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魚醤とナレズシの研究 モンスーン・アジアの食事文化 <石毛直道、ケネス・ラドル>

■魚醤とナレズシの研究 モンスーン・アジアの食事文化 <石毛直道、ケネス・ラドル> 岩波書店 20130412
 魚醬やナレズシを知るためのバイブルと位置づけられる名著。これ以上に網羅的にくわしく魚醬・ナレズシを紹介した本は世界でもないだろう。

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▽3 水田漁業と密接な関係をもつのがナレズシ。米飯と魚と塩が原料で、一般にナレズシの原料には淡水魚が使用される。わが国の古代においても淡水魚がよくもちいられた。水田稲作にともないながら伝播した食品である可能性をもつ。
 魚醤は塩と魚さえあれば製造可能な単純が技術だけに、ひとつの起源地から各地に伝播したものか、多元起源のものかをあきらかにすることがむずかしい。ナレズシは一元起源の食品とかんがえてよい可能性をもっている。
▽8 東アジアは世界でいちばん発酵食品が発達した地域。この地域では、かびをでんぷんその他の材料に繁殖させたコウジがよく利用される。コウジのように発酵を促進するために加えられるものを、発酵スターターとよぶことにする。大陸の西側ではビール醸造に利用される麦芽が、東側ではコウジがあげられる。
 麦芽にかぎらず、穀物が発芽する際に生じる糖化酵素により、でんぷんの糖化現象がおこる。穀物の発芽を利用した発酵促進物をモヤシのスターターとよぼう。それに対してコウジはカビのスターターといえよう。
▽11 魚醤の定義「生の魚介類を主な原料として、塩を加えることで腐敗を防止しながら保存し、主として原料に含まれる酵素の作用によって筋肉の一部が溶けて構成要素のアミノ酸類に分解することを意図して製造した食品」 ひらたくいえば、塩辛の仲間の食品。
▽13 ナレズシ「主として魚介類、ときには鳥獣肉を主な材料として、それに塩と加熱したでんぷんーおおくの場合、米飯--を混ぜることによって、乳酸発酵をさせた保存食品」ナレズシのおおくは米飯を漬床としてつくった魚や肉の漬物。
 さまざまなスシが考案される以前は、スシといえばナレズシだった。「酸し」といったのが訓読の語源であるともいう。
▽22 古代のナレズシの材料の種類では海産物がおおく、内水面の魚としては、アユ・フナ・アメノウオ・サケにかぎられている。ただし、海産物はおおくが貝類であり、出現回数でいえばアワビについで、魚としては鮎とフナがおおかった。後代になると、原料魚として海水魚・淡水魚ともに種類がおおくなるが、いちばんつかわれる魚はアユとフナ。シカ・イノシシの獣肉のスシもあった。肉食をしないようになったことも原因となり、後世になるとスシの材料は魚介類に限定されてしまう。
▽ フナズシ 食べるときは飯をこそげ落として、薄切りにして、酒のさかなや飯のおかずとする。
▽25 室町時代になってスシ作りの転換期をむかえる。生なれズシが出現。飯と魚をつけ込んでから早い場合なら3、4日後から食べ始める。ナレズシと異なって米粒が飯の状態を保っている。そこで、生なれになると、魚ばかりではなく、飯も一緒に食べるようになる。生なれの出現によって、スシは主食と副食があわさったスナック料理としての性格をそなえるようになった。
 ナレズシが特定の漁期に集中して得られる魚の大量保存法としてつくられ、年鑑を通じて利用可能な保存食であったのにたいして、生なれになると、祭りや宴会などの行事の日に食べることを目的として、少量つくることになり、常備の保存食品ではなく、嗜好食品化するようになる。そこで魚種も多様化し、さまざまな海の魚が利用されることになった。
 17世紀末になると、乳酸発酵をまたずに飯や魚に酢を加えて、手軽に味つけをする早ズシが出現する。こうなるとスシの多様化がいっそう進行し、海苔巻きすし、稲荷ズシ、卯の花ズシなどがあらわれ、19世紀前半の江戸でにぎりズシが流行するにいたる。ここにいたって、保存食品として出発したスシは、ついにインスタント食品にたどりついてしまった。
