■日本文化の形成 上 <宮本常一> ちくま学芸文庫 20151212
著者最晩年の講演と遺稿をまとめた本。
蘇我蝦夷の「エミシ」というのは毛の深い人たちという意味であり、新たに海の彼方から来た人たちが、列島土着の縄文文化人たちを「エミシ」と言ったのではないかと筆者は推測する。
さらに、縄文の世界に弥生人がやってきただけでなく、海の彼方からの移民の波は2つあったという。
ひとつめの波は、稲作をもたらした人々だ。
稲には、湿地を好む長粒種(インディカ)と、実るころに水を落とす必要がある短粒種がある。短粒種は、ヒマラヤの東の谷の棚田で生まれた。棚田は水を落とせば乾くからだ。そういう意味ではフィリピン・イフガオの棚田は短粒種の田んぼの原風景だったのだ。
短粒種を日本にもたらしたのは、呉越の内乱があった際に、揚子江方面の越から船で逃げてきた人々だった。漁労をしながら朝鮮半島南部から北九州にかけてに住みつき、稲作や南方の風俗を日本にもたらした。それがエビス神をもつ倭人だった。揚子江や西江その河舟のほとんどが筏であり、済州島や対馬も筏があったのも共通の祖先をもつからだという。
倭人は、朝鮮半島にも九州側にもいて、その間を往来していた。海の交通の支配者だった。
その後、第二の波として鉄器をもつ騎馬民族がやってくるが、彼らは、倭人に船で渡してもらった。だから必ずしも一方的な征服ではなく、まずは九州北部に定住した。その騎馬民族が東に攻めていった。鉄の鎧や剱をもっているから、少人数でも強力だった。卑弥呼の死後の邪馬台国を滅ぼして大和王朝を築いた。西暦370年ぐらいから、古墳のなかに馬具がたくさん出るようになったのはそのためという。稲作を中心とした在来の祭祀的な王朝の上に武力的な国家をつくりあげた。朝鮮から来た人たちが、中国から稲作をもたらした人たちの上に乗った形だった。
埋葬方法にもこうした流れの影響が見られるという。
縄文人は屈葬で、死体は身近に埋められた。屋敷内に墓を設ける習俗が青森県から九州まで残っているのはその名残で、そういう地域は畑作地帯で、縄文文化人が色濃く生き残った地帯ではないかと考えられるという。死体を穢れとして物忌みすることや、靴を脱いで家にあがるのは弥生式文化の特色で、土間があるのは縄文文化の名残りらしい。
鎌倉時代までは縄文由来の竪穴に住んだ人は多く、昭和10年代まで竪穴式の住居形式は残っていた。彼らは最近まで、ドングリとかトチの実、カシの実などをとって食べる工夫をしていた。縄文は昭和になるまで残っていた。
短粒種は早くに日本にもたらされたが、湿地に便利な長粒種が奈良時代に入ってきた。赤米の分布が九州や四国が多いため、琉球列島を経由してきたとみられる。
一方畑作は、もとは焼畑だった。大陸から来た秦氏が蚕を飼うために桑を植えることで定畑化してきた。秦氏は馬を放牧するから、人が住んでいる場所の外側へ垣をつくる。その垣の内側で作物をつくる。それが垣内(かいと)畑、つまり定畑として発達し、その後、垣の外にも畑が広がっていった。定畑は弥生以降にできたらしい。
古い時期に、養蚕などの先進的な技術が隅々まで広まったのは、大陸から新しい技術を持ってきた人たちが、征服者としてではなくて、指導者として乗ってくれたためだという。その指導者が秦氏だった。全国の人口が300万だった時代に10万人を秦氏が占めていた。そして技術を吸収する基盤として、稲作集団が大きな役割を果たしたという。
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▽蘇我蝦夷 毛の深い人たち、これが縄文文化人だと見てよいのではないか。そして、新たに海の彼方から来た人たちは、列島の土着の人たちを「エミシ」と言ったのではなかったか。
▽32 (板付の水田遺跡)足跡を残すぐらいだから、それは湿田ではなかった。そのときの稲作は、水がなくなると乾くようなそういう田んぼに稲を植えていたと明らかになった。…湿田地帯の稲はたいていは粒の長い米。乾いたところに作る米は短い粒の米。
▽38 揚子江の押し流す水勢に乗って東へ行くと済州島に着く。このコースで日本へやってきた人たち。揚子江や西江もそのの河舟のほとんどが筏だった。済州島も対馬も筏があった。
▽43 任那の日本府は滅びたが、その後も倭人が住み続けて日本館というものをつくっている。これが鎌倉時代までつづいた。それがなくなり日本人が朝鮮半島に拠点を失ってから、倭寇が登場してくる。
▽46 漢に滅ぼされた秦人が朝鮮半島に移動する。
…西暦370年ぐらいから、日本の古墳のなかに馬具がたくさん出るようになる。中国大陸から大きな精力が流れてきて九州の北に拠点を築き、東への移動がおこなわれたのではないか。征服王朝が大和に成立してきた。
