■集英社新書202310
久高島は、隆起珊瑚礁の小島で最高標高は17.1メートルしかない。畑地には石灰岩が露出し、農耕に適していない。水は、雨水をサンゴ石灰岩が吸収し、岩のあいだからしみでる水をためた井泉(西海岸沿いに9カ所、ほかに2カ所)をつかった。
そんな島でなぜ古くからの祭祀が濃厚にのこったのか。不思議な魅力の意味を知りたいと思った。
筆者は100回以上かよいつめ、縄文以来の歴史のなかで、どうやって女性主体の祭祀体型ができたのか、島の宇宙観や世界観はどうなっているのか……をあきらかにしている。
島には2000年前から人がすんでいた。
礁湖イノーで魚介類をとった。力も技術もいらないから、男女差はなかった。だから、子どもを産む母を中心とする社会ができた。母を中心とするグループはクバの森のなかで生活していた。クバの森の聖地は男性は入れないという考えは、この魚介類採取時代の社会のあり方を示している。
祖先の生活の場、魂の鎮まっている場所が御嶽としてのこされた。島の祖母霊がしずまる9つの御嶽のうち水場と対になっているアグルラキとフボー御嶽はあきらかに居住跡だった。
集落は北側から南側にひろがってきた。集落の北側の8家は「古ムトゥ」とよばれ、その下方の18家は「中ムトゥ」とよばれた。
血族レベルの祭祀がおこなわれていたが、第2尚氏王統第3代・尚真王の時代に祭政一致政策としてノロ制度が施行されることで、ムトゥ神中心の信仰から、ノロを中心とするシマ全体を束ねる祭祀に移行した。島々のノロの上位に「三十三君」と称する高級神女を配し、さらに最上位に王妹がなる「聞得大君」が君臨する形だった。
久高島は、東の外間根家(フカマニーヤー)と西のタルガナーの2大ムトゥを中心に家々が集まっていた。ノロ制度施行にあたり、王府任命のノロ職は外間根家からでて外間ノロとなり、タルガナー家からのノロ職はシマノロとし、久髙ノロとなった。それぞれのシマレベルの祭祀場が現在の外間殿と久髙殿だ。ノロの財産として、ノロ地という畑とイラブーの採取権をあたえられていた。
12年に一度のイザイホーは、ノロ制度を受け入れて以後、祭祀団員を組織するためにはじまったが、イザイホーの核心である、祖母霊を孫娘が継承するのは古代からの世界観だった。
かつては岩塊がつらなる西海岸沿いに4カ所の葬場で風葬がなされたが。1966年に岡本太郎らが報道して途絶えた。
死者の魂は、太陽の没する軌道に沿って、地底をくぐりぬけて東方のニラーハラーに行き、また生まれかわってくる。骨は魂の抜け殻であり、近年まで祀られることはなく、葬所は礼拝の対象ではなかった。
寅年の旧暦10月20日に村中いっせいに洗骨をするという風習は、魂が去った後の処理のようなもので、骨を拝むことはなかった。洗骨じたいも近世のことで、昔は放置したままだったらしい。
近世以降中国などから首里王府が導入して庶民まで普及させた亀甲墓や「トートーメー」という位牌は、儒教思想の父系をたどる祖先観にもとづいている。久高島でこの位牌を導入したのは1923年ごろと遅かったため、家庭祭祀は本来の母系の守護神が中心だった。
一方、死体があがらない海難者の魂は、あの世へいけず祟りをおこすと考えられ、毎年、魂鎮めの儀式をしなければならない。マヤの秘密墓地発掘をささえる世界観とおなじだ。魂の存在を肯定する死生観は、古代人からうけつがれてきたものだ。
沖縄は性に開放的なイメージがあるが、島では、婚前婚後をとわず、配偶者以外と性交渉をもつことが浮気とされ、神女になれなかった。イザイホー資格者で浮気をした者はノロに告白し、許しの御願がおこなわれた。浮気を隠してイザイホーに参加した者は、七ツ橋渡りのときに橋から落ちるといわれ、浮気を知っている同僚神女がひじで突き落とす例もあった。
久高島には若い男女の共同野遊びの習俗はない。戦前までは年頃の男女は口をきかず、結婚相手は親がきめた。好きになれない場合、男は出漁先で旅妻をさがし、女は実家に帰った。だから離婚は頻繁だった。
