■帝国日本の生活空間<ジョナサン・サンド>岩波書店2015年 2016/01/09
住宅のつくりや椅子文化、味の素などの身近なモノや習慣と、大日本帝国やアメリカといった植民地帝国の歩みとのつながりを、サイードのオリエンタリズムの理論的枠組みを利用して描いている。生活は想像以上に「帝国」のあり方に影響されてきたことが見えてくる。
たとえばひげは、西洋から日本に移入された際に帝国主義的男性性を象徴した。着物は、日本から米国に移入された際に、女性の寝間着に変貌した。そこには「帝国」の力関係が反映されている。
床に座っていた日本人官僚は江戸末期、欧米の使節と交渉する際、椅子に座った欧米人に対して、同じ高さまで積み上げた畳に座った。目線の高さは力関係を示してしまうから、座る高さに気を配ったのだ。
日本が植民地化した旧満州や台湾の漢民族はいす文化だった。いすに座る民族を支配する床座りの民族は日本人がはじめてだった。日本人は、欧米文化に対して劣等感をもつと同時に、植民地帝国としてのプライドをもとうとした。その不安定な地位が、椅子の導入や、和洋折衷の建物などに反映しているという。
第一次大戦後、「文化生活」「文化住宅」といった言葉がはやった。文化住宅は洋風住宅への憧れを表現したものだったが、まもなく粗悪で新奇なものという意味になっていく。それにかわって登場するのが「モダン」だった。では戦後の関西の「文化住宅」は、「安物」の代名詞として名づけられたのか、それとも、文字どおり文化的という位置づけだったのだろうか。ちなみに植民地解放後の南北朝鮮の政府がつくった公営住宅は「文化住宅」とよばれた。北朝鮮の憲法は「文化的生活」という語を使っていたという。
味の素は「化学調味料」とよばれ、最先端の技術の結晶であることを誇示したが、環境や健康への意識が高まって「うまみ調味料」と自称するようになった。日本人が開発した味の素は、植民地支配とその影響範囲に広まり、今もそのエリアでの消費量が多い。今では日本の本土よりも台湾や沖縄、タイ、ベトナムなどで多量に消費されている。これも「帝国の見えざる残余」という。沖縄で消費量が増えたのは、戦後の米軍政時代だった。日米ふたつの「帝国」と味の素との結びつきを示すものだった。米軍でも日本軍でも味の素は軍隊の食料として活用されていた。
「観光」は実は新しい言葉だという。辞書にも掲載されていなかった。最初は、道徳的な教化の意味をもたせ、台湾の原住民らに帝都を見せるという意味合いがあった。一方、西洋人対象の帝都ツアーは、二重橋と明治神宮と靖国神社が3点セットで、土着文化のユニークさと普遍的な近代性との組み合わせを宣伝するためのものだった。当時の日本の「観光」は、同時期のソ連が社会主義の首都を見せようとした「観光」に似ていた。
欧米から日本、日本から台湾というように、中心から周縁への流れが一般的だが、周縁から中心に逆流した例もある。
アメリカへの日本人移民の指導者は、草履と下駄を浴衣をやめ洋服を着用するよう指導したが、戦後のある時期から、白人サーファーたちがゴム草履をはきはじめ、南カリフォルニアでは英語で「ゾウリ」とよばれるようになった。ハワイでは、家に入るときに履き物を脱ぐという日本起源の習慣も一般的になっているという。
帝国の中心は、共産主義者や無政府主義者も出会い、禁じられたテキストを読むことができるインターナショナルな場でもあったという指摘も、今のニューヨークやパリ、ロンドンを見ればあたりまえなのだけど、新鮮だった。
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▽4 油彩画は「洋画」とよばれた。