▽52 稲作の豊作を祈って祭りをしていた卑弥呼が死んだあと、大乱が起こる。この大乱が騎馬民族の大和朝廷の征服ではなかったか。祭祀王朝から征服王朝へ。
▽53 この王朝の特色のひとつは、先祖を祀ること。先祖を祀ることは大陸的な祀り方。伊勢神宮の内宮は先祖をまつる。外宮は穀物の神を祀る。
▽60 古い縄文人は、屈葬をやっていて、死体が遠くへ遺棄されたという形跡がない。…現代にいたるまで、屋敷内に墓を設けるという習俗が青森県から九州まである。そこがだいたい畑作地帯で、縄文文化人が比較的血を濃くして生き残った地帯ではないか。
▽65 物忌みするなどの穢れの考えは稲作文化が生んだもの、…座敷があって、家に入ったら靴を脱いであがるのは、弥生式文化の特色。土間があるのは縄文文化の名残だろうね。
▽73 土蜘蛛は竪穴式住居に住んでいた縄文人では。鎌倉時代まで竪穴に住んだ人は多かった。縄文式の生活がつづけられていた。(絵巻を見るとわかる=柱がない家)当屋になるような家でも竪穴に住んでいた。…昭和10年代まで竪穴式の住居形式は残っていた。
…竪穴住居の人たちは、ドングリとかトチの実、カシの実などをとって食べる工夫を最近まで残していた。縄文文化は、典型的な形で追究できるのは鎌倉時代のはじめまで、断片的なかたちで残ってくるのは昭和のはじめまで。
▽83 ヨーロッパのような奴隷制の時代はなかった。
▽86 日本には青銅器時代はなかった。
▽88 黄土は肥料をやらなくてもものができる。一番良いのは赤土。それが多いのが南米。コーヒーをつくるとき、ほとんど肥料をやらない。ケニアも肥料なしにいくらでもトウモロコシができる。2番目によいのが黒土。3番目が黄土。日本の土はそれより一段低い淡黄色の土の分類に入る。火山灰土になると、肥料を使わないと作物が作れない。そういう地帯には焼畑が多い。
地力の強い土だけでものがつくられる場合には必ずしも鉄器を必要としない。草を取る必要もない。畑作を発達させ、古い国家が成立した。
日本は土が悪いから、常畑がなかなか成立しなかった。
…稲作は、鉄の鋤と鍬を必要とした。鉄のとれるところで稲作が発達した。
▽96 湿地を利用するには、新しい品種、長粒種が必要になる。それが入ってきたのは奈良時代ではないか。赤米の分布が琉球列島を経由して日本へ入った形跡がたぶんにある。
…利根川の下流でつくられていたカッサコウバレという品種。実が落ちやすいが、湿地に強かった。終了葉少ないが、洪水があっても全滅しなかった。
▽101 中国の畑作地帯では、麦とアワが一番良いとされ、飢饉の場合はキビを食べる。さらに貧しい者や飢饉のときにはヒエを食べた。
▽103 今から2500年くらい前揚子江の南に呉越という2国ができる。相次ぐ戦争が、日本へ稲作が伝わることは無縁ではないのではないか。平和を求めて海を越えて朝鮮半島南部へ住みつき、それが倭人となったのではないか。
▽106 はだし、というのは、南から来た人間。日本でも明治30年代までは大半の人がはだしでいた。外国人がであるくようになり、「立ち小便をしてはいけない、はだしになってはいけない、服を脱いではいけない」となった。巡査に見つかると罰金をとられた。
▽110 一般民衆というか稲作を日本にもたらした人たちの埋葬法と、朝鮮半島から日本へ渡ってきて、日本を政治的に支配するようになった人たちとの間には差があった。
▽121 焼畑があった。定畑の発達。秦氏が蚕を飼って生糸ををとった。桑を植えることで定畑化してくる。秦氏は馬を飼っている。牧場で放牧する。人が住んでいる場所の外側へ垣をつくる。その垣の内側でものをつくる。垣内畑(かいと)。それが定畑として発達する。その後垣の外に畑が広がる。
▽145 狩をやったなかから、焼畑というものが生まれてきはじめたのでは。山を焼いて蕨を茂らせその根を掘るが、そこにある野生の植物のなかで比較的収穫の多いものをつくると、それがアワだった。エノコログサ(猫じゃらし)に肥料をやって大きく育てる実が大きくなる。それが後にアワになったと言われている。
…常畑は、弥生以降では。…縄文時代は、農耕はあったが、農地が移動する形式をとっていた。それが、一定の所へ穀物が作られるようになっていった。それが弥生文化と考えれば…
▽159 騎馬民族が九州に上陸。倭人が海を支配している。その協力で海を渡ってきた。そうやって九州北部に武力をもった人たちの基地ができ、それが東へ移動しはじめる。鉄の兜、鎧、鉄の剣を持つものが100人か200人もいれば、あらゆる民族を征服できたでしょう。ピサロはわずかの人数でインカ帝国をつぶしている。
騎馬民族が大和にたどりついたのが370年ごろではないか。
