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四国遍路の世界<愛媛大学四国遍路・世界巡礼研究センター編>

■ちくま新書20231025
 遍路道は世界遺産登録をめざしている。私が愛媛にいた2002年ごろからその動きはあったが、「ずっと先の話」と思われてきた。だが最近、外国人の遍路が急増し、世界の注目があつまってきたという。うれしいようなかなしいような……。
 お遍路研究の拠点・愛媛大学の研究センターが歴史から最近の動きまでをまとめた本だ。

 平安時代の「辺地修行」や鎌倉・室町時代の「四国辺路」は宗教者による修行だった。中世の終わりごろになって俗人が加わりはじめ、江戸時代のはじめ17世紀に庶民化した「四国遍路」が成立する。高野聖・真念がはじめての案内記「四国辺路道指南」(1687年)を刊行し、札所に1から88までの番号を記載したのが、修行の「辺路」から巡礼の「遍路」への画期となった。
 そして大師信仰を中核とするシステムが完成し、各札所には大師堂が建立される。大師堂は1653年の日記では12カ所しかなかったが、近世中期以降ほぼすべての札所に設置された。
 澄禅による1653年の「四国辺路日記」には、荒廃した札所が多く記されているが、真念の時代をへて19世紀の札所は「奇麗」「大なる」という発展をみせた。大師堂も増え、大師一尊化も進んだ。
 庶民化とともに遍路は社会問題になり、土佐藩はいちはやく藩領への出入り口を2カ所にしぼり、脇道に入るのを禁じた。宇和島藩も、遍路が通行する道筋を4ルートにかぎった。安政南海地震(1854年)で、土佐藩と宇和島藩は遍路の入国を禁じ、明治はじめまで20年以上つづいた。

 明治の廃仏毀釈や、廃藩置県、地租改正は霊場の経営基盤を圧迫した。遍路への接待や、「修行」として認知されていた物乞いも「乞食行為」として政府によって否定された。遍路がコレラを広げると考えて排除することもあったという。
 弘法大師が42歳の厄年、弘仁6年に四国霊場を開創したとされるが、記録はない。 1907年に繁多寺の丹生屋隆道住職らが、札所寺院すべての連合組織を結成しようと考えて巡拝した。これが結実して「四国霊場会」が結成され、1911年に善通寺で「第1回四国霊場連合大会」が開催された。この霊場会の活動によって、「開創1100年」の伝承が普及し、42歳厄年開創説が定着したと考えられるという。そもそも庶民の間で厄年の習俗が定着するのは江戸時代の中期から後期だった。
 納経帳は18世紀後半からもつようになるが、般若心経と白衣が広く普及するのは戦後になってからという指摘も新鮮だった。

 遍路の目的は「先祖・死者の供養」が3分の1だが、最近は「祈願(大願成就)」が「先祖・死者の供養」を上まわるようになった。
 いろいろな変化があるが、「お接待させてください」とよびかけられる場所は四国にしかない。「お接待」の文化こそが四国遍路の中核なんだろうなぁと思った。
 ヨーロッパや中国、イスラムの巡礼と四国遍路をくらべる論考も興味深かった。
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▽11 2015年1月、NYタイムズのHPで、その年訪れるべき世界の52カ所が発表され、日本で唯一「四国」が選ばれて「四国遍路の場所」として紹介された。
 この年、愛媛大学法文学部附属四国遍路・世界巡礼研究センターが開設された。
▽15 空也は伊予の浄土寺に3年ちかく滞在。一遍も、四国山地で修行。全国を遊行。
▽18 平安・鎌倉の念仏聖や山伏による四国修行が、四国遍路のもとになったのはまちがいないが、これはあくまで宗教者による仏道修行であり、後世の四国遍路のように俗人が加わってはいない。
