■若狭 日本の風景を歩く<水上勉> 20141216
若狭は原発のイメージが強すぎて、小浜以外は魅力を感じていなかった。小浜に魅力を感じるのは、若狭では珍しく原発がないことと無関係ではない。自然の景観の美しさは同じでも、原発ができると精神文化は大きく変わってしまう。郷土史や民俗などを守るという力がそがれてしまうのだ。身の丈にあわないカネのなせるわざなのだ。
でも、実際に若狭を歩くと、原発の存在にもかかわらず、豊かな民俗や食、歴史が見えてくる。カネ至上主義にも負けていないものがたくさんあることが見えてくる。若狭は京都に近いのに、海まで山が迫り、土地は狭く「辺境」だった。ある意味で能登に似ている。そういう辺境だからこそ、櫛の歯のように山に入りこむ小さな谷ごとに独自の文化が育まれ、残ったのだという。
越前や加賀は真宗だらけだが、若狭には禅宗の寺が残っているのも、ある意味で取り残された地域だからのようだ。そのくせ、仏像などはすばらしいものが伝わっている。そのアンバランスさが魅力だ。
ついこのあいだ自転車で海辺を走ったから、水上勉の描く若狭の魅力がよく理解できた。「櫛の歯のように」といった表現は水上のものだ。そうか、こうやって表現すればもっと伝わったんだ、と何度も感心させられた。記事を書く前に読んでおくべきだったかもしれない。
たとえば青葉山は舞鶴側からみると3つの峰があり、列車で東に向かうにつれて3つの峰が重ね合わされてゆく…。さらに若狭側から見る青葉山は、扇面を半すぼめにして逆立てた形になって浮き上がってくる、という。そう表現すればよくわかる。円錐形が双耳峰に変化すると記すよりもはるかにイメージがわく。
親鸞も、安宅の関へ下った義経も、越前に向かった西行も、道元も……若狭には入らず、若狭を背にふり捨てて、みな越前や美濃へ入った。
仏教的な暗さ。産小舎。立石岬。三方五個の水路
歴史の表にでてこないひと、処刑された人、墓穴を掘る人、コイとりの名人…。そういう人に目を向けるやさしさと気骨を感じさせてくれる。若狭が収奪されていた哀しみの歴史も。
一本の川のすみずみまで知り尽くし、鯉やウナギやアユをとって暮らしを立てていた男。父親からその技術ととる場所を受け継いだ。すばらしい知恵。だが、銅の採掘がはじまって川は汚染され、それに抗議にいって逮捕され、精神をおかしくして死んでしまった。そういう人を記録する〓。
家のつくりをめぐる田舎の残酷さも指摘。
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▽15 若狭20里の東の端は敦賀。ウラジオ航路が盛んであった時代が花といえたろうが、それだけに、いま、斜陽の街の面影があって捨てがたい。……あちこちにロシア文字がみえるのもなつかしいし、市役所のチャイムベルは「ヴォルガの船唄」をかなでている。(水上が書いた段階では「鉄道と港の町」としてはすたれつつあったが、まだ「原電のまち」になっていなかったのだろう)(1975)
▽21 勢浜を小浜へさしかかる手前…六呂谷といったが、妙徳寺はこの谷奥にあった。…境内からわずかにはなれた山かげの墓地に、革命伝説の人、古河力作さんが眠っている。大逆事件で処刑された12人の中の1人。若狭の雲浜村竹原で生まれた。
…死刑が決まってからも、淡々と生活のことを語る。「私の時計か探検電灯かどちらでも望まれる方を康楽園の大きな坊ちゃんに上げて下さい」 残した文書のすべては、心優しい臆病人のものである。…(知っていたら取り上げていたかも〓)
実弟は古河三樹松さん…
大逆事件に連座された紀州新宮の大石誠之助さんの墓。新宮郊外の熊野灘をのぞむ南台地に。
▽35 松が多い。東から「気比の松原」「三方の松原」「勢の松原」「高浜三松の松原」
▽36 先妻に逃げられて6つになったばかりの娘を若狭の祖父母のところへあずけに行った時…。
妻は、別に男をつくってしまった。
若狭で代用教員をしていた。終戦後、身重の妻を連れて東京へ。妻は東京育ち。栄養失調の妻はダンスホールへつとめた。…妻はホールの客と恋愛した。…私と子は捨てられ、妻をさがし求めて暗い2年をすごしたが…。
