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石川の女性史 戦後編<石川県各種女性団体連絡協議会編>

■石川の女性史 戦後編<石川県各種女性団体連絡協議会編=h12>20110707

石川県の戦後の女性の歴史をつづっている。
周回遅れのトップランナーとして能登の価値が見直されつつあるが、「女」の視点から見ると、過酷な状況だった。「能登はやさしや土までも」という言葉の一方で「能登はやさしや人殺し」という言葉もあり、閉ざされた厳しい環境の土地で、一部の権力者のために、人としての能力や感情さえも抑圧しなければならないような傾向があったという。
能登の女が故郷にもどるためには、妻の経済的な自立のため農家経営を会社組織にして妻も株主とし、トイレを水洗にし、台所を近代化し、妻が個室をもてるようにする必要がある……と論じる。その程度の「自立」も実現できなかったから、「嫁飢饉」となり農家の嫁にフィリピン女性を迎えることになったという。
「女の弱いところに原発は来る」「男は権力にものが言えない。女なら言える」という珠洲原発に反対した女性の言葉は至言である。女が伝統的に弱いから、能登は電力会社に狙われたとも言える。
 原発が建設されてしまった志賀の部落は「親子のように仲がよく、……三役の人が何 か決めごと言うても、はいはいといっぺんに決まる在所だった」が、電力会社に目をつけられ、話し合いで決着がつかず住民投票になり、村人同士のあいさつもなくなり、秋祭りも5,6年できなくなった……。
 一方、珠洲では、20年近い反対運動のなかで女性たちはさまざまな環境問題を学び、言えないことが言えるようになり、成長したという。もしかしたら、珠洲原発反対運動があったから、「里山里海」を評価する視座ができたのかもしれないなあ、と思わせられる。
 昭和28年の内灘の反基地闘争も、女性が主導した。男たちが1年の半分以上出稼ぎでいない留守を守る浜のカアちゃんたちだからこそ、「金は1年、土地は万年」「女は金でだまされん」というス ローガンを生み出し、最終的に「補償」によって敗れたものの、歴史に残る運動を展開した。だが、「土地は万年」を掲げた命がけで座り込んだ海岸周辺が、今や住宅地となってしまった。米軍よりも高度成長のカネの威力の方がはるかに地域を変容させてしまった。
輪島の海士地区が活性化しているのは、海女を退いた高齢者が朝市で活躍し、経済性からも労働の上からも女性が尊重されているからだ、という指摘も興味深い。

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▽33 辰巳用水の源にダムをつくる問題。……「女の弱いところに原発は来る」〓。珠洲の反対運動の正面に立っている1人に、真宗寺院坊守の落合誓子。「男は権力にものが言えない。女なら言える」
▽41 加賀の農村は進歩的であるが、能登は過疎の上に嫁飢饉。1986年あたりから奥能登の農家の嫁にフィリピンの女性が来るようになり、働き者として評判。
能登の女が帰ってくるためには、妻の農業経営権の確立と経済的な自立のための家族経営協定を結ぶ。農家の経営を会社組織にして妻も株主となる。トイレを腰掛け式の水洗にし、台所を近代化し、妻が個室をもてるようになれば、農村も楽しくなる。……かつての愛妻田も、その田が愛妻の所有にならなかったから、実を結ばなかった。
▽84 1974年、市川房枝らが「家庭科男女共修を進める会」を結成(これによって男女一緒になったのか)〓 1985年、女子差別撤廃条約批准のため、国内法の見直しと改正に踏み切り、そのひとつに男女同一教育課程の問題があり、文部省も男女共修に踏み切った。(〓こんなにも遅く、しかも、外圧頼みだった)
▽123 内灘 浜のカアちゃんたちの闘い。昭和28年2月から9月まで、世界中に知られる基地闘争をした。長期化して負けたけど、内灘の主婦の強さがどこからでているのか……。「貧しい家並みにたつ立派な保育所。男たちが1年の半分以上出稼ぎでいない留守を守る浜のカアチャンたち。こんな彼女たちの発言は海の男といえどもかなわなかった」。「生きる中から、全く自然に感じとった体験そのものの強さ」。「金は1年、土地は万年」「女は金でだまされん」がスローガン。だが、「補償」の2文字が人の心に忍び込むと共に、接収を余儀なくされた。その後4年3カ月間、内灘の浜は住民から奪われていた。
現在は金沢市のベッドダウン。命がけで座り込みをした権現森近くの海岸は、レジャーの一角に。……苦労して守った土地が、次々と人の手に渡り住宅団地と化していく寂しさもあるという。「金は1年、土地は万年」を掲げての闘争だったが、その土地が住宅地となり、農民のものではなくなったという現実もある。
▽211 能登に原発 志賀の赤住、福浦。町を二分した運動で、嫁入り先まで手をのばすなど……。「部落のなかは親子のように仲がよく、……三役の人が何か決めごと言うても、はいはいといっぺんに決まる在所でした。そんなとこに目をつけた北電です」。話し合いで決着がつかず住民投票に。北電は現金をばらまく。村の人たち同士のあいさつもなくなり、秋祭りも5,6年できなくなった。部落は原発のためにメチャメチャにされたと怒りをぶつける。「死んでも原発を止めるぞ」(1989年)
七尾、鹿島地区の女性中心に「なまこの会」
▽珠洲 落合「先祖代々御仏飯で育てられてきました。門徒の方々に何代もぶら下がって生きてきた。今できることをやることが、私たちの責任」
「能登はやさしや土までも」という言葉の一方で「能登はやさしや人殺し」というのもある。閉ざされた、厳しい自然環境の土地では、一握りの権力者のためにその他の人々は自分の個性、意見を抑圧され、人としての能力や感情さえも抑えなければ生活していけないような傾向があった〓〓。落合はこの殻をやぶらねばと行動した。(金蔵も殻をやぶった例? 能登らしさが原発を阻んだと言える?〓)

