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民俗知は可能か<赤坂憲雄>

■春秋社 20231119
 民俗学には興味があるけど、それが今に生きる知恵としてどういう形で生かせるのか、と疑問に思ってきた。この題名を見たら、買うしかなかった。つい最近亡くなった石牟礼道子から、日本の民俗学の原点である柳田国男まで、さかのぼって紹介している。
 私は1990年に新聞社の地方支局に配属されて、「ムラ歩き」をするようになった。まだ当時は、保守政治の基盤としての農協が力をもち、米輸入自由化にたいして、トラクターでデモをしていた。
 母の実家での祖父母の葬式では、集落の人たちが「ゆい」の形でごちそうをつくり、「野辺送り」の行列で墓におくった。
 ところが2000年代のいとこの葬儀は葬儀場でいとなまれた。
 2002年から平成の合併の取材で愛媛の農山村を歩くと、農協はかつての組織力を失っていた。でも、生業とともにあった農家の豊かな知恵にはまだふれることができた。
 2012年から能登半島にすむと、農村共同体がくずれ、棚田が荒れ、祭りは縮小し……「ムラ」のしばりがゆるむことで空白のキャンバスができて、Iターンの若者が生き生きと活動していた。
 こうした流れはまさに「ムラの終焉」を意味していたのだ。そのことがこの本でよくわかった。
 14世紀以来つづいたムラ(惣村)が消える、文明の大転換機に直面している。 「民俗学という学知は、成熟への階梯をたどることなく、若くして老いてしまったのではないか……」と筆者はつづる。ムラが伝授してきた「民俗知」はこの時代にどう生きるのか? はっきりした答えはない。でも筆者がムラを歩きつづけるという行動のなかに、考える端緒のようなものがあるような気がする。歩くことからしか現実は見えないし、現実をかえる力も見だせないのだろう。

□石牟礼道子
 島原の乱がテーマの「春の城」の前半は、島原・天草地方の民俗誌の繊細な記録だ。「苦界浄土」でも、水俣病の不幸以前の地域共同体の日常を丹念にえがいた。
 「西南役伝説」で、百姓は「西郷戦争は嬉しかった」という。「上が弱うなって貰わにゃ、百姓ん世はあけん」と。そして、第2次大戦がもたらした大地主からの土地解放を喜んだ。
 民俗学は、日常の暮らしだけに関心を集約するが。石牟礼文学は、「日常」と、水俣病のような「非日常」も同時にえがく。著者は石牟礼に「民俗学」の限界をこえるありかたをみている。
 石牟礼は、人間の言葉が言霊をもっているのではなく、言霊自身が宿るところを人間に借りている、と考える。理性ではなく「霊的なもの」が言葉をうみだすのだ。
 「渚」の評価もなるほどと思った。近代は、人と自然との境界にある渚や浜辺、潟などを犠牲にして、経済的に発展してきた。有機水銀が垂れ流された水俣の海と、汚染された東京湾や福島の海も「渚」の喪失が前提となっていた。

□岡本太郎
 小学校で、派手な縄文土器よりもシンプルな弥生土器のほうが「上」と教えられたが、縄文土器のほうが楽しかった。
 予定調和をたっとぶ弥生以降の日本人の美意識を太郎は批判し、縄文土器のような破調の美学を評価した。彼が縄文の美を「発見」した。私の子どものころの感性はただしかったのだと、太郎によって知らされた。
 太郎にとっては、縄文と沖縄が根源的な発見だったという。
 中尊寺の守り刀の柄の飾りに縄文の気配をかんじとり、縄文やアイヌの「北の文化」と、弥生やヤマトの「西の文化」とのあいだにひき裂かれた東北に「奇妙にズレた二つの異質の舌ざわり」を見だす。
 太郎は、啄木や宮沢賢治を評価しなかった。
「啄木なんて発想は単純だし、詩とはいえない。通俗的な感傷を区切りをつけて説明しているにすぎない。だから……できのわるい中学生あたりにもわかりやすく、奇妙に感激したりするけれども、あのいやったらしさ。まさに現代歌謡曲調の草分けだ」
 啄木や賢治の詩に感動していた私はまさに「できのわるい中学生」だった。
 イタコは「コジキとおんなじ」と忌み嫌われているが、ハレの場では神や死霊の声をとりつぐ存在となる。不浄なるものは、ときに逆転して神聖へとなりあがる。欧州の人類学の素養があったからそれを感知することができたという。
 パリ万博には、ピカソの「ゲルニカ」と、民族学の博物館の「ミュゼ・ド・ロンム」があった。これをもとに、大阪万博では太陽の塔と民族学博物館を太郎が中心になって構想した。太郎にとって万博は祭りであり、「ベラボーなもの」として神々しく鎮座する存在として太陽の塔が位置づけられた。大阪でふたたび万博をひらくというけれど、太郎のような哲学や思想のかけらもない。あるのはカネと利権だけ。1970年とくらべるとよくわかる。

