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村の社会学 日本の伝統的な人づきあいに学ぶ<鳥越皓之>

■ちくま新書 20240627
 封建制の地盤のように思われてきた「村」の積極的な意義をわかりやすくときあかす。
 東日本大震災で原発事故から逃げてくる避難民のためにみんなで炊き出しをした。その仕事は強制でもなくボランティアでもない村人の「つとめ」だった。
 村のリーダーの値打ちは「筋を通すこと」と「ホンネ」 の二つの原理の中間で「まあまあこんなところで」とうまく折り合いをつける能力にかかっていた。
 会議の意志決定で「過半数制」が広まったのは戦後の学校教育以降だ。村では基本的に全員一致制だった。個人対個人で利害をめぐって議論すると、利害の駆け引きになるが、村の寄り合いでは、時間をかけた衆議で利害の駆け引きが徐々に消滅して社会通念が表に出てくる。
 寄合は、多くの人が集まり多様な視点から討議ができる。そこではエゴイズムはきらわれる。だから寄り合いは、エゴイズムの表面化を抑圧する装置として機能した。
 売れ残ったモノを必要ではなくても買ってあげるなど、「取り引きによって生ずる関係はもとは単なる物品の交換だけでなく、もっとつよい人間的な絆を生んだ」(宮本常一)。こういうときに買うのが村の「柔らかいルール」であり、それにしたがう人を,「好い人」と評価した。
 型にはまったあいさつは、相手に失礼にならないための形式であり、そうしたあいさつの「型」は貴重な知恵だった。
 人家の少ない田んぼのなかに中学校があのは、綱引きの結果だった。小学校は集落のなかにあるが、いくかの集落の子が通う戦後の新制中学をつくる際、どの集落も自分の近くにつくってほしい。双方が損をしないために中間につくった。
 人と人との関係を円滑にするための知恵を村はつちかってきたのだ。
 村では、鎮守の森のような、共同の空間(みんなのもの)にたいして敬意をはらってきた。
「人間一人ひとりをとってみれば、正しいことばかりはしておらん。人間3代の間には必ず悪いことをしているものです。お互いにゆずりあうところがなくてはいけぬ」(宮本が常一が聞いた老人の話)に見られるような、人の一生を超えた時間軸でものごとを判断する感性もうけつがれてきた。
 「3世代同居」といわれるが、実際に3世代がいる家は実は半分程度だ。でも、祖父母世代が孫世代を世話して、昔話や伝説をきかせるというシステムはできていた。人間が現実世界の底に幻想を抱きつづけている以上、幼少期に幻想(夢)を抱くことは大切なことだ。生死や世代を超えた感性をやしなうためにも伝説は重要だったのだ。
 数は少ないが、年齢階梯制村落という、年齢を基準にして村人の格を決め、家格の差がない村もあった。そこでは先祖代々という発想がなく、せいぜい3世代前の先祖への供養で終わる。親族についても、男系の発想はなく、父系・母系の双方に広がりをもち、双方をの家々をシンセキなどとよんだ。ここまで純粋な年齢階梯制村落はめずらしいが、多くの村が程度の差こそあれ、似たような要素をもっていた。
 室町時、関西を中心に確立した「惣村」は、村のメンバーがそれぞれ1戸前(家としての1票の権利)の権利をもち、寄り合ってものごとを決める民主的なコミュニティだった。
 本家−分家、という家格のちがいによる格差がある村は東日本に多い。子方が本家に労働奉仕しているように見えるから、マルクス主義経済史家は搾取・被搾取の関係だと指摘した。だが、分家である子方から見れば、本家である親方は饑饉などのときに頼れる保険のような存在だった。本家が貧乏になればいざというときに頼りにできない。だから本家の田を分家に与えることは、文字どおり「田分け者」と揶揄された。
 村の仕事上の高低は、格・年齢・経験で決められた。「年齢」は韓国ではもっと強くなる。イギリスなどは年齢は関係ないが格が幅を利かせ、1970年代のパブでもジェントルマン階級と労働者階級では入口が別だった。