琉球弧の祭祀は、首里王府やヤマト世になったときくずされ、戦争で集落も祭場もこわされ、戦後は生産体系が農業から軍作業などにかわったため消えていった。久高島は古琉球の祭祀を今に伝えているが、イザイホーは1978年でとぎれ、年間27回のシマレベルの祭りのありかたも不確かになってきているという。
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▽3 琉球弧の祭祀の主体は女性である。古い祭祀が残っている最も典型的な久高島や宮古島狩俣が酢召すように、……島人の守護神は女性、つまり「母神」となっている。それが琉球弧の祭祀の原型だった。
▽17 1983年ごろまで百回以上もシマを訪ねた。
▽22 ノロ制度施行というのは、シマレベルの最高神職者ノロをきめるのに、シマ人が推挙した者を琉球王朝・首里王府が任命するという形でおこなわれた。シマでおこなわれていた血族ごとの祭祀やその神職者を整理して組織をととのえた。ゆるやかな支配。
▽23 隆起珊瑚礁の小島で、最高標高でもわずか17.1メートル。
土質は赤土で土層が浅く、保水力もない。畑地には石灰岩が露出し、農耕に適していない。沼や川もない。水は、雨水をサンゴ石灰岩が吸収し、岩のあいだからしみ出る程度である。
井泉 岩の間からわきでる水をため池にためるというもので、岩石が露出し絶壁状になった地形の西海岸沿いに9カ所、そのほかに2カ所あった〓。
▽24 貝塚の調査で2000年以上も前から人が居住していたことがわかった。
▽26 御嶽とよばれる聖域が12カ所あり、なかでも、水場、葬り場も周辺にそなえたフボー御嶽が「休み場」のイメージに合う。ちかくに貝塚遺跡がある。
イノーで魚介類をとるのは道具もあまり必要とせず、老若男女だれでもできる。イノーの魚介類で暮らす時代は採取する力に男女差はなかった。
子どもを産む能力をそなえた母親を中心とする社会ができていった。母親を中心とするグループはクバの森のなかで生活を共にしていた。クバの森の聖地は男性は入れないという考えは、この魚介類採取時代の社会のあり方を示していると考えられる。
▽30 穀物伝来神話 イシキ浜 流れてきた白い壺に、麦、粟、アラカ、小豆の種子が入っていた。麦と粟はハタスというところに植え、壺はそこに埋めた。
▽31 子どもがうまれると「外間殿」で「根神」という神職社による「名付」がおこなわれる。そのときの願い詞に「あまりえらくなってはいけない、普通であってほしい」という。シマでは生きていくための形のが決まっていて、子どもはその生活の形、価値観にそって成長すればよく、はみだしたら不幸になると考えられていた。女は神人、男は海人である。……男の新生児は祖父の名がつけられる。近代になって、祖父名は戸籍上の名前と区別されるが……
▽35 戦前まで、男たちは遠くは台湾、南洋まで出漁し、半年以上島を留守にするのが常だった。
▽42 風葬 葬所は岩塊がつらなる西海岸沿いに4カ所あった。通称「グゥソー」(後生)
風葬がとだえたのは、イザイホーの1966年に、心ない外来者が風葬途中の木棺をあけて、死者が判別可能な状態のところを写真撮影し、雑誌に発表する(1967)という、事件がおきたことが原因である。……シマ中で協議をした結果(風葬を)やめた、とだけ聞いた。
……近世以降中国などから為政者が導入して庶民レベルまで普及させた亀甲墓に代表される、石でかためた沖縄の墓からは発想することもできない死生観である。
死者の魂は、太陽の没する軌道に沿って、地底をくぐりぬけて東方のあの世ニラーハラーに行く。
久高島では、骨は魂の抜け殻になったものであり、近年まで祀られることはなかった。葬所には人も立ち入らず、礼拝の対象にはなっていなかったのには理由があるのである。
