■寺社勢力の中世--無縁・有縁・移民<伊藤正敏>ちくま新書 20111003
中世は王権の力が弱まり、全体社会のなかで国家が占める割合が最も小さな時代だった。寺社勢力が力をもち、義経らの「犯罪者」をかくまう無縁所(アジール)となった。先端文明と先端文化の場でもあり、鉄砲生産や築城などの軍事技術も培われた。中世は寺社勢力の時代であり、信長・秀吉によって寺社勢力が屈服したときに終焉を迎える、と筆者は説く。鎌倉幕府とともに中世ははじまり、鎌倉幕府は武家権力の確立である……と教えられていたから驚かされた。
筆者は、寺社が所有する膨大な文書を分析した。中世の同時代の記録は、武家や朝廷にはほとんど残されておらず、大半の一次史料は寺社が残しているという。文字を操る技術においても、武家は寺社勢力の足元にも及ばなかったのだ。
古代国家の末期は社会不安が募り、院や貴族は、神輿を武器にした比叡山の強訴におののくようになる。神輿の神威は朝廷の権威を上回っていた。源平の武士の台頭は、ごう訴対策での起用が契機だった。
叡山の傘下にある祇園社が「境内」として広大な地域の領有を認められ、叡山は京に広大な不入地を確保した。琵琶湖の舟運も、大津・坂本の馬借も叡山がにぎり、金融業者の土倉も大半が叡山に属した。摩天楼(寺社建築)がそびえ、住宅街、商工業地があり、周辺には貧窮民があつまる寺社境内は「境内都市」だった。当時の高野山は少なくとも人口数万人(現在の高野町は人口4000人)を数えるメガロポリスだったという。
寺社のなかには、貴族・武士・富裕民の出身の「学侶」、武士より下の身分の「行人」、定住地を持たない無縁の人「聖」というランクがあった。学侶との抗争の末に境内都市の実権を握ったのは行人だ。武士が単なる警察権者から権力者の地位に上昇したのと同じことが境内都市のなかで起きていた。
境内都市は、集会(しゅうえ)という議会制度による形式的民主主義があった。15世紀に京に「町組」という自治組織が発生し「自治都市」になると、山鉾を出す富裕民「町衆」が市政をつかさどった。自治組織は、貧富の差と身分の不平等を固定していることが境内都市と異なる。自治都市の特権層は、江戸時代の特権層につながり、兵農分離後は一部は武士となり、一部は本陣や庄屋などになった。
世襲の名乗り、世襲の財産、世襲の家業をもつ「家」は無縁所には不要だ。家は、自治都市・自治村落の構成単位としてはじめて必要とされる。家の成立は身分制度の創設をも意味した。身分制を国家でなく、自治都市・自治村落が創設したことは、世界史的にも珍しいという。(トクビルのフランス革命論の逆 封建制の基盤をつくったのは自治都市)
トクビルはフランス革命について、絶対王政が貴族の力を弱め「平等」を実現させたことが革命の基盤となり、自由より「平等」を求めたが故にナポレオンによる帝政が生みだされたと書いた。民主主義から生まれた「自治」が身分制を生みだす、という逆説はそれに似ていて興味深い。
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▽1 中世になると、王権から、先端文明と先端文化の場である寺院・神社が分離し、多くの寺社が武力を持って治外法権をもって独立し、王権に従わなくなった。「仏教の民衆化」
▽ 都市・未来・上品・商人・道具・投機・脱落・知事・平等・機嫌……などの言葉は全部仏典から。石垣普請、弓矢製作、鉄砲生産、築城などの先端文明も寺社に発生した。日本文明と文化の大半は、古代王権ではなく中世寺社から生まれた。
▽中世の開幕とは、院政開始(1086)の頃であり、鎌倉幕府の成立ではない。中世の終了は、信長入京(1568)の頃。
