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柳田国男入門<鶴見太郎>

■柳田国男入門<鶴見太郎> 角川選書 20141123
民俗学は社会に役立つのか。
「実践の民俗学」「介護民俗学」という本では、その具体例が示されていた。でも、全体としての民俗学は苔むしたイメージに覆われている。それを転換する方法はあるのだろうか、という問題意識で読んだ。
柳田国男は戦後間もない時期、現在の生活を改善するために、研究成果を使うことを重視していた。だがその後、民俗語彙の記録を重視するようになり、こうした要素が色あせていった。
では柳田の持っていた現代性とはどんなものだったのか。
「遠野物語」は、人間の内面の独白に偏する自然主義文学への批判がこめられていた。仏文を研究しながら欧米文化一辺倒にならなかった桑原武夫は、遠野物語などに接して民間の口承文芸の価値に気づいていた。今西錦司や周作人も「遠野物語」を独創的に読み込むことで、「物語」の作り手すら予期しなかった新しい世界を切り開いた。さまざまな解釈を可能とするテクストという意味では、聖書の役割に似ている。多義性をもつテクストは時代を経ても色あせない。
柳田は戦前、あらかじめ定められた法則に現実をあてはめる、というマルクス主義の方法的態度を批判した。だが、社会主義運動が衰退する1930年代、柳田のもとにマルクス主義からの転向者が流入する。転向はしてもけっして同志の名を明かさなかった中野重治や石堂といった人々だった。特定の思想の是非ではなく、その人物の誠実さが柳田には大切だった。
1930年代に民俗学を「ブルジョワの学」と批判した羽仁五郎も柳田に近づいた。柳田の「民間伝承の会」は、戦時下の神がかり的な言辞の世界にあって、例外的に直接モノから考えることのできる数少ない環境として会員を増やしていた。あの異常な時代にわずかでも抵抗する橋頭堡の役割を果たしていた。
1931年に刊行した「明治大正史 世相篇」では、「…日本人の注意を引きつけるのが、もっぱらその言葉が論理を尽くしているか、明晰であるかではなく、音としての大きさ、それも直情にまかせて発せられた語気の方にある」とし、日本人の言語感覚は、繊細な色彩感覚とは対照的に、はなはだ脆い要素を秘めたものだと警鐘を鳴らしていた。戦時中の高揚した空気のもとで放たれる時局用語は、「音」へのもろさをはらむ日本人の言語感覚に見事につけこんだものだった。柳田の指摘は現在の日本社会にまで適用できてしまう。
終戦をはさんでも、モノから積み上げていたから、柳田の論調はほとんど変化しなかった。
「ただ多数の歩みについて行くことが安全で、思慮や言説の必要があまり感じられない世の中がいつの間にか固定しかかっていた」のが戦争を招いたと柳田は言った。戦争の原因を、言論弾圧に帰する主流の意見には同調しなかった。少数意見をしっかり言い、聞く側もそれを聞くことのできる環境を構築しなければ「どのような不健全な挙国一致が、これから後にも現れてこぬとは限らない」として、マルクス主義からアメリカ民主主義にいたるまで、軽はずみに反応する風潮を牽制したという。
小文字言葉を大切にする、保守主義者としての柳田のすごみがよくわかった。愛媛の農村を取材する以前にこの本を読んでも理解できなかったかもしれない。
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▽11 柳田国男は戦後間もない時期、民俗学の現代性を訴えてやまなかった。何か現在の生活を改善するために、研究成果を援用することに本来のこの学の意味がある、というのが趣旨だった。
しかし、その後の柳田民俗学が民俗語彙の記録を第一とするにおよんで、こうした民俗学の重大な要素は次第に色あせていった気味がある。
