MENU

宮本常一「忘れられた日本人」を読む<網野善彦>

■宮本常一「忘れられた日本人」を読む<網野善彦> 岩波現代文庫 201307
 日本は水田中心の「みずほの国」ではなかったと説く網野善彦と、柳田国男に学びながらその「常民」思想を実質的に批判した宮本常一の主張は似ている。網野による宮本論は、宮本の現実社会とその成り立ちを見る目と、網野の歴的視点がうまく交錯し、歴史と現代社会が立体的に浮かび上がってくるように思えた。

 宮本は、柳田に学んで民俗学の世界に入ったが、中央から地方に文化が波及するとする柳田の「方言周圏論」のようなとらえかたに異論を唱える。稲作中心の常民という考え方に対しても、東北日本と西南日本の文化の差異は出自がちがうと主張する。
 地主が小作人を厳しく搾取したという歴史学の主流派の論も否定し、地主支配は東日本だけであり、西日本では実情がちがうとする。近代歴史学の根本にある「進歩」に対する疑問も提示した。
 男性中心の家父長制によって女性が支配されている、という見方も、明治以後の法制がつくりだした虚像と見る。少なくとも江戸時代までは、女性が繭や糸綿、絹を市場で売っており、明治になっても、百姓の女性は養蚕とその生産物の販売を仕切っていた。漁師でも、漁から帰った男が寝ている間に女が加工して売り歩くのはふつうだ。動産(銭)は女性が管理するのがあたりまえだった。古代律令制以来、女性は公的な分野から排除され、土地中心の公的な世界では男が年貢や租税を出すことになっていたため、女性の役割が見落とされたと網野はみている。
 では、いつごろから財布を男が握り女性の地位が落ちたのか。農村が「水田中心」となって以降だとすると、農地改革以降なのだろうか?
 愛媛県内子町の道の駅「からり」では、野菜づくりと販売を女性が仕切るようになることで、女性の地位が向上した。米=男、果樹や野菜=女、という構図があったのかもしれない。
 下に列記するように、中世から戦後になるまでつづく制度や慣習は数多い。ところが高度経済成長以降、それらが急速に消えている。14、5世紀の大転換に匹敵する深刻な社会の大変動が現在進行中だと網野は見ている。
 学生がハンセン病を知らない。「木炭」を知らない。トイレの臭さも知らない、というのはその身近な現れだ。

◇今につづくもの
 荘園の代官は、国司や守護の接待費を年貢から差し引き、百姓が年貢をおさめたときには酒宴をした。官官接待の起源ではないか。
 「世間師」が芸をみせれば船賃をとらないのは、芸人が神人や供御人だったころ関料を免除されていた時代のなごりでは。
 「歌垣」では勝敗を争って女が体を賭けることもあった。新見市では昭和30年代の盆踊りに同じような状況が生きていた。この本が出た時期まで夜這いが残る地区もあった。
 「徳政令」の背景には、土地はいったん人手に渡っても、本来の持ち主のところにいつかもどってくるという慣習がある。土地の移動は元へもどるのが当然というとらえ方は、人類社会全体を通じて非常に根深くあるのではないか。無条件の土地私有という考え方は実はつい最近のことにすぎないのだ。
 娘仲間の一人が結婚するとき「朋輩」たちが自分たちのつくったものを贈るくらいの強い友人関係があった。それは網野の世代では当たり前だったが、今はまれになっている。輪島の厄年男性の「オトウ」などはその数少ない残滓だろう。
 善根宿も、高度成長以前は全国各地にあった。それがなくなった今の時代の方が異常なのだ。
 明治以降、公教育ではカタカナが最初に教えられるようになった。江戸時代は庶民は平仮名がはじめに教えられた。法律と軍隊の文書も、明治以降はカタカナと漢字になった。いったいなぜなのか。社会の武士化、ということなのだろうか。
 戦後は突然平仮名に変わる。これも、どうしてなのか?