□網野善彦
 網野は始原の場所に,<無縁><公界><楽>という私有も隷属もない平等の原理に浸された至福の平等社会を想定する。
 無縁という言葉は貧しいという意味だが、中世社会では一時期にせよ、無権利で貧しいがゆえに自由であるという積極的な価値をもっていた。
 共同体の秩序原理としての<有主・有縁・所有>にたいして、共同体の外部に生きる者をささえる<無主・無縁・無所有>の原理を対置した。
 その原理がいきる「原始の野性」に満ちた時代として、網野は中世前期の世界をえがいた。
 殺生を悪とする世界は農業を基盤とし、「悪」に親近感をもち「猛悪」をほめたたえる世界は、農業以外の生業に基礎をおいている。ふたつの見方が併存していたのは、この時期の社会が、まだ農業的社会として成熟しきっていなかったからだと考える。
 南北朝以前には、異類異形の者らがある意味で聖なる存在だった。聖から穢・賤へと転換をとげる結節点に出現したのが、異形の王権としての後醍醐だった。後醍醐が敗れた以降は農業的社会が圧倒するようになる。
 自然に圧倒されきっている原始の人類には、「無縁」「無主」も「有縁」「有主」も未分化だった。「無縁」の原理はそこから自らを区別する形であらわれる。同時に「無縁」の対立物である「有縁」「有主」も登場する。人類史のはじまりに、都市的な場/ムラ的な場が、すでに対をなして一気に登場したのではないか、という。
 柳田国男は「はじめに祖霊ありき」「はじめにイエやムラありき」と考えた。それは有主・有縁の世界へとつながる。折口信夫は、「はじめにマレビトありき」「はじめにイエやムラの外ありき」が原風景だ。それは無主・無縁の世界につらなる。(「祖霊・マレビト論争」)
 網野の「無縁・公界・楽」は折口にちかい。
 ムラの内なる「方言」で語られる昔話にたいして、説経師や盲僧ら芸能をたずさえてわたりあるく人々は「共通語」による語りを必要とした。遍歴する芸能民たちは、文字社会の均質化に大きな寄与をした……という指摘も新鮮だった。

□宮本常一
 宮本常一の本を読むと、故郷の周防大島での百姓の経験が彼の基盤になっていることがよくわかる。生活の場に生業が存在しない都市でそだった私には宮本のような百姓としての基盤がない。そのことにある種の劣等感をかんじてきた。
 筆者は宮本を、故郷の延長線上において、あらゆる事物を観察していた民民俗学者と位置づける。そして「故郷の延長線上において、……」という知の作法が不可能と化していく時代のなかで、その予感を受け止めながら、あくまで「故郷を失っていない」という幸福を演じつづけてきたという。
 数百年つづいてきたムラ社会が崩壊する時代だからこそ、宮本の百姓としての知が光芒をはなったのだ。
 柳田や宮本が最近も再評価される背景には、高度経済成長以前の日本社会にたいするノスタルジーがあるという。

 宮本は1950年代半ばから、民俗的事象を整理してならべる民俗学に懐疑をいだき、「民俗誌」より「生活誌」を重視するようになる。
 実は明治・大正期の柳田は、平民はいかに生活してきたかを記述する「生活誌」の大切さを説いていたが、昭和10年以降の柳田の「民俗学」は、生活誌の記述といった側面は切り捨ててしまっていた。
 宮本は「風景のよいといわれるところに住む人はどこでも貧しかった」と指摘する。人間は、生活のために二次的な自然をつくりだしたが、その風景を楽しむことはなかった。それが変貌するのは、観光という第3のテーマが浮上してきたからだ。宮本によれば、昔の上流階級の人々の自然鑑賞的な態度が、一般人のあいだにひろがって観光開発へと展開した。
 地域の風景はそこに暮らす人たちがつくるものであり、よそ者だけを楽しませるのではなく、地域の人々の生活を豊かにするような風景をつくることが大切ではないか……。自然を鑑賞の対象とする態度をこばみ、地域の生活を豊かにするための風景をつくることを志向していた。

□柳田国男
 「村の協同の一番古い形」としてユイがあり、それは農耕以上に、漁労と狩猟にのこされてきた。漁獲物は浜で分配が終わるまでは「まだ何人の私有とも認められなかった」。由比や手結という地名は、いずれも協同作業としての地引網漁に適した広い浦辺だった。
 山野は入会地で、困窮した人々が食いつなぐために働く場所となり、「焼畑・切替畠の一作ずつの利用」が貧しき人々に許されていた。「無主・無縁」であった「共有林野」が分割・譲渡されることで「固有の共産制度」が失われ、福祉という「慈善と救助」が導入されねばならなくなったという。

 柳田は、文献のみを担保とした歴史学への痛烈な批判者だった。一方で彼は、信仰や魂といった心意の伝承を重視し、モノにたいして冷淡だった。それが、柳宗悦の民芸運動や、渋沢敬三や日本常民文化研究所などの民具研究にたいする批判となった。今でも柳田の系譜をひく民俗学者たちのなかには、モノに冷淡で、心の伝承に関心を寄せる傾きが強いという。

