論理は近代科学の前段階なのではなく、それ自体として価値をもった成熟体なのだと考えた。それもレヴィストロースと似ている。
熊楠は、本草学の書物によって人類学的な知識をもっていた。本草学は、植物や動物の観察をとおして、宇宙の中の人間の位置を実践的にとらえる学問だった。ひとつの植物を紹介するために、それをめぐる習俗や神話についても調べ、生物世界とのかかわりで把握されていた。具体世界の野生とつながりをもつ本草学的な思考と実践を熊楠は人類学の領域でもめざした。その方向性は、すっかり枯れて現実への影響力を失ったかにみえる現在の「民俗学」にも大きな反省を促すように思える。
神話の分析も形而上学的理論ではなく、地上の自然から出発するべきだと考えた。マルクスが経済学と歴史学の領域でおこなった唯物論を、熊楠は神話学の領域で実践した。これもまた構造人類学にさきがけていた。

□民俗学
柳田との訣別には柳田の女性問題などの原因が指摘されているが、民俗学をめぐっても対立していた。
柳田は、農漁村の暮らしのなかに、至高の目的をもった民族理性をさがし、「制度の学」として民俗学を確立しようとした。熊楠は、文化と自然の関係を発見しようとした。超越的な「制度」(倫理)よりも、自然のエロス的な力能の内部からつくられてきたものを重視した。
「近代文学」に影響を受けた柳田は、「常民的現実」をモダンな文体で構成しなおした。南方にはこれが「こじつけ」に見えた。熊楠は、人間の内面よりも、事物や行動を重視し、表面の動きを記す文章を好んだ。柳田はロマン(物語、歴史)主義であり、古典文学の記述を好んだ熊楠は非ロマン主義だった。
19世紀後半、英国やフランスでは、進化論や生物学、社会学の影響で、「科学的」な民俗学が発達した。一方ドイツではロマン派的民俗学がナチスドイツの敗北まで継続した。ドイツは統一された民族国家ができていなかったから、「民族の魂」を探求するロマン派の歴史主義が重視された。
熊楠は柳田の民俗学のなかにあるロマン主義的な傾向に反発を感じた。だから、事実にたいしては植物学者のような態度をとり、近代文学のような「わかりやすい」統一性を排除した文体を生み出した。
柳田民俗学は近代の物語性によってナショナリズムに近づく危うさがある。「一国民俗学」は、さまざまな「物語」によって維持されるため、多様性と非連続にあふれた、野生の思考としての民俗を見えなくさせてしまう−−熊楠はそう感じて「世界民俗学」によって対抗していたという。

□死生観
粘菌は、生命活動が活発なときはみじめなアメーバ状になり、生命活動が低下すると美しい子実体を形成する。熊楠はそこから、生命とは、同時に灯として瞬き、闇として飲み込む二つのプロセスをひとつとして、たえまなく活動をつづける「なにものか」なのだと考えた。 近代の生命の学問は、この「なにものか」にたいする直観力を排除してしまったと思った。
熊楠は、幽霊に粘菌の生息する場所を教えてもらい、テレパシーの存在も実感していた。熊楠の先進性を知れば知るほど、幽霊やテレパシーも単なる迷妄ではなく、今の科学のむこうにある「何ものか」であるかもしれない、常識的な「生死」を超越する哲学や科学が生まれるかもしれない…とも思えてくる。

□森の宗教
原神道は森の宗教だった。人が森に踏み込んだときに覚える感覚に形をあたえるものとして宗教が形成された。神社に森があるのではなく、森こそが神社だった。そこでは、神々に名前があれば十分であり、その名が「神々の体系」などに組織されてはならなかった。共同体ごとに小さな神社が祀られ、そこを「実存的なテリトリー」の中心とすることで「家郷」をつくりあげた。
明治の日本はドイツと同様、強力な精神的アイデンティティを無理矢理つくりだそうとした。神仏分離や廃仏毀釈による神道の「純化」にとりくんだ。神仏の世界を引き裂き、「由緒ある」神々だけを単一の体系に組み込み、不要なものは「迷信」などとして否定した。廃仏毀釈は仏だけを廃滅したのではなく、その対象は、国家によって権威づけられない神仏のすべてだった。
従来、山や森や寺院には、公の権力が浸透できない空間が残されていた。ところが近代社会の権力は、教育を発達させ集団で訓練し、宗教は「登録済み」の神々の世界につくりかえた。社会と人々の精神構造を、理解の及ぶ形につくりかえていった。神々の守護を失った森は商品と化し、精神だけでなく生態学的な危機にも直面することになった。
「自然を保護する」という当時はなかった発想を熊楠が持ち得たのは、人間の力がすでに自然を圧倒してすまった英国を見ていたからだった。
明治政府は、民族的アイデンティティを強化するため神社に保護金を支給しようと考えた。そのため、神社合祀令で神社の数を減らそうとした。その結果、「廃社となった神社の樹叢は、民間に払い下げられ伐採されてしまうのみか、その売却によって私腹を肥やす官吏や神職まで現れた」。
家郷空間を景観的にも精神的にも破壊する一方で、抽象的な愛国心を国民に吹き込もうとしていた。TPPを推進しながら愛国心を強要する安倍政権に似ている。熊楠はそれに反発した。家郷への愛の土台を破壊して国への愛を強いることは、国をひどくすさんだものにしてしまう、と懸念していた。
彼のエコロジーは、生態のエコロジーだけでなく、人間の主観性の生存条件(精神のエコロジー=マンダラ思想家として)や、人間の社会生活の条件(社会のエコロジー=民俗学者として)を巻き込みながら展開されるものだった。