▽51 シマ人は葬所には今でも立ち入らない。やむなく立ち入った者は、葬所近くにあるきよめの井泉のミガーで厳重な禊をおこなう。
▽53 あの世へいけない海難者の魂は、たたりをおこす可能性。死体があがらなかった海難者の魂は永久にあの世へいけないと考えられていて、海難者をだした家では毎年、魂鎮めの儀式をしなければならない。(マヤの死生観〓)
▽56 魂はニラーハラーにいき、「シジ」(守護霊)になる、シジになった魂は、神職者や一般の人に再生する形がある善霊はあの世とこの世を循環している
一方、生きざま、死にざまがよくなかった魂はあの世にすんなり行けず、この世にさまよっている。祟りをする不安定な存在として恐れられている。
▽58 祭祀は、秩序霊の守護力によってシマ人およびその生活空間から混沌霊をとりのぞき、秩序をいきわたらせるためのもの。
……久高島の世界をなりたたせているのは、魂の存在の肯定である。この死生観は、古代人が暮らしのなかで感じとったものがシマの自然のなかで育まれて、形となってきたものであろう。
しかし、琉球弧の多くのところでは、目に見えないものを信じる感性はうすれ、「魂」の存在などということは昔の話に考えられている。
▽60 集落は北側から南側にひろがってきた。集落の北側に位置する家々は歴史的にも古く「古ムトゥ」とよばれ、その下方の群は「中ムトゥ」。古ムトゥは8家、中ムトゥは18家ある。
▽63 家レベル、血族レベルの祭祀がおこなわれていた久高島。琉球王朝の第2尚氏王統第3代・尚真王の時代に祭政一致制作として、ノロ制度が施行されることで、ムトゥ神を求心力とする時代から、ノロを中心とするシマ全体を束ねる祭祀制度に移行した。
……島々のノロ、司の上位に「三十三君」と称する高級神女を配し、さらに最上位に王妹がなる「聞得大君」が君臨した。
……東側の外間根家(フカマニーヤー)と西側のタルガナーの2大ムトゥを中心に家々が集まっていた。そこで、ノロ制度施行にあたり、2つの始祖家のムトゥ神の引き受け者をノロ職に昇格させた。王府任命のノロ職は外間根家からでて「公事ノロ」とし、外間ノロとなり、タルガナー家からのノロ職はシマノロとし、久髙ノロとなった。2人のノロの出た家に殿(トゥン)というシマレベルの祭祀場が設置され、それが現在の外間殿、久髙殿である。
2大ノロにしたがう神職者が各家の30歳から70歳の主婦がつとめる神女である。
▽66 外間ノロは、ノロの財産として、ノロ地という畑1180坪とイラブーの採取権をもつ。それを確保するために、娘継ぎから嫁継ぎにかわったという。
久髙ノロは……先代まで娘継ぎで、その後嫁接ぎにかわっている。ノロ地1712坪の畑とイラブーの採取権をもっている。
▽70 イザイホー ノロ制度を受け入れて以後、ノロの下で祭祀に参加する祭祀団員を組織するためにおこなわれたのがはじまりであると思われる。しかし、イザイホーの核心である、祖母霊を孫娘が継承するという考え方は、イザイホー以前からシマにあったものだろう。
▽80 婚前婚後をとわず、配偶者以外と性交渉をもつことが浮気とされた。浮気をした者は神女になれない。……イザイホー資格者のなかで浮気をしたものがいる場合は、ノロに告白がなされる。根人によって神に対する許しの御願がおこなわれ、その後イザイホーへの参加が許される。……浮気がはずかしくて告白せず、隠してイザイホーに参加した者は、七ツ橋ワタリのときに橋から落ちるといわれる。浮気を知っている同僚神女がひじで突き落とそうとする例もあったという。
▽91 龍宮神 その姿は2頭の白い若駒。壬の吉日、早朝にカベールをでて島を1周するといわれている。若駒を見た人の話しによると、真っ白いたてがみを風になびかせ飛ぶように走っていたという。若駒にでくわすと不吉であるともいう。
