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「真宗移民」の歴史から何を学ぶか 報徳仕法の原動力にもなった宗教移民の研究を眺望する<太田浩史>

 福島第一原発事故の取材で訪れた南相馬市は、外の人も受け入れる気さくな人が多かった。昔から外からの人をうけいれてきたからだという。
 江戸末期には間引きなどによる人口減少で荒廃していたムラを、北陸や新潟からの「真宗移民」が再生させた歴史があった。「真宗移民」を知りたくて本を入手した。

 移民は最初は北関東、その後、福島の太平洋岸に入植した。加賀藩は移民を禁じていたから「逃散」だった。
 当時の東北地方は、堕胎や間引きが盛んだった。
 速水融の「歴史人口学」によると、陸奥の村では、女子の初婚年齢が12歳前後なのに出生率が異常に低かった。子どもの数を少なく、性別のバランスをとろうとする「間引き」がその原因だった。成人まで生き延びることが期待される子の数は3人であり、「最初に娘、つづいて2人の息子」が理想とされた。近世農民は小さな耕地での営農に適した家族構成をとる必要があったからだ。間引きは、「生産年齢人口比率」を安定させるための「合理的行動」だが、その結果、人口は減少する。年貢をおさめる百姓が減れば、ひとりあたりの年貢負担が重くなり、百姓の逃亡があいつぎ、さらに人口減少が加速する。
 逆に、堕胎や間引きの文化がない北陸などでは人口増で零細農民が増加していた。
 北陸側にとっては窮迫農民の逃散であり、関東側から見れば人口減少をカバーする意味があった。浄土真宗寺院が移民を斡旋することで、鎌倉時代の真宗教団の衰退とともに関東に絶えていた浄土真宗の信仰が復興した。現在も、北関東の真宗寺院をささえる檀信徒の多くが北陸移民の子孫だという。

 1846年までの人口は西日本で増加率が高く東日本で低いが、明治には「東高西低」に逆転する。
 19世紀初頭にはじまる北陸・出羽の人口増加は、西廻り海運という日本海側の輸送路が原因と思われる。1860年代にはじまる東東北の南部などの人口増加は、横浜開港により世界市場とつながったのが要因という説があるが、筆者は異説をとる。
 天保の飢饉で疲弊した関東・東北の農村を復興する思想が二宮尊徳の報徳仕法だった。二宮が仕法を実施した北関東の地域は寛政年間以来、真宗移民がはいった場所だった。福島の相馬中村藩はとくに熱心に報徳仕法にとりくんだ。
 報徳仕法とは、徹底した調査にもとづく相互扶助による経済復興策であり、共同体内の農民の団結と教化に有効だった。人口増加地域である東東北の南部や下野・上野などは、真宗移民と、二宮尊徳の報徳仕法がおこなわれた地域だった。
 「弥陀に呼びかけられて弥陀と一体の自己に気づき、弥陀に全的に服従し、一方でその主体性において自由自在に生きた」妙好人(浄土真宗の在俗の篤信者)による近代化が、真宗移民と報徳仕法が重なった地域で成立し、「主体的に」間引きを根絶し、勤勉や団結によってプロテスタンティズム的資本主義にも似た経済発展をもたらした。産業革命の先駆だった。真宗門徒が勤勉や団結力を発揮したのは、豪雪地帯としての特性や発達した講組織における横の連帯が寄与していたという。
「事実としてあった明治日本という近代ではなくて、明治時代によって挫折させられた、あったかもしれない近代」すなわち「妙好人的近代」が人口増大をもたらした、と筆者は主張する。まさに、経済発展が「少子化」を防いでいたのだ。

 相馬は人情があたたかい地域だが、真宗移民は地元民から差別された。相馬は土葬地帯だったが真宗移民が火葬をもちこむなど、「門徒もの知らず」という慣習のちがいが原因だった。北関東では「加賀っぽ、越後っぽ」、相馬では「加賀者が加賀泣きしている」と蔑まれる。旧加賀藩領からの真宗移民は「故国で罪を犯して逃げてきた者達」と噂された。多くの真宗移民が、自分達が「新百姓」の子孫で真宗門徒であることを表にだしたがらないという状況も生まれた。

