■能登・間垣の里 文化的景観保存調査報告書 <輪島市教委201203>20121218
▽8 西保地区は、上山、西二又、上大沢、大沢、赤崎、下山、小池の7字からなり、1889から1954まで西保村だった。役場は大沢。
1954年に輪島町・大屋村・河原田村・三井村・鵠ノ巣村・南志見村・町野村と合併して輪島市の一部に。
平成23年7月現在、西保地域の世帯数270人口681人、高齢化率46.9%。大沢地区は91世帯214人、上大沢地区は22世帯67人。
▽17 十村の筒井氏。上大沢はカメゾとも呼ばれる。
▽19 大沢村が鵜入・光浦村と異なる点は、収納蔵(御蔵)が置かれたこと。収蔵蔵の年貢米の運送に廻船が用いられた。廻船の展開する基点がここにあった。
▽21 電灯がついたのは昭和21年。輪島・大沢間のバス開通は昭和36年10月。それまでは鵜入までだった。
□大沢
▽24 大沢 100軒の家が密集。1753年以降、しばしば集落の大半を消失する大火に見舞われている。
寄り合い 以前は区長宅だったが、平成15年ごろからコミュニティセンターに。以前は区長と評議員が上座に決まっていたが、現在は区長と区長代理が上座だがあとは自由。
ノヤスミ 村の休み。田植え後、バンドは「ノヤスミさしっと」とふれてまわった。昭和42年ごろ出稼ぎが盛んになるとその習慣はなくなった。
▽27 のとでは、大地主や名望家をオヤッサマと呼ぶ。大沢で唯一のオヤッサマが筒井家。大正期になって衰え転出。その屋敷跡を、田中・北口・片山3軒の家が買い取った。
▽29 昭和11年の新聞。「縣保安課で調査したところ石川縣珠洲郡の西海村、鳳至郡西保村、能美郡新丸村この3ケ村が未だに光りの文化に浴することなく暗い生活に甘んじていることが判った……全村を挙げて配電の見込みがたたぬ村といへば西保村1ケ村だ」。ようやく輪島から送電されたのは、昭和23年ごろ。
戦後7〜10人がグループとなり、谷あいから、塩ビのパイプで水をひくようになった。昭和26年ごろ12人ではじめたのが最初だった。昭和48年に桶滝から水を引く簡易水道ができた。
テレビは、昭和29年に西保小に設置したのがはじまり。昭和30年代に出稼ぎが流行るようになり、その土産にテレビを担いで帰る人が多くなった。
▽32 田中屋旅館の裏手に輪島病院の派出所ができていたが、1週間に1回、2週間に1回と回数が減り、昭和35年にバスが通るようになって、診療所は閉鎖された。
▽33 昭和32年の随筆にも「石川県でただ一つ自動車の通らない町、西保村に行った」「役場所在地まで自動車が入らぬのはおそらく石川県下で西保村だけでしょう」。自動車の往来が可能となったのは昭和35年以降。これにより、回漕業を営んでいた北口・田中家は、運送手段を船から2トントラックにかえた。それから半年後にバスが来るようになった。
上大沢までバスが行くようになったのは昭和50年頃。それまでは輪島に出るためには、大沢まで3キロの道を歩いていた。
▽34 椀木地の材料となる欅材やそのカタの輸送が古くから回漕業の基幹となっていた。
明治初期、田中旅館の先祖。回漕業。
・田中家 輸送先は金石が主。積み荷は、行きがスギ・アテあんどの材木、木炭・バイギ・穀物、帰りはランプ用の灯油だった。輪島へは林産物のほか、木地型を出し、帰りに原木のケヤキのコロを各地で仕入れた。戦後になると、輪島との往来が主に。イワシ漁も力を入れた。バス道路開通で、昭和37、8年ごろに回漕業を廃し、陸上輸送にかえ、昭和45、6年までつづけた。
木地型の材料のケヤキは、外浦一円を供給地とした。
▽37 七浦村は少数の地主が耕地の多くを差配したが、西保村は、多くの小地主や自作が小規模の耕地を分有していた。大沢で小地主が増えたのは、オヤッサマの筒井家や舘家が絶家したあとだろう。所有面積は水田1町歩が最大だった。