▽40 行商人をしていた36歳の私のもとに、現在の妻があらわれた。当時彼女は22歳。板橋の幼稚園で保母をしていて…彼女が私と結婚したいといい…。
…娘は高校を終えて慶応大学に入った。そして24歳で結婚していってしまった。…私と妻の間に一人子がうまれたが、脊椎損傷といい、生涯歩けぬ障害児だった。(だからバリアフリーにこだわった〓)(1971)
▽50 敦賀は、神功皇后が三韓征伐の際に船出した港であり、豊臣秀吉もここを拠点にして朝鮮に遠征した。…気比は皇后をあつる最大の神社。
▽54 気比から色の浜、立石、白木と岬をぐるりと廻った。…産小舎を見たのもこの時である。村の女がお産をする際に使い、…どの家も、自家で産むことをゆるさず…この小舎にきた。若狭独特の仏教的な雰囲気を感じさせる暗い世界である。
…常宮神社。新羅の古鐘がある。秀吉が征韓の際に、略奪してきたものらしく、大谷吉嗣が納めたと伝えられる。
▽57 京極高次が小浜築城をはじめ酒井忠勝のときに完成する。その間、若狭の農民は過酷な供出米と、労力奉仕でさんざんな目にあう。年貢米は1俵4斗5升で他国より5升多かった。
上中村の庄屋、松木庄左衛門が「他国なみに1俵4斗にしてくれ」と強訴する。そして竹槍で突き殺された。義民庄左衛門の死について、教科書からも学校の先生からも一度とて教わったことはなかったが…無辜の民の歴史は、いつの世も陽の目を見ない。(〓反権力は道徳にならない)
立石岬へ。「原子力発電所の白い建物が見えるが…」
▽59 宮本常一氏と座談する機会があって、若狭でどこが好きか、ということになって、氏は即座に、「立石ですな」とこたえられた。…立石岬のよさは、若狭でも、陸の孤島といえる僻地的な侘しさにあろう。…山には小谷があり、その下に入り江があり、茅葺きの舟小舎があり、漁家が点々と、しがみつくように磯にある。どの村にも、女たちが使う産小舎が一つぽつんとある(〓なんと…今もその魅力はあるのだろうか。産小舎は?〓)
▽61 300年前、湖と湖を結ぶ掘削工事がおこなわれた。浦見治水によって、農民のうけた恩恵は大きい。もうひとつ、水月湖と日向湖を結ぶ嵯峨水道は、宝永・享保・寛政と、長年月を費やしてのち、昭和8年に完工という大工事だった。250年もかかってひとつの水道がつつ抜けたのである。〓〓(三方五湖は人の手が入っての環境だった)
▽65 上中村の庄屋、松木庄左衛門の命日は、農家は小豆をたいて合掌するそうな。
上中から三宅におりた正明寺。磔にされた松木長操を住職が丁重に葬り、義民全員の墓をまつった。当時としては国賊の遺骸を弔うのだから、ずいぶん勇気のいったことだろう。
▽72 奈良東大寺二月堂のお水取りの水は、若狭の「水送り」によってもたらされているとされる。若狭の白石では「お水送り」の行事をする。
▽82 同じ福井県でも、真宗王国というべき越前に比し、禅宗寺の多いのに気づく。…親鸞も蓮如も、有乳の難所を越えて、北へ北へ向かった。つまり若狭は忘れられたのである。若狭は「わかされ」だという人がいた。「分か去れ」の意だろう。ここが孤立していることを意味している。
…北陸路の本道からはずされた国が、横道の悲しさを、京・大阪と結ぶことによってさかえたのである。さかえたといっても、広い田があるわけでないし、機業地があるわけではない。山が迫った海は美しいけれど、岬がいくつも出ているから大規模な水産都市も繁栄していない。都からも分か去れていたのだ。
…若狭の農家に生まれた次男三男はみな、京、大阪へ出て奉公し、他郷で暮らすことを夢に見た。そうしなければ生きてゆけなかった。
…小浜。発心寺の道場は、観光寺院になりさがった京の禅寺より、厳格な法灯を守っていて、今日も雲水が絶えない。若狭人は帰依心もつよいくて深い。谷々のどこの集落を見ても、大傘をひろげたような屋根の菩提寺が君臨している。葬祭行事がさかんだし、講や法事仲間のつどいがしょっちゅう催されている。…(能登のよう〓)
▽93 青葉山 要塞地帯といわれ、舞鶴軍港を守るために、一切の地図から消されて空白だった。だから頂へのぼる道はなく、山をめぐって無数にある部落や村へゆく道も地図にない。原始林がただ青々と山をとりまくだけで、恐ろしいほどの深さなのである。(だから民俗が残った?)
