■興山舎20231201
人類の歴史において、死後世界は当然とされてきた。その伝統が壊れつつる。「直葬」がはやり、お盆を先祖との対話の時と考える人は少数派だ。これはおそらく、南北朝以来つづいた日本のムラの衰退と軌を一にしているのではないか。
この本は縄文時代以来の「死後の世界」の変化をつづっている。現代はそれが大きく変革しつつある。でも「死者との交流」の大切さは変わることはないはずだ……ということがよくわかった。
縄文中期以前、広場をかこむように円形に住居がならび、その広場に死者は埋葬されていた。後期になると、生活圏から離れた場所に墓地がつくられた。中期以前は、生者と死者は空間を共有していたが、生者の世界とは異質な死者だけの世界が存在することを認識するようになって墓地が集落から離れた。
カミは当初、カミと認識された対象と一体のものとして把握された。それが後期になると、個々の事象の背後にある根源のパワーとしてのカミを想定するようになる。カミの抽象化が、抽象性の高い形状の「土偶」をうみだした。
弥生時代になると、土偶のようにカミが具体的な形をもって表現されなくなる。カミはどこかに定住するのではなく、カミを祭祀の場に勧請するという形になった。
弥生から古墳時代にかけて、しだいにカミの人格化が進む。弥生末期になると、一部の死者がカミとして祀られる。
そのころ、大陸に近い北九州の優位を打破するため、新国家ヤマトが建設され、纏向に首都が建設された。その首長には、政治的利害を超越した、卑弥呼のような霊能者がえらばれた。
3世紀半ばに三輪山麓に誕生した箸墓などの前方高円墳は、首長をカミに上昇させよう意味があった。
5世紀をピークに前方高円墳は衰退する。その原因は仏教伝来だった。巨大王陵の時代は、現世を相対化する視座をもった宗教はなかった。仏教などの普遍宗教が普及すると、王もまた被救済民の一人とされ、壮大な墳墓の意義は失われたのだ。
□
有名な武将の墓は、実は戦国末期から江戸時代以降のものしかのこっていない。なぜ中世の墓がないのだろう?
東日本では、鎌倉から南北朝までの150年ほどは万単位の「板碑」がつくられた。板碑には死者の名ではなく梵字が彫られている。死者の埋葬地にたてられた墓標ではないのだ。
板碑の周辺には多くの納骨の形跡があることも多い。近世以降の代々墓とちがい、板碑は、だれが拝もうが骨を納めようが自由な開かれた存在だった。特定の人物だけでなく、すべてを浄土に送り出す存在であり、その機能は仏像にちかかった。
中世人は葬られてしまえば、遺骨のありかはどうでもよく、継続して墓参りをすることはない。だから死者を記憶する装置をもたなかった。
仏教では、無数の世界が実在するとされ、そのひとつひとつに救済主として仏がある。「娑婆世界」もそのひとつだが、救済を担当する釈迦如来は2000年前にいなくなり、ついに釈迦の効力が消滅する「末法」がやってきた。娑婆がだめなら、ほかの世界に往けばよい。それが浄土信仰であり、めざすべき浄土の代表が、阿弥陀仏のいる極楽浄土だった。
浄土信仰の立場では、救済された人はこの世にはいない。
浄土の仏たちが娑婆世界におりてきた姿が「垂迹」だ。衆生は垂迹と縁を結ぶことで浄土への往生が約束された。垂迹の代表が神であり、仏像であり、聖徳太子や弘法大師などの聖人だった。
律令体制が解体するなか、財政支援がなくなった官寺は、信者をよびこむ布教を開始する。その際の切り札が「垂迹」だった。そして「聖人=垂迹」をまつるため新たにもうけられたのが「奥の院」だった。(五来重とは異なる見解?)