□陰陽ではない
熊楠は、西洋思想を徹底的に学んだうえで、東洋的な思想を対置して、独特のマンダラの世界をつくりあげていった。
ただ、陰陽という東洋思想の考え方にはくみしなかった。陰陽は、大地が生殖をし生産をおこなうという農耕世界のイメージを中心にすえ、「ゲイ的様式」の入りこむ余地はない。だが森の生殖は雌雄という様式でないものが珍しくない。森は「生産」するのではなく、異質な自然の強度をいかに調停し、生存を持続させていこうとする。森のイメージを中心にして構成された自然哲学は、熊楠以外にはアジアにおいてもつくられることがなかった。

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□市民としての熊楠
▽18 トーテミズムの概念は、未開と文明を区別する試薬となった。人間と自然を連続としてとらえているそぶりを見せようものなら、たちまち「トーテミズム」の烙印を押され、文明の向こう岸に押しやられた。(キリスト教的合理主義の反対に位置するもので、さげすむ対象だった)
▽20 熊と楠木にちなんでつけられた名によって、熊楠は自然との深い共生の感覚を体験できた(トーテミズム)。
トーテミズムは、未開社会における実存哲学だった。…人間はそれによって、自然の中に生きる人間の位置や、生命の流れや、人生の意味などに、明確な哲学をあたえようとしていた。
▽22 トーテミズム哲学の世界では、人間は人間であるばかりではなく、風や水や、鉱物や植物、動物の領域の諸強度がおりなす「束」として実現され、宇宙が変化していくように、変化をとげ、動いていく。…自然と人間の間に「不思議な絆」をつくりだすトーテミズムには、共通の生命哲学が千載しているのを認めることができる。
▽26 トーテミズム的な人間の生。単一単層のフォルムにとどまっていることはできない。多様体にむかってみずからを開き、大いなる創造力の流れ、にふれながら、…つぎつぎと別の形態への変態をおこしていく。生命の内奥でおこっている、宇宙的な変容のプロセスにふれている。
▽31 学校では、さまざまな表象のシステムの習得が学生の仕事。…熊楠が考えるような学問は、表象のシステムから解放し、動植物や、鉱物や、気象の領域のなかに、人間を接合していくことのできる技術だけが、彼にとっては真実の学問だった。(「自然」とつながっていくこと、外からの観察ではなく、つながることで理解するというあり方〓)
…アメリカ時代の熊楠は、山野で「実物の世界」に遊ぶ快楽を楽しむ。…ロンドンでは、大英博物館を拠点に「書物の世界」へ、大きな旋回をとげる。
▽39 日本にもどると、那智の山中にこもる。広大な空間の旅人から、不動の根拠地で、ひたすら生命の源泉に沈潜していく隠棲者へ。3年間の体験を通して、彼のトーテミズム的な生命直観は、独創的な南方マンダラの構想に昇華をとげることになった。〓
▽42 ロンドン時代までの熊楠の頭は、巨大な博物館のようなものだった。知識を結び合わせ、そのすべてに自然な「了簡」をつける、内的な体験が欠けていた。…それを与えてくれたのが森だった。
▽44 明治39年に彼は結婚する。熊楠のマンダラは、深い那智の原生林を出て、市民たちのつくる明るい町の中に引き出されてきた。一人の市民にすぎなくなった。(空間→博物館→森→市民という多面性〓)
▽46 生物学と民俗学 彼の学問の中心をなした二つの側面。
▽56 熊楠の文章の特徴。どこが最適な入口で、どこが決まった出口であるかが、わからない。多数の出入り口を同時にもっている。…いつも複数のレベルの話題の間を、自由自在に飛び移っていく。植物の話かと思ったら、熊野が未開社会だという話しになり、次には気に入らない隣人の話になり、シベリアのシャーマンの間に伝承される女人病の話にうつる…。
…彼の文体構造の特徴、マンダラ的。マンダラの領域は、つねに活発な創造力によって突き動かされ、無数の出入り口がある。マンダラの内部には、どこから入っても、全体の動きにつながっていける。ことは因果律では運ばない。
▽60 那智の森では彼の精神はマンダラだった。