▽96 名田庄谷には、相当の木地師がいた。君ケ畑の木地師の分派だという。私の幼少の頃には、大飯町へも山から降りてきて、しゃもじや盆を米に換えていく背の低い男がいた。
▽97 田烏から常神に向かって半島の西岸をゆくと、春なら雲霞と見まがう山桜の大観を見ることができる。この地方の先祖が植えたもの。300年もたった無数の桜が眠っていることを、観光客たちはあまり知らない。〓
▽119 終戦の日、チフスにかかった友人の妻をリヤカーにのせて、1日かけて小浜の隔離病院につれていっていて、玉音放送は聞かなかった。汽車にはのせてくれなかった。女性は東京でダンサーをしていた。友人とともに疎開に来たが、友人はすぐに応召されてしまっていた。
病院に届けたあと夕方村にかえってはじめて敗戦を知ってびっくりした。
知らずにすごした「長い一日」
▽148 「若狭は七十二谷とて、櫛目に入りこむ小川の谷の多ければ、谷をまたげば風習も言語もかわり…」
▽153 「穴掘り又助」 墓穴を掘っていた男。
どの村でもそうだが、土葬をつづける村々の共同墓地というものは、村の家の集まる土地から、かなりはなれた所にあって、そこだけが「隔離」されているのをよく見うける。(弥生時代以来、死を忌むようになった。縄文時代は家の周囲に埋めたらしい〓)
▽193 岡田部落に限ったことではなく、私の生まれた佐分利谷といわれる谷間の村々の家は一風変わっていた。…通りに面した南に、どの家も「雪隠」とよぶ便所をたてていた。家の入口が便所であった。…久しぶりに故郷の村へ帰るたびに、我が家の前にくると、まず、便所の建物に突き当たるのにへきえきした。陽当たりがよいので、汚物の匂いがする。人肥が尊重された時代は過去のことであって…なのに、どの家も過去の人糞尊重を踏襲しているのはおかしく、陽当たりのいい門口に便所を建てているのはこっけいといえた。
…裏側のしめった納戸に老人たちを寝かせる習慣は、いつから出来たものか。姥捨てのない今日になっても、どの家も爺婆の最期は、この暗い、陽の当たらぬ納戸である。…私は小さいころから、年寄りや、病人はみなこの納戸に入れられて、寝て、やがて死ぬのだと思いきめていた。
…田舎の家は、どうして、家の間口や庭先やの表まわりだけを飾りたがるのだろう。もっとも大切にしなければならない老婆老爺を冷たい隅っこの納戸に寝かせて、南向きに別棟の便所でもあるまい。
…爺婆の納戸は、棺桶の手前の座である。
▽204 これが書かれた頃は、原子力発電所の集中地ではなくて、そろそろ話はあったかもしれないがおおらかな京都文化の人的資源国としての美徳と、人間のやさしさにあふれていたように思う。
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