▽168 古い時期にあらゆる技術が隅々まで広がっておったということは、稲作集団がたいへん大きな役割を果たし、大陸から新しい技術を持ってきた人たちが、征服者として乗っかったのではなくて、指導者として乗っかってくれた。(征服者として乗っかったら、その技術を皆に分かちあたえることはない)
▽170 首狩り。日本の場合は武士だけがやっていて、ほかの連中はいち早くやめてしまった。
…焼畑だとか、ミレット、小粒の穀物をつくる民衆の中に見られる儀礼。首を切るのもそれ。収穫祭のときに神に捧げるのは大事な祭りの条件だった(イフガオ〓)。弥生時代、脳みそを食った跡がある。
▽176 戦前の焼畑では、大根やカブラが、サトイモとならんで重要なものだった。
▽185 デンプンの粉はあくを抜くのに、水ざらしが大事だった。ドングリとかトチとか。水ざらうぃしてあるから、それに熱を加えればのり状になる。餅にならざるをえない。
…ソバもサトイモも、煮てつきつぶすと餅状になる。アワもそうなる。
…焼畑でカリ分が多くなると、作物にえぐい感じがなくなる。ダイコンでもカブラでも、甘くなる。さらすことを必要としなくなる。さらに野山を焼くと、野獣があまりこなくなる。焼けた臭いが野獣を近づけない。
▽202 はじめは焼畑をやって、地力がなくなると、桑を植えて、定畑化していったのではないか。…西の方ではハタはもともと焼畑のことで「畑」と書き、ハタケは定畑で「畠」と書いた。
▽204 秦という家は、農耕や絹織物だけではなく、木工にも優れていたのでは。
▽205 戸籍がつくられたころの日本の人口は300万ぐらいとみられる。そのなかで10万人を秦氏が占めた。
▽206 農業、木工、漁業が秦人に指導されて生産が上がったと言える。…近江の木地屋がいた村は、ハタがつくのが多い。君ケ畑とか大君ケ畑…その畑は焼畑ではなく、定畑ではなかったか。
▽215 桑は、実を採ってきて、それをすりつぶし縄へつけ、土へ半ばうずめておくと芽が出てくる。非常に簡単につくれる。
▽217 繭をとったあとは、ほかの人が処分した。オリモであり、ハトリベ(服部)だった。
…大陸から渡って地方へずっと散らばっていき、郷をなし、各地に住みついた人たちというのは、蚕を飼うかその生糸を織るかした人たちで、広く各地に分布していた。衣服の供給に携わった人がたいへん多かった。
▽230 稲と言い出したのは日本語であって、古くは、ウルチ。これは漢人が言ったのではなく、さらに奥に住んでいた今の南シナの山中に住んでいた、楚人か越の言葉ではなかったか。中国では秈(せん)とか粳(こう)という言葉になるが、日本はあまり入ってこなかった。コウにあたるのがウルチ。漢民族国家が成立してその影響を受ける以前に日本へ渡ってきたことになる。〓
▽241 日本の焼畑は南方系と北方系とにわかれるのではないか。ソバとアズキだけは共通するが、朝鮮半島から広がっていったと思われる北方系の焼畑では、一番最初にヒエやソバをつくり、次に豆類(獣にあまり食われないアズキ)、さらに大事なのはダイコンとカブラ(スズナ、スズシロ)。南の方は最初につくるのがアワとソバ、ヒエのかわりにアワになる。次につくるのはイモ(コイモ、サトイモ類)。一番終わりにアズキをつくるのは両方とも共通している。
▽246 定畑の場合は柵を作ることが多いが、焼畑では少ない。害獣がわりあいやってこないから。アズキの葉は、牛なんかもあまり食べない。ダイズは食べられてしまうから焼畑ではつくらない。
…害獣が荒らされないもののなかで代表的なのは麻。上総とか総(ふさ)というのは、反物のことをいっている。反物以前の麻の糸のことを○総と。
▽256 倭人は海の航海権をもち、支配していた。大陸から渡ってくる人も倭人との接触をもつ。それが戦う力あるいは意志をなくして、九州なり本州各地にその人たちを定住させるようにしていったのではなかったか。
…漁村集落のほとんどの住居が田の字型ではなく並列型の間取りになっているものが多い。船構造がそのまま陸上がりしたものと見てさしつかえないのでは。
▽257 奈良時代の律令国家が解体して、もう一度、祭祀を中心とする国家が復元してくるのが平安時代であった。戦争をするということがほとんどなくなるなかで、祭祀を中心とする政治をおこなうようになった。平安貴族はすべて高床の家に住んでいる。稲作儀礼の古いものがそのままその次の時代に復活して…
▽258 済州島の海人と日本の海人との交流は、ずっとあり、その交流の先が鐘ケ崎であったという伝承が今も残っている。済州島の海人は女だけがもぐっている。17世紀ごろは、男も女ももぐっていた。…日本の場合は、男の働く場が別にできたことによって、男と女の稼ぎの分離が起こってきた。
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