▽27 分布図 ナレズシはおおすじとしては、南九州をのぞく西日本を中心とした分布。……朝鮮半島経由で稲作が伝えられたならば、「キムチ系」のスシがもっと分布してもよいはずだと篠田は言う。加賀のカブラズシ、飛騨のニシンズシ、秋田のハタハタズシ、北海道のサケズシなど、魚と野菜、コウジで漬け込むイズシのこと。
▽44 現在の漢族の食習慣では、肉・魚ばかりではなく、漬け物と、少数の例外をのぞくと野菜も生食しないようになっている。そのなかで、スシが姿を消していくのも当然といえよう。
▽69 一般に、大豆発酵製品が発達したところには、魚の発酵製品の食生活における重要度が低下する傾向がある。(能登は? 大豆がなかった?〓)
▽81 魚醤は、塩辛、魚肉をつぶして発酵させた塩辛ペースト、魚醤油の三種に大別される。このうちもっとも基本的な魚醤が塩辛である。
 塩辛づくりのさいに飯を加えてつけこんだものがナレズシである。 塩辛をふくむ魚醤の主要な分布地は、水田耕作をおこなう場所に一致する。すなわち、塩辛はごはんのオカズとして発達した食品。
▽83 塩辛も魚醤油も、特定の季節に大量の漁獲がなされる安価な小魚が利用される。……稚魚がおおく、小さく、料理用にむかず、魚醤加工用以外の商品価値をもたない。市場価値の低い小魚がもっぱら魚醤の原料にされる。
 塩辛は、どちらかといえば粗末な食品とされ、東南アジアの塩辛多用地帯では、肉や鮮魚を日常食べられない貧しい階層の人々ほど塩辛の消費量がたかい。
 それに対してナレズシは、むしろ上等な食品としての地位。
 儀礼の際の行事食としてもちいられる。
▽86 東南アジアにおいては、近世に華僑が醤油などのお製造を伝えるまでは、コウジ利用の発酵製品は酒・甘酒にかぎられていた。コウジを利用したナレズシが、東南アジアでは中国との関係の深いカンボジアの……にかぎられていることは、この技術が中国起源であることを示唆するように思われる。
 ……日本でも寒冷な北陸・東北・北海道でコウジを入れて漬け込むイズシが分布する。つけ込みにさいして、ダイコン・カブラ・ニンジンなどの野菜が加えられることが朝鮮半島と共通する。イズシの文化圏が日本海をはさんで朝鮮半島のナレズシ分布地帯と対峙している地理的条件を考慮に入れると、近世になってシッヘつくりの技術が導入されたものである可能性がたかい。
 ……ナレズシの変遷の傾向を要約するならば、発酵・熟成期間の短縮化と嗜好食品化が進行したものといえる。
 ……プロトタイプのナレズシを現在でも盛んにつくっているのは、琵琶湖周辺のフナズシ。富山県城端町野城端別院善徳寺の虫干法会に40日漬けたサバのナレズシが供される。すなわち、行事食・嗜好食品としてしかナレズシは残らず……
 (能登のウグイのナレズシはプロトタイプでは?) 
▽90 焼き畑耕作にナレズシがともなう例としては、台湾の高山諸族があるが、これは毒流し漁法で一時に大量にとれた魚と狩猟の獲物の保存法として適応されるが、稲作ではなく、アワ・サトイモの農業と結合したもの。(〓毒流し。四村にも。どこに分布しているのか)
▽92 水田漁業のなかからナレズシが生まれた、と考えるのが自然ではなかろうか。


▽97 わが国における魚醤には、塩辛と魚醤油がある。塩辛については、青ヶ島と日振島、沖縄をとりあげる。
 塩辛は日常の重要な副食物であると同時に、調味料としての機能ももつ食品として利用した地域もある。そのような現在は忘れられかけた塩からの伝統を最近まで残していたのが伊豆諸島の青ヶ島。塩辛をシュウデと呼ぶ。
 ……移入品の醤油を買うようになるまでは、シュウデの汁に刺身をつけて食べていた。今もシュウデ汁をつけて食べるのを好む島民がおおい。
 穀類にくらべて蛋白質のすくないイモ類を常食としてきたこの島では、魚を多量に摂取することで、栄養バランスを維持されてきた。青ヶ島は好漁場だが、港がなく荒天がおおく、出漁可能な日がいちじるしくすくない。このような環境の島で、シュウデは魚の保存食として利用されてきた。戦前は、1人1カ月あたり、1^2升のシュウデを消費していた。

▽日振島
 ホウタレ(カタクチイワシ)が塩辛の原料。1949年ごろ、1人1カ月1升を消費した。生のダイコンの輪切りの上に塩辛をのせて、飯の副産物および酒のさかなとして食べた。……現在は塩辛づくりをする家庭は残っていない。