▽9…帝国の中心は、共産主義者や無政府主義者も互いに出会い、禁じられたテキストを読むことができた。インターナショナルな場をもつくった。
▽12 文学においても、東京は、西洋の書物の再輸出港の役割を果たした。魯迅は西洋の本をもとめて神田や本郷の本屋を渉猟した。(東京は文化の発信地になっていた)でも、ジャズの世界では上海がメッカだった。
▽20 「婦人画報」から室内の装飾の背後にある世界観を探求。
▽42 日本の住宅に額縁絵画が普及することを妨げた問題の一つは、ほとんどの部屋が可動式の間仕切りで囲まれており、空いた壁が少なかったことだった。
▽味の素60 グルタミン酸をコンブから抽出した池田菊苗。
▽62「中華料理店症候群」とよばれる有害な生理学的症状と関係する、とアメリカでは知られている。
▽65 「うま味」は池田自身の造語。
▽67 明治後期の中産階級女性。…科学的研究に基づいた合理性と利便を強調した新たな調理器具と材料を受け入れるようになった。…グルタミン酸ナトリウムは健康によいとイメージがつくられた。純白であることは衛生的なイメージを製品に与えた。
▽71 台湾では、飲食屋台や麺屋台が缶入りをならべて、客に「味の素」使用を誇示した。ファストフードの形態で売るため、こく味付けする理由が屋台にはあり、グルタミン酸ナトリウムは味覚刺激物として用いられた。
朝鮮では台湾ほど普及しなかった。
中国では、日本の帝国主義の象徴として抗議の的となり、現地産の競合品が開発された。
…即席で出汁をとる安価な方法として、精進料理の調味料として…中華料理の成分に加わった。
▽77 米国では戦後、軍がグルタミン酸に関心をもった。「風味に欠ける糧食は軍隊生活のどの要員よりも急速に士気を損ねる」から。…戦時国家日本でも。
▽81 1950年代末から60年代の日本では、味の素を食べると頭がよくなると広く信じられていた。
▽86 味の素社。タイは1962年、フィリピン。インドネシア1970年。ペルー1969年。ブラジル1977年。
▽87 1960年代末の食品添加物への不安が生じるまで、最先端の科学技術は味の素社が最大の努力で宣伝したい誇りの淵源だった。「化学調味料」という名は、同社文書でも長い間使われてきた。だが1970年代には明らかに戦略上の障害となっていた。そのため「うま味調味料」と改名した。
▽93 一人あたりのグルタミン酸ナトリウム消費量。台湾1285グラム、タイ1298グラム、沖縄1032グラム、日本767グラム、ベトナム854グラム。(2011年)
▽95 1945年まで鈴木商店は独占的なグルタミン酸ナトリウム製造者で、おそらく世界市場の半分以上を確保していただろう。グルタミン酸ナトリウムの影響圏は大日本帝国によって強く規定されていた。鈴木商店は日の丸の旗に追随していたのである。
▽96 沖縄での消費は、米軍政時代に急増。1931年から1968年までの1世代で、消費が250倍に。(米軍の影響と食生活の変化?)
▽120 西村伊作は、2,30軒の家を設計したが、その多くがバンガローだった。玄関の外から内部を見渡せるようになっていた。社会的透明性の理念。…「太平洋食堂」
▽148 第一次大戦後、日本語に新語が加わった。「文化」〓 古来からある言葉だが、新たな意味を獲得した。「文化住宅」「文化生活」…世界基準を指していた。
…その後、粗悪で新奇なものに対する通俗的なラベルとなった。こうなったとき、市場は別の言葉を求め「モダン」が浮上した。
▽172 最新の文化住宅はつねんい、外見的特徴によってステレオタイプ化されやすかった。1920年代初頭、批判の標的は赤い屋根であった。
〓(戦後の関西の「文化住宅」は? すでに「粗悪品」の意味をもっていた?)