================================
・6 先生(宮本)がおいでになると、えもいわれぬ笑顔で、先生の存在だけでまわりが明るく、生き生きするような特異な力をお持ちでした。

・8 民話の会は1950年代に左翼のつくった会。
・11 私は「観念的・公式的なマルクス主義者」だった。しかし1953年以降、文書はやはり一字一句大切に勉強しなければいけないと決心し……
・18 私が名古屋大学っから神奈川大学短気大学部に行くことになって電話をくださって「あなたが行ってくれて、自分は地獄からはい上がれるような気がする」とおっしゃった。そこまで未返却の文書のことを心配していた。
・21 1955年に「民俗学への道」をお書きになったころの宮本さんと晩年の宮本さんとでは、社会に対する姿勢が変わっている。「島に橋がかかるなどということは夢みたいなすばらしいことで考えもしなかった。ところが橋がかかったら島の人間はみな島から出ていきよる」
・24 東北日本と西南日本の文化の差異に着目し、柳田さんの「方言周圏論」のようなとらえかたにはっきりと異議申し立てをはじめる……
・25 宮本さんが社会の進歩・発展に確信をもって動いておられた時期から、進歩とは、発展とは何なのか、そこで切り落とされてきたものの中に非常に大事なものがある、と発言しはじめる。
・29 学生がハンセン病を知らない。90年代に入ってからの学生は「木炭」を知らない。トイレの臭さも知らない。
 14、5世紀の大転換に匹敵するくらいの、あるいはそれ以上にはるかに深刻な社会の大変動が、現在、進行中なのかもしれないという実感をもっているのです。
・32 もののけ姫 自然のアジール(森) 人間の設定したアジール(たたら場)
・39 娘仲間の一人が結婚するとき「朋輩」たちがみなで働いて、自分たちのつくったものを贈るくらいの強い結びつきをもっている友人関係。。私どもの世代ではこういう感覚が日本の社会のいろいろなところでまだ生きていました。(輪島のオトウも〓)
・42 善根宿 現在進行中の「大転換期」以前の時代には、全国各地にあったのだと思います。(ない時代のほうが実は珍しい。最近だけ〓大事な者を失った資本主義)
・50 接待費は、正当な理由であれば年貢から差し引いて落とせる。国司や守護がみまわりにくると接待する。百姓が年貢をおさめたときには酒宴をする。この時代の荘園の代官はこういうおつきあいをしてはじめて経営ができた。(接待文化は今と同じ〓)
・58 歴史学の主流の見方を宮本さんは批判。男性中心の家父長制によって女性が支配されているというあり方、あるいは地主が小作人を厳しく搾取しているのは東日本の実態であり、西日本では実情がちがうということを、主張されようとしたのでは。
・60 「歌垣」 節の良さ文句のうまさで勝敗をあらそい、最後は、女がからだをかけることも少なくなかった。かなり最近まで。(泉さんの夜這いの話〓)
・66 中世の絵巻には、立膝の女性が非常に多い。朝鮮半島の女性の正式な座り方。現在の日本女性の正座はむしろ新しい。
 参籠は、夜は真っ暗。「歌垣」「一夜ぼぼ」と同じ状態になっていたと推測できる。神仏の前では世俗の縁は切れているはずなので、まさしく参籠は「無縁の場」だった。
 7日間、寺で参籠したら子供を授かった、という説話は、実際にそこで男女の交渉があって、子供が生まれた事実を背景としてつくられた説話ではないか。
・71 新見市では、昭和30年代までの盆踊りのときに、同じような状況があった。歌垣が昭和30年代まで生きていた。
・73 女一人、あるいは子供をつれて遍路をする人も。女性だけの旅が日本では気楽におこなわれていた。ヨーロッパではとうてい考えられない。
・77「ヨーロッパ文化と日本文化」というルイス・フロイスの習俗比較(岩波文庫)
 女性は男性の意志のもとに完全に屈従させられていたと考えられてきたが、これはおそらく明治以後の法制がつくりだした虚像であり、社会の実態はかなり違ったのではないか。宮本さんの本に影響された。
・80 夜這い 場所はいえないが、現在でも生きている世界がある。 
・84 女性が自分でつくった繭や糸、綿や絹を市場へもっていって、自分で売っている。それは江戸時代まで確認できます。糸や綿や絹の商人は、中世では全部女性ですが、これは百姓の女性が広くこうした品物を自分で生産し売買していたことを背景にしています。
 もちろん近代になって工場制工業になると、生産物の管理・販売は女性の手から離れてしまいますが、その時期でも百姓の女性は養蚕とその生産物の販売を仕切っていたと思います。(いつ女性はみずから販売できなくなったのか〓財布を夫に握られるようになったか、あるいはなってないのか)