▽109 1894年完成の「日本水産製品誌」に記録された魚醤油には、讃岐と下総のいかなご醤油、能登と石見のいわし醤油(島根にも!)、山陰と北陸の漁村で製造するというサバワタ醤油、能登を発生地として佐渡と渡島でも製造するようになったというイカワタ醤油がある。
▽112 いしり 能都町と門前町をむすぶ線の北側に位置する、いわゆる奥能登地方にかぎられる。イシリ・イシル・エシリ・ヨシリ・ヨシルとよばれる。
 1955年ごろまでは、漁村では自家消費用のイシリを製造したという。現在では漁家での自給用の生産はなくなり、十数軒の小規模の業者によって生産されるだけ。産額は奥能登全体で年間20キロリットル程度といわれる。
▽115 イシリは漁村部ばかりでなく、山間部の農村でも利用された。イシリ製造をする漁家と、農家のあいだに伝統的な物々交換の関係が成立しており、米を生産しない漁家がイシリと鰯のぬか漬けを天秤棒で山間部の得意先の農家に供給し、米の収穫後にふたたび訪れて代価を米で受け取る慣行が奥能登一帯にあった。
 ……醤油の普及とともにイカナゴ醤油が姿を消したのにたいして、ショッツルとイシリが細々ながら生き残り得たのは、秋田と奥能登には、醤油では代替のきかない魚醤油独特の風味を生かした郷土料理が成立していたためである。カイヤキ、いしり漬け〓
▽117 中世以降、味噌つくりは民衆のあいだに普及していたが、液体調味料である醤油が普及するのは江戸時代になってからであり、それも都市における調味料としてであった。……江戸時代の田舎の味は味噌味を基調とするものであり、醤油はハレの日の食事の調味料であった。明治時代でも農村部では、ふだんは味噌味で調味した食事の場所もおおかった。 過去1世紀のあいだにおこった日本の味の最大の変化は、味噌味から醤油味への移行であり、現在の日本料理のほとんどは醤油で調味したものとなり、味噌はみそ汁専用食品化する芳香をたどったことである。
 ……醤油の自家醸造をせず、商品としての醤油を購入することができなかった民衆で、海岸地帯に住む者の反応として、青ヶ島の例のように塩辛汁をあつめて醤油のように利用することや、さらに積極的に魚醤油を製造することがさかんになったものと推定される。魚醤油の原料としていちばんよく利用されたのが、漁獲がおおく、経済的で、製品の味がよいイワシ類であった。……明治以降、田舎でも商品としての醤油を購入できて、日常の料理に使用することが一般化するにつれて、各地の魚醤油は消滅していったのである。
▽119 現在の東アジアで塩辛(ジョッカル)をもっとも多用しているのが朝鮮半島。
▽143 ベトナム ナレズシをふくむ魚の発行製品の総称をマムとよぶ(ニョク・マムなど=マムの液体)
▽151 国家公務員のニョク・マムの配給量は1人1カ月成人1.5リットル、子ども0.5リットル。1981年のわが国での1人1カ月あたりの醤油消費量は農家で0.63リットル、非農家で0.36リットル。日本人にとっての醤油におとらず、ベトナムのニョクマムは重要な調味料といえよう。
▽178 タイ 今世紀初頭のタイには市販品のナム・プラーは存在しなかった。自家製の塩辛汁であるナム・プラー・デークが東北タイで用いられ、中部タイの海岸部ではベトナム商人が船で積んでくるニョク・マムを購入して使用していたという。
▽180 漁獲が集中するのは、雨期に冠水した流域から水がひいていくさいであり、このときヤナ・エリなどの漁法によって、一時に多量の魚を得ることが可能である。魚醤・ナレズシは特定季節に集中してとれる魚の保存法である〓
▽220 魚醤は塩蔵魚の製造過程で偶然発見され、そのうま味に着目して、製造されるようになった食品であろう。そのもっとも単純で基本的な製法は、魚と塩だけを原料として製造する方法、すなわち塩辛つくりである。
 ナレズシは、塩をした魚介類、ときには鳥獣肉に米飯その他の澱粉質の原料を加えてつくる。……PHが低下することによって雑菌を抑制。
 魚醤の分布圏とナレズシの分布圏がほぼ一致。
▽246 魚醤の原料魚の選択にあたっては、経済的効率のよい魚であることが大切。魚醤にするほかは利用価値がなく、安い魚がえらばれる。経済的効率だけではない。小型の魚のほうが、はやく分解されて熟成し、発行期間が短縮される。
▽261 四つ手網はインド洋と太平洋地域でよく利用され…… (どこかの湖にあった。ボラ待ちやぐらも同じ?)