空海による真言密教は死後ではなく現世で悟りをひらく「即身成仏」を目標とし、金剛峯寺のはじまりは壇上伽藍だった。だが、浄土信仰とともに12世紀にもうひとつの中心である「奥の院」が生まれた。それと同時に、空海の膝下に骨を納めることを希望する人々が肉親の遺骨を奥の院に納骨するようになった。
浄土にいった人物の遺骨は抜け殻にすぎないから骨の行方には関心をはらわなかった。だが高野山への納骨は近世にも継続する。武将らの名前が刻まれた奥の院の膨大な石塔のほとんどは江戸時代のものだ。匿名化する中世の死者から、記憶される近世の死者への転換を奥の院で確認できるという。
奈良の春日大社のある春日野は、中世には死のにおいたちこめる場だった。春日大社にちかい元興寺極楽坊も納骨の霊場だ。平安中期、「智光曼荼羅」が本物の浄土を描いたと評判をよび、救済のため遺骨がもちこまれるようになった。かつては本堂も、天井や床下まで骨壺でおおわれる「骨の寺」だった。
元興寺、十輪院、福智院、白毫寺のラインは、春日大社をとりまくように展開している。これらの寺を束ねる扇の要に春日大社は位置していた。
奈良時代までは、寺院は開けた平地や都市の内部につくられた。
最澄と空海が、比叡山と高野山を開いたことが、本格的な山岳寺院の幕開けであり、11世紀ごろ、高野山の弘法大師廟にはじまった。その後、天台宗と真言宗を中心に山の寺が普及していく。
官寺の衰退にあらがうため、東国で活発に教線を広げたのが天台宗であり、その担い手が「聖」とよばれる行者だった。
浄土信仰とともに、中世にはいたるところに彼岸世界の入口とされる霊場が誕生し、この世とあの世をつなぐ役割を果たす「奥の院」が無数につくられた。
垂迹と対面する聖地を詣でで、人気を集めたのが聖徳太子・弘法大師・慈恵大師などの聖人だった。
大阪の四天王寺も、古代は官寺だったが、中世には浄土信仰の寺として再生した。
伊勢神宮は仏教を忌避する場だが、背後に朝熊山の金剛證寺があり、死者供養のための巨大な卒塔婆がならぶ「卒塔婆の供養林」がある。伊勢湾台風の倒木の根元から、40基もの経塚が確認された。平安時代の経塚の周辺からは多量の遺骨がみつかることがある。経塚は死者を浄土へ送り出す役割を担った。中世の朝熊山も死者が遠い世界へ旅たつ場所だった。
浄土信仰の波は伊勢神宮にもおよび、アマテラスも表面的には仏教を忌避しながら、金剛證寺と連携して死者を来世に送り出す役割をもつようになった。
浄土信仰が薄まる近世になると、死者はいつまでも山上にとどまるようになり、伊勢神宮と金剛證寺の関係も、浄土への救済にむけた協働から、神宮ー現世、金剛證寺ー来世という役割分担へと変化した。
中世から近世の転換で、死者がこの世に留まるようになると、死者を彼岸に送り出すという板碑の機能は意味を失い、多くの板碑が廃棄された。松島の雄島の板碑が捨てられる背景にはそんな宗教観の変化があった。
栃木市・岩船山高勝寺には家族が亡くなると初彼岸にこの山に登り、卒塔婆を本堂脇の「ヤマ」に納める「磐船参り」という風習がある。中世では、死者供養の重要な節目はお盆より彼岸だった。古風な死者供養の形をのこしている。
古代社会では磐座のある形のよい山は、神の棲む山とされた。それらが12世紀あたりを転機として仏教的な浄土への踏み切り板として位置づけられる。その代表が、奈良・春日神社のある御蓋山であり、滋賀・日吉神社の八王子山であり、岩船山だった。
江戸時代は、不可視の彼岸世界(浄土)がリアリティを失い、死んでもこの世にとどまりつづけるようになる。死者は、仏の力で瞬時に救済されるのではなく、遺族との長期にわたる交際を通じて、しだいに神に近い「ご先祖様」になっていく、と考えられるようになった。死者と生者の定期的な交流が、国民的な儀礼として定着する。恨みをもって現世に越境する死者も増え、それによって江戸時代は多くの「幽霊」が発生した。