▽21 中世の終わりごろになって、俗人が加わりはじめ、巡拝すべき札所がさだまっていく。……江戸時代になると、遍路の大衆化がすすみ、ガイドブックや絵図が作成される。道標が設置され、納経の作法が確立し……仏道修行としての巡礼から、娯楽的・観光的要素も兼ね備えた四国遍路へと変化していく。
▽22 熊野信仰とのかかわり。石手寺、四国遍路の由来を語る衛門三郎伝説も熊野修験者によって広められた。
 大師信仰の普及で、高野聖が重要な役割をはたした。平安時代の大火で荒廃した高野山の復興から彼らの活動ははじまった。
▽24 近世になると、大師信仰を中核とする巡礼システムが完成しうる。各札所には大師堂が建立される。大師堂は1653年の……日記では12カ所にすぎなかったが、近世中期以降はほぼすべての札所に設置された。
 88カ所の成立が確実なのは17世紀になってから。江戸時代のはじめ。
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▽51 学僧以外による「遍路日記」が展開するのは、1687年、真念「四国辺路道指南」がはじまり。重版を重ね、署名も辺地修行につながる「辺路」から弘法大師聖蹟の巡礼をあらわす「遍路」「遍礼」に変わっていった。
▽58 三角寺奥ノ院(仙龍寺、四国中央市)は「女人高野」の信仰を集め、7,800人が通夜していた。
▽63 澄禅による1653年の「四国辺路日記」には、荒廃し、山伏がすむ札所が多く記されているが、真念の時代をへて19世紀の札所は「奇麗」「大なる」という発展をみせていた。大師堂も増え、大師一尊化も進んだ。
▽68 四国では遍路が社会問題に。土佐藩がいちはやく規制。藩領への出入り口を2カ所にしぼり、脇道に入るのを禁じ、……。
 宇和島藩も、遍路が通行する道筋を指定して、それ以外の道を通ることを禁止。宇和島藩領では4つのルートにしぼりこまれた。
▽82 安政南海地震(1854年)で、土佐藩と宇和島藩は遍路の入国を禁止。明治はじめまで20年以上つづく。
▽85 道標 江戸時代前期の真念、後期の武田徳右衛門、明治大正の中務茂兵衛。
 宮崎建樹が1987年に設立した「へんろみち保存協力会」による道標は、現代の歩き遍路に欠かせない存在。
▽89 真念は1687年、ガイドブックをしるした。その画期的な意義は88カ所の札所に1晩から88晩までの番号が記載されたこと。
▽95 周防国大島郡椋野村の中務茂兵衛(1845〜1922)280回巡拝し「生き仏」と慕われた。
▽98 四十番龍光寺 1824年の常夜灯型道標石 本尊の場所を示すために、1879年に追刻された文字「札所ほんぞん」と大きな手印がきざまれている。明治の神仏分離により札所が稲荷社から龍光寺となり、巡拝する場所が境内上段に位置する稲荷社から下段にある本堂に変更したことにともない、標示したと考えられる。
▽104 「女人禁制」をかかげていた札所も。現代の遍路は、女性の占める比率が男性より10%は高い
▽108 松山市の旧和気郡は、明治から昭和前期にかけて青年男子による集団的遍路旅が一人前への通過儀礼の意味でさかんにおこなわれた。娘たちの遍路も大正期までは盛んに実施された。興居島では、大正末期まで春先に娘たちが四国辺路に出る風習があった。野忽那島の宇佐八幡宮には1884年と1897年に島民たちが奉納した大型の遍路絵馬がある。前者は女性中心。
……大洲市や喜多郡では、嫁入り前の娘たちによる集団的な部分遍路が昭和の前半まで実施されていた。四十四番大宝寺から53番円明寺までの10ヵ寺を2泊3日程度でまわった。
▽113 女人禁制 24番最御崎寺から26番金剛頂寺。24と26の2寺が女人禁制だった。
 最御崎寺は、坂の半ばの求聞持堂より上は禁制。金剛頂寺では女人は麓の行道所という岩屋で拝した。女人堂がもうけられていた。