 ババがあつまる観音講。嫁たちの子安講。戸主だけの日待講は、本来の目的はご先祖を拝んだり、無病息災を祈ったりすることだ。だから、嫁も堂々と出かけられた。現在の農産物直売所は農家の女性が仲間と語りあう場になっている。現在の「講」の役割をはたしているようだ。
 村の消滅はやむを得ないと多くの人が言う時代になったが、「本来、村は自然には消滅しないものだと言い切ってよいかと思います」と筆者は断言する。
 ただ、村が困難におちいっても政策的な救いの手が差し伸べられず、消滅する危機はある。現代の最大の社会的困難は「過疎」だが、「山奥の村はなくなっていいんじゃない」「都会に近い村は農業をやめたら」といった声が強まっている。消滅しないはずの村をつぶす圧力が高まっている。
 ではどうしたら村は再生できるのか。
 小田切徳美は「農山村再生」で次のようにしるす。
「地道な取り組みが行われているところでは、その目標が『所得増大』『若者定住』という個別的な項目に設定されていない。より幅広い……『安心して、楽しく、豊かに、そして誇りをもって暮らす』というように総合的に課題設定され、それらを着実に目指している」
 村は、コミュニティ総体の目標を設定したほうがうまくいくという指摘だ。そもそも村の寄り合いは、個別的な項目が発議されても、総合的な課題と結びつけるかたちで決着をつけるように工夫してきたのだ。
 明治以降の日本では、自由主義政党は生まれたが、共和主義政党が成り立たなかったといわれる。共和主義とは、自分が犠牲になっても仲間集団を守るという考え方だ。阪神大震災後のボランティアは、共和主義的発想を基盤としている。そして村は、村というコミュニティの優先度が高く、きわめて共和主義的だ。
「共和主義は日本の村で居場所を見つけていたのです」
 近代文学を確立していく島崎藤村らの「自由」は、社会の自由ではなくて、自分の自由を意味した。かれらは共和主義的な家や村に支えられた社会の裕福な層の出身だった。家や村は「みんな」が生き残るための知恵として生まれた。だからみんなのためという我慢が存在する。それをいやがった裕福な若者たちが、島崎藤村らだった、という批判は興味深い。
 「自然とも仲よくし、ほとんど『つとめ』の気持ちで仲間とつきあう…。長い代々をかけて獲得した『われらは”共に”生きている』という事実認識であったのです。それを発信しつづけているのが村なのです。『村は能率の悪い農業生産をしているところ』という新自由主義的な理解だけで済ませたくないものです」

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▽21 「田舎の人は素朴で親切ね」 親切は「他者への配慮」から。「他者への配慮」は「なわばり」と共鳴。
▽29 明治の行政は、あたらしい行政村を村とみなし、江戸時代からの村のために「部落」という用語を発明した。……昭和の終わりごろに差別用語と関係してきて、部落という用語がつかえなくなりました。
▽31 江戸時代は、村に村高という年貢高を割り当てられ、……明治以降は税金は村でも家でもなく、個人に割り当てられるようになりました。……江戸時代までは領主は村を掌握していましたが、村人という個人は掌握していなかった。
▽31 島原市船津地区浜の川 きれいな湧き水が。地元の人はその水を汲んで飲料水に。週に1度、小さな清掃、年に一度はプールの水を抜いての大きな掃除。
▽33 川内村の小高いところに登ると、第1原発が遠望できる〓〓
▽34 みんなで炊き出し。強制ともいえるし、ボランティアともいえる。「強制」でも「ボランティア」でもない「つとめ」
▽39「筋を通すこと」「ホンネ」 村のリーダーの値打ちは、この二つの原理の中間のどこで折り合いをつけるか、というその能力にかかっています。
▽46 家格のちがい それとは別に、年齢階梯性村落とよばれる、年齢を基準にして村人の格を決める村も。その数は多くないが、このような村では原則的には家格の差がありません。先祖代々という発想がなく、せいぜい3世代の遠さまでの先祖への供養で終わります。親族についても、同族のような男系の発想はなく、父系、母系の区別なく、双系への広がりをもっていて、それらの家々はシンセキなどと呼ばれています。