 明治・大正期の柳田は、ヤマビトとよんだ、先住異族の末裔の消息をもとめ、多元的な列島の民族史を構想していた。毛坊主や巫女などの漂泊する人々や被差別の民にも関心をよせた。
 しかし、巫女や毛坊主のいる農村生活史の探究は、大正10年前後、差別や天皇制とのからみのなかで姿を消す。昭和3,4年を境として山人への関心が姿を消し、昭和10年前後、民俗学の体系化が本格的に進められ、民史学としての民俗学となっていった。
 南方熊楠は「郷土研究」とはフォークロア=民俗学のことだと考えた。それにたいして柳田は「民俗学は余分の道楽」であり、「郷土研究」はルーラル・エコノミー=農村生活史のための雑誌であると応じた。それによって2人の関係は一気に破綻したという。欧米のフォークロアを範型とした南方の「民俗学」をしりぞけたが、その後、その民俗学をとりこみながら、民間伝承=民俗学へと着地することになった。
  稲作中心史観にとらわれた柳田の民俗学にたいして、マージナルな色合いの濃い、漁村のフォークロアに光を当てたのが渋沢や宮本、網野だった。

□柳田と折口
 柳田は、列島の社会の文化的基層をつくったのは、稲とイエにまつわる固有信仰をもって渡来した種族であり、米をもって祖神を祀る種族が統治民族つまり「日本人」だと考えた。「はじめにイエありき、個々のイエが祀る神=祖霊ありき」というのが柳田の信仰論の核だった。

 折口は、障がいの多い時代から多くの人々が旅をしたのは、神の教えを伝播するためであり、マレビトが、村から村へ遍歴してあるき神の教えを伝えたと考えた。「はじめにムラありき、ムラを訪れる神=マレビトありき」がそれが折口の思考の核だった。折口こそが、民俗学の名のもとに結晶した柳田の後期思想にたいする根底からの批判者だった。

□記憶という問題系
 記憶とは、体験/証言/記憶の三位一体の様相をしめすとともに、時系列的である。たとえば戦争の記憶は、最初は「体験者」、次に「証言」、そして証言者がへっていくと「記憶」が中心をになうように鳴る。
 筆者は1990年代、東北のムラを聞き書きして歩きながら、ムラが終焉をむかえ「記憶の時代」がはじまりつつあることを実感した。
 1960年代後半、宮本常一は「もはや古老からの聞き書きの時代は終わった」としるしたが、そうした予感は、高度経済成長期から1980年代のバブル経済をへて、1990年代のはじめに現実と化した。
 ムラはいま終焉の時代を迎えつつある。
 いまは山そのものを生業の基盤とする人はほとんどおらず、木挽きも狩猟も焼畑も、断片的なものとして残存するだけ。村人の大半はサラリーマンだから、隣家と「何カ月も会ってないな」ということがおきる。ムラは、居住の場/生業の場だったが、生業の場としての要素を失ってしまった。
 生業から切断されたムラは、都市のニュータウンと変わりがない。
 また、ある季節や週末だけムラにすむ……というのも増えている。ムラ=定住中心主義という形態がくずれ、漂流をはじめているのだ。
 ムラは生業から切断され、定住の場としての意味をも失いかけている。そこではユイは稀薄になり、ムラは相互扶助の場でなくなっている。村八分などの異端排除のシステムの大半も壊れてしまった。

「血の通った伝統のなかに、物言わぬ習慣のなかに、古来の反復のなかに、生きられてあった過去が失われようとしている。1990年代のムラ歩きでは、太古の昔からある(かのような幻想に包まれながら、時代ごとに紡がれてあった)アイデンティティの絆が、そこかしこで断ち切られる現場に立ち会うことになった」

