MENU

日本文化の形成 下<宮本常一>

■日本文化の形成 下<宮本常一>ちくま学芸文庫 1994年 20160103
▽倭人
蘇我蝦夷の名に見るように、蝦夷や毛人を名乗ることは卑称ではなかった。もともと日本に住んでいた人たちは毛深かった。そこへ、朝鮮半島を経由して多くの人が渡来した。彼らは貧毛な人が多かったから、毛深い人々を畏怖した。
多毛の人々は狩猟や漁労を営んでいた。そこに、中国の沿岸から朝鮮半島南部を経由して、稲作をもたらす人々がやってきて、紀元前300年前から西暦300年にかけて弥生文化を築く。それが倭人だった。稲や麻を植え、桑を栽培し、糸を紡いだ。弥生式文化は稲作とともに海洋性の強い文化だった。魏志倭人伝が書かれるころまでは、倭人には南方文化の影響が強かったのだ。
稲作によって民衆の定住性が強くなり、国家形成の基盤ができたところに、大陸内部から朝鮮半島を経由して強力な武力を持った人々が渡来して統一国家を形成した。だが、日本へわたるには倭人の船を利用するしかないから武力で攻略したわけではなかった。じょじょに渡来し、やがて結束して律令国家への足場をつくっていったのではないか、という。
▽畑作
焼畑習俗を持つ村には狩りをする例が多い。焼畑は、木を焼き払うことで獣を追い出してとらえることからはじまり、その後、焼け跡に生えたワラビを食べるようになったらしい。山を焼いたあとへダイコンをまくのは、ダイコンやカブラがもともとは野生のものだったからだ。
だが焼畑は自然に生まれたのではなく、大陸に起源があるという。植えた作物の多くは渡来作物だからだ。日本における焼畑は定畑のみで生活できない者が焼畑をするという位置づけだった。狩猟・木工・放牧に関係のあった人々が焼畑をしたが、木工と牛馬放牧の技術は大陸文化の流入とともに発達したものだった。
日本の畑作を伝えたのは秦人たち渡来人だった。秦人は全国各地のムラに入りこみ、リーダーとして活躍した。秦人の分住によって畑作が大きく発達したので、陸田をハタとよぶに至ったのではないかと推測する。「秦人」の伝説があるところを歩いたら古代のグローバリズムが見えてきておもしろいかもしれない。
吉野では近世初期からスギの造林をしているが、雑木を刈りとって焼き、最初はソバやヒエ、マメをつくり、その後へ植林した。土佐でも、ソバ、ヒエ、マメをつくり、コウゾやミツマタを植え、10年近く利用したあとへ植林した。スギ造林の盛んな地方を見ると、もと焼畑のおこなわれているところが多かったという。
==========抜粋==========
□日本列島に住んだ人々
▽17 元禄時代から寺の過去帳が整ってくるが、そのころの家がそのまま現在まで続いているという例はきわめて少ない。
▽18 東北地方の太平洋岸には鹿島御子神をまつった社があり、熊野神社はさらに広く分布する。これらの神を祭る者は南の方から来たという伝承を持っているものが少なくない。
▽21 魚肉や獣肉は焼いて食べられる。煮て食べる物はは、まず貝類。煮ることによって蓋を開く。それに植物。煮ることによってあくを抜き、やわらかくすることができた。海藻もそうだろう。
▽24 縄文時代の人口は北海道を含む東北地方に密度が高かったのではないか。
▽27 コトシロヌシという神は、奈良県の山中にも古くまつられていた。…そのあたりにはもと鴨とよばれる部族が住んでいた。後に山背に移って賀茂と書くようになるが、もとは鳥類を捕らえることを生業とした狩猟民だったと思われる。その人たちの祭った神にコトシロヌシがあり、土地の人は今日エビス神としてまつっている。
古くから列島に住んでいて、狩猟や漁労にしたがっている人々がエビスとよばれたのではなかったか。
▽35  統一国家が誕生する以前、北海道を除いて弥生式文化の洗礼を一度受けている。稲作を主体としたもので、西紀前300年から西紀300年くらいまでの間、およそ600年にわたって展開した文化だった。…中国の沿岸から朝鮮半島の南部を経由して日本にもたらされた。…朝鮮半島北部には稲作の古い遺跡は見つかっていないから。
□日本文化に見る海洋的性格
▽53 稲作の普及は水路を伝って船を利用して広がった。弥生式の遺跡が河川に沿って分布していることによって推定できる。日本海側でも、能登半島に集中的に多い…。
▽57 江南から日本列島への渡来には済州島が果たした役割が大きかった。この島の人たちは、潜ってアワビを捕り海藻を採っている.今は女だけが潜るが、古くは男女ともに潜っていた。儒教が浸透して男女ともに潜ることはなくなったといわれる。
▽86(琉球の15世紀)酒 米を水につけておいて女にかませてカユにし、これを木桶にかもして酒にする。…ひとが死ぬと棺中に坐置して崖の下などに放棄して、土中に埋めるようなことをしない…
15世紀中頃までは、先島は南洋−フィリピンにつながる文化圏に属していたのではないか。

