■宮本常一 逸脱の民俗学者<岩田重則>河出書房新社 20131019
柳田国男に学んだ民俗学者だが、戦後は離島振興や山村振興に力を尽くした。過去の異物や習俗を収集をする民俗学から離れて、人間の生きる空間そのものを有機的にとらえ、その改善をめざすようになった。
戦後は柳田の稲作中心の単一文化論を批判した。稲作ができない恵まれない人たちが畑作に従事したのではなく、そもそも最初から、畑作農民は稲作農民とは出自が異なると考え「日本社会複合文化論」を掲げた。村落の形成も、定着以前の「群」が農耕のために定着して「村」が成立したとする。定着を前提とする稲作農耕文化は後発的な文化現象の一部と位置づけた。
民俗学者である筆者(岩田)は、本来民俗学は生活体験に基づきそこから課題を設定していく現実拡大的学問であるべきだと考える。柳田民俗学は徹底的に体系化し枠組みを固定化することで「素朴な生活体験からの拡大」という本来の姿から離れてしまったとみる。そういう意味では宮本こそが正統な民俗学であり、だからこそ枯れて古くさくなってしまった民俗学にないダイナミズムを感じるのだろう。
この本は、宮本を「学者」と位置づけ、その歩みと思想の変化を追う。「普通の民俗学者とはちがうなあ」と感じられる理由を、具体的に研究者の系統や学問分野のなかに位置づけてくれる。
宮本は若い頃、クロポトキンの「相互扶助論」の影響を受けた。クロポトキンは、階級対立ではなく「相互扶助」の発達による「進化」を描き、対立より調和を重んじた。その影響のもとで宮本民俗学は育まれ、保守主義者として、戦前はナショナリズムに偏って時にナチスを礼賛することにもなった。
調和を重んじるが故に、地に足をつけて生き、私心のないリーダーとして地域社会をリードする中小の開墾地主を重視した。戦後も、革新勢力の農民層への浸透には否定的だった。戦前も戦後も「保守」の立場は変わらなかった。
高度成長を経て島嶼や山村は「辺境」になり、山村の過疎が進み、外部資本に社会経済的に従属することになった。保守主義者の宮本にとって、小宇宙的地域社会の調和と共同のバランスの保たれた社会が崩壊することは許せず、調和と共同が庶民生活から失われていくことを「退歩」と表現した。
だからこそ、田中角栄的な補助金や陳情の政治を徹底的に批判することになった。
論文くさくていささか読みにくいところはあるが、学問という切り口から宮本を俯瞰的に位置づけるのは新鮮で興味深かった。
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▽13 柳田民俗学は、為政者の高みから生活と人間を見下ろした「経世済民」の視線、民俗事象としての調査・分析項目を整備しつつあった。しかし、ほんらい、民俗学はみずからの生活体験に基づき、それらへの疑問から課題を設定していく、プラグマティックな現実拡大的学問であり、枠組みの固定化はもっとも避けられるべき学問である。ところが柳田民俗学は、民俗学の原点というべき素朴な生活体験からの拡大を放棄しつつあった。
▽14 研究主体と研究対象の乖離。客体としての研究対象の設定とは、それが人間不在となる矛盾をもはらんでいる。
▽23 クロポトキンは、進化を、階級対立による止揚などによってではなく、「相互扶助」の発達によって描いている。
反国家をかかげつつも、対立よりも調和を重んじる理想主義者。調和と共同性重視の理想主義。それがのちに民俗学として具体的に発現したにすぎないのでは。
▽31 マルクスの影響を受けた赤松啓介は、封建的生産関係の止揚による発展を考えた。クロポトキンを受容した宮本は、社会的矛盾は、共同体内部の調和と共同によって解決可能とされた。それは、宮本の保守主義の原型かも。