□南方マンダラ
▽64 南方曼荼羅の誕生を見届けたのは、土宣法竜だけだった。二人の往復書簡が発表されるまで、「南方曼荼羅」の思想はまったく知られることがなかった。…「南方曼荼羅」の思想は、ごく最近にいたるまで、日本人にとってもほとんど未知のものだった。
▽70 熊楠の考えでは、「事」は「心」と「物」がまじわるところに生まれる。…今の学問にいちばん欠けているのは、この「事」の本質についての洞察だ、と熊楠は考えた。…純粋なただ「心」だけのものとか、ただ「物」だけのものというのは、人間の世界にとっては意味をもたず、あらゆるものが「心」と「物」のまじわりあうところに生まれる「事」として現象している。…「物界」では因果応報ということが確実におこるのに、「心界」ではおこるとは限らない。…「事」はもともと心界につながっているものだから、「心界」の働きである知性には、「事」を「物」のように対象化してあつかうことはできない。…ここには、量子論の誕生をまってはじめて直面することになった「観測問題」の要点が先取りされている。…観測がおこなわれるときは、かならず人間の意識の働きが関与している。(観察者の及ぼす影響〓完全な客観の否定)
▽88 「事」は発生したり、消滅したりするが、それ自体に力を内在させている。その力は「胎蔵大日中に」何らかの痕跡をつくりだし、「名」として残る。
…熊楠の発想は、現代の構造人類学と同じ視点にたっている。それどころか、構造人類学をこえている。構造人類学は、すでにアーラヤ識に刻まれている「名」の痕跡を出発点にしている。エクリチュールに出発して、エクリチュールに帰着する。そのため、構造主義には、そのような「名」が発生してくる前に存在している空間の様子をとらえることはできない。…「南方曼荼羅」は、空間や物質が精製され「心」が生まれ、「事」の世界が形成され、その「事」の中からエクリチュールである「名」が生まれてくる、すべてのプロセスを包摂している。
…熊楠が書いている1903年には、まだ構造言語学も生まれていなかった。無意識は「名」として構造化され「印」をつうじてそれは語り、現実界とよばれる「真実の物」は知ることができないと語る熊楠。
▽96

□燕石の神話論理
▽101 未開社会やエキゾチックな文明との出会いで、文化人類学が生まれ、その新知識は、英国の知識人たちを刺激して、彼らの目を自分たちの足下へ向けさせることにもなった。それが「フォークロアの学」に。その学は、農民や漁師の伝承のなかに、未開社会の思考法とも共通するものがたくさんあることを見いだしていた。キリスト教以前の、先祖のものの考えが残されていると考えられた。
▽104 熊楠は、19世紀西欧の人類学の世界と出会い、熱狂し、つぎにするどい批判者となった。彼は、近代人の知性とか感覚を基準にして、人類史を進化論的に整理しようという考えほど、ばかげたものはないとも、思っていた。…進化論を文明や文化にたいしてそのままあてはめることは、まちがっていると考えた。
…スペンセルなど、何ごとも進化進化というて、宗教も昔より今の方が進んだようなこといえど、受け取りがたし。
▽106 …未開の論理も、近代科学の思考法の未熟な前段階として、あるのではなく、未開の論理はそれ自体として価値をもった、ひとつの成熟体なのだ。
…熊楠は、人類学を知る以前から、人類学的な豊富な知識をもっていた。それは、中国と日本の本草学の書物の読書からきている。本草学は、たんに植物の分類や体系づけをめざした学問ではない。植物や鉱物、動物の世界の観察をとおして、宇宙の中の人間の位置を、実践的、実存的にとらえようとする学問だった。そのために、ひとつの植物について書く本草学者は、それをめぐる習俗や神話についての情報もくわしく採集した。習俗や神話のように観念に属する領域のことが、いつも生物世界の生態や行動学とのかかわりで、とらえられていた。
熊楠はこうした東洋の「実存的人類学」に慣れ親しんでいたので、西欧の学者のように、神話をいきなり形而上の問題として論じるやり方がばかばかしく思えた。
…本草学は、生きた具体世界の、野生の思考とつながりを失っていない。熊楠は、人類学の領域において、本草学思考法の実践をめざした。
(枯れた「民俗学」ではなく、そういう実践的な思考が必要とされる時代が今なのではないか〓)
…燕石考は、構造人類学の方法と思想を先取りするものだった。
▽113 隠喩の体系としての神話の分析で、「光り輝く、天上の物」のような神話素が決定的な重要性をもつという「太陽神話学派」の考えは、インド=ヨーロッパ語の特徴を、すべての神話に拡張しようとした、知的な帝国主義なのだ。印欧語族の神話では、天文学的コードが優越しているが、ほかの民族の神話まで一般化してしまうことはできない。
「燕石考」は、印欧語的思考法への挑戦だった。還元主義的な科学思考法に対する、ラジカルな批判だった。
▽114 神話分析者は、形而上学者であるよりも、まず本草学者として出発しなければならない。神話学は具体の科学でなければならない。
▽118 …頭で立っていた神話学を、足で立たせる。地上の自然と、そこに生きる人間が、すべての出発点になる。神話学の唯物論的転倒。南方の神話学は「具体の科学」をめざしていた。
…神話の意味を、正しく読み取るためには、動物行動学や植物生態学の知識…などをもっている必要がある。…神話の原因は「地上の諸原因」にある。マルクスとエンゲルスが、経済学と歴史学の領域でおこなったマテリアリズムの冒険を、熊楠は、構造人類学にさきがけて、神話学の領域で実践してみせた。
▽128 「鳥の巣あさり」性と結婚のコード、動物学的コード、植物学的コード、薬物学的コードなどがセットされている。燕は繁殖力の強さで有名。…
▽134 自然を見る目、生物の観察力があるから神話が意味をもつ。神話が生きるには、自然を視る目があるから。
▽168 神話研究。いっさいの思いこみや頑固な理屈づけを捨てて、できるかぎり神話の語ることに「受け身」になり、自分の知性自身が、神話の状態を生きているような状態に近づいて行けば行くほどあきらかになってくる事実なのだ。
…熊楠は神話的世界にたいしては、曼荼羅の思考モデルこそが、もっとも効力を発揮すると見抜いていた。
▽171 真言密教の理論を、人類学の領域に適用しようとしたのは熊楠がはじめてだ。彼がつかみ出した、表象プロセスについての理論は、驚くほど正確に、現代の構造主義の言語学や人類学の基本的な思想を先取りしてしまうことになったのではないか。
▽174 曼荼羅はけっして抽象的なものではない。それは、物質の運動からはじまって、人間の精神におこることまでを、大きな一つのつながりのなかで、とらえるために考えだされた、きわめてハイブリッドな構成をもった、一種の価額も出るなのだ。〓