▽45 昭和52、3年ごろ港を大改修。市議をしていた田中輝雄氏がその窓口として船主会を組織するようすすめた。
▽46 戦前から戦後にかけての漁の中心はイワシの刺し網漁。昭和36、7年ごろまで。
イワシを近所に配り、それぞれの家ではコンカ漬けにした。イシルづくりが盛んだたのは昭和30年ごろまで。
昭和32、3年ごろまで、カツオ一本釣りをした。
昭和45、6年ごろかタチウオの一本釣りが流行。20年ほどはよかったが、山陰でトロールでとるようになって激減。
▽51 芭蕉 タンザカ川源流に2反ほどの群生地。昭和52年ごろ、西保小学校の栗拾い遠足で、冷やしていた飲み物が流され、さがしにいくと川下に群生地が見つかった。
▽51 アラカタ(木地型) 県内でアラカタ作りを専門とした唯一の集落だった。昭和35年の「村史」には、「部落100戸の大部分がやっていたのですが、今は減って30戸ぐらいです。関連作業に従事しているものを合わせると今でも60戸近くになるでしょう」
昭和30年までアラカタの職人30人ほどいたが、専門ではなく、農閑期の稼ぎとしていた。仕事は横挽き・型ハツリ・中クリの3種に分業化されていた。
……春から夏にかけて海が穏やかなときにマワシモンの船か、イワシ船を使い、大沢まで運ぶ。浜におろすと、コロ(ぶつ切りにした丸太?)を屋敷の中に運び入れる。
コロを輪切りに→木割り・木取り。1本の丸太から根元だと木地を60〜80個とれる。
→型ハツリ 上手な人で1日60〜70個。
→中クリ 中をチョンナで削る。終わると、囲炉裏の上に竹のメザラをおき、積み上げていく。4カ月間、木地をいぶす。
カタハツリが盛んだったのは昭和35年までで、南さんが平成12年ごろまでつづけたのが最後。山中漆器の木地づくりの技術が入り、縦挽きに方法が変わり衰退した。南さんもたてびきでしていた。
▽55 出稼ぎ 女性は昭和32、3年ごろから稲刈りに。あわせて1週間ほど稼いで、最後に温泉で慰労して帰って来た。出稼ぎで、耕地整理の必要性を知り事業をはじめる集落が多かったが、大沢は耕地の少ない家から批判が出て、なかなかまとまらなかった。
男性は、昭和33、4年ごろからはじまり五輪から盛んに。
▽59 青年・壮年団。青壮年に祭りの出し物に責任をもってもらうため明治30年ごろ、地区から共有地が与えられた。スギ・アテを売却して祭りの経費とした。最後に売却したのは昭和26年ごろ。壮年団は昭和27年ごろは60人ほどいたが、現在は6人。青年団は昭和50年ごろから団として独立した活動はしていない。平成21年で曳山をやめ、22年からは神輿が渡御するだけになった。
▽61 大正〜昭和30年代 回漕業者2軒が出現。椀木地の原木の大量移入が可能になり、型ハツリ製造の従事者が急増。イワシの刺し網やシメカス加工も盛んに。
筒井家や舘家などの豪商・豪農を核とした一極集中型の雇用関係・集落経営から、中・小規模の資産家たちを中心とし、水田、イワシ、木地型を介した多層的な雇用関係・集落経営に変化。「
□上大沢
▽64 昭和57年に船着き場・防波堤がつくられ、斜路はいらなくなったが、風を誘い込む道となってしまった。
▽65 空家が一軒もない。1人暮らしの家が2軒あるが、息子たちが頻繁に帰ってくるから楽観的。子どもも多い。小学生3人中高校生4人。
▽66 輪島は4里、門前は3里。戦前まで、買物は10月初旬の門前の放生市が主だった。イワシ船に焼玉エンジンが搭載されるようになって輪島との行き来が盛んに。
陸路で輪島とつながるのは昭和40年代に入ってから。バスがつながるのは昭和43年。
▽67 昭和42、3年までは、山側の上手の家は山の湧水を竹の桶で家ごとにひいていた。河内核の2軒は井戸を使い、ほか4軒はカメゾ橋近くの湧水をくんでいた。
その後、神社近くの高台のタンクに山の湧水をためて配水するようになる。昭和40年末ごろから針葉樹を植林して湧水がなくなったので、平成17年に上水道を設置。