 ……1872年の布告以後、女性も参詣できるようになった。
▽119 室戸のように修験道との関係が濃厚だったところでは、山岳信仰にもとづく価値観が遍路のありかたを規制し、女性を遠ざける習俗が残存したものと考えられる。
▽125 明治の廃仏毀釈にくわえ、廃藩置県や地租改正も経営基盤を圧迫し、霊場の景観もかえた。……遍路への接待や、「修行」として認知されていた物乞いが、政府によって否定された。
▽128 四国遍路とおなじく諸国を巡拝する六十六部廻国巡礼は、乞食行為を禁止するという論理で統制(1871)。行政による「脱籍無産之輩」対応の一環だった。
▽132 1879年に愛媛県にコレラ病予防仮規則が公布。コレラの媒介者として強調されたのは、遍路をふくむ「行旅人」だった。遍路を伝染病と重ねて排除する視線。
▽142 四国霊場開創1200年 弘法大師が42歳の厄年、弘仁6年に開創したとする。史料からは四国で開創した記述は確認できないが、真言宗を広める活動を本格的に開始した年とはいえるのではないか。
 815(弘仁6)年に開創したという話は、幕末から明治以降に定着したと考えられている。
▽146 1907年に繁多寺の丹生屋隆道住職らが巡拝したさい、札所寺院すべての連合組織は存在せず、これを結成することが彼らの願いであり……これが結実して「四国霊場会」が結成され、1911年に善通寺で「第一回四国霊場連合大会」が開催された。
……四国霊場会の活動によって、開創1100年の伝承を一種の「結集の原点」として周知、普及した。その結果として、弘仁6年の42歳厄年開創説が定着するようになってといえるのではないか。
……42歳開創説は明治以降に頻出しはじめ1914年の1100年記念で定着したといえるだろう。
▽140 庶民の間で厄年の習俗が定着するのは江戸時代の中期から後期。
 空海が厄年に開創したというのは、「厄年習俗」じたいの歴史から考えても江戸時代後期以降に成立しうる伝承といえる。
▽158 納経帳で最も古いとされているのが1753年。18世紀後半になると納経帳をもって巡るようになった。
……普及の理由 18世紀後半になると、実際には経典を奉納しなくても納経料さえはらえば納経印がもらえるようになった。
▽161 1687年の真念の「四国辺路道指南」には、光明真言や大師宝号を唱え、御詠歌をよむことはみえるが、般若心経には触れられていない。
 19世紀になると般若心経がでてくる。
▽162 明治になり、1868年に神仏分離令。一宮などが札所から排除され、88の札所はすべて寺院に。廃仏毀釈で廃寺になった札所も少なくなかった。1871年には寺社領上知令がだされ寺院の土地が没収。
 真言宗では、布教や教化はあまり重要視されなかったが、未曾有の危機の中で、檀信徒にたいして真言宗の教えをわかりやすく説く必要が出てきた。
▽166 戦前までは般若心経はあまりとなえられていない。広く唱えられるようになったのは戦後になってからと考えられる。
▽169 明治の遍路は白衣を身につけていない。昭和になると白衣がみられるようになる。1936年「先達以外に、白衣を着る人はいなかった」。戦前は白衣は一部にとどまっていた。
 昭和30年代ごろから次第に増えていったようである。
 納経帳は18世紀後半からもつようになるが、般若心経と白衣が広く普及するのは戦後になってからである。
▽198 日本研究家オリバー・スタットラはすべての札所をまわり、1970年代後半から80年代前半、留学生むけの「四国遍路ツアー」を実施した。
▽200 2007年にNHKワールドがはじめて四国遍路番組をつくり、世界中に放送された。……FBにはさまざまな「おへんろ」グループが存在し、英語の「Ohenro-san」グループは2008年にはじまり、2019年には1500人をこえている。ドイツ300人、台湾1万人以上のグループも。