▽13 古代寺院の寺僧は、朝廷に奉仕する役人だった。中世寺社は、古代寺社とも近世寺社とも異なり、公務員でない僧侶がほとんどとなり、僧侶個人ではなく、僧侶集団が力をもった。「寺社勢力」
▽14 中世とは、全体社会のなかで国家が占める割合が最も小さな時代。全体社会の大きなコアであった無縁所の全盛。延暦寺の領地は、北海道・沖縄を除くすべての都府県にあり、鎌倉幕府領よりずっと多い。(国家から独立した第3勢力が存在したのは中世だけ)
▽16 東京大学史料編纂所HPのデータベースで、文書・日記を見られる。……朝廷・幕府の文書はほとんど残っていない。残っている文書はほとんど寺社文書だ。それを元にするしかない。
▽20 義経追討を名目に守護/地頭を設置。これ以後、頼朝は全国の警察犬を握る公的地位に立つ。
有力寺社は国司の検断権(警察権)が及ばず、治外法権の場だった。「検断権不入」の特権は安土桃山時代まで維持される。
▽26 無縁所が中世では江戸時代よりはるかに大きかった。義経は「無縁の人」を装った。
▽34 イエズス会宣教師は「京の人口は、洛中9万8千人、洛外10万8千」という。中世の京は、鴨川の東西に開けた都市だった。京は、上京・下京・河東の3つの都市の複合体。ただ、上京が発達するのは、足利義満が幕府を花の御所に移転してから。
▽39 商家と工房がならぶ町小路(新町通) 洛中一番の高台。
▽42 四条河原町は、「鴨河原の中」だった。鴨川の氾濫原は東は大和大路、西は東洞院や高倉までが洪水危険地帯だった。中世でも、鴨河原は、芸能の中心。中世鴨河原の賑わいは、形を変えて河原町通として目の前にある。
1955年の鴨川河床掘り下げ工事以前、京都は水害に悩まされつづけた。
▽46 土倉・油屋・米屋・質屋・酒屋。金融業を営む中世一番の金持、土倉は原則無税だった。朝廷の職人税は、古代的職人のみを想定していて、中世商工業に対応していない。……南北朝合戦の激しかったころにも、合戦のない日には、敵味方が洛中の湯屋で語り合った……。
▽50 京都流入民が急増し、疫病の流行規模が拡大。疫病に対する恐怖から、祇園信仰を頂点とする御霊信仰が盛んに。
▽53 11世紀最後の10年は、社会不安を反映して、人々が熱狂的に田楽に踊り狂った。江戸幕府崩壊直前の「ええじゃないか」にも似た、古代国家への葬送曲だった。
それまで強訴など一蹴していた院・貴族が、1091年の「嘉保の神輿動座」以降、比叡山の強訴におののくようになる。神輿による威嚇。
▽56 日本最大の祭礼「祇園会」は比叡山の勢力下。(感心院=八坂神社)
▽王朝貴族は、地方政治を放棄し、国司に政治を丸投げ。国司は私服を肥やし、国司が襲撃を受けたり、郡司・百姓が国司の非法を訴えて罷免を要求することが繰り返された。……頼朝挙兵の最初の攻撃は、伊豆の国司代官。
▽62 1070年、祇園社が「境内」として広大な地域を領有することを認められた。巨大な不入地の誕生。京における無縁所第一号の法的成立をもって中世の開幕と考えている。河東こそが比叡山山上より重要な延暦寺の本体部分であるから、これは、比叡山の不入地の確立を意味した。……山僧の多くは叡山ではなく京に住んでいる。
▽67 洛中の人は祇園会に熱狂する叡山シンパだ。人々の意識では、河東だけでなく、洛中も叡山門前なのだ。
▽71 尊氏らが攻めたが叡山は落ちない。西坂本(大津の坂本ではない)と山上を結ぶ表参道の雲母坂が主戦場となった。……京都の経済は叡山なしになりたたない。琵琶湖の舟運は叡山が握り、運送業者も叡山支配下の大津・坂本の馬借。京都には金融業者の土倉が300軒あるが、うち240軒が叡山に属した。
▽78 平安時代の文書5000通の95%が寺社所蔵文書。
