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日本文化の形成 中<宮本常一>

■日本文化の形成 中<宮本常一>ちくま学芸文庫 20151216
筆者はみずから農漁業の経験があるから、古い時代の道具を見て、それがどう使われるか即座に理解できる。生業の伝統を受け継いでいる人だから、歴史への想像力が生まれる。生業から切り離されてしまった私らの世代には宮本常一は生まれないだろう。

私の住む紀伊半島の山には延長百数十キロの猪垣がある。本当にイノシシよけのためなのか? 膨大なカネと人手をかける意味があったのか? どんな経緯でつくられたのか? 疑問だらけだった。
筆者は、日本における「畑作」の発展を説明するなかで、そんな疑問をいとも簡単に説明する。
畑作は焼畑からはじまった。煙のにおいがするから動物が寄りつきにくい。だが3,4年すると効果が薄れる。そこで猪垣を設けた。村のまわりに垣をつくったその内側が「垣内」であり、それが定畑になった。サトイモは定畑につくったから「里」の字がついたという。一方、垣の外では、麦などがつくられた。田植え前に刈り取るから、秋から春に跳梁するイノシシの餌になることが少なかったのだ。

稲作は鉄によって広まった。木製の農具も鉄によってつくられた。鉄を持つ人たちが、それぞれの土地を開いて県(あがた=吾田)をつくり、それらが集まって郡(こおり)となり、郡が集まって国になった。豪族には、水田をつくってなった者と、武力によってなった者の2種類があり、農具がたくさん出る古墳は前者の豪族の墓だという。田を開いて豪族化したのが蘇我氏らで、武力による豪族は、騎馬民族につながる天皇家の祖先だったのだろう。

柳田国男は当初、縄文文化を持つ人が山に残っていると考えたが痕跡が見つからなかった。そこで、山も含めて弥生時代の稲作文化が全国を覆ってしまったと考えるようになった。それを否定し、稲作とは異なる文化の枠組みがあったのではないかと提言したのが中尾佐助の「照葉樹林文化」論だった。
ヤマノイモやナガイモは、すりつぶして土に2,3日埋めると発酵してえぐみがとれる。熱を加えると簡単に食べられる。そういう根栽文化が東南アジアから青森まで届いていた。祭りや雑煮にサトイモが出るのは、過去に大きな比重を占めた食物だからで、ヤマイモをすりつぶして食べるのは古い食べ方が残っているからだと考えられるそうだ。

稲作イコール湿地というイメージがあるが、マレーでは丘を焼いたあとに籾をまき、なだらかな部分に土手を築いて水をため、そこに稲を抜いてきて植えていた。焼畑と水田が一緒になった田があるという。フィリピンのイフガオの棚田も、焼畑とのつながりがあるのかもしれない。焼畑が稲作の起源のひとつと考えられるのだ。
一方、インディカ米は低湿地から生まれ、ほとんどが直まきだった。種子島は明治35年までは直播ばかりで、牛を田んぼの中にほうりこんで踏ませたあとへ籾をまいた。屋久島や木曽川もそうだった。赤米や長粒米の作り方だったが、日本は「胸までつかる」低湿地の田が少ないからあまり広まらなかったという。熊野古道の山奥には深い水の田があったが、そこで作られた米は長粒種だったのだろうか。
稲刈りは、奈良時代までは穂首を刈っていた。イフガオでは穂首を刈り取っていた。

まっすぐに上を向いて寝るというスタイルも、実は最近のことらしい。
縄文時代は足腰を曲げて埋める屈葬が多いが、それはふだんの寝姿だったという。あたたかい布団がないから、火のまわりで芋虫のように丸くなって寝るしかなかったのだ。足腰を伸ばして寝られるようになったのは大正時代という。

日本の農村は、欧米のような大農園が少なく、家族経営が多い。その基盤をつくったのは、大化のクーデター後に唐の制度をまねた班田収授法だという。
ふつうの農民は1人あたり2反をあてがわれた。大人1人の1年分の食料は1反の田でまかない、残りは税や再生産にまわされた。奴婢は通常の農民の3分の1しか土地をあてがわれないから、下男や下女をおかない経営をすることが大事になる。そこから家族経営が発達したと宮本は考える。
ヨーロッパやエジプトは、戦争で奴隷を獲得したから大農園を経営できた。日本は戦争がなく奴隷が少ないから農園が発達しなかった。
日本の農民社会が安定していたのは、律令国家における農民に対する処遇が、明治まで続いてきたからだと推測する。その安定を壊すのが、明治の徴兵制だった。