 女性は繊維部門については、最初から終わりまで仕切っているのだから、その結果として得られた貨幣は男性にたやすく渡さなかったことは間違いありません。女性が生産から流通まで自分で仕切っている分野があり、それを基盤にして動産については財産権を握っていたと考えるべきだと思います。
 養蚕だけでなく、漁師でも、男は夜に魚をとってきて、家に帰ると寝ており、そのあいだに女性が加工して売りに行く姿をふつうにみることができる。動産ー銭は女性が管理するのが当然だったのだと思う。
(からりは、女性が生産と財布を取り戻した。男性に牛耳られるようになったのは水田主体になったから?〓)
 上州で、強いのは女性と空っ風といいますが、養蚕地帯はだいたい女性の力が強いといえるかもしれません。動産をにぎっている。
 公的な世界はすべて土地中心に構成されており、田畑の世界は圧倒的に男の世界になっています。年貢、租税を出すのも男。そのため女性の役割をわれわれが見落としてしまっていたところがある。
・91 区有の文書の箱は年寄り衆がそろわないとあけていただけない。この習慣は今も生きている。
・92 隠居 能登では「庵室(あぜち)」という、隠居の習俗が広くみられます。下時国家は寛永11年にできた時国家の庵室。庵室に対する言葉は「本家」ではなく「おもや」。公的な世界では隠居の発言権はなくなりますが、私的な家の世界では、おもやの当主は自分の子どもですから、父親である庵室は強い発言権をもっています。財産も公的には田畑牛馬下人の3分の1が庵室分ということになっていますが、家に伝わる大切な宝物は庵室がもっていったこともあったようです。
 庵室は前田家領、おもやは土方領から天領になり、支配者が2つにわかれてしまった。そのため両家が分立したままつづくことに。多くの場合「庵室」は時期がたつと「おもや」と合体するのですが。……いまだに両家は円滑ではありません。
・95 上皇と天皇、大御所と将軍も、「隠居」と「おもや」の関係。院政の根底には、社会のありかたがあったと考えなくてはいけない。
・103 七尾城 高速道路が通ることになり、山の城のなかを通すわけにはいかないので、山の下はいだろうと、許可してしまった。ところが「城下」を発掘してみたところ、一乗谷にも劣らぬ「町」の遺跡が発見された。
・105 「世間師」の235ページに、芸をみせれば船賃をとられないという事実。芸人が神人や供御人だったころ関料を免除され、どの船でどこへ行ってもよいという特権をもっていた時代の残影ではないでしょうか。
・110 古代律令が制定されて以来、女性は公的な分野から排除される。天皇にはなれますがq、役人にはなれないのです。女帝はいても女性の関白はいない。
・116 講や年齢階梯制は西日本が多い。隠居するのも同様。東北から北陸にかけては、老人が年をとるまで家の実権を握る場合が多い。
 西日本は、非血縁的な地縁集団も比較的強い。東日本は同族集団、同族結合が基本。家父長的な上下の結びつき。
 東日本では、年寄り組、若者組、娘組のような年齢階梯組織が見えない。
・120 土地はいったん人手に渡っても、本来の持ち主のところにいつかはもどってしまう。「徳政令」は、そういう根深い社会のなかの慣習が背景にあると考えるべきということに。とくに支配者の代替わりのさいには、貸借関係は破棄される、土地の移動はすべて元へもどるのが当然というとらえ方は、おそらく人類社会全体を通じて非常に根深くあるのではないか
・126 1960年ごろには、西日本と東日本の差異を先進,後進という角度で処理することに対する批判、過去の人を現代より貧しく低いレベルの生活をしていると考え、現代のなかで「下層」社会に生きる人びとを「卑小」に考える見方に対する批判という形で提言されていると思います。近代歴史学の根本にある「進歩」に対する疑問を明確に提示された。
・130 囲炉裏は基本的に東であり、西にも囲炉裏はあるけれども、竃が基本と言っておられる。
・136 「孤立した島国」のイメージは、明治以後、本州・中国・九州を中心とした領土のなかで国民国家をつくろうとした政府が、海は守るべき国境であるという意識を国民にすりこんだ結果、強固になったのだと思います。
・137 小浜甚次さん 朝鮮半島人と近畿・瀬戸内の人びとがきわめて似ており、山陰・北陸・東北の人びとと近畿人との差異は、朝鮮半島人と近畿人の違いに比べて、はるかに大きい。東北・北陸の人はむしろアイヌに近いと強調する。
 さらに、部落を差別している人びとの方が朝鮮半島人にそっくりで、差別されている人びとは東日本人に形質上は似ているとされています。被差別部落の人びとが朝鮮半島からきたなどということはまったくの誤りだと強調されている。