▽ 西二又、上山、上大沢の個は西二又分教場に通学。戦前の児童数は100人ほど。
▽戸数は明治22年で21戸。以来、戸数の変動がまったくないのは、集落のしきたりとして分家を厳しく制限してきた。生活苦からの大量離村や耕地の細分化を防ぐためだったという伝承がある。
▽69 仲間仕事 3月半ばの道づくり 6月ごろの道ナギ、9月初旬の道づくり 11月ごろの神社の間垣製作。
葬儀は今でも全戸が手伝う。
▽71 昭和55年ごろから耕地整理。西保地区では上大沢が一番はやかった。相当の自己負担があった。
明治時代まではヒエを食べていた。戦後しばらくまでは麦飯が当り前で、コメの飯は正月か祭りだけだった。大正期以降、次々とツツミをつくり、斜面の麦畑を水田に改良していった。
▽73 田圃は1軒あたり5反。畑はそれ以上を持った。以前はヒエだったがその後麦が中心に。
▽75 河川改修前、ニガタケは男女滝から下のオオカワの川縁に繁茂していた。昭和30年ごろに護岸改修してなくなり、昭和40年ごろから足りないぶんは地区外で入手するようになった。
▽77 イワシの刺し網漁は、大正から昭和33年ごろまでつづいた。
コンカ漬けなどはどこの家でも100尾ほど漬けた。
アジ刺し網 戦後から昭和30年ごろまで。
タチウオ 昭和40年代に10年ほどはやった。昭和53、4年から激減。
大敷網 昭和10年ごろはたくさんマグロがとれた。
テンマ漁 ……カツオ(マグロの子)の一本釣り。ゆでて乾燥させ、だしに。
ワカメ 漁期は3月から6月。エゴは7月1日解禁。
かつては1年の生計はイワシバとエゴ、冬の炭でたてるといい、エゴは収入源だった。
イワノリ 11月から3月初め。ノリカゴにはりつけて乾燥する。天気のよいときは庭で、雨天時は納屋で。
▽82 水田は12町あり、1軒あたり5反。最大でも1町。他地区のように特定の家をオヤッサマと尊称したり、戸主を階層別に呼び分けたりしない。
▽86 皆月の西出家。昭和30年代以降はヨモギ。皆月の浜に並べてほした。ヨモギ事業の開始は滋賀県とのかかわりによるという。
▽88 出稼ぎで現金が入るようになり、昭和40年代から50年代にかけて、クズヤを改築するようになった。
▽ 大沢と異なり、沖から吹き付ける風のほかに、山から吹き下ろす風に悩まされた。南北にかけて半円状にマガキが設置されたのも、このような風の影響があろう。
▽分家制限 奥能登3郡では、村の株(共有地)や耕地の細分化をふせぐため分家を禁じる集落が少なくなかった。現在も制限が守られているのは、過疎化が進んでおらず、いまだ集落機能が強く保持されていることを物語っていよう。
▽ 山の風景は、明治以降、焼畑から麦畑、水田へ。雑木林からスギ・アテ林へと変化。
林産資源を輪島へ運び出す問屋としての機能も。昭和30年代まで、住人の関係は、地主と小作という耕地を介した結びつきを基盤とするだけでなく船主と水夫、絞槽工場主と加工人夫、問屋と配送人夫など、多層的な雇用関係を形成していた。浜「マエハマ」は、多様な雇用・稼ぎを生み出す場だった。
しかし40年代以降、イワシ漁が衰退し、林産物が下落することで、雇用関係は解体し、タチウオ漁や出稼ぎといった家単位の生計活動が中心となり「浜」は稼ぎの場としての性格を失っていった。
□間垣
▽91 狼煙を境にして、外浦一円にマガキがみられた。
……志賀町福浦では、材料はカラダケ(マダケ)が主。10月から3月までだけで、3月になると解体した。志賀町生神では、マダケから10年ほど前から孟宗竹に変える家がでてきた。孟宗竹は、1度つくると10年ほど保つ。山本文雄家では、平成になってからマガキをつくった。
▽97 門前町深見 商船乗りが多かったため、作業時間がとれず、昭和37、8年から40年代にかけてブロック塀に変わっていった。