……「進歩のかげに退歩しつつあるものを見定めていくことが課題」
調和と共同が庶民生活から失われていくことを「退歩」と表現している。
▽42 雑誌「旅と伝説」は1930年代、学問を志す若者に場を提供していた。瀬川清子もそうだった。瀬川も宮本も赤松も、、正規のキャリアをもたないなかで学問を独学で志した。生活体験の延長線上にその学問を出発させた。
▽48 小学校 学校外での児童たちの生活を重視しつつ、作文教育を通して、生活と周囲の現実を観察させ、それを適切に表現、叙述できるよう指導する。「とろし」の発行。
▽63 身近な生活を基点として社会と政治を理解させる社会か教科書編纂の方法は、柳田民俗学の主張の実践。
都丸十九一「従来の概念注入主義の教育をなげうって、身近なる社会の観察を忠実に、物に即しておこなうことによって、新しい社会の建設に役立たせようとする」(珠洲市の西山先生「郷土学習」)
▽70 柳田民俗学は「民間伝承論」「郷土生活の研究法」によって完成。体系化をはかられた。しかし体系化して、その内容を項目によって整理したことは、民俗事象の固定化をもうながす。そこからはみだした生活事象に対する脱落と忘却に。
▽80 1930年代の宮本は、学問的にも組織的にも、柳田民俗学のなかにみずからを位置させようとしていた。
▽95 戦争肯定 綴り方教育実践者だった芦田恵之助への師事・敬愛。
さなだゆきたか「宮本常一の伝説」〓
芦田が主宰した教育雑誌「同志同行」 千人針が日本人の古くからの姿であると説明し……日中戦争を肯定し、天皇を讃美する発言も。
「朝鮮でも、南洋でも、日本はすべてあたたかい手をさしのべた……この手はシナへもさしのべるべきである」
ヒトラー、ナチスドイツ礼賛の長文も。主に、ヒトラーユーゲントを賞賛。「……ドイツが過去20年の間血を吐くような苦しみの中にあった時も、ユダヤ人は自らの生活を守って金儲けしていた。かかる人たちはその理論よりすれば当然追放さるべきものであらねばならぬ」
▽108 自身の思想・感性をストレートにあらわした「同志同行」寄稿の文章を、宮本は隠蔽しようとしていた。
▽115 柳田の「山村生活の研究」は、事象の整理が地域から分断されて取り上げられ、……では……では、と、羅列される。地域社会を研究対象にしながらも地域社会を無視し研究成果をまとめあげる。
宮本は、「周防大島を中心としたる海の生活誌」で、「民俗誌」ではなく「生活誌」であるといったが、それは柳田系民族学的ではない、という意味にとらえられる。
▽131 調査じたいの周辺部分、主観・感情がのせられている。……
1945年7月、爆撃で調査資料・原稿の大半を焼失し、50冊の「民俗誌」作成を断念せざるをえなくなったが、結果としてみれば、とおりいっぱんの柳田民俗学への追従者であることを捨てさせるよい機会でもあった。
▽138 1960年代にはいると、柳田民俗学における稲作中心の単一文化論を批判するようになる。複合畑作農耕文化論。
▽146 戦時下の勤労奉仕を美化。
▽149 「家郷の訓」学校教育外の社会教育論の先駆として評価されている。子どもの社会化課程に重心を置いた視点。戦時体制下の「母性礼賛」
「村里を行く」 藤田省三は宮本を「保守主義的翼賛理論」の代表者として位置づけた。
▽157 紀行文や調査日誌には、「粒々辛苦・流汗一滴」の田中梅治ら、地域社会のリーダーが多く登場。田中は、産業組合を島根県で2番目にはじめた。
福島県の高木誠一も、宮本が理想化した人物。
地域社会で地に足をつけて生き、みずからの経営・生活を自立させているだけではなく、私心のないリーダーとして地域社会をリードしていく人物が理想とされていた。