▽84 石垣積の城郭革命をおこした織豊政権に先行して、根來寺、平泉寺という軍事力を誇る寺院が高度な石積施設をもっていた。1166年に中世最初の山城を建設したのは比叡山。
鎌倉時代、武士の文書はひらがなが多いが、学侶で漢字を書けない者は1人もいない。寺院は先進文明・文化を生産する場であり、最高の先生が集まる教育の場だった。ルイス・フロイスは、叡山を「日本の最高の大学」と見た。
▽90 寺院への駆け込みで最も多いのは貧窮民。……摩天楼がそびえ立ち、住宅街・商工業地があり、周辺には貧窮民があつまる寺社境内は「都市」だ。筆者は「境内都市」と名付けた。寺そのものが丸ごと都市なのだ。
▽92 石山本願寺を追われた顕如は、高野山に身を寄せた。その日記によれば高野山には7000坊の子院があった。1坊の居住者を10人とすれば7万人。現在の高野町は人口4000人だが、年間31万人の宿泊客と125万人の日帰り客がいる。だからさびれた印象はない。中世のにぎわいは言語に絶するものがあったろう。メガロポリスといってよい人口密集地。
▽101 中世寺僧は、「出家した個人」の集合ではなく、僧の家という世襲の職業集団。彼らを破戒僧として非難する俗人は中世にもいた。だがその後、江戸時代に水戸光圀や新井白石以下の儒者が誹謗を積み重ねたのが大きい。比叡山焼討を賛美すらした。今日でさえこういう偏見が多くの人の先入観になっている。
▽102 武士としての僧
▽108 紀伊の国では、水田面積の8、9割が寺社領。大和は、寺社領でない土地はないと言ってよい。寺社は大荘園領主だった。……武士を滅ぼした寺社
▽113 根来寺岩室坊は、関ケ原合戦前夜、……鉄砲500……計1350人を明日にでも集める、と豪語した。武田・上杉・伊達などの大名の保有総数を超える500丁の鉄砲は驚異だ。岩室坊の経済基盤は商工業にあった。
▽115 寺院の行人の台頭。要因のひとつは高利貸し。神仏の罰があたるという恐怖があって返済を怠る人が少なく有利だった。
▽118 遣唐使の廃止で鎖国に入り、国風文化が育つ、というのは全くの誤り。民間の貿易が盛んになり、もはや遣唐使は必要なくなった。
▽124 神仏に捧げられたものは永遠に神仏のもの。いったん寺社のものになった土地は永久に寺社のもの。これを「仏陀法・神明法」という。あらゆる中世法の中で最強不可侵の法がこれだった。
▽130 寺社に放火した武士は汚名を残したが、寺社同士の争いでは焼討はざら。
▽133 「検断得分のための検断」警察官個人が逮捕した犯人の全財産を没収できる、と決まっていた。悪徳刑事=武士が多かった。地頭が設置された荘園ではとくにこの弊害が大きかった。……鎌倉幕府領じたいが、平家の持っていた荘園を、頼朝が検断得分を名目として奪取した。……非合法または未公認の武力集団を公認して、警察力として利用するやり方は政府の常套手段だった。終戦直後すら、警察機能の多くを代行したのは暴力団であり「検断得分」を伴っていた。
▽140 学侶……貴族・武士・富裕民の出身。行人(堂衆)……武士より下の身分、半僧半俗で、世俗の百姓身分に対応。聖……定住地を持たない無縁の人の典型、山伏も。
▽144 高野聖は時衆(時宗)
▽147 本来は学侶からの検断命令を忠実に履行する検断実行者に過ぎなかった行人が、権限に高めていった。境内都市の中核であり実権者であったのは行人。武士は朝廷の命令のままに犯人を捕らえる警察権者から、国政のリーダーの地位に上昇した。それと同じことが起きた。
無縁というフィルターを通せば、身分の逆転も起こりうる。境内都市石清水八幡宮寺の神人出身で、石清水の主力産業であった荏胡麻油の販売商人から大名になった斎藤道三。
