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海から見た日本史像 <網野善彦>

■海から見た日本史像 <網野善彦> 河合ブックレット 20110910
「島国根性」なんて言葉は時の権力がつくったウソだという。海は周囲と隔絶する堀ではなく、周囲をつなぐ交通路だった。日本の列島の人々は、縄文時代から海を駆け回り、1600年ごろには南米にも出かけていた。江戸時代が鎖国というのもフィクションであり、ペリーより早く、対馬や松前にはアメリカの捕鯨船が来ていた。それを幕府に報告しなかっただけだった。
陸の交通路と水田ばかり見ると、能登は僻地だ。農地は少なく、貧農や小作人だらけだ。だが、海から見ると交通の要衝になる。土地を持たない「百姓」の多さも、それを必要としないほど他の収入があったと解釈できる。
奥能登の「豪農」とされてきた時国家は、実は豪農ではなく、海運によって財をなした一族だった。曽々木には潟湖がありかっこうの港だった。「下人」であり水呑百姓と分類されてきた人たちが、実は時国家の船に乗って商売することで財を得ていた。輪島も「水呑百姓」や土地のない農民ばかりとされてきたが、その他の産業に従事しているから、農地を必要としていななかった。
稲作中心史観を批判し、「百姓」とは農業だけでなく林業や漁、炭焼き、海運などさまざまな生業をもつ人々であると筆者は論じてきた。従来の稲作中心史観では「貧しい僻地」でしかない能登のイメージが、「海」に目を向けることで正反対の豊かなイメージに一変する−−。そういうダイナミズムがおもしろい。
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▽16 19世紀はじめには、日本海にはアメリカやロシアの捕鯨船がきていた。対馬や松前にはアメリカの船員が上陸している。が、役人や領主に報告さえしなければ、記録にはほとんど残らない。
▽18 支配者にとっては「鎖国」という貿易統制がその体制を維持する為に必要だと考えたと思うのですが、国際性を失っていったのは国家の統治者あって、庶民はそうではなかったと言ってもおかしくない。「島国」という言葉自体、国家がつくり出した……
▽20 律令国家 五畿七道。まっすぐな陸上の道をつくったが、古代の交通制度のなかで「水駅」は出羽の最上川あたりにあるだけ。……古代の道はどの民族でもまっすぐにつくられる。インカ帝国も。律令国家は、広くおこなわれていた海の交通をほとんど無視したかのごとく、陸上交通体系をつくった。
7世紀末から8世紀前半にかけて道が整備されるが、8世紀半ばをすぎると、早くも道を維持できなくなる。9世紀にはすっかり荒れてしまう。河川・海を通じての交通体系が復活。国司や役人も、陸の道を通るのが原則となっていたが、8世紀後半から9世紀になると、原則も崩れる。土佐日記も。
ところが近代になって再び国家は陸上交通の体系に依存するようになる。明治になってからは、海を国境とするという考え方が、徹底して教え込まれた。海は守るべきもの、あるいは攻めていく時の道と考えるという教育。
▽26 貧しい後進地だから、中世以来の古い制度が残り、時国家のような中世の名田経営、下人を使った農奴主的な経営がのこっているのだ、とこれまでは言われてきた。
1952年からの9学会調査。そのとき宮本常一が両時国家の文書を拝借した。が、研究者が窮乏化し、全国から借りた文書を返却することができなくなってしまった。
1982年に研究所は神奈川大の招致され、それから13年間、文書の返却をしてきた。
「能登に古文書がないのは、常民文化研究所と上杉謙信のせい」という諺までできてしまった。……1985年から時国家を調査。
▽36 曽々木にはかなり大きな潟湖があった。昭和のはじめまでは、たくさんの船が入っていた。
▽ 2つに分立する前の時国家の古屋敷 24間×10間の240坪……の巨大家屋。
▽41 平時忠の子孫、という伝承。……江戸時代初期に分かれるまでは石高300石を保持。1665年、両家に分立してからの上時国家が97人の奉公人を抱えている。分立前の時国家は、150人から200人の下人をもっていたとみられる。
▽43 江戸初期の時国家が大船をもち、回船業を営んでいたという史料も。……船頭が野心をおこして松前やら京・大阪まで売ったが足が出てしまい、自分や水主(かこ)たちの子どもを下人・奉公人として差し出すことになったという文書が残っている。