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▽16 焼畑をすると動物が寄りつきにくくなるが、3,4年すると効果が薄れる。荒らさせないようにするために方々に猪垣を設ける。多く残っているのは伊勢神宮の近く。神路山では一切狩りをやってはいけないことになっている。だから猪がたくさんいる。…村のまわりに垣をつくって野獣が入らないようにするのが垣内。垣内畑は定畑になる。おそらくサトイモは定畑につくったのではないか。でなければ「サト」イモとはいわないはず。サトイモは田イモともいう。水田にもつくった。
…外畑でつくられる作物は、麦のようなものが多かったのでは。ムギは田植え前に刈り取るものだから、猪の跳梁する秋から春ではなく、野獣の餌になることが少なかった。
▽19 青ヶ島では、サツマイモといっしょにサトイモが植えられている。…四国山地や紀伊山脈で、焼畑でサトイモをつくっている実例は見てない。やはりサトのもの。が、サトイモが稲作以前の重要な食料だったのはまちがいない。
▽20 田んぼで使う木製農具をつくるのに、鉄が使われた。
▽29 鉄が最初、武器としてではなく、農具として多く使われた。鉄を持った人たちが、まずそれぞれの土地を開いて県(あがた=吾田)をつくっていく。そして県が幾つか集まって郡(こおり)を形成する。それがさらに集まって国を形成する。…日本の豪族には、水田をつくって豪族化していったものと、武力的な制服によって豪族になっていった者の2種類が或る。農具がたくさん出てくる古墳は、農業開発で豪族化していった人を埋めたのではないか。
▽46 柳田国男は、最初は、縄文文化を持った人たちが山に残っていると考えていたが、昭和9年から12年にかけての山村生活調査で、山人の持っていた文化が残存しているものが見つからなかった。そして、今の山村というのは、実は山間の農村ではないか、と言っている。そして結局、稲作が南から北へずうっと北上してきて、その力が非常に大きく、新しい文化が日本全体を覆うようになったと、いうのが柳田の仮説に。
日本文化の原型は弥生時代に形成されたという枠組みができあがってしまった。
そこから一歩出ることになったのは、中尾佐助の「照葉樹林文化」。日本文化の枠組みにはもう一つちがったものがあったのではないかという提言。(〓位置づけ。なるほど)
▽54 ヤマノイモあるいはナガイモといわれているものが、照葉樹林地帯あるいは暖温帯でつくられる。…これをすりつぶして土中に2,3日埋めると発酵して、やや酸っぱみを帯びてくる。そうするとえぐみがとれる。それを食べる時に熱を加える。たとえば焼いた石で覆いをする。このように簡単に食べられるから、時を持たない文化が発達していく。東南アジアから、そういう根栽文化が日本まで来ている。タロイモ系統のものは、秋田や青森まで栽培地がある。祭礼に必要とされることが覆い。祭りには必ずサトイモ…とか。雑煮にはサトイモが入らないといけない、とか。そうすると、ある時期にはそれが非常に大きな比重を占めた食物ではなかったか。
…ヤマノイモはすりつぶしてどろどろにして食べている。これは古い食べ方が残っているのではないか(〓なるほど)
▽60 雑穀 アワは1903年に24万ヘクタールつくられている。畑の1割はアワがつくられた。戦時中奨励されたサツマイモでさえも17万ヘクタールに及ばなかった。昭和21年のサツマイモは12万ヘクタールだった。1878年の統計ではヒエが10万ヘクタールつくらえている。
▽67 穀物や堅果類を食べるようになると土器が発達する。…宮古島・八重山は2000年以前は無土器だった。すると、穀物がその段階までなかった。すると、イモが中心ではなかったか。
▽77 マレー。丘を焼いて籾をまく。山がなだらかになっているところへ土手を築いて水をためる。そこに、密植した稲を抜いてきて植える。焼畑と水田が一緒になった田んぼ。(イフガオは焼畑は?〓)
▽81 赤米は琉球列島を経由してやってきた。一番多く赤米がつくられたのは鹿児島県、それから熊本、宮崎、高知。鹿児島や熊本では、赤米が白米の半分ぐらいを占めていた。つまりそこから北上していった、と考えられる。
▽85 赤米を一番つくっているのはフィリピン。戦争中にはたくさんつくっていた。