▽21 柳田は自然主義文学、ことに盟友関係にあった田山花袋のそれに嫌悪感をもっていた。「遠野物語」は、田山花袋の「蒲団」への批判がこめられていた。近代日本文学には、人間の内面を描く技量が十分に備わっていないという柳田の判断が介在していた。
▽31 桑原武夫 多くの知識人とちがい、欧米文化の評価一辺倒にならなかった。漢文にふれていたこと、民間の口承文芸の持つ価値に気づいていたこと。
▽39 遠野物語に魅せられた今西錦司、桑原武夫、周作人。かれらのそれぞれのうちで「遠野物語」が独創的に読み込まれることで…近代において「物語」を読むことは、「物語」の作り手すら予期しなかった新しい世界を切り開く。(多義性のある文書=聖書)
→遠野物語の現代的意味
▽48 中野重治は「転向」したが、同志の名前を当局に売らない、と言う一点を守った点において、小さな自負心をもって出獄した。…翼賛的な潮流に流れこんだ多くの戦時下転向マルクス主義者と異なり、獄中で非転向を貫いたマルクス主義者とも異なる、第3の選択。「転向者」であるという傷跡があることを自覚しながら、それでも内面において、守り切ったものがあることを大切にして、時局におもねらずに書き継いでいこうとする道を選び取ろうとした。

□民俗学が生む<方法>について
▽66 網野善彦 将来の後悔を見据えた厳密な整理保存を徹底。その淵源にあるのは、保管者への敬意、敬意を持って整理作業を積み重ねていくことが、後に続く研究者に豊かな環境を提供するという確信だろう。それ自体がひとつの歴史学の方法を体現しているといってよい。
渋沢から宮本へ、さらに網野へ。資料の保管者、伝承者への敬意という点でつらなっていく。
さらに、その土地から生まれた研究者を大切にするという様相も持ちはじめる。
柳田は、地方の研究者を従属的な立場に置いたと評されてきたが、一方で、各地で借りた文献については、慎重に扱い、こまめに返却していた。
→現在につながる方法論
□思想への態度
▽78 神社合祀、大字解体を含む一連の地方改良運動を柳田は批判。上からの急激な改革というものに強い警戒心をもって対した。戦後の改革についても同様。
▽80 あらかじめ定められた前提から出発し、一つの法則にあてはめる…戦前のマルクス主義の盛り上がりに対する柳田の批判は、その方法的態度に向けられていた。
だが、社会主義運動が退潮期に入った1930年代、柳田の元に幾人かのマルクス主義者が流入する。柳田は彼らを受けいれた。転向を行ったとしても決して(密告するという)「背信」はしないという信念をもった石堂。イデオロギーによらず仕事をすることへの積極的な評価。
→時局におもねらない実証的なスタイル 朝日問題につながる?
▽95 羽仁五郎 1930年代に民俗学「ブルジョワの学」と攻撃。
柳田率いる「民間伝承の会」は、戦時下の神がかり的な言辞の世界にあって、例外的に直接モノから考えることのできる数少ない環境として飛躍的に会員を増やしていた。〓
▽104 特定の思想への価値判断ではなく、その人物個人の堅実さ、誠実さが問われる。その人物が過去の体験に照らして何も失う物がない、ということが大切なのであり、その揺らぐことのない誠実さの上に自身との対話が接ぎ木されることが柳田にとって基準の一つだったといえよう。
□生活から生まれる論理
▽110 戦時下の柳田ほど、豊穣な研究成果をあげながら、当局からの掣肘を受けることなく、戦時体制から無縁な領域を維持した例は戦時下の、とりわけ人文科学の世界においては珍しいことである。
▽112 戦時下にあって、当局からの干渉を最小限に食い止めようとする場合、ひとつの方策は曖昧で多義的な日本語を駆使すること。谷崎潤一郞などが典型。
▽113 1931年に刊行された「明治大正史 世相篇」〓は、柳田が自らの歴史叙述の方法を実践した点で特筆される。「目に映ずる世相」