▽101 珠洲市高屋町 昭和60年ごろまでは、残っていたが、今はカクナイデの7、8軒、コウラデの数軒が続いているだけ。ニガタケは減り、4つに割った孟宗竹をめぐらす家が多くなった。カクナイデが多いのは、とくに風が強いため。
▽103
▽105 奥能登ではマダケ・ヤダケは、藩政期から重要な商品。その点、ニガタケは食用価値も商品価値ももたず、オープンな資源だったため、利用が促された。
平成22年現在、まとまってマガキをつづけているのは、上大沢・大沢、志賀町七海・生神、珠洲市折戸町木ノ浦など数集落に。
なくなった理由。
・護岸工事や道路で直接風波を受けなくなった。
・コンクリート塀、フェンス、サッシが普及。
・補修が大変。住民の高齢化
・屋敷林の拡大
・家屋のレイアウト変更 七海では、昭和50年ごろに、風よけのために納屋や蔵を海側に移動。
▽存続する理由
・コンクリートは風通しが悪い。イワノリを干すのにある程度の風が必要。コンクリートは倒壊が恐い。
▽皆月、五十洲では、戦前はニガタケを使っていたが、戦後、マダケを山手の集落から買うようになった。
▽106 七浦地区では業者委託が一般的に。池端勇孝さん。昭和60年代から痛くされるようになった。1年間で2、3軒、多い時は5、6軒注文がある。幅1間で5万円ほど。
□上大沢の特徴
▽109 隙間を風が通り抜け、ピーピーと「もがり笛」が吹くような音がする。「風の都」「風の里」とよぶ。ブロックだと夏は風通しが悪いのでつづけている。
ニガタケの伐採は9月ごろから。1軒で200から300本調達した。葉をつけたままさすとゴミが落ちるから、山に一時おいて葉を落としてから使った。
マガキに使うのは2年以上のもので、3、4年へたヒネダケが丈夫。
火には厳しく注意している。虫祭りのときも、在所に来たら松明の火を消し、家の近くでの花火も禁じている。いまだかつて大火はない。
□大沢の特徴
▽112 海岸道路(県道)を造成するときに、マガキを海側に立てることで話がまとまったが、マガキが目隠しになりバスから海が見えないので、しぶしぶ家側に立てることになった。
上大沢と大沢で西保間垣の会を結成し、市から補助金を受けている。昭和56年からで、当初は25万円だった。平成20年からは10万円になった。10万円のうち4万円を上大沢、6万円を大沢。
□能登とマガキのイメージ
▽114 マガキを能登独特の景観として評価を高めるきっかけとなったのが、昭和27、8年の9学会の能登調査。
▽117 昭和30年代以降、「暗い、つらい、厳しい、たたかい」といった修辞を通して能登はイメージされるようになり、マガキはそのようなイメージを伝える存在に。
マガキの撮影地は、昭和30年代までは外浦全域に広がる。40年代には北西部の七海・皆月、さらに50年代以降は上大沢・大沢に限られるようになった。
1957〜61 「忘却の花びら」「ゼロの焦点」などによる「秘境」イメージ定着。
68〜74 最果てイメージで「カニ族」に注目される。……
▽118 マガキが当初頻繁に撮影されたのは、珠洲市高屋町。「さいはて」のシンボル、またはその入口と位置づけられた。その後、高屋から皆月、さらに大沢・上大沢に移行している。
▽120 昭和11年「北国新聞」「西保村 電灯のない村 おまけに車の通る道一筋さへ持たぬ」。
昭和35年、「観光お国めぐり 石川県」は光浦・西保について「……交通の便が悪く、秘められた景勝地となっており、断崖や岩礁にぶつかり砕ける波の様は豪壮そのものである」。「ブルーガイド能登半島」は昭和36年、「若い人には野宿を覚悟で皆月の秘境を探るもっとも良いコースだが、一般向きには皆月、猿山灯台探勝のバス連絡がまだ悪くて、おすすめできぬのが残念だ」
昭和50年代に入ると「最後の秘境」という文言が目立ち始める。能登らしさを残す最後の聖地として七浦・西保地区が位置づけられた。