▽216 高屋地区「お寺があってこそ闘い続けられた」市内の寺の8割が反対を表明。「村人の中には、寺は寺のつとめをとの非難を受けた。私たちは反対運動そのものが宗教家としての務めであり、それを伝えることが寺の務めであると確信している」。
20年近い反対運動のなかで地元の女たちも成長したと……「その他の環境問題についても見えないものが見えてきた。言えないことが言えるようになった。女はこの運動を通して成長したんです〓(反対運動によって里山里海を受け入れる素地ができた? 大浜大豆や二三味は?) 蛸島漁協婦人部も。
▽277 1950年前後。農協婦人部。まず、共同購入と貯蓄運動を手がける。その後、「自分たちの健康を守る運動」で、農休日の制定、家庭薬全戸配置、家族計画。
農休日 休みのなかった主婦の文化活動に。珠洲の「若妻たちの会」は昭和32、3年ごろつくられ、若妻たちが出やすいように、姑あてに参加依頼状を出した。姑はものわかりのいい姑としての世間体もありよく参加させてくれた。
宇ノ気町では、どこよりも早く愛妻田ができた。せめて田んぼ1枚分の収入を若妻名義の貯金にあてようと呼びかけた。愛妻田貯金として農協に預けられ、教育費や台所改善に使われた。だが、田んぼそのものが女たちのものとして登記されなかったため、その運動は長く続かなかった。
▽291 女たちの出稼ぎラッシュ。関西や東海の稲刈りや静岡などのミカン。条件がよく観光旅行もあり、農閑期の女性には魅力だった。……大家族のなかでは息抜きがほしかった。姑に気がねせずのんびりできることが魅力だった。
▽294 町野の徳成地区では「家族そろって生活を」をスローガンに西陣つづれ織りの組合を結成。ほとんどが出稼ぎを余儀なくされている辺地だから、家庭で正月をむかえようと西陣つづれ織りの機械20台を購入して作業を開始した。
柳田でも、しいたけ栽培と西陣織も導入した。
門前では、工場誘致や家内工業の振興につとめた。辺地に適した工業として西陣つづれ織りが選ばれ、深見、中谷内、五十州では、機の音が活気を盛り上げた。織り手が高齢化し、平成9年現在、門前ではわずか3,4人を残すのみとなった。
この技術は、京都の織元が門前町で開いている能州つむぎを織る工房「糸糸芸苑(しげいえん)」に受け継がれている。
▽297 輪島の海女さん 漁さえあれば若手海女でも、月に大卒初任給の3,4倍を水揚げし、3カ月間で1年分を稼ぐ(昭和60年ごろ)
離島振興法適用で、簡易水道、テレビ共同受信、発電所、ヘリポートが整備された。
夏のアワビ時期以外は、未婚の若手海女は、陸の仕事につく。定まった料理屋で、行儀見習いをかねて仲居として働いた。鹿島町高畠の料亭では、漁閑期に海女が来るようになって30数年たつという。
以前は裸でサイジ(ふんどし)一つでもぐっていた海女たちも、昭和37年ごろからウエットスーツを着用するようになった。まずワカメ漁に着用を許可し水揚げが増大。2年後、夏あわびにも着用することになった。夏アワビ用厚さ3ミリ、春ワカメ用5ミリ、冬なまこ用8ミリの3着をオーダーメイドする。
▽299 朝市組の海女 高齢になって潜るのをやめた海女たちが朝市組に加わる。現在では朝市会員522人のうち、90人を超える女たちが海女町出身者であり、朝市事務局理事のうち半数は海女町代表の女性である。
▽300 海士は人口増加中 海さえあれば生きていけるという考えのもと、次男以下の分家も女性も漁業権が与えられ、漁業技術の発達と海女の結束の強さもあいまって、漁を営む人を無制限に増やした。
三階建ての新築の家が多い旧海士町と、鳳至町に85%の海士町民が固まっているが……
〓〓「食える海」の背景はあるものの、地域が結束し、海女を退いた高齢者も朝市で活躍したり、孫の子守や留守番、家事などの働きが必要とされる場があり、経済性からも労働の上からも、女性が尊重されていることが、地域を活性化し人口の増加につながる原因ではないだろうか。〓〓(その後、資源管理も……)
▽ふり売り 平成10年現在、4,50人くらい。毎日休まずきて、家の前でさばいてくれる。

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