▽44 12世紀末に滅びた平泉の遺跡でも珠洲焼がでている。江戸時代の松前の史料には、能登の百姓が下肥をもらいに松前に来たという話がでている。
▽46 時国家が塩を商品としたのは明らか。薪や炭も……巨大な屋敷を支えた富の源泉が海にあったことは確実。黒島の角海家も……
▽50 頭振=水呑百姓 は一種の賤称になっている。ところが、相当の金持ちが水呑と呼ばれていた。土地-田畑、石高を持っていないから、水呑・頭振とされた。
漆器で有名な輪島の惣家数の71%は頭振・水呑(1735年)。宇出津の中洲の新町は全員が頭振。
▽52 水呑百姓が増えたのは別の非農業的な生業による収入の道がひらけたから、土地を放り出したのかもしれない。……百姓の語には農民の意味は含まれない。百姓のなかに商人・廻船人・職人・漁労民・山民などがいてもおかしいことではない。「百姓は農民」というこれまでの常識が誤り。
▽54 輪島にも田畑をわずかもつ百姓がいるが、税率88%という高税率。われわれは別の方面でもうけてますからまあそれでいいでしょうということ。
権力中心・陸中心・農業中心の見方で歴史のすべてを見ようとする誤り。
▽57 上下の時国家。能登には「あぜち」(庵室)という隠居の慣習があった。跡取りが結婚すると、父母は別の子をつれて別の家に移る。父母がなくなると、あぜちの持っていた田畑や下人は「おもや」にもどる。だが江戸初期は複雑な政治情勢があった。幕府と深いかかわりがある土方家の領土は、能登半島の前田家領の海辺を中心とする要地などに散在して設定されていた。おそらく1616年の検地で、時国家が300石のうち「庵室」分としておいた百石のみが、前田領とされ、主屋分である200石は土方領に組み込まれた。……もし巨大な家がひとつだけあり、前田家か土方家の一方だけに属していたら時国家はどうなっていたかわからない。能登では大きな家が江戸初期にいくつも前田家によって取り潰されている。
▽62 元老・隠居 王権の二元性、機能分担は、日本列島の王権の独特の形では。西日本に広く見られる隠居の慣習を社会的な背景として持っているのではないか。
▽64 水呑百姓、頭振はたくさんいるけれど、この人たちは、海を舞台に活動する廻船人や商人であって、貨幣的な富は内陸部より豊か。中世前期でも、海辺の浦や津、泊の人々のほうがお金をたくさん持っている。能登半島は、貨幣・資本の面では富裕な地域であり、日本海交通の最先端として、、先進的な役割を果たしていた。貧しく後進的とはとても言えない。農業はあまり力を入れなかったから、能登には中世の名残をとどめた水田や、名の名前の苗字、地名がよく残っている。
時国家も、水主を使って廻船で日本海を活躍し、鉱山にまで手を出し、山林の木材で炭や塩を焼く。多角経営。企業家としての風貌すらもっている。遅れた「農奴主経営者」ではない。
800石から千石積ぐらいの北前船を4艘ももち、松前から大坂までの交易をし、手広く金融業もやっていた。
▽67 土方家は、前田家100万石に対してわずか1万石の弱小大名ととらえられてきたが、よく調べると、土方領は能登半島の海辺の大事な港をかなり抑えている。石高は少ないが、実態はずいぶんちがう。土方領は前田家という大大名の所領のなかに、幕府が打ち込んだ楔のように見えてくる
▽71 鉄道ができる前の能登半島は、たぶん船の交通ラッシュの場所だった。
▽73 まったく根拠のない架空の「建国記念の日」が法律で決められている。日本という国号が定まるのは、早くても7世紀末以後。それ以前は日本は存在しない。聖徳太子も日本人じゃない。倭人ではあっても。天皇という称号も。「天皇」は、どんなに学説の幅を広くとってみても7世紀初の推古天皇までしか遡れないはず。
▽75 支配者の歴史 さまざまな虚偽のイデオロギーを我々の内部に浸透させてくる。「島国」「国際性の欠如」とか、海などは大したことではない、農業こそ国の本で百姓はすべて農民だなどという見方はその好例。
▽76 時国家の古屋敷跡を史蹟公園にでもしたい。曽々木や港の近くに現在の輪島市の民俗資料館を拡大・充実し、地元の考古学と民俗学と文献史料の研究者がそれぞれ1人以上勤務して、奥能登の歴史を恒常的に研究するための拠点「奥能登歴史民俗資料館」のような施設が建設されればすばらしい。(その願いとは逆に民俗資料館は取り潰された)

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