□南方民俗学入門
▽178 熊楠は(柳田のいう)「制度の学」と「民俗学」を区別しようとしている。彼が「制度の学」と呼んでいるものが、のちに「社会人類学」として展開することになる。社会制度の学問。
…社会人類学につながっていく「制度の学」は、社会の規範的な側面に関心を集中している。まじめな思考法。規範や法やさまざまな制度は、人と人とを媒介的に結びつけるために働く。「かく行動しなければならない」…とか、その場にいない第三者が無意識のうちに命令を与えている。
制度の学は媒介的であるのにたいし、「民俗学」は直接性を本性とする。(春画)性的な欲望は、言語や規範によって媒介されることなく、直接的な肉体の行為となって表現される。
…「制度の学」があつかうのは、人間的自然を抑圧して、人と人とを媒介的に結合することによって、力が社会にまとまりや同一性をつくりだそうとする方向にアレンジされた、別のタイプの「制度」にほかならない。
▽184 柳田はカント的。文化は、エロスの自然力能にもとづくのではなく、目的を持った理性がそれをつくりだす、と考えた。文化は「制度」として、自然の直接性を阻止して、複雑な媒介のシステムをつくりだす。ただ、カントがそのような理性は普遍的と考えたのにたいして、柳田の考えでは、諸民族に固有の理性が、それに内在する至高の目的にしたがって、それぞれの固有性をもった文化の体系をつくりだす。彼は文化の目的である理性には、民族性があると考えた。柳田国男がもつ19世紀的な本質
…民俗学は、農漁村の暮らしのなかに、至高の目的をもった民族理性の働きを発見しなければならないと主張しているのと同じことになる。…熊楠は、文化と自然の間に直接性のリンクを発見しようとする。そこではもっとも生き生きした文化の形態は、超越的な「制度」の側面ではなく、自然のエロス的力能の内部からつくられてきたもののうちに、みいだされる。
…柳田の民俗学は、はっきりとモダンな言説秩序の内部に所属し、それによって、ひとつの近代的な学問としての自立を果たすことができたのである。
▽188 柳田は「近代文学」に影響を受けた。常民的現実と言われるものを、モダンな言語秩序をとおして構成する。南方にはこういうやり方が「こじつけ」に満ちていて、およそ科学的ではないと思えた。熊楠は古典的な文体のほうを好んだ。人間の内面よりも、事物のじっさいとじっさいの行動を重視し、表面の運動だけでできているような文章を好んだ。(近代文学=柳田=ロマン(物語、歴史)主義、古典文学=熊楠=非ロマン主義〓)(熊楠は自然科学の思考)
▽194 歴史学と文学は緊密な結びつき。文学は人間の全体性の表現をめざす。ロマンは歴史主義も、文学的文体の創出によって歴史に同一性と全体性を発見しようとする。
ロマン派的民俗学は、19世紀のドイツで発達した。ところが19世紀後半になると、英国やフランスでは、進化論や生物学や社会学の影響を受けて、新しい比較人類学的な傾向をもった、より「科学的」な民俗学が発達しはじめた。(科学派民俗学)
ロマン派の民俗学は、常民の世界にのこされた資料を、文学という文体的統一体のなかに組織しようとしているように感じられた。フォークロアに内在する暴力性、古代的エロス、野生の思考などは、かえって民俗学のなかから消えてしまうことになるのではないか、と、科学主義的な民俗学は考えた。
▽197 ドイツと北欧の民俗学は1930年台くらいまで、ロマンは歴史学的な傾向を保ちつづけた。ドイツは、統一された民族国家ができていなかったから、ロマン派の歴史主義は「民族の魂」の探求を、自分たちの第一の目標に掲げていた。ロマン派の政治的キッチュであるナチス・ドイツの敗北までこの傾向はつづく。
熊楠は「新しい国学」をめざす柳田の日本民俗学のなかに、こういうロマン主義的な傾向と同質のものをするどく感じとっていた。…ロマン主義の「ひとりよがり」に反発を感じていた。だから、事実にたいしては植物学者のような態度。文体の統一とホメオスタシスを破戒するエロス的な生命の次元の、大胆奔放な導入。まじめさを吹き飛ばす冗談の嵐。それを表現するための、星雲状に拡大していく、一見とりとめもない文章。全体の統一は存在するが、それはマンダラの秩序としてあるから、文学の表現できるレベルにはない。〓(「わかりやすい」統一性、文学のようなわかりやすさを排除する。曼荼羅)
▽206 「人柱の話」そういう儀礼が本当にあったか否かの議論。供犠儀礼の現実性に学者の多くは疑いを抱いていた。柳田は、伝承を生み出す「神話論理」の構造に必要な1項として、物語のなかで機能しているのであって、現実の儀礼があったかどうかは、たいした問題ではない、と考えた。(レヴィストロースも)
熊楠は、柳田やレヴィストロースとは正反対の考えをもっていた。熊楠は、人柱があったなんてあたりまえじゃないかという前提。
読者を説得するため、「事件」としておこった場所の名前、日時、記録者の素性などが、明確に追跡できるものばかりを、たくさん選んで論文で紹介した。外国の事例も。
▽224 熊楠は、民俗学の思想を綴る、柳田国男の文学的文体を警戒した。それは、彼が民俗採集において、説話を警戒したのと、同じ考えにもとづいている。説話はそこに組み込まれた「民俗の思考」を、破綻なくしかもおもしろくお話が進行していくために、変形したり、歪曲したりする…思考の真実は犠牲になっていく。
▽226 柳田民俗学の大いなる魅力と毒とは、近代の物語性に浸透されていたことに、ひとつの源泉をもつ。…近代の「民族国家」をめぐるナショナリズムを際限もなく引き寄せてしまう危うさをもつ。それによって「一国民俗学」はできあがるだろう。…その秩序は、さまざまな形の「物語」によって、維持されなければならない。その物語は、多様性と非連続にあふれた、野生の思考としての民俗の真実を、その秩序のなかに埋没させて、見えなくさせてしまうのではないか。そう感じて熊楠は、彼の「世界民俗学」をもって、それに対抗しつづけようとした。