▽93 イラブー漁 毎年旧暦6月から12月のあいだが産卵期でシマの海岸にくる。採取の権利は久髙ノロ家、外間ノロ家、外間根家(ニーヤー)の3家に決まっていた。3家は、シマレベルの祭祀をするミアムトゥ(3つのムトゥ)とよばれる特別な家である。
……実際にイラブー漁をするのは、女性3人絵アル。男性3人は燻製処理のときから参加する。最盛期は8,9,10月である。
▽96 イラブーの植えにどっかと座り、お尻でおさえておいてから1匹1匹、首根っこをつかんでとる。生きたまま袋に入れ、保管しておくが、陸上でも数十日生きている。一定量になると、男たちが中心になって、「バイカン小屋」という燻製小屋で燻製処理をおこなう。
とぐろ状とステッキ状に燻製されたイラブーは強壮剤として那覇の市場に出荷される
アイゴの稚魚のキスクは、沖縄全体ではスクガラスといわれている。
キスクがよってくるのは第1回目が旧暦6月1日から3日で、第2回目は6月27日、28日、7月1日から3日ごろまで。
▽100 ムトゥ(草分家) 子孫が増え、分家が生じる。分家した子孫からは、最初の家を始祖家とする認識が継承されていった……始祖家への帰属意識がつよめられ……
……古ムトゥよりあとにできた家群を中ムトゥという。このムトゥ神は女神が多く、……現在は18軒の中ムトゥのうち3軒が空家
……近世に首里王府が中国より入れ、県内全域に定着した父系をたどる祖先信仰は、祖先を権威化、美化する傾向にある。久高島のムトゥは、必要以上に始祖を美化したり権威をあたえることはない。ムトゥは「根っこ」「根源」の意味。
▽103 終戦直後までは薪のカマドだった。生活改善運動で粘土やコンクリートのカマドが普及する以前は、東海岸からもってきた自然石3個をたてた簡素なものだった。
▽106 沖縄では「トートーメー」とよばれる位牌を祀る棚をそなえた家が一般的だが、この位牌は近世に首里王府が中国からとりいれたもので、儒教思想の父系をたどる祖先観にもとづいている。久高島ではこの位牌を導入したのは
1923年ごろ。導入が遅かったために、家庭祭祀は本来の守護神が中心で、位牌の祖先は付随的に礼拝がおこなわれているにすぎない。
▽107 御嶽にしずまる守護力をもつ神霊は母神であった。
……農耕がはじまっても、祖先の生活の場、魂の鎮まっている場所として御嶽はのこされ、あるいは祈願の場所としてつかわれていたのかも。
久高島には祖母霊がしずまる御嶽は9カ所アル。そのうち水場と対になっているのが2カ所、アグルラキとフボー御嶽。この2カ所はあきらかに居住跡とみなせる。
▽111 ニラーハラーは、ニライカナイとおなじ意味。「始原の地」
……モンパノキの群生のなかを海浜にでる小道のわきに、自然石がおかれた小さな広場。この御嶽をおりたところに、イシキ浜があって、イノー(礁湖)の水際まで美しい白砂の空間が……
▽116 各家庭の背後にムトゥがあり、ムトゥの背後に御嶽があった。ここまではシマの生活空間のなかだが、そのシマ世界を越えた究極の場所、久高島の背後があの世ニラーハラーである。
▽120 昔の久高島では、各始祖家に超能力をもつ女性神役がおり、ムトゥに属する人々の命運を司っていた。一番古い大里家には、本島まで評判の高い、すぐれた超能力と美貌の持ち主、クゥンチャサンヌルがいた。
……久髙は仏教の影響をほとんど受けていない。
▽139 ティンユタに姑の浮遊霊がのりうつり……鬼気迫る死霊の声……儀式によって祟りの不安から解放され、娘たちの原因不明の腹痛もおさまった。
▽146 イザイホー儀式は、孫娘が亡祖母の霊威をひきうけて一人前の久髙島の女性になるという構成になっていて……1978年に見学。
▽180 終戦直後までは沖縄ではほとんどの場所で旧正月がおこなわれていた。……久高島は今日でも旧正月がおこなわれている。
▽185 久髙の害虫祓いの儀式は、害を与える動物を抹殺しようというのではない。同じ場所にいては困るのでよその異界に行ってもらうという発想である。