▽271 東アジアで海洋性の魚種で魚醤の原料として重要なのは、回遊魚であるマイワシとカタクチイワシ。特定の季節に大量に捕獲されるので魚醤油に加工される。秋田のショッツルのハタハタは、11中旬に接岸行動をするが、これもモンスーンによる季節風の影響が中断する季節。日本海のイカ漁業もモンスーンの影響が認められる。春から秋にかけて漁獲。
▽281 魚醤油は平均すると26%の食塩を含有し、醤油の17%よりもおおい。醤油よりも強い塩味料としての機能をもつ。
▽282 小エビ塩辛ペースとは平均20%の食塩を有し、味噌の平均11%よりもおおくの食塩分を含む。
▽291 魚醤のにおいは、必要悪として存在しているようだ。匂いゆえに食べられる食品ではなく、食品としての本質は、塩味とうま味に依存じているものだろう。
▽295 古代ローマでは、大カトー期は魚醤油は贅沢品とされたが、やがて必需品となり工場生産がおこなわれるようになった。……古代ローマの滅亡とともに、忘れられれた調味料となった。地中海沿岸の植民地の工場で生産されるものがおおかったので、帝国の衰亡とともに供給がとだえたことにも原因をもつのだろう。
 現在、ヨーロッパの魚醤類としては、アンチョビ製品がイベリア半島を主産地とする。このアンチョビーの塩辛をすりつぶし、香辛料・糊料を加えたアンチョビーソースがある。これらはおそらく古代ローマの魚醤のなごりをとどめるものだろう。
▽298 ブータンの納豆。
▽302 西アジア、中央アジア、インド亜大陸における魚醤の存在をしめす資料はない。そのことは、東西の魚醤文化はそれぞれが独立に発生したことをしめすものであろう。
▽303 魚醤とナレズシは、製造にあたって塩を必需品とする。東アジア、東南アジア各地における伝統的な魚醤の製法では、ふつう魚の重量の30パーセント前後の塩が混ぜられる。塩がふんだんに入手できる場所でなくては、魚醤づくりは不可能。→製塩との関係を。
 ……狩猟採集民は、動物の臓器・血液から間接的に塩分を摂取し、製塩をおこなわない。アジア・太平洋の根栽農耕民や焼き畑農耕民も製塩はまれ。
 アジアの水田農耕社会は、、いずれも塩を必需品とする食生活を営んでいる。
 製塩土器の有無という考古学的資料とは離れて、わが国に水田農業がもたらされたときには、塩とコメがセットになった食生活がはいったであろう。
 ……中国 前漢代から塩は国家の専売品に。中国で魚醤があまり発達しなかったのは、塩の専売制に関係をもつことかもしれない。
▽307 大局的にいえば、ベトナムをのぞく東南アジア大陸部の伝統的な魚の発酵食品は淡水魚。それにたいして、マレー半島部と東南アジア島嶼部における、この種の食品は海産物を原料とする。
 ……ナレズシは淡水魚を原則として、大陸部を起源地として、マレー半島部・島嶼部に伝播した可能性が高い。
▽309 東南アジア大陸部における発酵魚の文化の担い手は、インドシナ半島の先住民であるベトナム人、チャム族、クメール族、モン族のいずれかであり、タイ・ラオ系諸族とビルマ系諸族の侵入以前、これらの食品がインドシナ半島で発達していたであろうということに。
 水田漁業 動物性蛋白質にとぼしい農民の生活に重要な役割をはたしてきたが、自家消費用であるため、商業的漁業のように記録にとどめられず無視されてきた。……漁獲が集中するのは、雨期の終わりに冠水がひくさい。
▽311 ……雲南から南下した稲作が、インドシナ半島で水田稲作として定着したとき、モンスーンのサイクルと密接な関係をもつ水田漁業がこの地方に発達し、漁獲の季節的変動をもつ魚を保存するための技術として、淡水魚を原料とする魚醤とナレズシが生みだされたのではなかろうか。そして、この発酵魚のセンターというべき地帯は、内陸塩の得やすい場所であり、魚を保存食化する必要性のたかい立地条件の場所。