「そこに行けば確実に故人に会えるという地」は無数にある。墓地や岩船山、さらにハヤマ(葉山、羽山)といわれる、支脈が突き出した先の「端山」という里山も、死者がこもるという伝承がある。しばらくの間、ハヤマにとどまって遺族と交流をつづけた死者の霊魂は、子孫の供養をうけることで魂の浄化が完了すると、より神界にちかい奥山に旅だつ。庄内地方で魂が最終的に帰る場所は月山だった。
遠野市西来院の「供養絵額」は亡くなった人があの世で生きる姿を描くが、宗教的な要素はない。あの世も世俗化している。もはや仏は他界に誘うことはなく、仏の任務は、生死どちらの世界においても平穏な生活をできるよう見守りつづけることになった。死者が身近な場所に留まるという世界観を前提にした江戸時代後期以降の伝統だ。
死後の世界を想定しない民族は世界に存在しない。死後も親族縁者と交歓できるという安心感によって死の恐怖を乗り越えることができた。死はすべての終焉ではなく、再生に向けての休息であると考えられた。
しかし現代社会では、生者と死者の交流の場とそれを支えてきた死生観が消え、冥界はだれも足を踏みいれたことのない闇の世界になった。柳田国男が「先祖の話」で描いた、墓を媒介とする先祖と子孫の交流という物語は消えつつある。
では神仏への信仰はなくなってしまうのだろうか?
東日本大震災直後の夏、被災地ではがれきが散乱する町を神輿が練り歩いた。神事が人々を結びつける絆となった。
大坂は商人の町で、農家の次男三男が奉公した。大坂での生活が落ち着くと、分骨してもらった親の骨を一心寺におさめた。大坂に菩提寺のない彼ら自身の骨も一心寺に寄せられた。この寺では、納骨堂が限界になり、骨を粉砕して、鋳型にいれてかためる骨仏がつくられた。最初につくられたのは1887年。以後10年に一体のペースで開眼しつづけている。骨仏は全国あちこちで誕生し、遺骨を仏の胎内におさめるタイプもあるという。
最近増えている写真や遺骨のペンダントは死者の依り代ではなく、記憶を呼び覚ます装置だ。
死者との安定した関係の構築は、精神的に満ち足りた人生を送る上で今でも不可欠の前提なのである。
====
▽24 飯坂温泉の医王寺〓。芭蕉がたずねた佐藤継信・忠信の墓。巨大な石碑。「板碑」とよばれる中世を代表する石塔。鎌倉から南北朝まで150年ほど東日本と北日本を中心に万単位の板碑が造立された。医王寺にも60基ほど残されている。
▽29 板碑……霊魂の救済を願ったものであり、埋葬地にたてられた墓標ではなかった。
〓松島の雄島 周辺の海底からも膨大な数の板碑が発見された。中世には聖地だった。……2基の板碑の多数の納骨の形跡も。白い火葬骨の一部が肉眼でも確認できる。
2基の板碑は、鎌倉時代初期にたてられ、その後100年にわたって信仰を集め、結縁のための小型板碑の造立や納骨がくり返された。
中世の人々が板碑をたて、そこに骨を納めようとした理由……
▽36板碑は、だれが拝もうが骨を納めようが自由な開かれた存在だった。(墓とはちがう)特定の人物の供養でたてられたものでも、縁を結ぶすべてを浄土に送り出す力を持つ存在と考えられた。近世の墓石とは異質であり、その機能はむしろ仏像にちかい。
▽38 中世人は、葬られてしまえば、遺体や遺骨のありかは関心の外にあり、継続して墓参りがおこなわれることはなかった。中世の死者はすぐに匿名化してしまう存在だった。
▽39 静岡県磐田市の一の谷遺跡。日本最大級の中世墓地。……葬られている人物の名前は一人もわからない。死者を記憶するための装置を一切もたないのが中世の墓の特色。
