岩波文庫 20050210
苔の生えたような説教くさい紀行文を想像していたが、読み始めると、引き込まれた。
異性関係での悩みを抱えた熊本に住む24歳の女教師が、ある日、四国巡礼を思い立ち、親元を離れ半年に及ぶ遍路に旅立つ。白衣を着て歩くと、好奇の目にさらされ、仏の生まれ変わりと崇められ、「遍路は泊められない」と旅館から追い払われ……。他人の目がつらくて逃げたり、野宿を楽しんだり、宿のシラミを恐れたり。幾度となくも泣きながら、遍路道をたどる。
風景や交通事情は今とはまったく違う。彼女はトンネルを見て「トンネルだ!」と無邪気に喜ぶが、今の歩き遍路にとっては排ガスが充満する国道のトンネルは最大の難所だ。小径をたどってたどりついた札所も、今は車道が通っている。
80数年前に彼女がたどった道を、私も歩いている。風景と文化の違いに驚きながら、旅する人の気持ちはそうは変わらないことに驚かされる。
たとえば筆者は、遍路の墓を見て「私自身も、巡礼の姿のまま、はかなくならぬとは限られない。真の孤独に耐えうる人にしてはじめてそこに祝福された自由がある」とつづる。路傍の無縁仏を見たときに、私もまた自由と孤独とを考えた。
また筆者は、「死」を考えて「病的な戦慄を感じてどうしても眠れない。みんな死んでいった。色んな物を書き残した少年も青年も佳人も。時逝いて人在らず」と記した。死を実感し恐れるからこそ「今」を大事にしたい、と私も思う。
「死」を意識し、みずみずしい感性で四国を歩いた筆者自身もまた今はもういない。
彼女はまた、大きな悲しみ、大きな喜びがあるほど人生は豊かになる、ということも書いていた。「喜びでも悲しみでも、一晩泣き明かした経験がない人は薄っぺらだ」という言葉を大学時代に知り合った弁護士に聞かされたことがある。無難な人生よりも振幅の大きい人生を送りたい。24歳の彼女もそう考えていたんだなあと思うと、時代を超えて親近感を感じた。
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▽1つの蚊帳に10人ばかしも一緒に寝るのだと聞いて吃驚した。
▽(旅の巡礼、というと、親切に泊めてくれる)手あつい待遇に、もうどうしていいかただ堅くなって坐っていた。…何か話しかけやしないかとハラハラしながら身をすくめてやっと……。
▽願解のためか悪病のためか失敗のためかこの3つの1つに該当しなけりゃ人々は承知せぬ。長らく1カ所に滞在することとなると、私の挙動や意見などを無性に有り難がって私を「仏の再生」に祭り上げる。
▽頭に桶みたいな物を載せた珍しい若い女の一行。あれはサアですという。魚を売りにという。「あれはね、〓平家の落人の子孫ですよ。サア早く逃げなきゃ大変だというので炊きたてのご飯はお握りをこさえる暇もなくそのまま袋にぶちこんで落ちたんじゃと。だから腰の袋、あれにはすくい込んだままのご飯が入ってるんだ」
▽村を振り返るだに忍びない。泣いて送って下さるのだもの。時よ一瞬に飛びされ。むしろ一思いに彼のなづかしい山々を慕わしい人々を隠し去ってしまえかし。
▽私どもの行為なり思想なりは、すべて自己に出発する。無神論主観的客観に違いないが、要するに、自己は宇宙の一部であると同時にまた全部でもあり得るのだ。
▽八幡浜の大黒山吉蔵寺 37番は岩本寺だが、古来の本尊や御納経の版は吉蔵寺に伝わっている。大黒屋吉蔵という有名な素封家が、見る影もなく衰微している岩本寺から、3500円で本尊と納経の版を買い取って、建立したのがこの寺である。〓
▽観自在寺へは柏坂の難所を通る。畑地村という部落の奥から急坂にかかる。清い小川のわきで泊まる。蚊がうるさく群がってどうしても寝付けない。 ▽好奇の目。可愛いいだの綺麗だのといっちゃ私の事をお爺さんに聞きただしている