□日本における畑作の起源と発展
▽97 焼畑のはじめは、木を焼き払うことによって、獣を追い出してとらえることにあったのではないか。焼け跡に生えたワラビは、若い間はゆでて食べ、根は秋になって掘りとってくだいてデンプンをとった。下北や秋田県、長野県乗鞍岳でも。
佐渡などでは山を焼いたあとへ大根をまいているが、ダイコンやカブラはもともとは野生のものだったろう。山を焼いたあとにつくったものには辛みがない。
…焼畑習俗を持つ村々には狩りをおこなっている者が多い。
▽101 吉野のスギの造林は近世初期からおこなわれているが、雑木を刈りとって焼き、2,3年は畑としてソバやヒエ、マメをつくり、そのあとへスギを植えた。
土佐も、ソバ、ヒエ、マメをつくり、コウゾやミツマタを植え、10年近くそうやって利用したあとへスギを植林した。
…ほかにも、スギ造林の盛んになった地方を見ると、もと焼畑のおこなわれているところが多かった。〓
▽103 焼畑耕作も大陸に起源。武蔵のサシは焼畑を意味する朝鮮語という。…焼いた跡にソバ・ヒエ・ダイコン・カブラ・サトイモ・マメなどをまくということは、…これらの作物は大陸からわたってきた物が多かったのではないか。
▽106 四国や近畿、中部の山地ではサトイモをつくることが少なくなかったが、日本海の焼畑ではサトイモをつくったという話はほとんどない。ダイコンやカブラを多くつくった。
…焼畑でつくられているものも、多くは渡来作物であるところからすると、日本における焼畑はあるいは定畑の発達につれて、定畑のみで生活できない者が焼畑をおこない、むしろ焼畑は定畑を支えた副次的な意味をもつ物ではないか。
狩猟・木工・放牧に関係のあった人々が焼畑をやったが、木工と牛馬放牧の技術は大陸文化の流入とともに発達した。
▽109 焼畑と定畑を発達させた人々は、大陸から渡来した人々ではないか。陸田を「ハタ」とよぶ。定畑のことをハタケまたはシラバタケとよんで「畠」と書いた。火田と白田は区別されていた。秦人が畑作農耕や機織りの技術を伝えたのではないか。
▽114 秦の一族が朝鮮半島に移住し、日本にわたって各地に分散した。そこに住んでいる人の間に入りこんでいった。高い生産技術を持ち、地域の生産活動のリーダーになっていったと思われる。秦、幡多、幡田…などの地名にあらわれている。
▽123 セリ、ナズナ、ハハコ、ハコベ、オオバコ、ダイコン、カブラなどは、酸性の緩和された土壌で育つもので、野を焼くことによって茂るようになった。
▽124 高麗、服部、桑名、桑原、錦織、狛江、児玉なども渡来人が定住した郷。
▽144 花咲という地名。火山灰土におおわれたところ。ソバの適地であった。焼畑や定畑ではもっとも多くつくられたが、貢納されることがほとんどなかったので、近世に入るまでは記録にとどめられることがなかった。
▽147 麻の栽培は東国。絹と麻の生産地は西と東に別に発達した。麻は、古い縄文文化の伝統を受け継いでいるものではないか。
□海洋民と床住居
▽蔀戸。中世の宮殿や神社などには内外の障壁を蔀戸にしたものが多く、古い寺院が扉を用いているのと対照的だが、その蔀戸が浦の漁家の家に見られる
▽155 土間住まい。明治維新のころは秋田・山形では6割までが土間住まいだった。北陸も多かった。近世末まではまだ各地に多く、床を着けるようになったのは明治になってからというものが少なくない。一方、貴族の家は古墳時代から高床になっている。貴族とはいったいなんであったか。
▽159 倭が南朝と通じたのは、宋との間に文化の上で共通するものがあり…当時の倭の大和朝廷は南朝文化の影響を受けていたと見られる。それを物語るのが高床式家屋。東南アジアに多く、稲作文化とも深いかかわりあいを持っていた
▽161 コメは高倉のなかにしまった。高倉は秀倉(ほくら)ともいったのではないか。ホコラはここからきているのでは。
▽162 源氏物語絵巻の寝殿造り。住居の内外の障壁は御簾をたらしただけ。寒いときは内側に押壁という白い布をたらした。間仕切りも押壁と御簾だけ。寒々としていた。…夜間の障壁は蔀だった。…引き違いの板戸やふすまや明かり障子などで寒気を防ぐことができる書院造りの発達するのは平安後期から鎌倉時代。
▽163 土間を持つ寺院に床がつき始めるのは平安時代に入って観音信仰が盛んになり、阿弥陀堂建築が進んでから。
▽165 戦前の漁村には便所のない家をよく見かけた。…貴族の家にも便所はなかったようで、小便はその場で尿筒にし、大便は従者がほかに持ち運んで処理している…海民の生活習慣が意外なほど深く浸透しているのではないか。

□刊行にあたって 米山俊直
□あとがき 田村善次郎
□宮本千晴
□年譜 志摩民俗資料館
□網野善彦

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次