▽50 仏教では、無数の世界が実在するとされ、そのひとつひとつに救済主として仏がある。「娑婆世界」もそのひとつだが、救済を担当する釈迦如来は2000年前にいなくなった。釈迦の効力が消滅する「末法」がやってきた。娑婆がだめなら、ほかの世界に往けばよい。それが浄土信仰。めざすべき浄土の代表が、阿弥陀仏のいる極楽浄土でした。西の方角にあるために西方浄土ともよばれました。
浄土信仰の立場からすれば、救済の確定した人はこの世にはいない。浄土にいる。この世に残っているのは、迷いの世界にいる哀れむべき存在なのです。
▽55 空海による真言密教は死後ではなく現世において悟りをひらく「即身成仏」を目標にする。……死後に異次元世界への往生を願う浄土信仰とは正反対。
空海の金剛峯寺のはじまりは壇上伽藍だったが、平安時代後半になると、もうひとつの信仰の中心が生まれる。「奥の院」。
入定信仰の定着にともなって、壇上伽藍にかわって奥の院が山中で最も聖なる空間としての地位を獲得する。
12世紀、空海の膝下に骨を納めることを希望する人たちがあらわれ、無数の人びとが肉親の遺骨を首にかけて高野山に参詣する。
▽50 遠い浄土の実在を信じろといっても難しい。それではだれも救われないことになる。そこで浄土の仏たちは、みずから娑婆世界におりて人々の背中を押すことにした。それが「垂迹」。衆生はその垂迹と縁を結ぶことで浄土への往生が約束される。
垂迹を代表する存在が神。仏像も垂迹。聖徳太子や弘法大師などの聖人も垂迹。弘法大師の本地は、大日如来。……中世固有の信仰の構造。
▽63 律令体制が解体するなか、財政的な支援がなくなった官寺は、信者をよびこもうと布教を開始する。その際の切り札が、人々を浄土へ誘う垂迹の存在。中世寺院は、聖人ー垂迹をまつる新たな施設を寺内にもうけた。それが後に「奥の院」とよばれるようになる。〓
……浄土にいった人物の遺骨は抜け殻にすぎない。だから骨の行方には関心をはらわなかった。
▽66 高野山奥の院の膨大な石塔のほとんどは、江戸時代のもの。大名の墓地は名前がきざまれている。……匿名化する中世の死者から、記憶される近世の死者への転換を見てとることができる。
▽74 春日大社のある春日野じたいが、中世にはきわめて濃厚な死の臭いのたちこめる場だった。春日大社にちかい元興寺極楽坊も納骨の霊場〓。平安中期に危機に陥り、智光曼荼羅が、本物の浄土を描いたと、多くの人々をひきよせた。救済のため遺骨ももちこまれるようになった。収蔵庫には膨大な数の納骨容器を展示。5000点も。本堂にも、かつては数え切れない骨壺が置かれ、納骨は天井や床下にまで及んでいた。元興寺は骨の寺だった。
▽81 元興寺、十輪院、福智院、白毫寺のラインは、春日大社をとりまくように展開している。死者救済を眼目とする一群の施設を束ねる扇の要に春日大社は位置していた。「春日曼荼羅」は、その下方に描かれた春日野=死者の世界と、上方に位置する浄土をつなぐ場所に春日大社があり、死者たちが春日大社を回路として、仏たちに手を引かれ、御蓋山を経由して彼岸に旅立つイメージを可視化したものだった。
▽82 立石寺 中世にはいたるところに彼岸世界の入口と考えられた霊場が誕生する。……中世に新たに設けられた垂迹の所在地は、高野山のように、のちに「奥の院」という名称が与えられることに。中世までさかのぼると、この世とあの世をつなぐ役割を果たす奥の院が、各地にたくさんあった。
▽87 奈良時代までは、寺院は開けた平地や都市の内部につくられた。奥の院も初期の寺院にはなかった。
最澄と空海が、比叡山と高野山を開いたことが、本格的な山岳寺院の幕開け。奥の院に相当する施設はそれより遅れて、十一世紀ごろに高野山の弘法大師廟にはじまった。その後、天台宗と真言宗を中心に山の寺が急速に普及していく。
▽90 聖地を詣でて垂迹と対面する重要性が盛んに宣伝されました。垂迹の所在地は彼岸浄土への入口。
とりわけ人気を集めたのが聖徳太子・弘法大師・慈恵大師などの聖人でした。多くの寺院で聖人をまつる施設がもうけられる。=奥の院の誕生。