□石牟礼道子
▽29 宮本常一「忘れられた日本人」と石牟礼の「西南役伝説」のつながりをかんじている……
▽33 水俣の百姓は「西郷戦争は嬉しかった」ともいう。「上が弱うなって貰わにゃ、百姓ん世はあけん。……今度の戦争じゃあんた、わが田になったで(農地改革で)」
 敗戦がもたらした、支配階級たる大地主からの土地解放を喜んでいる。日本帝国の敗北など、他人事にすぎないかのように。
▽39 東北へ、福島へ、相馬の海へ還れ、そこから、思想をたてなおせ、と。水俣と福島とは、あらかじめ石牟礼道子によってつながれていたのだ、。
▽41 谷川健一は水俣出身。不知火海総合調査に参加しなかったのはなぜか質問したが、答えはなかった。……水俣病の舞台となった地域にかかわる民俗調査は、おこなわれていない。……民俗学の知的な怠惰。
▽42「春の城」島原の乱をえがいたが、その前半部は、島原・天草地方の民俗誌の生き生きとした繊細な記録になっている。
 水俣病であれ、島原の乱であれ、石牟礼は、日常の裂け目に噴出する不幸な出来事を描くと同時に、その出来事が起こる以前の地域共同体の日常のありようを、その幸福を同じ質量をもって描こうとしてきたのではなかったか。
……石牟礼文学においては、日常と非日常とが、民俗誌と事件の記録とがわかちがたく結ばれている。日常の暮らしやなりわい(だけ)に関心を集約することを、あえてみずからのアイデンティティの核とする民俗学の、ある歪みを思わずにはいられない。
▽48 石牟礼道子を問うことは、無主・無縁の世界のありようを、その可能性を問いかけることなのだ。
▽54 「土佐源氏」と「苦界浄土」はどちらも、どこか私小説な匂いをただよわせている。……すぐれた聞き書きは、ときにすぐれた私小説でもありうることを忘れてはならない。
▽57 人間たちの言葉が言霊をもっているのではなく、言霊がみずからの宿るところを人間に借りているのだ、という。言霊がさざめく島ゆえに、さまざまな声が湧いておこるのかもしれない。いや、その声はたいてい、島のかなたの、どこからしれぬあたりから運ばれてくるようだ。声はかなたから訪れる。
▽62 近代は渚に凝縮されているのかもしれない。近代は、人と自然との境界に広がっている渚や浜辺、潟などの犠牲のうえに、その経済的な発展を手に入れてきたのではなかったか。
 加藤真の「日本の渚」によれば「江戸は江戸湾の豊穣さとともに栄え、東京は干潟環境の犠牲の上に近代化を遂げていった」
 有機水銀が垂れ流された水俣の海は、漁業の禁じられた海と化していった。……不知火海と東京湾とはつながれていた。さらに、不知火海と福島の海とがつながれようとしている。(2013)

□岡本太郎
▽66「岡本太郎の見た日本」(岩波)を執筆
▽68「日本再発見」「沖縄文化論ー忘れられた日本」「神秘日本」を、岡本太郎の日本紀行3部作とよんだことがある。
▽太郎による縄文の発見。弥生以降の静謐で予定調和をたっとぶ日本人の美意識や文化論にたいして、縄文土器に象徴される荒々しくダイナミックな破調の美学を対置した。……
▽74 「縄文と沖縄は岡本太郎の根源的な自己発見だった。いや、自己確認だった」にちがいない。……縄文と沖縄は、日本文化のもっとも深みに横たえられた、いわば、それを「支点として現代日本をながめかえす貴重な鏡」のような特権的な場所なのである。
▽77 「神秘日本」におさめられた「オシラの魂ーー東北文化論」と「修験の夜ーー出羽三山」
「火・水・海賊ーー熊野文化論」における熊野の発見。伊勢に象徴される祖霊崇拝にたいし、熊野に受け継がれてきた自然崇拝のアニミズムは、民衆のなかに「自然の神秘に直接であり……生活派のストイックな精神」としてねぐよく生きている、という。
▽84 太郎の旅は、あらかじめ存在する仮説を検証する旅であり、直観ばかりに身をゆだねて流されていく旅ではなかった。
▽86 平泉の中尊寺 守り刀の柄の飾り。蝦夷紋様でアイヌ的、縄文文化の気配でもあると太郎はかんじる。
 ……鹿角の装飾のかけらをとおして、平泉文化のなかに、より広くは東北文化のなかに「奇妙にずれたふたつの異質の舌ざわり」が隠されていることをみとめた。
……縄文やエゾ・アイヌの「北の文化」と、弥生やヤマトや稲作農耕などの「西の文化」とのあいだにひき裂かれた東北こそが、「奇妙にズレた二つの異質の舌ざわり」の源泉だったはずだ。
▽89 「啄木なんて発想は単純だし、詩とはいえない。通俗的な感傷を区切りをつけて説明しているにすぎない。だから……できのわるい中学生あたりにもわかりやすく、奇妙に感激したりするけれども、あのいやったらしさ。まさに現代歌謡曲調の草分けだ。
賢治は……素材そのもののよさにふれる感じだが、それだけだ。」
 太郎の批判はここでもまっすぐ。
▽92 青山の「岡本太郎記念館」
▽94 岡本太郎の旅は、高度経済成長期にさしかかる直前の日本をフィールドにしている。……太郎は、パリ時代にモースからまなんだ社会学=民族学の素養も豊かにもっている……ミルチャ・エリアーデの「シャーマニズム」の影も……同時代に、太郎のように、秘密結社やシャーマニズムの問題としてナマハゲについて論じた者はいない。太郎の日本紀行には、民族学者のまなざしが息づいていた。
▽99 パリで、「世界人」になるために努力し、……みずからが「日本人」であるという現実を突きつけられ、「日本人としての存在を徹底してつかまないかぎり、世界を正しく見わたすことはできない」と考えるようになった。……日本紀行三部作へ。
▽100 「仏教以前の心性にひそむエネルギー」を追究していく。「オシラの魂」、出羽三山の修験、広島の花田植の行事、熊野の水と火の祭り……。
▽103 イタコ 不浄なるものは負の神聖であり、ときに逆転して神聖へとなりあがる。イタコはつねの日には「コジキとおんなじ」と無視され、忌み嫌われているにもかかわらず、ハレの場では神や死霊の声をとりつぐ存在となる。……恐山の夜、婆たちが盆踊りに興じる姿を、太郎は描いている。……このあとに訪れる修験道や密教、その祭りや呪術といったものは、みちのくの婆たちの「生活」に根ざしたすごみにはかなわなかったのだ。それに気づいた太郎は、あくまで民族学者であった、と思う。
▽107 パリ万博には、ピカソの「ゲルニカ」と、民族学の博物館の「ミュゼ・ド・ロンム」。これが原風景となって、大阪万博では太陽の塔と民族学博物館というものが太郎の秘められた構想のもとに繰り広げられた。……太郎にとって万博は祭りでなければならず、その広場には、太陽の塔が「ベラボーなもの」として神々しく鎮座しなければならかなった。……今は……さらに祭りが不可能な時代へと、われわれが定めなく漂流していることが、太郎の不在によって、あらためて突きつけられている。