□粘菌とオートポイエーシス
▽253 粘菌。熊楠には、いまだに多くのナチュラリストが、古典主義時代以来の、分類学の幻想にとらわれているように思えてしかたなかった。
▽255 粘菌を分類体系に位置づけてしまうと、「あらかじめみいだされたもの」に変貌してしまう。「途上」にあるものを「既知」のものに還元していく知的なシステムにほかならない。新種の発見に夢中になっている間に、ナチュラリストは、知らず知らずのうちに、脅威を凡庸に変えていく巧みなシステムの虜になってしまっている。熊楠の粘菌学は、粘菌をまず驚異に満ちた生物として、、知性のたくらみから奪還するものとして構想されていた。
…古典主義の時代に発達した分類学は、かつて享受していたような絶対的な優位性は失われつつあった。生命は進化という歴史的変化の相のもとに、とらえられるようになった。分類学は、かつてのような、創造の昔から変化しない、確固としたひとつの秩序であるとは、もはや考えられなくなっていた。(〓分類=古典主義←進化論以前のキリスト教的な考え方?)
…新しい生物学は、生命をひとつのシステムとしてとらえる視点を確立しつつあった。きれいな図表を思わせるような、分類学のシステムではなく、生物をひとつの機械として作動させているシステムの仕組みのほうに、生物学の興味は移っていった。
(〓生物学の変遷史)
▽259 生命の本質に接近していくための、最良の手立てとして粘菌を選んだ。(生命哲学を知るために粘菌を研究)
生きているとはどういう状態のことをさすのか、死んでいるとは、どのような現実をさしているのか。人々がふつう、生と死としてとらえている現象は、はたしてそのものとして意味をもつことなのか、それとも、より本質的な現象の二次的な射影にすぎないのではないか(〓生死さえも疑いうる対象〓)
▽268 熊楠の考えでは、常識や科学がとらえている生と死は、生命そのものではなく、…生が灯であり、死が闇であるとしたら、生命そのものとは、同時に灯として瞬き、闇として飲み込む二つのプロセスをひとつとして、たえまなく活動をつづける「なにものか」なのだ。
…生命の学問をめざすほどの人間には、「なにものか」にたいする直観力が必要だと熊楠は考えた。近代の生命の学問からは、ますますこの直観力は失われつつあった。それどころか、それを考えることを、科学の名のもとに排除する方向に事態は進んでいた。(幽霊を見て、テレパシーのようなものを感じていた熊楠。それは迷妄ではなく、今の科学のむこうにある何ものかである可能性はないのか)(〓生死を超える哲学というか科学に達していた。もしそうだとしたら…)
▽271 熊楠は自分の生命思想を、論文にはしなかった。重要な思索の成果のほとんどが、友人や知人にあてた書簡のなかに、猥談などといっしょに無造作にばらまかれているだけだ。
(これを解読し、意味を読み取るのに、何十年もかかってきた。構造人類学などを待たなければならなかった。生死や幽霊の問題もまた、あと何十年かしたら、見えてくるのではないか、と。)〓
▽275 オートポイエーシス論 観察者の位置を徹底的に排除することによって、西欧思想のすべての産物に潜在している、絶対的観察者としての「神」を生命論から排除してしまった。
…東アジア的生命観では、生命システムをひとつの自己として、環境から引き離して、それだけで自律させようとは考えなかった。主体の考えは、あまり育たなかった。そのかわり、生命を巨大な全体的連関のなかでとらえようとするような思想が展開した。
…マンダラのなかに、西と東をつなぐ蝶番が隠されていることを発見していた。それはマンダラが、生命が個体であり、自律体であるという視点と、それが環境のなかに多次元的に埋め込まれてあるという視点を、総合できる力をもっているからだ。またそれは、科学的な認識と、存在の真性に接近していこうとする哲学的な思惟とを、対立させることなく、実り豊かな対話の状態をつくりだしていくための、現実的な条件をつくりだそうともしている。
▽286 粘菌は、マンダラが活発に活動すればするほど、生命システムは静止にむかおうとしている。
…観察者の立場では、マンダラとしての生命システムの本質は理解することはできない。マンダラに「入る」ことができなければならない。粘菌と森が、生命の秘密をにぎるマンダラの中心部へと熊楠を導いていった。〓
…彼は森を内側から生き、呼吸するようになる。周囲に広がる生命の世界を、自分から分離してしまうことができないことを知るようになる。…森の中で得たその感覚と認識を彼は秘密儀(ミステリー)と呼んでいる。(客観的な観察はできない〓)