金堂(本堂)を焦点とする古代寺院の同心円状のコスモロジーから、金堂と奥の院というふたつの聖なる中心点をもつ中世寺院の楕円形のコスモロジーへの転換が進行する。
寺院の全国チェーン化。投獄でもっとも活発に推進したのは天台宗であり、その運動の先端的役割を果たしたのが、聖とよばれる行者だった。
▽96 立石寺には立谷川の渓谷をみおろす高台に「入定窟」という岩窟があり、そこに慈覚大師が眠っているという伝説がある。戦後の調査では、平安時代後期と推定される金棺がみつかり、そのなかには、頭部だけの肖像彫刻と骨がおさめられていました。
この入定窟こそが、当初の立石寺の奥の院だったと思う。
▽117 縄文中期以前は、墓地が集落の内部に設けられていた。広場をかこむように円形に住居がならび、中期以前はその広場に埋葬されていた。幼児の場合は住居の内部に埋葬する例も。後期になると、生活圏から離れた場所に墓地が形成される。
ある時期まで、生者と死者は同じ空間・同じ世界を共有していた。
墓地が集落から離れるのは、生者の世界とは異質な死者だけの世界が存在することを認識するようになったことを意味する。
▽121 カミは当初、カミと認識された対象と一体のものとして把握された。それが縄文後期になると、個々の事象の背後にあって、それを引き起こす根源のパワーとしてのカミを想定する段階に移行する。
カミの抽象化が、あきらかに人間離れした形状の抽象性の高い土偶をうみだす。
弥生時代は、縄文時代の土偶のように、カミが具体的な形をもって表現されなくなった時代。カミはどこか一カ所に定住することはない。そのため、弥生時代や古墳時代のカミ祀りの形態は、カミを祭祀の場に勧請し、終了後に帰っていただくという形式がとられた。
〓三輪山は山麓から中腹にかけてたくさんの祭祀跡が点在しているが、カミを祀るための固定した施設や社殿は造営されなかった。これは、山そのものを御神体として拝む、もっとも古い神信仰の形式によるものと説明されます。しかし、4,5世紀の段階では、山は神の棲む場所ではあっても、カミそのものではありませんでした。
▽124 弥生から古墳時代にかけて、可視的な姿はもたなかったが、しだいに人格化が進展する。
……一部の死者がカミとして祀られるという風習の定着。「ヒトガミ」の誕生=弥生時代後期。
▽126 箸墓 3世紀半ばに誕生。……奈良時代以降、天皇家の系譜から除外され、長期間、存在を忘れられてしまう。
▽132 北九州の優位を打破するため、新国家ヤマトの建設。西日本諸地域からの纏向への植民と首都の建設、巨大前方後円墳の構築。……新国家の首長には、政治的利害を超越した人物がふさわしい。卑弥呼のような傑出した霊能者がその地位につく可能性がきわめて高かった。
▽136 三輪山 山そのものを神として礼拝する神体山信仰が一般化するのは、近世に入ってから。古代では山はカミの棲む地ではあっても、カミそのものではありませんでした。古墳時代の山の祭祀は、カミの依り代となる磐座などがある周辺の場所において、カミを勧請して行われる形態だった。
▽140 縄文時代後期から死後のイメージがふくらみはじめ、弥生時代には権力者がカミにまつりあげられるようになった。箸墓にはじまる前方高円墳は、首長をカミに上昇させようと造営された。しかし5世紀をピークとして前方高円墳はしだいに衰退し、7世紀には終息します。その大きな原因が仏教の伝来。
▽147 長期にわたる殯は魂の浄化が目的。荒ぶる死者の魂を鎮め穏やかなものへと転換させる。
……仏教の普及によって、火葬が普及。殯の劇的な短縮をもたらした。
……仏教的な葬送儀礼が導入され、長期の殯は不要とみなされるようになっていく。