 典型的な年齢階梯制村落はごく少数だが、程度の弱い村を含めると逆にかなり高い割合。
▽50 格・年齢・経験が村での仕事上の高低を決める。年齢は韓国ではもっと強くなる。イギリスなどの人はあまり配慮しない。
▽52 本家の田を分家に与えることは、文字どおり「田分け者」と揶揄されました。……饑饉などのとき、頼れる家が必要だった。分家である子方から見れば、本家である親方は自分の保険みたいなもの。
……表面的にみれば、見返りが少ないので、無償労働に見えて、搾取・被搾取の関係であるというマルクス主義経済史家の指摘となった。
▽56 3世代同居というが、実際は2軒に1軒ぐらい。
 人生の幼少期に幻想(夢)を抱くことの重要性。……人間が現実世界の底につねに幻想を抱きつづけていることと関連があるのでしょう。昔話や伝説が存在しつづけた理由のひとつがそこにあります。
▽60 ヨコの関係が強い。葬式も結婚式も、正月からはじまる年中行事も、隣近所で相互に手伝いました。フラットな関係。
 村の下位の組やカイト(垣内)と呼ばれる地域組織。「近所力」を保証するもの。本来これは生活上不可欠な人間関係ですが、現在、この関係性が弱まってきています。
▽64 ババがあつまる観音講。若い主婦の子安講。戸主だけの日待講。……本来の目的はご先祖を拝んだり、無病息災を祈ることだから、嫁も「ご苦労様」といわれて出かけられます。
▽70 コメは乾期雨期がはっきりしているほうがよい。日本では人工的に乾期と雨期をつくる必要がありました。とりわけ雨期の形成が大変。
▽77 田畑と山はセットになっている。……武蔵野の林は、野であったところに、必要があって木を生やして林にした。田畑のために必要だった。
▽90 生産と生活(消費)は村の暮らしのなかでは対立する概念ではなく、つながっているもの。村の組織や仕事(手間)においては,生産分野と生活分野とは区別しにくく、類似したものであるということ。
……生活のための活動も、生産のための活動と類似の組織をもつ。
▽92 鎮守の森のような、共同の空間にたいして敬意を払うという文化を形成しています。「みんなが使うものは大切にする」という文化です。
▽94 徳野貞雄は、村のリーダーを4つにわけている。経営型、政治型、技術型、文化型。文化型とは、好々爺のイメージの人が多い宮総代とかお坊さん。
文化型リーダーは「直販所や加工、農家レストランや農家民宿、都市農村交流や食育運動などとうまく連携して農の可能性を広げています」(徳野)
▽101 村上靖彦「単に2人が出会うことなのではない。さまざまな他者と出会ってきたある人の人生全体が、同じように多くの人出会ってきた私の人生全体と出会う。それぞれの人生には他の人の人生や歴史が浸透しているわけだから、2人の出会いはさまざまな人生と歴史同士が浸透しあうことだというふうに見えてくる」
宮本が聞いた60歳過ぎの老人の話「人間一人ひとりをとってみれば、正しいことばかりはしておらん。人間3代の間には必ず悪いことをしているものです。お互いにゆずりあうところがなくてはいけぬ」
▽104 内山節「現代社会は、すべてが交換可能になっている社会であり……20世紀になると、人間も交換可能になってきてしまった。……村に行くと、そういうものとは違う世界がある。なぜかというと、村の人間には交換可能な人間がいないのです」
▽106 村で相互の熟知がなりたっているのは、共同の労働と共同の行事があるから。
▽110 村の寄合は、多くの人が集まって発言するので、多様な視点から討議ができること。多様な視点のうち、もっとも支持が得にくいのはエゴイズムです。そこで自然とエゴイズムが解体されることになります。「エゴイズムを秘めながら、その表面化を抑圧する装置としての」の役割を村はもっている。