▽149 源平内乱は、叡山で起こった堂衆合戦が引き金となった。湯屋の入浴順をめぐって1203年にはじまった堂衆と学侶の合戦は10年あまりつづく。学侶の要請で援軍として参加した幕府軍は、名だたる御家人が討ち死にした。堂衆は投石という関東武士の常識にない戦法を駆使した。楠木正成などの悪党と呼ばれる人がつかう戦法の先駆けだ。
▽152 高野山は女人禁制。熊野は聖地を女人に開放すると宣言し勧誘した。熊野の聖は女性の熊野比丘尼が多い。
▽158 山僧はごう訴の時はいつも神輿によって内裏や院御所を占拠しようとした。神威は朝威の上にあった。
▽163 高野聖は、弘法大師信仰と阿弥陀信仰をあわせもつ時衆であって、難解な真言宗の教義を理解しない。中世高野山は、大師信仰という呪術で結ばれたゆるい集団だった。庶民信仰の世界では、弘法大師、元三大師、聖徳太子3者の区別はついていない。……大師を中傷する文言は幕府法廷においてさえ罪科の対象と考えられた。大師の権威は、中世社会どこでも普遍的に通用した。
▽166 武士にとっての「鎌倉殿」は、ダイシであり、大仏であり、神輿だった。東国の御家人制に対比すべきは、西国の神人制である。
▽170 集会(しゅうえ)による民主主義。境内都市は、外見上の議会制度をもち、民主主義的約束がありながら、議論を尽くした結果とはいいがたい決定がでる。現代大衆社会に酷似する。
▽172 現代の無縁の人 家船漁民。
▽174 中世寺社勢力は、宗教で説明するよりも経済体として考えるほうが、明快に解ける。
▽179 信長でさえも熱田社の検断不入を承認し、味方につけようとした。その20年後には、無縁所を破壊し、比叡山を焼討をするが。
▽186 移住民は都市に向かっただけではなく、古代には利用されることのなかった標高900メートルを超える土地にも向かい、都市を形成する。農業的基盤を全く欠いていたのに富士信仰の基地として繁栄した富士吉田。
▽188 網野義彦の無縁所論への反論。
▽190 学会で中世の担い手といわれたものは、戦前は「武士」、戦後は「民衆」に移る。寺社勢力は、皇国史観からは「国賊」、マルクス主義歴史学からは「古代の遺物」「退廃的支配者」と決めつけられ、正統的とされた歴史叙述から切り捨てられてきた。
▽192 行人・聖の台頭の背景は、鎌倉幕府が成立した原因と同じだ。ともに旧体制への反抗である。だが、行く道は180度異なった。武家政権という有縁への道、寺社勢力という無縁への道。
▽流布している支配者の素顔というのは、ほぼ全部虚像だ。文書・日記という旬の素材により人物を復原すると、とたんに顔が見えなくなる。信長・秀吉以前で、物語を排除した後にも人間性がある程度わかるのは、尊氏・直義兄弟の2人だけ。
学侶センセイだけだったら、高野山は9世紀の「忘れられた霊場」のままであり、中世の繁栄はなかったろう。
▽197 三河一向一揆での本多正信 兵農分離以前だから、当時の武士は武士でもあり農民でもあり商人でもある。彼らは100%家康に従いたくなかった。どこかに自由を残しておきたかった。「主君」に半分、無縁所に半分属していた。こういう武士を主君に忠実な近世的武士に変えていくか、が、統一政権の課題になる。
▽199 武士も寺僧も閉塞した貴族社会から切り捨てられた「次男坊・三男坊」。辺境移民が関東武士、都市移民が学侶。
▽204 親や一族の敵討ちは中世にもあるが、主君の仇を討とうとした例はほとんどない。秀吉の時代でもお家観念の実質は確立していない。
▽206 中世寺社勢力の独立性は行人・聖の存在に支えられた。彼らがいなかったら、境内都市は無縁所にはならなかったろう。行人・聖の歴史は民衆史であり、学侶史は支配者の歴史。古代寺院は御用寺院であり、近世寺院も御用寺院にもどる。
▽ 源為義や平忠盛らがごう訴対策で起用されたことが武士台頭の契機。