▽153 巨大王陵の時代は、どの地域でも現世を相対化できるだけの視座をもった宗教が根をおろしていないときでした。仏教などの普遍宗教が普及すると、王は特権的な地位を剥奪されて被救済民の一人とされ、壮大な墳墓が建立される意義は失われてしまうのです。
▽158 四天王寺 中世を通じて、浄土信仰の聖地としての地位を獲得。その西門が極楽浄土への東門であるという信仰も生まれる。
……古代において官寺として繁栄したが、中世には幅広い階層の人を集める浄土信仰の寺として再生。
▽168 伊勢・朝熊山の死者の供養林 金剛證寺。江戸時代には伊勢参詣の際は朝熊山登山が必須とされていた。
……仁王門近くに子宝の御利益の「おちんこ地蔵」。下半身をあらわにした地蔵。
死者供養のための高さ8メートルにおよぶ巨大な卒塔婆が隙間なく並べられている。「卒塔婆の供養林」
多くの人は、古代から死者は山に登ったと考えている(柳田の説)。私はそれに賛同出来ない。普通の死者が山に住むようになるのは近世以降の減少と考えているからです。中世は、死者がこの世にいてはいけない時代だったのです。
伊勢湾台風の倒木の根元から、40基におよぶ経塚が確認された。未来仏である弥勒菩薩の出現まで経典を保存するために経塚がつくられたと考えられている。その機能は12世紀半ばから変化する。平安時代の経塚の周辺からは多量の遺骨がみつかることがある。……死後、彼岸への飛翔を渇望する時代思潮のなかで、経塚は死者を浄土へ送り出す役割を期待されるようになる。
▽177 いわき市の白水阿弥陀堂は経塚山を背にしている。……
……中世の朝熊山も死者の世界だったが、近世以降とちがって中世は、死者がとどまるところではなく、遠い世界へ死者が旅たつ場所だったのです。
▽178 伊勢神宮は仏教をきらい、「僧」を「髪長」、お経を「染め紙」といいかえる。それほどまでに仏教禁忌が徹底しているのに、山の上に死のにおいの色濃くしみこんだ霊場がつくられた。
▽182 浄土信仰の波は神宮にもおよび、アマテラスも表面的には仏教を忌避するようなそぶりをみせながら、来世の救いと深くかかわるようになりました。金剛證寺と連携して死者を来世に送り出す役割を担うのです。
しかし、浄土往生に向けた切迫感が失われる近世になると、死者はいつまでも山上に留まるようになります。伊勢神宮と金剛證寺の関係も、後生のすくいにむけた両者の協働から、神宮ー現世、金剛證寺ー来世という役割分担へと変化していくのです。
▽186 11世紀末から12世紀にかけt、天台宗は東日本に教線を拡大。行者たちは再診の土木技術で新道を通し、周辺の土地を開発し、寺の経済的な基盤とした。当時最新の流行だった奥の院形式を導入し、寺の守護者として東北に縁の深い慈覚大師をまつったと推定されるのです。
▽188 松島・瑞巌寺 13世紀半ばに鎌倉幕府の命による禅宗への改宗。山寺立石寺も。
▽190 多くの人に支持された浄土往生の方法は、この世とあの世を結ぶ聖地に足を運んで往生を祈り、死者の骨を納める。松島、なかでも雄島はそうした地と観念された。
〓「松島町史」には雄島の70基の板碑が記載。……祭壇上の遺構 多数の納骨の形跡があった。板碑を核心に据えた納骨信仰があった。板碑がたてられる¥ことで、その地は聖地と化し、そこに遺骨を納めることによって、霊魂は浄土への飛翔が可能になると考えられた。
切断された大型板碑の跡。……2006年、雄島西側の干潟を探索。……海底から千点を超える板碑の断片を収集。板碑が放棄される前提として、中世に板碑がもっていた宗教的価値の喪失があった。
中世から近世の転換で、死者がいつまでもこの世に留まるようになると、板碑がもっていた死者を彼岸に送り出す機能は意味を失った。多くの板碑が他の用途にまわされる。彼岸への回路として万人に開かれた板碑は、特定の人格と一対一で対応し、他者の結縁を拒絶する近世の墓標とはまったく異なる性格をもっていた