▽114 三世代家族 祖父母の世代と父母の世代とは、通常はいる部屋を別にして、できるだけ距離をおくようにしている。母屋と隠居屋……など。
▽119 村は弱者救済のための保険そのもの。村に所属しているかぎり、村は最後の面倒はみてくれます。ただし……(体が動くかぎり)、労働を投下して、その見返りとして収入を得る。気の毒だから、お金や食料を恵みましょうという考え方は村のルールとしてはありません。
▽121 売れ残ったじゃこを買ってもらう……売れないで困っているのがわかるから。宮本「取り引きによって生ずる関係はもとは単なる物品の交換だけでなく、もっとつよい人間的な絆を生んだようである」。こういうときに買うのが村の「柔らかいルール」なのです。柔らかいルールに従う人を,村では「好い人」と評価をします(輪島の振り売り)
▽123 火災のため蔵をたてたり、「うだつ」と呼ばれる土壁を隣家との間に作ったり。
▽124 松は浅く根をはるので山が崩れやすい層です。六甲の山は岩がもろく崩れやすく、それで生田神社の上の山にも松はなく、地震でも山崩れを起こさなかったのだという説明です。生田神社では門松さえも杉を使っている……
▽127 国家を含めて,「村より上の組織体は善意ではなく、基本的には利害のみ判断をします。……村も同じなのです。…上流と下流の村の話し合いも……
▽133 平凡教育と非凡教育 柳田国男が使った用語。平凡教育とは、地域社会で自分たちが共に生きていくための知恵。非凡教育は他の人よりも自分を卓越させるための教育(学校教育も)。
サザエさんのカツオは、成績はあわれだけど……平凡教育の大切さを主張しつづける。
……地域コミュニテイでも少数ながら、平凡教育的な教育活動がはじまっています。たとえば世代間交流……おじいさん・おばあさん世代が遊びを通じてちょっとした礼儀を教えたり、ある種の人生観を示したりして、相互にけっこう楽しんでいるのです。
……平凡教育という考え方には、人間がお互いに仲間として差別を受けないで生きて行くための知恵があるように思います。
▽139 試験問題 設問として孤立していること、何のために考えるのか、答えがわかったら次にどうするのかという、生活に連なる脈絡がこれらの設問にはない。孤絶した知識は生活の場面で使用されることがなく、だから身につく事がない。(鷲田清一)
▽146 型にはまったあいさつでも、基本は相手に対して失礼にならないための形式。あいさつに「型」というものを導入したことは人間の知恵のひとつといえます。自分の話術に自信がない場合は、型を使わない自由なあいさつの成功率はかなり低いものとなります。
▽148 人家の少ない田んぼのなかに中学校がたっているのは、ほとんど例外なく綱引きの結果です。ふたつの集落がどちらも自分の集落の近くに中学をつくりたい。どちらも損をしないために、その中間につくったのです。
 小学校は集落のなかに設けていた。戦後の学制改革で、義務教育としての新制中学をつくることになり、膨大な中学をつくることに。相互の村境近くにつくられた。お互いに「損をしない」ための決着。
▽150 「不公平」はたいへん嫌われます。会議で「それは不公平だよ」と発言すると、優勢だった主張もたちまちしぼんでしまいます。
わたしたちの社会は論理の一番底に不公平嫌いがあるのではないでしょうか。日本人の会議では「それだと不公平だ」という発言は、すべての論理を超えて、いわばトランプのジョーカーの役割を果たすのです。
▽152 村の寄り合い 時間をかけた衆議ではいわゆる利害の駆け引きが徐々に消滅して、社会通念が表に出るからです。当事者どうしではどうしても利害の駆け引きになってしまいます。寄り合いでも利害は少しは残るのですが、社会通念が基盤になるものになります。(〓味噌論議)
▽155 会議の決め方には、過半数制と、全員一致制がある。前者は新憲法に基づいて、とくに学校で強く奨励されるようになりました。
 村では、深刻な問題については必ずと言ってよいほど全員一致制をとりました。