▽322 歴史的に塩辛づくりをしていた主要な地域は、ひとまとまりの分布圏として図示される。
▽329 醤油が先か、魚醤がさきか。醤油が日本で普及しはじめるのは江戸時代の初期。中国でもたぶん明代以降。
 ……日本においては魚醤油が醤油との拮抗関係をもち、醤油の代用品としての調味料としての性格がつよい・・・魚醤の出現は醤油の普及を前提とするので、その歴史は中国でも数百年以上はさのぼらないことになるだろう。
▽335 はやくからマニファクチャーの商品化した醤油よりも、農家では自家製が原則であった味噌のほうが、その地域における原料の生産条件や気象条件を反映して、地域性をよくしめす食品。
 辛口の米味噌は、東北地方、天竜川以東の中部地方と北陸・山陰。愛知・三重・岐阜の3県は、大豆のみを原料とする豆味噌地帯。近畿・山陽、四国の近畿よりは甘口の米味噌地帯。四国の西半分と山口と九州は麦味噌地帯。
 醤油でかんがえるよりも、味噌を指標にしたことで、味の地域性について、積極的な発言が可能となる。
▽340 発酵食品が地域の味の指標となっているのは、東アジア・穀醤圏と東南アジア・魚醤圏のふたつ。世界のなかで東アジアと東南アジアは「うま味文化圏」とでもいうべき地帯を構成している。
▽345 わが国のなかで、稲作の条件のわるい典型的な山村地帯がおおい飛騨ですら、栄養学的にコメがとびぬけて重要な食品であったことが実証された。
 1人あたりの「肉類摂取量」。中国・韓国よりも、現代の日本人のほうが動物性の食品をたべている。それは、ごちそうと民衆の日常の食事の落差をしめすもの。
 魚介類消費量は、日本の70キロが世界最高。韓国42キロ、インドネシア12キロ、欧米ではデンマークの33キロが最高。
 東アジア、東南アジア民衆は、肉や魚より安価なコメを、エネルギーのみならず蛋白質の主要な摂取源とする食生活。副食としては、大量の米飯を胃袋に送り込むための塩気のある食欲増進材として少量あればよいとする食事の型。
 室町中期以後になって味噌汁が普及しはじめるが、それ以前は、味噌汁はなめ味噌として利用され、それじたいが副食物だった。かつて味噌は、もっとも重要な調味料として利用された。醤油は江戸時代の都市の生活から普及。多くの農村では明治時代まで、日常の味付けには自家製の味噌をつかい、買ってきた醤油をごちそうの料理づくりにもちいることがおこなわれた。300年の時間をかけながら、日本料理は味噌味から醤油味への移行をとげた。穀醤は調味料としてばかりでなく、もっとも手軽な副食物。朝鮮半島のテンジャン、華北のティンメンジャンも。
▽348 日本の場合、調味料から45パーセントの塩分をとり、そのほとんどの43パーセントが味噌・醤油の穀醤でしめられる。食塩を単体として利用するのは、全塩分摂取量の13パーセントにすぎない。
▽351 伝統的に大豆を栽培していたのは、東アジア、ヒマラヤ南麓地帯、東南アジア。巨視的にいえば、東アジアと東南アジアの水田稲作にともなう作物といってよい。非牧畜の水田稲作地帯では、魚とならんで大豆が重要なタンパク源になっている。
▽357 穀醤のほうが、大量生産が可能、糖分や酸味、アルコールなど魚醤にない成分が含まれる、強い臭気がない……。魚醤は、日常の常用食品から独特の風味を好きなものだけが賞味する嗜好食品化への道をたどる。わが国の塩辛も。塩辛を現在でも日常の食事によく食べる朝鮮半島は、古代的嗜好を残しているものといえよう。
 東南アジアにおける塩辛や塩辛ペーストの消費量は、経済的にめぐまれない階層ほど高い。……相対的に消費量は減少するだろう。近代化とともに生鮮食品の比重が高まり、保存食品の比重が相対的に低下する現象とも一致する。

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