▽181 植民地朝鮮の「文化生活」「文化住宅」。植民地解放後の南北朝鮮の両政府が推進した公営住宅計画も「文化住宅」とよばれた。北朝鮮の憲法は「文化的生活」という語を数度使っており…。
▽ 日本では戦後に「文化」が新たな文脈で登場した。「文化国家建設」。
社会党の森戸辰男は、生存権を保障する条項を憲法修正案に加えるよう尽力していた。「すべて国民は…健康で文化的な最低限度の…」として盛り込まれた。GHQの原案にはなく、森戸自身が加えた言葉だった。
…一般大衆が「文化」について語るとき、森戸らの希望にもかかわらず多くの場合、超越的な世界文化の要素としてよりも、国民文化の新たな基礎を建設することを意味していた。
▽190 姿勢と権力。床に座ってきた日本人。国家エリートは家の一部を「西洋式」に改装した。…植民地である台湾で人口の大半を占めた漢民族は椅子座だった。…1856年の開国交渉の際、幕府の官吏は椅子座の外交使節たちを畳の上に座って会見をおこなうように交渉した。最終的に、西洋人は椅子に座り、幕府側は同じ高さになるように重ねられた畳の上に座るという妥協に追い込まれた。
▽台湾の産品は樟脳(何のため?〓)や砂糖が大規模。
▽199 台湾と満州にうつった日本人が、椅子座の社会に植民地統治をしいた唯一の床座民族だった〓。…身体の政治科学は公共の政治と密接にからみあう。
▽202 総力戦によってもんぺが奨励されるまで、植民地のいたるところで、日本女性は内地と同様に着物を着ていたし、男性も家に帰ったら和服に着替えた。…建築についても、畳への執着は、入手困難な場所においてすら根強かった。
▽204 床座と根本的に対立した地元の習わしのひとつが纏足だった。椅子に座ることが「纏足を人間工学的に可能にした」
▽206 (日本人が植民地で)肌Kをさらすことには罰金が科せられた。…女性は裏庭から裸で行水しているのを見られることもしばしばだった。
▽223 日本の「エンペラー」は、かつて世界にたくさんいた「エンペラー」の最後の一人。…エンペラーとは広大な領土と複数の民族を支配する「エンパイヤ」をもつことになっていた。…
…「帝都」という語は1923年まであまり一般的ではなかったようだ。…1920年代と30年代の「帝都」は、植民地帝国というよりも天皇制国家を指し示していた。
▽223 戦間期の東京の観光コース。必ず3つの名所が入っていた。皇居と皇居前広場、明治神宮、遊就館をそなえる靖国神社。(祖母の世代は靖国は当然行くべき場だった)
…帝国内からの観光客に、君主の臣民なのだという自覚を植え付ける目的があった。帝国の外から来た観光客には、土着文化のユニークさと普遍的な近代性との組み合わせを伝えようとした。
▽226 東京と似ているのは同時代のモスクワ。ソビエトの実験を宣伝するため、さまざまな団体が国家主催のツアーに招かれた。プロレタリアートが支配する将来の文明の模範的な国家首都、つまり共産主義の「新しいメッカ」として演出しようとしていた。
▽229 日本の支配層は、この首都のグローバルな連結と同時性を、アジアにおけるその勢力とともに誇示したがっていった。しかし、これらはまさに、西洋人訪問客がもっともつまらないと思う東京の側面だったのである。
▽234 「観光」という言葉。語源は文明化と君主への忠誠を示唆した。道徳的色彩の濃いこの古典語を植民地官僚が選んだ。……大日本帝国支配下の先住民族のための「内地観光」ほど、体系的かつ頻繁におこなわれたケースは…
▽240 斬られた首をさらすことは日本の武士と台湾の武士に共通する長い伝統だった。1860年代に日本を訪れた西洋人は、東海道のそばで、斬られて杭に刺された罪人の首を見た。(首狩り族、腹切り族〓)
▽260 1940年までにオアフ島の養豚経営者の44%は沖縄人が占めていた。…太平洋戦争で、米軍は多数の兵隊をハワイに進駐させ、肉を要求した。養豚場はブームになり、沖縄人が「豚成金」となった。
…戦後、沖縄では豚がほぼ全滅となった。豚を送る募金活動がおこなわれ、1948年に550頭の豚が米国西海岸から沖縄に届けられた。…アメリカから来た豚は、大形で、従来とことなる飼料を必要とした。…「ランチョン・ミート」が米国からの支援物資として、、流出品として、近隣の経済に入りこみ…。
▽264 ゴム草履 初期の日本人移民の指導者は、草履と下駄を浴衣とともに身につけないよう勧め…服装を洋服にすること強調を置いた。
…戦後のある時期から、逆方向に向かいはじめた。…白人サーファーやその他海辺を歩く人々が、ゴム製の草履をはきはじめた。…南カリフォルニアでは英語で「ゾウリ」とよばれている。
…ハワイでは、家に入るときに履き物を脱ぐという日本に起源をもつ習慣も一般的になった。…(帝国の名残)
▽268
▽273 2015年春、「慰安婦」問題に対する研究者の声明文の作成に関わることになった。「慰安婦」問題は政治的な問題であると同時に歴史学方法論の問題でもある。…
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