……自作農の自立的経営の進展としては農地改革を肯定したが、地域社会の秩序を混乱させることに対しては否定的だった。革新勢力の農民層への浸透には否定的。
社会変革については否定的であり、現状の修正による地域社会の自立、その中心に自作農上層を位置させる。それが宮本の地域社会に求めた理想像。
▽170 大阪府下農村巡回は、食糧政策のための現状把握が目的。宮本のフィールドワークを大きく変質させる。農村の社会経済的現実、農業と政策との関係など、従来の宮本にない調査が生まれてきている。
▽176 もともと日本の農村、村落社会は、「有機的な結合体」であって、階級対立はなかったという。その結合体が資本主義化してしまったとみる。
……開発地主の質屋業営業も「有機的結合体」として存続させていくための有効な手段として肯定。その中心に在村の開発地主が位置するとされる。
……とくに活気に満ちた村にはたいていすぐれた指導者がおり、指導者は中小の地主が多く、しかもその多くは開墾地主だった。(戦前も戦後も考え方は変わらず)
▽180 のうぎょうを資本主義経済のもとでの経営としてとらえ、その自覚のもとでの合理化をおこなうこと、を提唱するまでになっている。敗戦までの宮本にはなかった、新たな地域社会への視線。民俗学から逸脱し、農業経営改革論者にまで到達。
▽190 社会経済史学者としての宮本。
▽195 宮本の対馬調査は、「社会経済史的な観点」による漁村・漁法研究。……豊富な海洋資源の活用、漁場としての開発は、他地域から入り込む漁民によっておこなわれ……入込漁民に定住権を許可しなかったために、漁法が対馬の人に伝わることもなかった。(〓隠岐の例も近い?)
▽199 宮本の社会経済史は、歴史的展開を重視しつつも、そこから踏みだし、現状把握と批判、未来に向けての提言になる。対馬調査はその飛躍台だった。(「梶田富五郎翁」などの名作はその副産物にすぎなかった)
▽208 東北地方などの「もらい子」昭和のはじめまで、子どもを売りに行く習慣があった。(海士町の例)
▽214 牛の放牧によって段々畑が発明されたのかも。牛のたくさんいる地方と段々畑の分布をくらべると、だいたい一致する。
スコップのように向こうへつく農具よりも、鍬のように手前に引く農具が多いのは、雑草が多いことと関係がある。鍬はむしろ除草のために使用するものだったのでしょう。
日本文化をして「引く」文化と主張。
▽218 「日本の離島」〓は、「忘れられた日本人」とともに1960年刊行。この二冊が宮本を有名にした。
もとは「離島」でなかった島嶼を「辺境」にした日本近代の告発。陸上交通中心の近代化と帆船の衰退とか「離島」化を決定づけた。「離島」化は、外部資本への社会経済的従属を余儀なくさせている
▽227 1956年まで、青ヶ島には、国会議員や知事選、都議会議員の選挙権がなかった。公職選挙法に「交通至難の島その他の地において、この法律の規定を適用し難い事項については、政令で特別の定をすることができる」。
陳情政治とそれと表裏一体の公共事業誘致型政治への疑問。
▽231 離島振興法が昭和28年にできて18年後……「小さい島の場合は衰退の一途をたどっているものが多い」。「無人化の歴史の中に現在の政治や経済のひずみがみられるのでは」 島嶼社会が根こそぎ破壊されていく、日本近代の進歩に対する総合的批判。
保守主義者の宮本にとって、小宇宙的地域社会の調和と共同のバランスのたれた社会が崩壊していくことは、保守主義者であるがゆえに覚える憤怒であり・・・
▽234 山村の停滞。低い生産性。(久万の農地整理の改革は宮本の主張に近い?)