□網野善彦
▽112 網野の死 歴史学と民俗学とのつかの間の蜜月が幕を閉じた、と言ってもいい。そこでの主役は、日本中世史の網野と民俗学の宮田登であった。
▽115 「無縁・公界・楽」 「無縁」の原理は、世界の諸民族すべてに共通して存在……人間の本質に深く関連しており……
▽121 無縁の場とそこを舞台に生きる非農業民は、農耕共同体にとっては外部の位相にある。その外部が、ある不可視の回路をつうじて、直接に天皇という中心につながれている。そうした日本的なよじれた外部の発見こそが、一連の網野の著作の主要なテーマのひとつであった。
……自治都市や一揆に共通してみられる「老若」という組織。年齢階梯的な秩序原理。階級社会以前における「身分的分化様式」であり、性別とならぶ自然発生的な分業の秩序である、という。
「これこそ「公界」「無縁」の場における秩序であり……」
……網野の「未開」は<無縁><公界><楽>がある種のユートピアとして造形され、私有や隷属なき平等社会として把握されている。始原の場所に,私有も隷属もない平等の原理に浸された至福の時間が想定される。
▽125 無縁という言葉は貧しいという意味で、しかし、貧しいということが、中世の社会のなかで一時期にせよ積極的価値をもったとすれば、「貧しいことはいいことだ」という思想が庶民のなかにあったとsれば、これはもっとつきつめて考えてもいいことだと思うんですよ。無権利であるがゆえに、貧しいがゆえに、自由であるという思想に関係してくるかもしれません。
……貧しくよるべなき<無縁>が、「逆転し、裏返された「自由」へと転倒される。
……共同体の内なる秩序原理としての<有主・有縁・所有>にたいして、共同体の外部を生きる者らをささえる<無主・無縁・無所有>の原理が対置される。
▽131 異形の王権 南北朝以前には、異類異形の者らが畏敬を持って眺められる、ある位相ではたしかに聖なる存在であったことが、かたられる。それがやがて、聖から穢・賤へと位相転換をとげる結節点に出現したのが、異形の王権としての後醍醐であった。
……異類異形の者らがはなやかにくりひろげた祭りの時代は、後醍醐とともに遠ざかる。
▽134 最初の「蒙古襲来」が最高傑作。
▽136 石合戦は、鎌倉時代には大人たちのものだった。祭りが絶頂に達したとき、神人たちや「遊手浮食の輩」とよばれた人々は飛礫を打った。飛礫は戦国時代まで、組織的な武力としてつかわれた。それが、江戸時代になると、子供らの遊びに。……「動物から原始の人間を区別した本質的なもの」「奥深く人間の原始そのもの」をみとめた、民俗学者中沢厚。
……「原始の野性」を宿した飛礫が、祭りや戦いの場で乱れ飛んだ。道祖神は「底の知れぬ根深さ」をもつ神であり、その祭りは「原始の野性」に満ち満ちているがゆえに、ときには権力によって禁止された。そんな野性的な時代として、網野は中世前期の世界をえがいてみせた。
▽139 殺生を悪として忌避する世界は農業を基盤とし「悪」にむしろ親近感をもち「猛悪」をほめたたえる世界は、農業以外の生業に基礎をおいている……ふたつの見方が併存しているということは、この時期の日本の社会が、まだ農業的社会として成熟しきっていなかった事情を物語っていると……
▽148 「祖霊・マレビト論争」 柳田にとっては「はじめに祖霊ありき」「はじめにイエやムラありき」が原点。それは有主・有縁の世界へとつながる。折口信夫は、「はじめにマレビトありき」「はじめにイエやムラの外ありき」が原風景。それは無主・無縁の世界につらなる。
▽153 キノコは無主・無縁性をおびた山の幸。浜や渚はこの世あの世の境界領域とみなされ、……漂着したものは第1発見者の占有となった。難破船の積荷は自由な掠奪が許され……そこは有主・有縁の原理から切断された場でもありました。
▽169 網野は、人類史の始原にあったのは農業を基盤とする原始共同体ではなく、非農業民や交易を埋めこまれた「原無縁」の自由と平等が支配する都市的な社会であったと考えていた。……「単に歴史を描くのに、非農業民の世界も視野に入れるべきだなどといった、おためごかしをいったのではない」と小路田は批判。
▽172 自然に圧倒されきっている人類のなかには、「無縁」「無主」も「有縁」「有主」も未分化。「原無縁」。「無縁」の原理はそこから自らを区別する形であらわれる。おのずと「無縁」の対立物「有縁」「有主」を一方の極にもって登場する。……人類史のはじまりには、都市的な場/ムラ的な場が、すでに対をなして一気に登場したのではなかったか。……「祖霊/マレビト」の対峙は、網野史学の「有主」「有縁」/「無主」「無縁」の二元図式と通底するテーマであった。
▽177 「国民史」から「重層的なネットワークの史学」「広範な地域のネットワークの歴史」へ。……「無縁・公界・楽」という著作を「国民史」の内側で読むことには限界がある。「ネットワーク史学」のなかで、「無主」「無縁」論を再検証することはできないだろうか。
▽195 識字・計数能力を庶民が保持していることが、自由と民主主義を保証することにならず、かえって支配者の「専制的」な統治を容易にする場合もありうることを、幕藩体制はよく示しているということもできる(〓レヴィストロース)
▽197 ムラの内なる「方言」で語られる昔話と、説経師や盲僧らが「共通語」で語る語り目のあいだには大きな裂け目がある。芸能をたずさえて渡りあるく人々は、「共通語」による語りを必要とした。遍歴する芸能民たちがはからずも、文字社会の均質性にたいして大きな寄与をしたらしい……