▽122 (上大沢・弥郡信雄)「荒磯遊歩道ができる頃から、珍しがって人が来るようになり、マガキも有名になってきた。……最初に川上、つぎになぎさ(志礼)、浜喜屋(浜岸)が民宿業をはじめた。休日は客が来ていたが、それ以外は来ないので、10年ほどしか続かなかった」
(志礼義光)「昭和35年ごろから能登ブームが起きたので、民宿「なぎさ」を始めた。夏場には毎日20人ほどが泊まった。10年ほどつづけたが、その後、パタッと来なくなった」
(北口公男)「荒磯遊歩道が昭和47年に開通すると、磯釣り客が年間を通して増加するとともに……平成10年頃、マガキのことを尋ねる観光客が多くなったことから、地区公民館でイラスト風のリーフレットを3千部作成したが、無料配布で5年間でなくなった」
(田中輝夫)「マガキが話題にされるようになったのは、昭和60年以降からで、とくに見物客が多くなったのは、平成15年以降」
上大沢は、釣り客や観光客が訪れるようになったのは昭和47年の荒磯遊歩道の開通以降。
……上大沢・大沢を「マガキの聖地」と評価する外部の視線は、住人たちに見慣れた風景を「誇り」「先人の知恵」として内面化し、その維持をうながす動機になっていったと考えられる。
▽124 旧西保村の人口 昭和10年 294戸1838人、 昭和25年 320戸1922人、 昭和35年 301戸1717人、 昭和40年 297戸1460人、昭和45年 218戸1037人。
▽130 上大沢集落は「かめぞ」と呼ばれる100戸以上の集落だったが、住民の大半が北海道に移住したとされ、1959年には20戸の小規模集落になっている。空家はない。路地は家々の共有の中庭空間となっており、樹木が多く植えられている。
▽138 大沢 西側から集落発祥地である西出、中島出、川向の3町に区分される。空家は半壊を含めて11軒ほどに。
▽192 大沢地区では、45基の間垣が確認され、伝統継承タイプ(ニガタケのみで壁体を構成)は37%、混合タイプ(ニガタケのみでなく、木板などほかの素材とニガタケを混合して使用)は30%、簡易タイプ(壁体にニガタケを使わず、木板などを代用使用している)は33%。間垣の総延長は809.6メートル。
上大沢地区では37基の間垣が確認され、総延長は517.4メートル。80%が伝統継承タイプ。残りの20%は簡易タイプ。
支柱類は数十年の耐久性があり、3,40年に一度取り替え。
▽197 上大沢の間垣保存会は昭和55年ごろ組織され、橋本忠明氏で3代目の会長。市から支給される補助金は各戸に対して1000〜2000円程度。
▽201 集落内に茅葺き屋根が多かった頃は、採取したニガタケを葉のついたまま使っていた。補修直後は緑色の間垣で一変し、間垣の中にスズメが群がり、タモアミでとった。
現在は、ニガタケの葉が瓦の間に挟まったり、樋を詰まらせたりと排水に支障をきたすため、葉を落としたニガタケを使っている。
……上大沢では、集落内では分家を行わないというしきたりが継続されている。住民間の結束は強く、間垣補修作業もほぼ同時に行っている。
▽203 大沢地区 ニガタケ離れが進んでいる。村域外にも採取地を求めるようんあり、農作業のサイクルと一体的におこなわれていたニガタケ採取が、独立しておこなわれ、農業を基盤とした共通意識やルールが希薄になった。
▽上大沢 地区外に採取地を求めるようになり、各人が個別にニガタケを調達するようになり、集落近傍で採取していたころにはあった、自然資源共同利用のルールや互助意識が希薄になった。ニガタケ採取にともなう集落間・住民間の申し合わせ・しくみ(結い)が弱体化している。
▽206 大沢の従来の海側の間垣は、昭和35年にバス道が開通するにあたり、山側の建物に近接して移設され、コンクリート造りの波返し堤防がそれまでの石積みより海側に構築され、現在の海岸道路ができた。
……椀木地作業場跡。今はM家1軒が作業場を残しているだけ。
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