▽236 道路整備を主張した。が、「山林がどしどし村外に売られ、はだかになりつつある。山がはだかになってすっかり住みにくくなり、山中を捨てつつある例は四国山中にも多い」(「山奥と離島と」)
開発とはあくまで地元住民のためでなければならず、逆にそれが、外部資本による収奪と地域社会の荒廃であってはならないのである。
▽245 「瀬戸内海の研究」
民俗学というと「聞き書き」、また、80年代から90年代以降一部で注目されるようになったオーラルヒストリーのよおうに、非文字資料は口承からの獲得が中心のように思われがち・・・だが、「瀬戸内海の研究」では、その基本に「聞き書き」からの資料ではなく観察による資料をおいている。
▽248 景観観察による資料を基準として「聞き書き」を行いつつ、主に文献資料によって、瀬戸内海島嶼を総合的に明らかにしようとした。複合的資料活用。
▽251 農耕が目的とする人ならば、まず水田を開く。漁民の定住の場合は逆。低地にめぐまれないところに落ち着いて、畑耕作をはじめる。
▽256 サツマイモの歴史「甘藷の歴史」。外来作物である
サツマイモの伝来と伝播に比重をおくことで、日本の農耕社会におけるサツマイモの文化的位置づけを明らかにする。サツマイモ食が社会文化的に劣位にある。貧しい者たちがこれを食べて繁殖力をおおせいにした。
(芋から見えるものは? 世界史も?)
▽260 稲作単一農耕文化論に対して、狩猟・畑作農耕文化論を提出する。畑作農民は、そこに居住したとき以来、畑耕作をおこなっていた。水田耕作の経験はなかった。「山中であるが故に文化的におくれていたのではなく、生活のたて方そのものが違っていたとみるべき」
……独立した山岳民の世界が、中世までじりつてきに継続していたものの、近世初期に山岳民の一揆が制圧され、近世の幕藩体制に従属するようになった。とみる。
「日本社会複合文化論」 柳田民俗学への批判。
▽262 坪井「イモと日本人」〓
里芋を常食にしているところ。紀伊山脈、四国山脈、九州山脈東部。天竜川までのびている。その地帯にまたトウモロコシが多い。それはなぜか。
▽264 「昭和30年頃から民俗学という学問に一つの疑問を持ちはじめていた。…日常生活の中からいわゆる民俗的な事象をひきだしてそれを整理してならべることで民俗誌というのは事足りるのだろうか。…民俗誌ではなく、生活誌のほうがもっと大事に取り上げられるべきであり、また生活を向上させる梃子となった技術についてはもっとキメこまかにこれを構造的にとらえて見ることが大切ではないかと考えるようになった」
▽267 都市もあつかう。地方近郊から東京に行商にくる女たち。
▽269 都会独自の秩序が発生している。「…江戸といわれたころの下町にはそれがあったという。京都や大阪や堺などには今日もなおそれが見られる。…そういう社会ではおたがいの信用を何よりも大切なものにした。信用がなければ長期の取引はできなかったはずである」
▽272「開拓の歴史双書・日本民衆史1」は畑作農耕儀礼を重視。柳田民俗学のような稲作農耕儀礼としてではなくとらえようとする。
▽273 宮本の村落形成史は、定着を前提とした村落史というよりも、定着以前からの自生的な「群」が農耕のための定着により「村」に変化するとされ、漂泊を村落史以前におく。…原初的形態として漂泊民を前提とし、そこからの定着過程を説く論理構造をとっている。定着を前提とする稲作農耕文化は後発的文化現象の一部としてのみ把握される。
▽274 政治都市としての城下町を否定的にとらえ「城下町の町民たちに、町民としての自覚も自主性もあろうはずはない。町民による自治組織も生まれるはずはなかった」…売買のために人々が集まる自然発生的な場が「町」であるという。
宮本の日本社会複合文化論の分析対象は、祭・儀礼・行事などのハレではなく、生産・日常生活によるケの世界であった。ハレ中心の柳田民俗学…とは大きく異なるだけではなく、もはや民俗学とか歴史学とか人文科学の一分科科学に収まりきらない独創的な学問体系が、その基底に調和と共同性の思想をひそませつつ、…創造されていた。
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