□宮本常一
▽203 柳田は近代。近代のほころびのなかから、宮本や岡本太郎、石牟礼道子らが登場する。
▽209 宮本は、「故郷の延長線上において、あらゆる事物を観察してい」た民俗学者であった。……「故郷の延長線上において、……」という知の作法が、不可能と化していく時代のなかで、その予感を受け止めながら、あくまで「故郷を失っていない」という幸福を演じつづける。
……「近代をこえる」ためにこそ、ひとたびは徹底した根っこのない異邦人になる必要があるのかもしれない。
▽218 柳田や宮本の再評価がくりかえしおこる背景には、高度経済成長以前の日本社会や日本人にたいするノスタルジーが横たわっている。「遠野物語」が広く読まれるようになったのは、1960年代の高度成長期以降だが、「忘れられた日本人」の刊行がまさに1960年。その前年には谷川健一とともに刊行した「日本残酷物語」がベストセラーになり、「残酷物語」ブームが起こった。
……宮本は、民俗学の流れのなかでは傍流。脚光を浴びるにいたった背景には、網野による再評価の試みがあったのでは。
▽223 宮本は1950年代半ばから、民俗学に懐疑を抱きはじめていた。民俗的事象をひきだし整理してならべることで「民俗誌」は事足りるのか、日々の生活をもっとつぶさに見るべきではないのか。「民俗誌」ではなく「生活誌」のほうが大事に取りあげられるべきではないのか。
▽228 柳田と宮本の旅の共通点 国内を歩きつくし、列島の社会=文化の全体的な輪郭をつかみたいという欲望
▽235 明治・大正期の柳田は、平民はいかに生活するか、いかに生活してきたかを記述することが大切であると説いた。しかし、体系の装いをととのえた昭和10年以降の柳田の「民俗学」は、生活誌の記述といった側面は切り捨てられてしまった。
▽256 「自然の中に生きた者は自然と格闘しつつ第二次的自然をつくりあげていった」宮本の風景論の核。
「風景のよいといわれるところに住む人はどこでも貧しかった」
……生活のために二次的な自然をつくりだしたが、そこに生まれた風景を楽しむことはなかった。それが変貌を遂げたのは、観光という第3のテーマが浮上してきたからである。宮本によれば、昔の上流階級の人々の自然鑑賞的な態度が、一般人の間にひろがって、観光開発へと展開していった。
……地域の風景はそこに暮らす人たちがつくるものであり、……よそ者だけを楽しませるのではなく、地域の人々の生活を豊かにするような風景をつくることが大切ではないか。……自然を鑑賞の対象とする態度を拒絶しながら、地域の生活に根ざし、それを豊かにするための風景をつくることを、ひたすら志向するものだった。
▽261 飛島 昭和30年に離島振興法が適用され、火力発電ができて、ランプ生活に別れを告げたのが2年後。水道もひかれ、診療所もでき、道の改修も進んだ。
▽263「島とは四囲を海にめぐらされて地域的にはある独立性をもちつつ、社会経済的には本土へ何らかの形で従属的に結びつかねばならない運命をもった世界であった」
 飛島には、五月船や秋船とよばれる、物々交換の慣行があった。「物交」と称している。島でとれた海産物を、庄内の農村にもっていき、飯米と交換する。水田がないから藁もない。対岸の秋田の農村に買い出しに行った。
……宮本のリアリズムは「島の道が本土からきりはなされているかぎり、けっして島の産業・文化の健全な発達はない」と言い切る。……どこの島でも、まず島の交通インフラの整備をするように説いていたにちがいない。