▽延光寺へ向かう道は、山道を6町ほど登って下る。ずいぶん今とはちがう。車道なんてなかった。
▽遍路の者は日7軒以上修行(物乞い)しなければ…しかし法律上は禁ぜられてある。…遍路には様々な人があるものだ。でも総括すると、灰色の敗残者だと見なしてよいかと思う。先ず40から上の年輩の人たちだ。
▽市野瀬、大岐、足摺山、大岐、市野瀬という経路。足摺へは、小さな山径、谷川、薮の中、峰の道なぞずいぶん酷い。……大岐あたりの風光はまるで画のようだ。
▽四万十川の渡し。…伊豆田越えの難を抜け四万十川の渡船場に至る。入野とよぶ小宿駅を過ぎるや遠雷のごとき音響を耳にする。一散に海岸に出ると…。
▽佐賀という小さな町をすぎ熊井のトンネルを通過した。トンネルが見える! と知った時私は子どものように喜んだ
▽若い時私の家にいたという老婆。「お婆さん」というと「勿体ない。婆とといって下さりまっせ。ごふびんや。お供したいは山々であるが婆はつれが御座いまして、それに順に詣でて居りますので」涙はハラハラと頬を伝ってごぼれ落ちる。 ▽浦戸湾口種崎の渡船。ゆくこと二十何町、松原に入る。右手は砂丘を越して静かなる夕暮れの海を見る。(今はハウスが林立する)
▽(高知は)四国第一の都会だそうな。大分も愛媛も高知もいかにも学生が少ないようで何となく寂しい感じがする。我が熊本は学生化された都会なる事を痛切に感じて喜びにうたれた。
▽善楽寺と安楽寺 善楽寺は廃仏毀釈により廃寺に。その本尊を迎えた安楽寺が1876年以降三十番札所となっていた。1929年の善楽寺復興後は2カ寺が三十番札所となったが、1994年正月を期して、善が三十番札所に、安がその奥の院にと、正式に定められた。
▽奇すしき運命よ、まだまだ汝はぬるま湯だ。狂奔して来たれ、私は思うまま汝の両手に身を投げたい。私の涙が大雨となり洪水となる時、私の心が血となり焔となる時そこに私の最上のよろこびはある。
▽「警察がやかましくなりまして善根にでもお泊めすると拘留だの科料だのと責められますからお気の毒だが納屋でよろしいか」(〓警察の取り締まり)
▽道後温泉。宿を訪ねたら「お遍路さんはお断りして居りますから」。(「お接待の心」を観光資源にしようとしている人たちは実はこういう差別する側だった。お接待の心をもつ市井の人は、そういう「心」を押しつけない)。
▽石手寺の落書き。寺の落書きに興味を覚え、次々に見て歩く。
▽三坂峠。峠の茶屋でしばらく休んで……何町と行かないうちに広い街道が緩やかに通っているには吃驚した(33号)
▽私の恐れは「死」である。両親の死、ふいと考えると私はたまらなく恐ろしくなる。私の笑い私の嘆き私の不安は常にこの一点から出発する。私は大きい絶望の中に小さい夢を刻んでいく事によってのみ毎日を生活しているに過ぎないのである。
□解説
▽熊本でH青年から求愛され、振り切ることができず、窮地に落ちていた。後の夫の橋本憲三とはすでに恋愛関係にあった。憲三からは冷ややかにあしらわれ、H青年からは逃げ切れず、職なく、飢え、人生と生活とのいっさいに追いつめられた極北からの捨て身の脱出がこの巡礼行だった。
▽漢文によって表現力を養われた。
▽「業病」の遍路の姿に胸打たれる。「世に哀しき人寂しき人の優しい聖い伴侶となる事が私の生涯の使命ではないか」
▽「巡礼の社会学」(1971年ミネルバ) 明治大正の時代になっても、冬の土佐の海岸には、乞食遍路が千人ちかくもいたという。奥羽地方で「遍路に出る」といえば「業病」かととられ、北陸地方では「夜逃げする」と同義語だった。だからこそ逸枝は、不審がられた。
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