・148 沖縄と北海道のアイヌには被差別部落はない。
・153 縄文文化の影響の強い社会には、こうした差別をつくりだす基盤がないのに対し、弥生文化をもたらした社会が穢れに関わる差別を生み出す土壌だったと言えるかもしれません。
……穢れを遠ざける民俗は弥生文化。えなを人にふまれるところに埋めるのは縄文文化。
・166 八幡浜の人が、明治のころに、打瀬網の漁船で北回りでバンクーバーまででかけた。
・182 海外移民を出す地域 山口県-周防、広島県-安芸、紀伊、肥後、沖縄、山梨。こういう地域は外へ出ることにあまりこだわらない。何らかの特徴があるのでは。
・184 能登からは松前、北海道に江戸時代からたくさんの方々が行っている。北海道の上ノ国町は、みな能登から来たといわれるくらい。「能登は貧しいから移住した」と能登の人は言うが、実態を調べると、能登の廻船問屋が松前に積極的に支店を出して、往来交流しながら商売をしている。
 郷里を出ることに積極的であり、外国へ出ることに抵抗を感じない個性をもつ地域。
・194 亡土(もうと)は「間人」とも書いた。無高の百姓で水呑と同じ。能登では頭振(あたまふり)、隠岐の島では間脇、越前では雑家、伊豆では無田という。
・198 韓国では、アブラゼミもツクツクボウシもヒグラシもミンミンゼミもみな「蝉」としか言わないのだそうです。中国でも同じだそうです。魚も日本では漢字がかなり豊富。前提となる博物学のレベルが高いということはできるかも。
・201 明治5年の壬申戸籍 被差別身分の呼称があげられているため、原本は法務省の管理下に置かれ、公開されていません。……(農人はけっして多くなかった)
 ……養蚕業と農業は区別するべきであり、「果樹栽培家」という用語がなくみな「農家」になっているのは問題。何となくすべてが農業、すべてが水田という方向になってしまう背景。
・212 ……狭い意味での農業は、日本の社会で40%前後の比重しかもたないのかもしれません。
 中世の荘園・公領などの行政単位で、米を年貢にしている荘園・公領の比重は38%しかありません。
・215 いまはほとんど数軒しかないような山の中で、長屋門の大きな家が建っているのを見ることがあります。江戸時代に材木で大変に富を積まれたお宅だったようで、……山村は田畑がないから貧しいときめこむのは大きな間違いです。
・216 飢饉についても、不作で農民の食べるものがなくなり、死んでいくというイメージがふつうですが、、そうではないと思います。むしろ都市的な場所に飢饉が起こる。米は値段の高いうちに全部売ってしまい、食料がなくなって飢饉に陥るという場合が多いようです。「水呑」が飢えたというから、貧農かと思ったら、この水呑は土地を持つ必要のない廻船人、商人だったという事例も能登に見られた。
・218 中世では「裏文書」「紙背文書」といわれ、一度使った文書の裏を返して書いた日記や記録が大事に保存されたため残った文書がある。
 近世・江戸時代では、襖や屏風の「下張り文書」が大切。上下時国家は、襖を張り替えたとき、前の襖紙を全部、保存しておられました。金蔵の井池光夫家に保存されていた時国家に関わる下張り文書の調査……
・220 重大なのはそれだけの膨大な文書が捨てられていること。保存される文書史料は「百姓=農民」という考え方と、ほぼ重なる形で残っており……ましてや遍歴をしながら動いている人びとの史料はほとんどが消滅している。
・221 時国家は、農業はもちろん、廻船、炭焼き、塩、鉱山、金融もやっている。具合の悪くなった部門は切り上げて、いまはもっぱら観光業をやっておられる。廻船業は明治以降までやっていたが、全部やめた。
・222 漆器も、縄文時代からふつうの人が自分でつくっていたのだと思います。中世でも百姓がつくっていると思います。職人だけでなく、ふつうの人で、漆器を主としてつくっている人がいたと考えられます。漆を年貢として納める百姓もいるし、木器の蓋物を年貢に山している百姓もおり、この人びとはそれが主な生業だった百姓と考えられる。
・225 明治以降、公的教育では、カタカナが最初に教えられるようになった。なぜそうなったか? 江戸時代の教育では、ふつうの人は、平仮名がはじめに教えられる文字だったはず。
 法律と軍隊の文書も、明治以降はカタカナと漢字なのです。いったいなぜなのか。
 ところが戦後は突然平仮名に変わる。これも、どうして変えたのか?〓〓

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次