□柳田国男
▽280 「村の協同の一番古い形」としてのユイ。農耕だけではない。もっとも完形にちかく保存せられている」のは漁労と狩猟。網引きについて。漁獲物は浜で分配が終わるまでは「まだ何人の私有とも認められなかった」。由比や手結という地名は、いずれも協同作業としての地引網漁に適した広い浦辺である。
▽283「固有の共産制度」山野は入会地であったから、困窮した人々が食いつなぐために働く場所ともなった。「焼畑・切替畠の一作ずつの利用」が貧しき人々に許されていた。こうした「固有の共産制度」が失われた場所において、はじめて福祉という「慈善と救助」が導入されねばならなかった。
……村を貧しくしたものこそが「共有林野の分割と譲渡」であったと認識。網野のいう「無主・無縁」の世界に、失われた共産制の影が認められていたのである。
▽300 吉本龍明や三島由紀夫をとおして、「遠野物語」に遭遇した若い世代が、柳田民俗学を近代の限界を超えるための方法へとよみかえていった。60年代後半から70年代にかけての政治の季節に、柳田民俗学はほんのつかの間、社会変革の武器や天皇制批判の拠り所となり、土俗からの反乱といったスローガンがもてはやされた。
 1990年代になると、突然、柳田批判の嵐がはじまる。植民地主義への加担者としてやり玉に挙げられた。……批判の担い手たちがみなかつての全共闘世代であり、吉本隆明にたいするルサンチマンが透けて見えたからである。この批判の嵐のなかで、柳田の神格化も終焉をむかえた。
▽308 柳田は、文献のみを担保とした歴史学への痛烈な批判者だった。
……柳田の限界もあった。信仰や魂の問題といった心意の伝承に第一義的な意味を認めたために、モノにたいして冷淡な態度を示した。それは、柳宗悦の民芸運動にたいする批判となり、渋沢敬三とアチック・ミューゼアムや日本常民文化研究所がになった民具研究にたいする批判となって顕在化した。柳田の系譜をひく民俗学者たちのなかには、モノに冷淡で、心の伝承に関心を寄せる傾きが強い。それが、モノにこだわる考古学との協同を拒む要因の少なくともひとつをなしてきた気がする。
▽321
▽324 初期、明治/大正期の柳田は、ヤマビトと名指しされた、先住異族の末裔たちの消息をもとめながら、多元的な列島の民族史が構想されていた。毛坊主や巫女などの漂泊する人々や被差別の民をも包摂しつつ、平民や常民とよばれた「ふつうの人びと」の生活史が探究された。
 しかし、昭和3,4年を境として、山人への関心がすっかり姿を消し、漂泊と定住の構図のもとに常民生活史が語られることも,これ以降はなくなる。常民史学としての民俗学への志向が前景を占めるようになる。昭和10年前後、柳田とその周辺では民俗学の体系化と組織化が本格的に進められた。「一国民俗学」の名にふさわしい、近代国民国家としての日本を下方から受肉させる運動として、みずからの輪郭をととのえていった。
▽325「郷土研究」とは、フォークロア=民俗学のことだと考える南方にたいして、民俗学は「余分の道楽」にすぎず「郷土研究」はルーラル・エコノミー=農村生活史のための雑誌であると柳田が応じたことで、2人の関係は一気に破綻へと向かった。……南方の欧米のフォークロアを範型とした「民俗学」をしりぞけたが、その後、その民俗学をとりこみながら、民間伝承=民俗学へと着地することになる。
▽327 巫女や毛坊主のいる農村生活史の探究は、大正10年前後、差別や天皇制といった問題とのからみのなかで、しだいに影を潜め、姿を消した。この困難なテーマを持続的にすすめたのが喜田貞吉。
……昭和初年、オシラ神をめぐる2人の論争がおきた。喜田はあいぬの信仰とのかかわりを説いたのにたいし、柳田は全面的に否定した。
……柳田はフレイザーの王殺しを核とした王権論が天皇制をめぐる議論に波及することをおそれて、岡正雄によるフレイザーの翻訳本刊行そのものに反対した。
▽332 稲作中心史観にとらわれていた柳田の民俗学にとっては、マージナルな色合いの濃い、たとえば漁村のフォークロアに光里を当てたのも、渋沢や宮本であり、歴史学の網野だった。
▽334 柳田の「桃太郎の誕生」KADOKAWAソフィア文庫の関敬吾による「解説」は、きびしい批判。「一国民俗学」的な枠組のなかに柳田の研究が展開している琴への批判。柳田のとりあげた昔話は、ほぼ例外なしに、昔話の国際標準のいずらかに該当しており、比較研究の有効性を疑うことはできない。