…日本人の注意を引きつけるのが、もっぱらその言葉が論理を尽くしているか、明晰であるかではなく、音としての大きさ、それも直情にまかせて発せられた語気の方にある、という。…大きな音に関する日本人の習性が特に問題にされることなく、言論の場に持ち込まれてきたことについてもっと危機意識を持つべきであると指摘したとみることができる。
「世相史篇」で柳田の強い方法意識によって抽出された日本人の言語感覚とは、繊細な色彩感覚とは別に、はなはだ脆い要素を秘めたものだった。
→今も〓
▽118 理解できない言葉に出会ったとき、それが曖昧な理解、あるいは「分かったふり」になりはしないか。これがそのまま通る場合、疑問を差し挟む余地がないまま、進行する事態に当人が巻き込まれてしまう危険に絶えずさらされることになる。それを誘引する風潮として「分からない」と正直に言うことを蔑む風潮が日本人にあることも柳田は指摘し、「わからぬことはわからぬと言い切る勇気」を、日本人の言語生活に導き入れることを提言する。
(江戸時代以来の)本然の理法がそれぞれのムラの習俗と連動しながら、しっかりと本人の経験に支えられている限り、ひとつひとつの言葉を理解して使い得た。だが、突如新しさをまとって現れた言葉に対し、無防備にこれに呼応することになるというのが柳田の見通しだった。
戦時下の高揚した空気のもとで放たれる時局用語こそまさにそれに符合する。視覚・聴覚の両面から異様な速度で喧々と伝えられる時局用語は、かつて「世相史篇」で述べられた、「音」へのもろさをはらむ日本人の言語感覚に見事につけこんだといえよう。(→〓日本社会のもろさを指摘してた現実性)
▽123 中野重治 時局用語がやかましく巷を覆うなかにあって、生活のなかで自分の思索によって物事をとらえた(女性の書いた)日本語に出会う喜びは、当時の中野にとって計り知れないものだった。
▽126 終戦をはさんでも、柳田の論調はほとんど変化しない。(〓下からの発想で、大文字言葉を拒否してきたから)
「ただ多数の歩みについて行くことが安全で、思慮や言説の必要があまり感じられない世の中がいつの間にか湖底しかかっていた」のが戦争を招いた理由付けとした。戦時下の言論弾圧に帰する戦後百出した意見に同調しなかった。少数意見をしっかり言い、聞く側もそれを聞くことのできる環境を構築しなければ「どのような不健全な挙国一致が、これから後にも現れてこぬとは限らない」として、マルクス主義からアメリカ民主主義にいたるまで、軽はずみに反応する風潮を牽制した。
(そういうすごみは理解できなかった〓。)
□モヤヒの思考
▽橋浦の取り組み。戦時中も。「民間伝承の会」
□座談
▽177 教職追放。追放に票を投じた人が、数年後には撤回して、同じ人物が復帰することに賛成する。しかもこの現象が集団という形態で雪崩のように起こりつつあることに大多数の知識人が気づいてない。そのことに桑原は危機感を抱き、こうした習性は日本史の上でいつ頃起こったのか柳田に問いかける。
柳田のこたえは、「近世以降の現象」という。明治の産物という。江戸時代には、当たり前だった人が、節を変じなかったというので、幕末には大事にされている、という。
悪しき伝統である事大主義は前近代から続いていると、柳田なら発言するに違いないと思っていたのに…。
□漂泊と現代
▽189 柳田の漂泊民への関心は、1920年代に入ると色あせていったとされる。沖縄紀行によって発見した氏神信仰こそ、日本人を包括的にとらえる指標たり得るとの感触は、それまでの複合的な民族構成による日本観を一変させ、祖霊祭祀を基調としながら稲作を営む村をひとつの理念型と想定することで「家永続」を願う安定的な共同体が中心に据えられることとなった。「漂泊」という少年時代からの課題は、封印されてしまう。しかし、柳田は晩年ふたたび「漂泊」に立ち戻ることになる。1961年に上梓した「海上の道」。
…新たな漂泊としての五木寛之。朝鮮からの引き揚げ者。デラシネ。

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