▽88 日本で野生のもので家畜化された動物はウズラだけ。ほかでは猪を飼って豚にした。日本にも猪飼部はあって飼い慣らしたが、豚飼部にはならなかった。(121 イノシシの落とし穴。穴の中へくいを差して、イノシシが飛び込むと足が宙に浮いて逃げられなくなる。それを生け捕りにして、生きたものを飼ったのでは。温存するため)
▽97 米というのは最初は焼畑で多くつくられたのではないか。…13世紀ごろまでは水稲と陸稲の区別がつかなかったという。日本で古い米がつくられているのは、西表島。ところがそこには、もうひとつ別の米、長粒種インディカがある。
▽102 種子島は、明治35年まではほとんど直播だった。低湿地で犂がない。牛を田んぼの中にほうりこんで、さんざん踏ませて、あとへ籾をまく。屋久島や木曽川も。
…赤い米、長い米を作る作り方と、短い粒の米の作り方とは違っていたのではないか。長い米をつくるほうが、作り方は粗末だった。日本は低湿地が少なかったから、そういう農耕法がそう広がらなかった。胸までつかるような田んぼはそれほど多くなかった(〓古道の十丈王子は長粒種か?)
▽110 稲刈り 杭上家屋(高床)の地域。今は根から刈っているけど、もとは穂を摘み取った。奈良時代までは穂首を刈っていた。それ以後、根刈りになる。その地帯に共通してみられるのが、臼と竪杵になる。ものを食べるのに皿として木の葉を使う。それらが重なりあうことで、稲作文化の特色と見てよいのでは(〓イフガオ)
▽112 粒酒「一夜期水」。発酵させるには、南の方では女の人がお米をガシガシかんで、唾を入れる。十分発酵していないのを神様に供える。そういう酒は粒酒と言ってよいのでは。
▽113 南のほうで発達したのは根栽農業。タロイモやバナナ。その上に乗っているものに種子農業がある。その種子農業が西の方の種子農業とはちがう。
▽118 スキタイ文化、シベリアにあった文化を形成させ、維持させたものに、栽培植物としてのソバがあった。
▽135 騎馬民族説 騎馬民族は、何万もいる必要はない。ひと握りでいい。組織せられたひと握りがやってくればよい、と、江上さんも言っている。
▽137 日本は野獣を家畜化しなかった。だが、猿まわしをやったグループだけが猿を家畜にした。
▽169 サトイモなどは稲作の起こる以前につくられていたと、岡正雄らが主張していたが、佐々木はみな一緒に入ってきたのではないかと言い始めた。
▽184 朝鮮牛は、毛の色が茶色なのが特色。それを日本で飼い慣らしたのが肥後牛。肥後牛は大きくなるが、肉の味が悪いため値が安い。ところが、肥後もっこすはその血を守った。最近、肉がすき焼きだけでなく、いろいろな食べ方が出てきて、体重が重いから高く売れるようになってきた。
▽192 シャーマニズムは、日本も沿海州も朝鮮も、その地帯。モンゴロイドの一派であるツングースといわれる種族の間に見られる古くからの慣習だと言ってよいと思う。日本もその文化圏で、それを支えたものに鏡があったのでは。
…鏡を鋳つぶしてつくったのが銅鐸だったと思われる。…だが銅鐸は古墳のなかから出てきたという例はない。多くの場合、埋めてあると思われないような人里離れた所からたくさん出てくる。
▽198 屈葬 縄文時代には足腰を曲げて埋める場合が多い。昔は寝るときに曲げて丸くなって芋虫みたいになって寝たのではなかったか。布団があるわけじゃないから寒い。火をたいて、そのそばで寝るとそうならざるを得ない。布団が今のように大きくなって、足腰を伸ばして寝られるようになったのは、大正時代といってよいのでは〓。永平寺の布団は、膝から下は敷き布団から出る。上も小さい。雲水は柏といって、布団を折って寝る。そうすると丸くなって寝なければどうしようもない。
…足腰を伸ばしている墓の骨は、それまでの日本人の背の丈に比べると、みんなかなり高い。
▽201 前漢が滅亡したときの人口は6000万人、それが光武帝によって統一されたときは2100万といわれている。3900万もの人が17年ぐらいの間に死んでしまった。
後漢がつぶれる前の人口は5000万まで回復していたが、三国にわかれて長い戦争をすることで、5000万が700万まで減った。魏は440万まで減っている。
皇帝がしっかりしていると人口がじわっと回復してくる。中国ではすごい波があった。
その波がとまって、人口が一定の方向に向かって増え始めるのは、600年ほど前に明という国ができてから。明の最盛期で約7000万人になっている。
前漢と後漢の間に人口が急減した時代に、日本に盛んにやってきた一時期があったのではないか。それが日本の弥生時代だった。