□柳田と折口
▽341 日本人の固有信仰の核にあったのは、柳田のいう祖霊か、それとも折口のいうマレビトか。
……米をもって祖神を祀る種族が、柳田のいう統治民族つまり「日本人」であった。列島の人種=民族的ななりたちの複合性はそれとしてみとめた。一方で、精神生活=文化に関しては、雑種的な性格を否定した。米をもって祖神を祀る「日本人」の信仰や習俗を解き明かすことが、柳田民俗学の中心課題。
▽345 折口:障がいの多い時代からなぜ日本人は旅をしたか。神の教えを伝播するものでなければ旅はできない…… 
神の教えを伝えるマレビトは、村から村へ、共同体のあいだを遍歴してあるく。イエの神としての祖霊に(信仰の)第一次的な役割をみとめる柳田とはあきらかに対照的。
▽349 はじめにイエありき、個々のイエが祀る神=祖霊ありき。それが柳田の祖霊信仰論の核にあった。田の神=イエの神=祖先の神。
はじめにムラありき、ムラを訪れる神=マレビトありき。それが折口の思考の起点だった。
▽351 列島の社会=文化的基層を形づくったのは、稲とイエにまつわる固有信仰を携えつつ渡来した種族であり、そこには雑種・交配の痕跡はみとめられない。
▽356 民俗学(フォークロア)と民族学(エスノロジー)の融合をこころみる折口は柳田から遠い地点へおもむこうとしていた。
▽359 折口こそが、民俗学の名のもとに結晶した柳田の後期思想にたいする根底からの批判者、あるいは、相対化する可能性を宿した同時者のひとりであった。

□記憶という問題系
▽363 成田龍一によれば、記憶とは、体験/証言/記憶の三位一体の様相をしめすとともに、時系列的である。(戦争の記憶に典型)
▽364 1990年代、東北のムラを聞き書きのためにあるきながら、記憶の時代とよぶほかない時代の訪れを感じた。記憶の時代のはじまりは、ムラの終焉という大きなできごとに深くかかわるものである。
▽365 1960年代後半、宮本常一が、もはや古老からの聞き書きの時代は終わった、とかきつけていた。
そうした予感は、1960年代からの高度経済成長期から1980年代のバブル経済をへて、1990年代のはじめにまぎれもない現実と化していた。
 ムラはいま終焉の時代を迎えつつある。
 ……山そのものを生業の基盤としているのではなく、木挽きも狩猟も焼畑も、断片的なものとして残存するだけで、村人たちはサラリーマンなのである。だから隣家と「何カ月も会ってないな」となる。
 かつてムラは、居住の場/生業の場だったが、生業の場としての貌を喪失した。
 生業から切断されたムラは、都市近郊のニュータウンと変わりがない。ムラの祭りはそれ故、ニュータウンのバザーや盆踊りと同じ位相に収斂されてゆく。
▽367 ある季節や週末だけムラにすむ……ということが現実とかしつつある。ムラに定住を、都市には移動や漂泊を振り分けてきたが、そうした知の作法はほころびはじめている。
 ムラは定住中心主義の呪縛をすり抜け、漂流を開始しているのである。
 かくして、ムラは生業から切断され、定住の場としての意味をも失いかけている。そこではユイや契約はすっかり稀薄なものとなり、ムラは相互扶助の場ではなくなっている。村八分などの異端排除のシステムの大半も壊れてしまった(〓珠洲市)
……現代のムラ歩きは落ち穂拾いにも似て、記憶の残像の追跡がテーマとならざるをえない。まさに、記憶の時代なのである。
 ムラの終焉のあとに来るものにこそ、静かに目をこらしながら、記憶という問題系の再編をしなければ。
▽369 ムラは戦時体制下に、生業と居住の場の解体においこまれたが、高度成長期の荒波にあらわれて、さらに解体から終焉へと突き進んでいった。
▽370 昭和以降に生まれた語り部たちは、戦時体制下に宙づりんいされたムラに暮らし、青春を戦場に浪費し尽くし、あらゆる伝承の断絶を強いられ、戦後はムラそのものを「封建的」なる負のラベリングとともに否定した世代なのである。
▽371 「はるか昔からつづいていたことがついに終わろうとしている」「血の通った伝統のなかに、物言わぬ習慣のなかに、古来の反復のなかに」生きられてあった過去が失われようとしていた。……1990年代の東北のムラ歩きでは、太古の昔からある(かのような幻想に包まれながら、時代ごとに紡がれてあった)アイデンティティの絆が、そこかしこで断ち切られてゆく現場に立ち会うことになった。ムラの終焉が顕在化しつつあった。
▽373 伝統的な記憶が消滅してゆくにつれて、廃墟・証言・文書……などを収集しなければならないという意識が生まれ、記憶の物質化が押し進められる。
 生きられた記憶から、記録としての記憶へ……。

□あとがき
▽376 民俗学という学知は、成熟への階梯をたどることなく、若くして老いてしまったのではないか……

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