□森のバロック
▽296 神社には社殿をつくる必要はなかった。原神道は森の宗教だった。人が森に踏み込んだときに覚える「秘密議」の感情がベースになって、その感情にフォルムをあたえるものとして宗教が形成されるようになったのだ。
…神は表象化を避けるべきものとされていた。神々には名前があてられればそれで十分であり、その名前が「神々の体系」などに組織されてはならないものだった。
…神社に森があるのではなく、古くは、森こそが神社だった。…森は日本人にとっての、もっとも重要な「公界」だった。
…神仏習合の動きは、中世の伊勢神宮外宮の神官たちを、中心にはじまった。神道の思想を、密教のマンダラの理論などを使って、理論化するという試みに着手した。…土着の神々は、密教のマンダラの構造にしたがって、組織されるようになった。
…密教のマンダラを知る以前から原神道はすでに、その本質を知っていた。生きた森がそのままマンダラだったのだ。
▽301 共同体ごとに小さな神社が祀られ、人々はそこを自分たちの生きる「実存的なテリトリー」の中心とすることで、「故郷」を形成することができた。
…明治。神経症的に強力な精神的アイデンティティを無理矢理つくりださなければならない、という矛盾をかかえていた。(ドイツと似ている)そのために、近代的であるべき政体の頂点には、天皇を頂点にいただく祭政一致の古代的な理想が掲げられ…
…まず神道の「純化」にとりくんだ。神仏分離や廃仏毀釈。明治のイデオローグの指導原理となったのは、江戸時代の水戸学や後期国学に由来する国体神学だった。権威づけられた「由緒のある」神々だけからなる、ひとつの統一された体系だった。…日本人の神仏の世界を引き裂き、有用なものは単一の体系に組み込み、不要なものは「遅れたもの」「迷信」などとして否定してしまう。「権力の近代性」をあらわしていた。
〓廃仏毀釈といえば、廃滅の対象は仏のように聞こえるが、現実に廃滅の対象となったのは、国家によって権威づけられない神仏のすべてである。
…従来は「公」の権力が浸透できる場所と、できない場所とが、注意深く分離されていた。山や森や寺院には、公の権力が浸透できない空間がとりのこされ、神仏がそれを聖別していた。権力は人々のプライベートな生活にまではタッチしようとしなかった。
近代社会の権力は、生活や心の内面まで忍び込んでくる性格をもっている。…権力の力によって、社会と人々の精神構造を、理解の及ぶような形につくりかえておくことである。近代型権力は教育を発達させ、集団で訓練し、宗教は「登録済み」の神々で構成された世界につくりかえる。
▽305 森のマンダラにつどっていた神々の多くが、廃滅の危機にさらされた。残された神々は、国家の管理する「体系」のなかに組み込まれた。
…神々の守護を失ったはずの森の樹木は、ただの商品と化していく、と熊楠は見越した。森は、精神的であると同時に、生態学的な危機にも直面しようとしていた。
▽308 「自然を保護する」という当時の日本人には思いつきにくいことを熊楠が思いついたのは、熊楠が、人間の力がいち早く自然を圧倒しはじめてしまった英国を見ていたから。
▽309 神社合祀令 国民の民族的アイデンティティを強化するため、国家による神社保護を徹底させようとした。国家から保護金を支給するため、保護すべき神社の数を限定しようとした。…「廃社となった神社の樹叢は、民間に払い下げられ伐採されてしまうのみか、その売却によって私腹を肥やす官吏や神職まで現れた」
▽318 秘密儀の宗教は、表象を立てない。「何ごとのおはしますかを知らねども有り難さにぞ涙こぼるる」ような、不思議な感覚につつまれる。神社と神林のトポスがつくりだす、ナチュラルな神秘感。
…いまや日本では、おおもとの家郷空間を景観的にも精神的にも破戒しながら、抽象的な愛国心を国民に吹き込もうとしている。国家への愛とは、きわめて観念的な愛であり、家族や家郷にたいする実存的な愛とは本質的に異質なものだ。実存的な愛の土台を破壊して、自分(国)への愛を国民に強いようとしている。それは、この国をひどくすさんだものにしかねない。(〓パトリオティズムと、根っこを失ったナショナリズムのちがい〓)
▽322 民俗学的な資料は、どこの土地へもっていっても意味のある文書や芸能として、伝えられていないもののほうが多い。多くの伝承は、土地から引きはがされたとたんに生命を失ってしまうような性格をもっている。
…柳田国男は、こうした「実存的な伝承」の記録出版によって、民俗学の構築をはじめようとした。民俗学という学問が、言葉と大地のつながりを破壊していこうとする、近代という時代にたいするアンチテーゼとして創出されようとしている、という意志を表明しているのだ。…神社合祀は、具体的な土地と結びついた伝承から、意味を奪っていく。
▽324 彼のエコロジー思想は、たんに生態のエコロジー(ナチュラリストとして)にとどまるものではなく、人間の主観性の生存条件(精神のエコロジー=マンダラ思想家として)や、人間の社会生活の条件(社会のエコロジー=民俗学者として)を巻き込みながら展開される、深遠な射程をもつものだった。未踏のエコロジー思想。
▽327 熊楠は「家郷」の世界の豊かさをほめたたえた。しかし、そこにとどまっていたわけではない。彼は、来たるべき土着性がどのような空間にすえられなければならないか、その主題に心をこめていた。〓…それぞれの個人が、マンダラ的ないしはオートポイエーシス的な構造に、みずからの主観性をつくりかえることができたとき、新しい共同性に土台をすえることができるはずだった。