さぬき市の「おへんろ交流サロン」 1999年に開かれた。外国人は2006年は74人だったが、2018年には661人。
 安楽寺の宿坊 体験型の儀式に参加できて、外国人に好評。宿泊者の2割は外国人。
▽205 四国遍路と外国人の歴史は大正時代に始まった。
▽212 団体バスが多かったが、マイカーで巡礼する人が増えた。歩きはへんろする人全体の8%程度。
 遍路の目的は「先祖・死者の供養」が3分の1だが、2016−17は、「祈願(大願成就)」が「先祖・死者の供養」よりわずかに多くなった。現世利益を求める意識で遍路をはじめる人が増えている。
▽219「お接待」の返礼の納め札。それを俵にまとめて玄関につるし、それが魔除けや盗難除けになると信じられたという。
 お接待「生きていることのこころのよすが」として差し出す。断ったらおこられた。
「お接待させて下さい」と呼び止めるお接待文化にはだれしもカルチャーショックを受ける。
 かつては伊勢の参宮街道にもこの文化はあったが、喜捨の精神文化は伊勢路から消えてしまった。
▽226 中国山東省・泰山の巡礼。泰山は五嶽のうちでもっとも東に位置することから、万物がはじまる場所とされ、後漢のころからは死者の魂が帰り着く場所と考えれるようになった。
 東岳大帝から、信仰の対象は、明のころから碧霞元君という女性神に。現代もつづき、子授けの功徳があることから、巡礼者は女性が多い。
▽236 四国遍路では多元的な御利益をもとめるのにたいし、泰山巡礼ではもっぱら現世利益を求める。
▽246 イスラムの巡礼 メッカの管理も、国家による一元的管理へ。従来は世界各地でネットワークを構築してきたムタウウィフをはじめとする先達たちも、国家機構にくみこまれ、自律性を失って行く。さらに、国家の財政拠出が困難になると、市場にゆだねる。イスラム旅行会社の商品として巡礼活動が提供され、それらの資金を確保するために貯蓄や投資といった新たな資源循環の社会的実践がうみだされた。新たな公共性を喚起している。
▽256 欧州ももとは多神教だったが、苛酷な境遇にあったヘブライ人のなかに、唯一神ヤハウェへの信仰と民族の強い結束を意識するようになった。ヘブライ人が民族宗教として一神教ユダヤ教を成立させ、その後、イエスが普遍宗教としてのキリスト教を誕生させた。
▽266 イベリア半島は八〜十五世紀、イスラムに支配され、レコンキスタを展開。
 サンティアゴ巡礼は九世紀にはじまった。巡礼道をめぐる人々の絶え間ない移動は、交流を課発にして、レコンキスタを支援した。12世紀には年間50万人。だがその後、衰退する。
 1975年のフランコ死後の民主化運動でスペインの解放が実現し、1985年にサンティアゴ・デ・コンポステーラ旧市街、93年に国内の巡礼路が世界遺産に登録されると、ふたたび盛んになった。サンティアゴをおとずれる巡礼者は2000年は5万5000人ほどだったが、2018年には33万人弱に
 パリからサンティアゴ・デ・コンポステーラまでが1500キロ、ピレネー山麓からは約800キロ。徒歩で100キロ以上歩いたことが証明できれば巡礼者とみなされる。
 最後に、サンティアゴから西に90キロのスペイン最西端フィニステーラを訪れ、衣服などを破棄して巡礼を終え、新たに生まれかわって還俗の儀式をおこなった。
▽271 サンティアゴ巡礼は、レコンキスタが背後にあって、ローマ教皇のよびかけにこたえて、ヨーロッパ各地の王権が巡礼を経済的、精神的に支援。国家権力の積極的介在があった。四国遍路は一貫して民間主体の巡礼で、地域住民が「お接待」の形で遍路を支援。

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