▽188 御嶽もニラーハラーも、祖霊の存在するところとして同次元的に受け止めている。しかし、太陽と月は別次元で、地上に降臨するなどという発想はなく、仰ぎ奉っている。太陽の神が人格化されたり権威の象徴とされたりしない。
▽194 水源地は西海岸に多い。サンゴ礁岩の割れ目から染み出る程度の水量のものが多く、その湧き水をためたものを井泉(カー)といっている。島の北辺の聖地群に対応して古い井泉が5カ所アル。うち3カ所は禊用の井泉になっている。南辺の現集落に対応して井泉が5カ所ある。水道がひかれる以前は4カ所が生活用水としてつかわれた。そのほかに創世神話の拝泉である徳仁ガーがある。
▽196 土地はシマ人の共有のため、別の日とが空屋敷に家をつくることができるが、この場合、後住者は前住者の屋敷にいれてもらう感謝をこめて、祠をつくりあがめている。
▽200 ヒジムナー(妖怪)にたいしては、悪霊に対するような絶対的な恐れの感情はなく、異界の存在だが、どことなく人間に似ていて親しみがある。
「近年はヒジムナーの話も聞かない。戦争で死んだんだろう」とシズさん。「電機がつき、テレビも入り、生活が豊かになったと人間たちが思ったときからヒジムナーはどこかへ去っていってしまったのだろう」
▽205 久高島には若い男女の共同野遊びの習俗はない。年頃の男女は口をきかなかったし……戦前までは男子が15歳くらいになると、男側の親が嫁選びをする。嫁候補の両親に伝えるだけ。息子や娘の意向をきかずにきめてしまう。結婚相手は親が勝手にきめていた。
▽208 結婚の宴のあと、実家に泊まることは許されず、嫁は夕食の準備を終えると寝場所をもとめてにげまわる。友だちの家とか、フボー御嶽とかによく隠れた。婿は友だち数人とつれだって、嫁探しをする。昭和のはじめ、ムラで協議し、逃げる期間を5日に定めた。昔は1カ月でも2カ月でも、長い人は1年も逃げた例がある。長く逃げつづけて婿が出漁してしまい、破談になった例もある。
婿は嫁をさがしあてると力尽くでつかまえ、2人の寝室である裏座に入れる。
このような伝統は戦前までつづいた。離婚も多く、出ていく嫁には150坪分の芋をあげた。好きになれない場合、男は出漁先で旅妻をさがし、女は実家に帰った。離婚してもまわりからとやかくいわれなかった。
▽211 棺をおく場所は家によっておよそ場所は決まっていたが、標識はなかった。岩間や岩下に棺の頭部を北にしておき、「守る神になってください」といって合掌し、葬所を立ち去るが、井泉で禊ぎをしてふりむかずに帰っていく。葬儀の翌日、近親の女性2人で棺をああけ、死者を見た。死者の生きかえりを期待してだった。
寅年の旧暦10月20日に村中いっせいにおこなう洗骨という風習がアル。死後日数がたってなく完全に腐蝕していない死者は次回となるが、ミガーの水で洗い陶製の容器に入れ、今日では墓におさめる。風葬の時代には岩間や岩下にそのままおいた。
洗骨は、魂が去った後の処理のようなもので、骨を拝むことは最近までなかった。また洗骨も近世のことで、昔は放置したままだったと考えられる。
▽217 琉球弧の祭祀の崩壊 まず首里王府の崩壊のとき、廃藩置県後ヤマト世になったとき、戦争にまきこまれていった戦前、戦争後。戦争で人々が亡くなり、集落も祭場もこわされ、生産体系も農業から軍作業などにかわったため、祭祀も大幅になくなっていった。そんななか久高島は古琉球の祭祀を今に伝えている。その継承者こそ西銘シズさんだった。
▽219 シマレベルの祭りが年間27回ある。供え物一つに至るまで完全な形で残ったのは、シズさんのおかげ。シズさん亡き後、久高島の祭祀に不確かさが生じている。シズさんを失ったため、1990年のイザイホーは中止になってしまった。
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