(男と女のさんづけについての議論。絶対男のほうがえらいと思っていた。多数決で決めることに迷いがなかったが……ボヘの議論)
▽162 島崎藤村らは、……近代以前から存在してきた社会構成体(村や町内や家など)を「克服」することを肯定する小説が近代小説として学校の教科書に採用されてきましたから、村はよくないものとされ、意図的な消滅を促しました。
▽165 江戸・明治・大正の村。村には階層差があり、マルクス経済学の経済史家は、搾取・被搾取の関係があったと指摘。おおむね正しいが……
 室町時代のころに基本的なかたちを整えた惣村というものが、関西地域を中心にしてかなりみられた事実も示しておきたい。惣村とは、村のメンバーが寄り合ってものごとを決めていく。それぞれ1戸前(家としての1票の権利)の権利をもっていました。
▽167 農村社会学者の有賀喜左衛門 本家と分家の関係を搾取・被搾取の関係ではなく、庇護と奉仕の関係であると指摘。社会的親子が社会組織の基底にあります。東北の農村で典型的にみられました。
……このように実際の農村をみてみると、日本の農村が他の組織体に比べてもっとも強く権威的で独裁的とは単純にいえなくなるのではないでしょうか。
▽172 村の消滅はやむを得ないと多くの人が判断していると思われます。TPPを契機とした農村対応にも強く反映されています。海外からの食料品に対する関税の撤廃論です。
 本来、村は自然には消滅しないものだと言い切ってよいかと思います。けれども……古く封建的であるという意識は根強く、その結果、村が社会的に困難に陥ったときでも政策的な救いの手があまり差し伸べられないために、消滅する危機があることは否定できません。
 現代の社会的困難は村の過疎です。「山奥の村はなくなっていいんじゃない」とか「都会に近い村は農業をやめたら」というような声が巷に満ちているように思われます。
▽176 小田切徳美の「農山村再生」 「地道な取り組みが行われているところでは、その目標が『所得増大』や『若者定住』という個別的な項目に設定されていない。より幅広い……『安心して、楽しく、豊かに、そして誇りをもって暮らす』というように総合的に課題設定され、それらを着実に目指している」
 村というコミュニティでは、コミュニティ総体としての目標を設定したほうが施策としてもうまくいくという指摘です。じつは村はそうであったのです。寄り合いなどで、個別的な項目が発議された場合、……総合的な課題と結びつけるかたちで決着をつけるようにしていたのです。
▽177 明治以降の日本の政党で、共和主義政党が成り立たなかったのはなぜ。
……共和主義とは、個人よりも仲間集団を大切にする考え方。自分が犠牲になっても仲間集団を守るという考え方。
阪神大震災後のボランティア活動は、共和主義的発想を基盤としています。
 共和主義は、君主制を否定する。
▽182 村は、とても共和主義的だと思っています。村というコミュニティの優先度が高いからです。
……共和主義は日本の村で居場所を見つけていたのです。
 したがって、近代文学を確立していく明治30年代末からの文学者の自由とは、かなり「私」的なものであることに気づきます。社会の自由ではなく、自分の自由なのです。
 かれらは共和主義的であった家や村などに支えられた社会の裕福な層の出身者だった。家や村は「みんな」が生き残るための知恵として生まれたものです。みんなのためというガマンが存在します。それを嫌がった裕福な若者たちが、島崎藤村などの文学者たちだといえる側面があることは否定はできません。
▽190 自然とも仲よくし、ほとんど「つとめ」の気持ちで、仲間とつきあうこと。それは長い代々をかけて獲得した「われらは”共に”生きている」という事実認識であったのです。それを発信しつづけているのが村なのです。村は「能率の悪い農業生産をしているところ」という新自由主義的な理解だけで済ませたくないものです。

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