□浄のセクソロジー
▽332 明治の少年たちをつつむ同性愛的な雰囲気。同性愛的な感情はいまよりはるかにふつうの感覚でとらえられていた。
▽334 江戸時代の文人や学者は、同性愛も異性愛もほとんどおなじあつかいをしていた。明治になると、国家の管理が、人々の性行動の領域におよびはじめ…健全な家族生活の維持に必要な性衝動や性行動だけが認められ…学問の言葉は、性の領域にたいする自己規制を徹底させるようになった。常民の世界をあつかうはずの、柳田民俗学にしてからそうだった。熊楠はそれに何度も激しい反発を表明していた。
…(熊楠には)性愛の領域に触れえない知性などは、ただの臆病者か、気持ちの悪い偽善者のものでしかないと思われた。
▽351 ギリシャの作家たち。よく読んでみると、アナル性交の行為がおこなわれていたことも、理解できる。
▽354 南太平洋やニューギニア。男子だけがつくる戦士的な秘密結社のイニシエーション儀礼において、同性愛のシステムが発達しており…人類学者はスキャンダルを恐れてとりあげようとしなかった。脚光を浴びはじめたのは最近のこと。(〓熊楠は先取り〓同性愛はタブーではない、ふつうのこと、という感覚)
…メラネシアに発見された野性的な同性愛の原理は、脱線なのではなく、むしろ、人間の文化や道徳の発生にとっては、本質的で普遍的なものをあらわしているのではないか。…男だけでつくりあげられた戦士の集団には、つねに潜在的に同性愛の原理が貫かれている、ともいえる。

□ポリフォニーとマンダラ
▽375 幽霊によって植物学上のヒントを与えられ、テレパシーのような超心理現象にも興味を抱いていた。
▽387 (熊楠の文章はバイブルのよう。さまざまな解釈が可能。解釈に対して開かれた文)
▽402 デカルトはコギトの主体をもって、スコラ学の称えるポリフォニー的主体を破壊した。コギトの主体は純粋で単一だ。大バッハを最後として、西欧音楽の伝統から一時期、対位法やフーガの技法は衰退する。そこでは、多数の声、旋律が響き合いながら、みごとな美をそなえた音響の離散多様体をつくりあげた。この伝統が近代にはすたれた。音楽に、単一と同一性をそなえた主体の概念が、登場してくるようになったからだ。近代とともに、西欧のポリフォニー主義は表舞台から後退した。
…思想と文学と政治の領域で今日、あきらかなポリフォニー主義の現象が観察される。
…文学でも哲学でも「対話」の重要性が強調される。近代小説のように、ひとつの主体の声が語るのではなく、現代の小説では、複数の主体の声が、複数の論理と複数の感情を語りあう。…複数の、異質な「対話」がつくりあげるポリフォニックな空間そのものとして主体は機能している、という考えが生まれつつある(構造主義?)〓
…音楽でも…哲学は、主体ではなく、主体化のプロセスの探求こそが重要だと考えはじめている。主体化は、複数の強度、複数の声の配合をとおして、実現されてくる。
…ポリフォニー主義の(復活と)台頭。
▽413 熊楠の試みを、ひとつのポリフォニー=マンダラの創出のための探求としてとらえることができる。西欧の学問の体系自体が、知的ポリフォニーの実現の過程であることを熊楠は体得した。多様な存在世界の「顕花植物」たちを生き生きと表現していた。だが、彼はそれよりもマンダラの原理のほうが重要であると考えた。隠花植物を深く愛した。とりわけ粘菌。生命についての真実の、最高の「密教的表現」が実現されているように、彼には思われた。