…大和に二つの層があった。鬼道をこととするシャーマニズムーー銅鐸や広幅の銅剣・銅矛をつくる−−つまり呪術を中心にした文化を持った人たちがいて、そのあとに武力を持った人たち、扶余族が日本にわたってきて東へ移動していった。それが騎馬民族。
▽210 最初に向こうから来た文化はふたつの要素があった。支石墓をもった人たちの群れが来たということ、それから人をそのまま土に埋める、しかも伸展葬だった人たちがきている。これは民族的に差があったのでは。その次に、甕棺による方法が非情な勢いで広がっていった〓。
▽220 唐の発展を見て帰朝した留学生たちが中大兄皇子をかついで、クーデターをやって、蘇我氏を滅ぼす。それではじめて唐の制度を受け入れることができるようになる。唐は口分田にしたのは畑だったが、日本は水田だった。
1歩=1間四方にできる米が、籾にして一升。実の入ってない籾をのぞくと玄米5合になる。これは大人1日の食糧。1反が360歩だから、360歩あれば1年間の食糧が得られた。余ったものが租税や再生産にまわされた。奴婢は通常は2反もらえるところを3分の1しか土地をもらえない。それでは飯を食えない。だから下男や下女をおかない経営をすることが大事になる。日本における家族経営の発達というのは、そこに秘密があったのではないか。
倭名抄(931−938)によると、全国の耕地面積は83万町歩。平均して房戸1戸あたり3町歩ぐらい。家族人員を仮に1人2反ずつもらったとして15人はいたということがわかる。家族経営は古くから成立していた。
▽224 農地の大開発 ヨーロッパやエジプトは、戦争で獲得する奴隷を使うからできた。一人が広い面積を経営できる、だから農園が発生する。日本は、戦争がなくて奴隷をつれてくる場所がないから、農園が発達しなかった。
▽228 口分田、条里制によって分けられた田で、米を作るということが家族経営によってなされた。…家屋敷の周囲の畑からは年貢を取らなかった。家についた畑から年貢をとらない。そういう畑を持った屋敷のことを在家と言った。
…日本における畑は、水田の付属物として広がっていったと思う。
▽231 人口密度について各国をみていくと、100人を超えたところは、水田が早く開けた所。上総、安房、相模、伊賀、山城、河内、和泉、攝津、因幡、播磨、備前、讃岐、筑後、壱岐。
…日本という国が国家らしく成立したときに、班田収授法をとって、土地を小さく分けて家族経営にした。皆が平等という意識を身につけて経営するようになってきた。それが今日まで根深く生きていて、これほど文化が進んできても、一歩も抜け出すことができない。
▽235 名田 鎌倉時代、地頭は家来に未墾の土地を与え、開いた土地を与えた。そういうところに自分の名をつけたのが「名田」。岡山から広島に書けて非常に多い。大分にも。侍は、いい土地を持ったんじゃなくて、開き余しの悪いところをもらった。人名のついた所を調査すると、条件の悪いところばかり。
鋳物も織物も、田畑も一軒でやるような長者は、鎌倉時代に入ると貨幣経済が発達し、継続する必要がなくなる。バラバラな経営になって、市場と結びつくほうが有利になる。
▽247 日本の税は年貢という、できたものに対して税がかかった。東南アジアの国々で税をかけたのはオランダが最初で、人頭税だった。生産力に対する税ではなかった。琉球もそう。
日本の場合、生産高に対する税だから耐えられた。
…日本は百姓は武力ではないと考えられた。腰に刀を差さないと農民とみた。侍が農民に変わった場合は、その追求をしない。落人伝説はそれを物語るもの。
…農民社会が安定していたというのは、律令国家における農民に対する処遇が、そのまま明治まで続いてきたものではないか。明治になってそれが破れてくる。それで、徴兵制というものがしかれることになる。
▽256 あまさんは男も潜った。少なくとも中世までは男女共漁だった。女が中心になって潜った対馬や曲の海女でも近世までは男女ともに潜っていた。鯨が捕れるようになって、男がそれに従事するようになって、女だけが潜るという地域が出てくる。九州も志摩もそう。
▽272 漁民が陸上がりした場合の家の構造は田の字型が少ない。間取りが並列型。引き戸ではなく、漁家には蔀戸(しとみど)といって上側は上にあげる、下側は手前にはずす戸がある。

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