[https://www.tohoku-gakuin.ac.jp/facilities/museum/research04.html]
▽198 栃木市・岩船山高勝寺 日本三大霊山・日本三大地蔵のひとつ。
家族の誰かが亡くなると初彼岸にこの山に登り、卒塔婆を本堂脇の「ヤマ」に納める「磐船参り」という風習。
▽204 中世では、死者供養の重要な節目はお盆よりも春秋の彼岸でした.お盆ではなく彼岸会が年中行事の中心をなす高勝寺は、死者供養の古風な形態を残している。
▽205 古代社会では磐座のある形のよい山は、神の棲む山として信仰の対象になってきた。それらが12世紀あたりを転機として仏教的な信仰圏にとりこまれ、あの世への踏み切り板として位置づけられるようになる。その代表が、奈良・春日神社のある御蓋山であり、滋賀・日吉神社の八王子山〓
岩船山も……12世紀、仏教的な信仰圏に取り込まれていく。……神の住む聖なる山は人々を浄土に誘う彼岸の出張所へと変貌をとげていったのです。
▽209 岩船山は近世に入って、現世利益を表に出した霊場として再出発する。江戸時代は、不可視の彼岸世界がリアリティを失い、死者がいつまでもこの世に留まるようになる時代でもありました。
……戦後、大量の石が切り出され、四方を切り立った崖で囲まれた景観に。……火薬を使った爆発シーンを撮影できる貴重なスポットとして、スーパー戦隊や仮面ライダーなどの「特撮もの」のロケ地として利用されています。〓違う意味の「聖地巡礼」に。
▽212 東北各地の熊野神社
▽216 宗教者に加えて、熊野の水運業者が熊野信仰を伝える。東北の太平洋岸には海上交通と深くかかわる地に熊野神社が存在する。
……一関と気仙沼の中間にある室根山。「山あて」の山。その八合目に熊野神社(室根山神社)。
▽224 江戸時代に日本人の他界観が劇的に変化したことがわかる幽霊の出現
中世では、この世に残る死者は不幸な存在。
▽233 中世から近世へ、世界観が変容。死者のいくべき地は遠い浄土ではなく、死して後もなお、この世にとどまりつづける。この世にとどまる霊魂の依り代となったのが、遺骨と墓標です。
江戸時代の死者は、仏の力で瞬時に救済されるのではなく、遺族との長期にわたる交際を通じて、しだいに神に近い存在=「ご先祖様」になっていく、と考えられるようになった。
……寺の境内に墓地を持たなかった中世以前の寺院にたいして、近世寺院は本堂と墓地がワンセットでつくられる。
死者と生者の定期的な交流が、国民的な儀礼として定着していく。
恨みをふくんで無秩序に現世に越境する死者も膨大な数に。これが江戸時代の幽霊発生の典型的なプロセスだったのです。
▽248 列島にはそこに行けば確実に故人に会えるという地が無数に存在凍ます。墓地や岩船山も。モリ供養の山も。さらにハヤマ(葉山、羽山)も。本山にたいし、その支脈が突き出した先の「端山」。いずれもムラにちかい里山。その多くに死者がこもる山という伝承がある。
福島県二本松市郊外の羽山は「木幡の幡祭り」の舞台。
……しばらくの間、モリの山やハヤマにとどまって遺族と交流をつづけた死者の霊魂は、子孫からの供養をうけることで、しだいに聖なる存在へと上昇し、魂の浄化が完了すると、より神界にちかい高みをめざし、奥山に向けてたびだっていく。庄内地方では、魂が最終的に帰るべき場所は月山でした。
▽251 死後の世界を想定しない民族はいまだかつて存在しませんでした。生者は死者を必要としているのです。人生のストーリーは死後の世界と死者たちを組みこむことによって完結し、その時はじめて私たちは心に深い安堵を得ることができるのです。
……死後も親族縁者と交歓できるという安心感が社会のすみずみまで行き渡ることによって、人は死の恐怖を乗り越えることが可能となりました。死はすべての終焉ではなく、再生に向けての休息であり、……