▽214 足利義満 寺を支配下におさめる。「叡山門前としての京」は一時後退。寺社の神人がもっていた免税特権も否定した。だが幕府の黄金時代は、義満の時代から1441年の嘉吉の乱までの60年間で終わり、有力寺社の影響力が復活する。
▽218 室町幕府は寺社付属の座を温存しながら税金をとった。政権として経済・財政政策がないに等しい鎌倉幕府と比べれば進化を遂げた。信長の楽市楽座は、寺社の座を否定するのみならず、幕府や守護の権利だった座の保障権をも否定する政策だった。
▽220 15世紀、「町組」という自治組織が発生し、京は自治都市へと変貌する。山鉾を出す富裕民「町衆」が、町堂で寄合を持ち市政をつかさどった。
境内都市から自治都市・自治村落の時代へ。宗教のベールに隠れていた商工民がその姿を現す。この自治都市に一向宗・日蓮宗が浸透して寺内町となる場合が多かった。堅田は蓮如が移住し本願寺の寺内町に。上京・下京の町組は、本能寺・妙顕寺などに指導されて法華一揆を形成した。
▽226 「家の歴史」「村の歴史」は室町時代後期にはじまる。中世の村は、住民の流動性がはなはだしく、村の範囲も確定していなかった。
自治都市、自治村落を構成する「家」が成立するのはいつか。家とは、世襲の名乗り、世襲の財産、世襲の家業などをもち、永久につづくべき「経営体」。家の成立とはこれらが固定して変動しなくなること。町・村の構成単位としての経営体としての家が、都市・村の組織にとって必要なのだ。(無縁所には不要。だから自治、とはならない)
▽229 境内都市の一種民主的な集会の方式が、自治組織にうけつがれた。だが自治組織は、貧富の差と身分の不平等をそのまま固定していることが境内都市と大きくちがう。宮座のメンバーとなり、その地位を保つには、毎年多額の出費が必要で、払えなければ宮座から追放される。自治都市の特権層は、江戸時代の特権層にそのまま血縁でつながる。兵農分離の後、一部は武士となり、一部は本陣や庄屋などになる。家の成立は同時に身分制度の創設をも意味した。
1537年、賀太で、永久に特権身分の名主(永定名主)を23家に限るという決定がなされた。家格差別を恒久化する家格制の成立。無縁の自治都市に有縁の身分制が発生した。身分制を国家でなく、自治都市や自治村落が創設したことは、世界史的にも珍しい。(トクビルのフランス革命論の逆 封建制の基盤をつくったのは自治都市)
▽234 斎藤道三も秀吉も有縁の農民ではなく、無縁の人の出身。
▽238 長島を、斎藤龍興などの隠れ家になっていると非難し、1574年、男女2万人を殺戮し滅亡させた。……荒木村重の家人が高野山に駆け込むと、(勢力外だった高野山には直接攻撃できないから)領国を廻国する高野聖1383人を虐殺した。
▽242 刀狩令は寺社に対しても出された。中世の自力救済を否定し、絶対無縁所を支えた武力を根こそぎ奪う無縁所廃止令でもあった。農村の兵農分離と同じ意味をもつ兵僧分離であった。私はこの刀狩令発布、無縁所の終わり、1588年をもって中世の終焉と見る。
中世とは無縁所の時代だ。
▽248 障害者が生活できるようになったのは中世がはじめてで、小栗判官の物語など、障害者文学もできた。
網野善彦は「文学・芸能・美術・宗教等々、人の魂をゆるがす文化は、みな、この『無縁』の場に生まれ、無縁の人々によって担われている」と言った。無縁性は文学・芸術の絶対条件だ。
……今日では、無国籍なグローバル性と匿名性をもち、自由と無法があふれ、精神的な駆け込みの場ともなり、善と悪に満ち満ちたネット世界が無縁の状況にあるだろう。
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