□来るべき自然哲学
▽420 南方マンダラは、生命システムの外部の力を「事」(物と心がぶつかるところでできるもので、これしか人間は知覚できない? 蜘蛛の巣にかかる部分しか見られないというカントの考えにも近いのか?〓)という小さな小窓をとおして、マンダラの内部に導き入れる。その力はマンダラの内部で運動している「縁の論理」によって、屈折させられ、マンダラのさらに内部深くへと侵入をはたし、無限の複雑をもった生きた構造として、つくりあげていく。
南方マンダラは、バロック様式をもった自然哲学のモデル。それは、体系の内部に真の中心を求めない哲学。内部には本質すらないと考えられている。哲学の仕事の核心は、マンダラにとりいれられる現実界の力を調整することと、マンダラの内部に襞を増やしていく「縁の論理」を探る探求のうちにこそある、と考えられている。熊楠は、民俗学であれ生物学であれ、本質を求めない、起源を求めない、原型を求めない。
▽423 熊楠の思考は、非=二元論的。彼にとっては、自然と文化、自然と作為、感性と理性などを、分離することは重要ではなく… 熊楠は、文化と理性を、ひとつの自律として抽出することに反対した。また同時に、自然を人為に対立した概念として立たせる、東洋的な自然哲学一般の傾向にもくみしなかった。
…東洋の自然哲学には、二元論の思考メカニズムがつねに潜在し、そこでは「生殖する自然」のイメージが影響力をもっていた。このイメージが、熊楠の自然哲学にはまるで存在しない。
…隠花植物の多くが、二元論的様式では、生殖をおこなわない。非=易学的な原理を生きているのだ。
…東洋の自然哲学の多くは、自然性の隠喩として、農耕生産する世界のイメージを中心にすえてきた。そこでは、陰陽二元気の生殖にもとづくポイエーシスの過程が強力なイメージを与えてきた。大地が生殖をし、生産をおこなう。これら「大地の自然哲学」には「ゲイ的様式」の入りこむ余地はない。だが、森のバロック哲学には、それが可能。その内部でおこなわれる生殖の様式は、陰陽二元気によるものばkりでなく、粘菌やキノコのように、別種の生存様式の生物もめずらしくない。(人の手の入った農耕は男女だが、森は男女ではない。農耕の哲学と森の哲学はちがう〓)森は「生産」するのではなく、異質な自然の強度をいかに調停し、大きな環境のなかで離散多様体としての生存を持続させていくかにある。このような本質をもった、森のイメージを
中心にして構成された自然哲学は、熊楠以外には、アジアにおいてもつくられることがなかった。
▽426 新しい自然哲学。非=有機体的、バロック的、ゲイ的な様式をもった…。

□補遺1
▽438 生命というのは、はじまりもない過去から、一度もとぎれることなく流れつづけている、巨大な不思議を内蔵したひとつの連続体のなかに、またたきあらわれる現象にすぎない。その連続体の微笑などこかに、生命が小さな灯火としてまたたきでると、そのあかりで暗が消滅する。逆に、生命というちっぽけな灯火がすっと消えると、それは同じ場所で、同じ時間に、闇が生まれたことになる。灯火と闇は、背中合わせになっていて、「巨大な不思議の連続体」からみれば、ひとつの現象のしめす、ふたつの顔にすぎないのだ。
…人間がその意識で、生とか死とかいってとらえているものの奥に、さらにふかいなにものかがある。生も死も、そのなにものかが、この世界に顕在化されたときにしめす顔にすぎない。
…粘菌は、生命のもっとも活発な活動が「顕在化」しているときには、見た目にはみじめな半流動体としてアメーバ状になり、その逆に、生命活動が低下すると、美しい子実体を形成するようになう。
…生と死の本性を、裸に近いままにしめしているのは、生物の世界にも、粘菌ぐらいしかない。粘菌は人間の生死の道理を教えている。
▽441 南方は、イギリスではやっていたオカルティズムにたいしては、わりあいと批判的だった。ところが、那智の山中に籠もりはじめてからは、彼の前に、たびたび幽霊があらわれた。…彼をいざなって、粘菌の場所などを教えてくれる。
…幽霊と呼ばれている現象は、純粋な空間現象のひとつであると考えていたようだ。
…生死の現象と霊魂の問題は、南方のなかでは、ひとつながりになっていた。

□補遺2 書簡による南方学の創生
▽456 手紙で自己の信ずる思想を語りかけた。そして、相手の応答をもとめた。(郵便受けの脇に立って、返書の来るのをいまかいまかと待っていた)
…土宜法竜と科学や宗教や東洋思想をめぐる深遠な対話をくりひろげた。…この書簡集は、南方学の創生のさまを記録するものだ。
…土宜法竜 モダンボーイの真言僧は、仏教の合理主義的な解釈にあきたらないものを感じ、ヨーロッパで大ブームになっていたオカルティズムに積極的な関心を持っていた。(〓柔軟で高度な知性)
…(幽霊に粘菌の場所を教えてもらうなどして)霊的現象をつくりだす人間の知覚構造をこえた高次元実在を、確信するようになった。

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