しかし、死者との日常的な交流を失った現代社会では、冥界はだれも足を踏みいれたことのない闇の世界と化しました。
……死者に居心地のよい社会は、きっと生者にも優しい社会となることでしょう。
▽254 遠野市西来院の供養絵額 故人の冥界での生活ぶりを描いたもの。だが、どこにも仏の姿がない。
山形県の村山地方では、若くして亡くなった男女の架空の婚礼の姿を寺に納める「ムカサリ絵馬」がある。天童市の若松寺では、今もつづいている。この絵馬でも宗教的な要素は皆無。
中世までとちがって、宗教的な要素が消滅し、あの世が完全に世俗化するのです。
現世を仮の世とみる世界観は180度変化し、浄土のリアリティを共有できない時代が到来する。その結果、死者は遠くに飛び立つことをやめて、いつまでも懐かしい此の世界にとどまるようになる。
仏はもはや他界に誘うことはない。浄土は存在しない。仏の任務は、人間が生死どちらの世界においても平穏な生活をできるよう見守りつづけること。
供養絵額やムカサリ絵馬は、死後世界の変容の果てに、近代になって誕生した新たな風習だったのです。
▽269 津軽の金木 川倉地蔵尊は、恐山とならぶ北東北の二大霊場。かつては恐山と同様、イタコとよばれる女性の霊媒師たちが大勢集まった。
地蔵堂 総数2000ともいわれる膨大な数の石の地蔵 死者の遺品である着物をみにつけ、化粧している。
▽275 かつて津軽では、子供が死亡するとその子に似せた石の地蔵を彫り、寺に納める習俗があった。膨大な数の地蔵像は、江戸時代以来の悲しい歴史を背負っている。
……津軽の地では、生者と死者はお互いに見守りあい、安否を気にかけながら、長い交流をつづけていく。
供養絵額、ムカサリ絵馬、モリ供養と同様、死者が身近な場所に留まるという世界観を前提にするもの。
▽282 現世の延長としての死後世界は、江戸時代後期から幕末にかけて、数多く描きだされるようになる。その背景には、江戸時代を通じて進行した死後世界の世俗化とそのイメージの確定があった。
▽293 神仏を通して、災害などで理不尽な死を遂げた人と現世を超えた長く親密な関係を築くことによって、お互いの心の痛みを少しずつ和らげようとしてきた。
しかし、生者と死者の交流の場とそれを支えてきた死生観が、、姿を消そうとしている。
▽294 被災地、夏にはがれきが散乱する町中を神輿が練り歩く。……神事が新たに人々を結びつける絆となっている。各地で神が、多様な人々を迎え入れる絆となっているのです。
▽296 大阪・一心寺 死者の安穏を願った施餓鬼供養は江戸時代から。「おせがきのお寺」 現在でも年中無休でなされている。
納骨と骨仏も。大坂は商人の町で、農家の次男三男が奉公した。大坂での生活が落ち着くと、分骨してもらった親の骨を一心寺におさめ、後生の安穏を願って供養を営んだ。大坂に菩提寺のない彼ら自身の骨も一心寺に寄せられた。
納骨堂が限界になり、骨を粉砕して、鋳型にいれてかためる骨仏がつくられた。最初につくられたのは1887年。10年に一体のペースで開眼。
▽303 墓じまい、など。供養されない死者が日々大量に生まれている。背景には家制度の変容。祖先を供養しつづける風習を多くの家庭が維持できない時代となってしまった。
骨仏は全国各地で誕生している。遺骨を仏の胎内におさめるタイプも。柳田国男が「先祖の話」で描いた、墓を媒介とする先祖と子孫の交流という物語は、根本的な変容に直面しているのです。
▽313 墓じまいと樹木葬。自然葬。
スウェーデンでは、遺体をフリーズドライで粉末化する冷凍葬が実用化。
写真や遺骨のペンダントは死者の依り代ではなく、記憶を呼び覚ます装置。
▽323 死の儀礼と文化をもたない民族は、地球上の存在しなかった。死者との安定した関係の構築は、精神的に満ち足りた人生を送る上で不可欠の前提なのです。
コメント