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黄金色の夜<宇江敏勝>

■黄金色の夜<宇江敏勝>新宿書房 20151121
炭焼きや猿をとる猟師、丸太を流す筏師ら、山民の世界を描く小説6編。
猿をとる猟師がいて、薬として珍重されていたとは驚きだ。赤い顔の色が青白くかわり硬直していくのが人間の死に際の表情とそっくりで、皮をはぐと、しゃれこうべが人間に似ている……という描写が生々しい。
沢ガニやガマガエル、カミキリやクワガタの幼虫も焼くとおいしかったという。失われた食文化だ。
筏師の世界や、土葬をめぐる儀式や穴掘りも、今は見られない。
夜這いは約束や了解を得なくても、いちおうは家に入れてお茶ぐらいは振る舞ったという。他人を受け入れるそんなおおらかな文化もなくなった。戦後直後の「自由と民主主義」によって、未亡人と懇ろになる「自由」ができたという記述も興味深い。
牛を使って田を耕さなくなり、牛の餌であり、肥料の原料でもあった草が不要になったから、カリバといわれる採草地もなくなった。炭焼きをしないから雑木林もなくなり、すべて杉の森になってしまった。
田植えの共同作業がいらなくなって、色事をめぐるばか話や田植え歌も消えた。
高度成長を経て失われたものを、これでもかこれでもかと詳細に描写する。南北朝以来つづいたムラを看取るかのように、村の残照を追いかけている。
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□猿の猟師
猿は毛皮は二束三文だが頭部や肝や睾丸に買い手がある。脳みそは黒焼きにして頭痛やぜんそくの妙薬とされる、。肝は腹痛の薬で1もんめ当たりにすれば熊よりも値段が高い。睾丸は婦人病の秘薬として売れるそうだ。
…赤い顔の色が青白くかわり硬直していくのも、人間の死に際の表情とそっくり。さらに皮をはぐと、しゃれこうべが人間に似ているのにぞっとする。
▽20 沢蟹を、炭窯の燠をかき出して焼いて食った〓。大きなごとびき(蝦蟇)…斧で首を切り落とし、皮と臓物を捨てると白身のきれいな肉になる。焼くとウサギの肉のように柔らかくてうまかった。…カミキリやクワガタの幼虫は、燠にのせて焼くと黄色くなりながら反りかえり、香ばしくて上等な味わいがした。…
▽23 「えんこは尻をつこうて栗の毬を剥ぐのさ」。「あの赤い尻には包丁の刃もたたんような固い胼胝があるんや。その尻でゴリゴリと押して剥ぐんやな」
□黄金色の夜
▽28 白炭の備長炭は、炭が焼けると黒炭とはぎゃくに釜の口を(少しずつ)開けるのである。空気を送りこんで、炭化した形でおさまっている炭の温度を高くする。
少しずつ空気にふれることで、…炭はひきしまって硬くなる。その作業を煉らしという。…煉らしが入ると、黄金色に輝くのである。透明に近い黄金色、あるいはとろけるような黄金色、といってもよい。
…スコップでもって炭の上に素灰をかぶせる。これはただの灰に少しばかり水を加えたもので、炭の火を消す。灰がついて白くなり、すなわち白炭なのである。
▽35 「いっぷくしてくるか」。間食に茶がゆを食う。窯出しの途中では三度ほども食っている。
▽50 女の子を釜のなかで焼いてしまった…
(おそろしい話、つくったのか、元の話があったのか)

□焼き子の朋友
炭焼きの「焼き子」。昼間は木を切り、夜になると松明の明かりで、炭俵を編んだり俵詰めをして、必死に稼いだものだ。だが焼き子が働けば働くほどに、親方としては手放すのを惜しんで、借金が払えないように仕向けるのだった。

□川に浮かぶ女
(筏で木材を流す。その詳しい描写。今では見ることさえできない)
▽104 戦時中だったら、名誉の戦死を遂げてまもない者の未亡人と懇ろになるなど許されることではなかった。…しかしいまは自由と民主主義の時代である。…

□黒髪
▽121 昭和62年時点で、わが野中の里をふくめて中辺路町の土葬は3割ぐらい、和歌山県全体では12%といわれた。その後に野中における土葬は平成5年にぽつんと1件だけ、故人の遺言に沿って行われたのが最後となった
昭和天皇は、いまどき都会では珍しい土葬。
▽122 つぼかき 「つぼ」とは墓穴のこと。(〓こういう言葉も受け継がれない。最後の言葉を記録している)
▽127 夜這い 約束や了解を得なくても、また相手が誰であれ、いちおうは家に入れて、お茶ぐらいはふるまわれたのである。
▽128「むかしの棺桶やったらもっと掘ったけど、寝棺にかわってからはらくになったわ」
…骨が朽ちて砕けた後にも、髪だけはもとの形と色を残しているものなのである。
墓の中にあった長い黒髪の女や…幽霊。

□最後の牛使い
当たり前だった牛。それがすべて消えてしまったあとも、牛を使って田んぼを耕していていた「茂やん」。まさに残照。
牛を飼い肥料をつくるために、里の周辺にはかなり広く、カリバと呼ばれる採草地があった。…谷川の近くに水田、中腹あたりは畑、その上にカリバ、さらに山の尾根にかけては雑木林。(今はすべて杉。)
▽145 田植えが共同作業だった。よくしゃべり、笑い声もわきおこった。色事も話題にのぼったが、とくにきわどく急所をつくようなはなしをするのは女性のほう。…田植え歌もにぎやかに歌われた。
(すべて失われた風景。それを客体化して描写する人はいなかった〓)
▽147 昭和30年頃まで、山里における米の収穫は反当たり4俵程度で、平野部より格段に少なかった。
▽151 田んぼで機械を見かけるようになったのは、昭和34,5年ごろから。耕耘機は2,3年で村中にいきわたり、牛の姿は消えてしまった。
…除草剤…カエルやドジョウやウナギが白い腹を返して死んでいった。みずすまし、アメンボ、ゲンゴロウ、タガメなど水棲昆虫も全滅した。(〓劇的だった場面を記録)
…昭和40年ごろには反当たり8俵ぐらいに。化学肥料と農薬と稲の品種改良のおかげ。しかし機械や肥料やのうやくなどへの出費は、収穫を大きく上まわるようになった。
…近所づきあいも疎遠に
▽164 植林は、国土緑化運動といわれ、国策として高額な補助金もついた。…まず植えたのは用のなくなったカリバ。雑木林でもタキモンや炭をとらなくなっており、そこも切り払って杉とヒノキを植えた。…青黒い森に覆われた〓

今はなくなった山の人々の生活を細かく描写する。失ったもののいとおしさ。残酷さ。どこまでが本当なのか見えない。でも本当にあったような気がする。
ひとつの時代の最後の残照を描いている。南北朝以来つづいたムラをみとるかのような

幽霊などの存在感。どの程度信じているのだろう。

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