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▽親鸞の活動の舞台であった場所には必ずと言っていいほど北陸からの移住農民が存在し、例外なく真宗門徒であり、地域社会において冷遇されている……
▽北関東の新百姓の移住は徳川末期。
▽五来
 移民は北陸側にとっては窮迫農民の逃散という現象であり、関東側から見れば農村人口の減少をカバーせんがための入百姓という現象。…これらを指導斡旋したものが、北関東の浄土真宗寺院であり、それゆえ、受け入れ側の関東諸藩及び代官領は北陸門徒の信仰心と風俗と勤勉を重視したのであって…。その結果は、原始真宗教団の衰退とともにほとんど関東に絶えた浄土真宗の信仰が、移民によって復興せられることになったのである。現在、北関東の真宗寺院をささえる檀信徒の多くが北陸移民農民であるという事実は、このことをものがたっている。
▽相馬高校の教諭だった岩崎敏夫
 相馬が概して人情があたたかい土地柄であるにもかかわらず真宗移民が差別的な扱いを受けた要因として、信仰習俗の相違をあげた。
 相馬は土葬地帯だったところに真宗移民が火葬を持ちこんだことや、触穢観念の相違、諸禁忌や地元神への信仰についての温度差など、いわゆる「門徒もの知らず」に起因するさまざまな違和感がもとになって、真宗移民がすぐれた農業技術や勤勉さをもっていたにもかかわらず同化を妨げたという事実があきらかにされていった。
▽北陸側 藩令を犯した国抜けだった
▽ウェーバーの宗教社会学の立場から考察したのが有元正雄。
「入百姓政策は、堕胎・間引きの解消、出生児の養育、江戸在住者の帰農、縁付女の招致、用水施設の整備などとともに、寛政改革の農村復興策の一環として実施されたものといえよう」 「寛政改革では、入百姓の招致=堕胎・間引きの禁止=小児養育のことは重要な課題であった」
▽真宗門徒は間引きをしないということは、従来からいわれてきたことです。
▽私としては、真宗門徒が堕胎・間引きを嫌った原因を親鸞教学にさぐるのではなく、蓮如以降のお講共同体の発達に求めたい。堕胎・間引きを他宗の者にもやめさせるほどの力強い社会運動をおこなえたのは、ともに懺悔しあうことから生まれた感性のたまものではなかろうか。
▽天保の飢饉でふたたび、関東・東北の農村は疲弊する。そこから生まれた復興の思想が二宮尊徳の報徳仕法だった。二宮は北関東の桜町、真岡、東郷、烏山などで仕法を実施したが、それらの地域は寛政年間いらい北陸から真宗移民が行われた場所であった。また相馬中村藩は尊徳の娘婿富田高慶はじめ藩士に尊徳の門人を輩出しており、全国で最も熱心に報徳仕法に取り組んだ。
…報徳仕法は、相互吟味・相互扶助の規定と制度であり、共同体内で生産=再生産している封建農民の団結と教化にもっとも有効な方法だった。
▽歴史人口学
 速水融が「宗門改帳」を活用することで日本の歴史人口学がはじまった。
▽陸奥国の…村では、きわだって早婚な社会が存在していた。18世紀前半には女子の初婚襟が12歳前後であった。にもかかわらず出生率が低かったのは、子ども数を少なく、性別のバランスをとろうとした意図的な出産制限の結果だった。性別選択的ということは、「間引き」されていたことを示す。成人まで生き延びることが期待される子どもの数は3人であり、「最初に娘、つづいて2人の息子」だった。
 結婚年齢が低く出生率も低い東北農村のパターンは、「世帯内生産年齢人口比率」(世帯における一六〜六〇歳の構成員の比率)を一定の幅の中で安定させるための人口行動であり、厳しい自然条件に耐えぬくための「合理的行動」であるとした。
 だが、人口減少は深刻な影響を社会におよぼす。年貢をおさめる百姓がいなくなれば、だれかがかわりに納めなければならない。年貢負担はどんどん重くなり、百姓の逃亡があいつぎ、さらに人口減少が加速した。
 逆に、北陸などの中央日本では人口が増え、土地を売って零細農民となる人々の増加が真宗移民の要因に。
▽1846までの人口は西日本で増加率が高く東日本で低い。ところが明治になると「東高西低」へ変化する。
▽浜野潔 19世紀初頭にはじまる、北陸・出羽の人口増加は、西廻り海運という日本海側の輸送路の活用なしには実現しなかった。1860年代にはじまる東東北の南部、西関東、東山地域の人口増加は、江戸時代の流通ネットワークが断ち切られ、横浜開港により世界規模の市場とつながることによってもたらされた…
▽もっとも顕著な人口増加地域である東東北の南部や下野・上野などが、真宗移民と、二宮尊徳の報徳仕法が盛んにおこなわれた地域であることを無視してはならないだろう。「事実としてあった明治日本という近代ではなくて、その事実としての明治時代によって挫折させられた、あったかもしれない近代」すなわち「妙好人的近代」。
 「弥陀に呼びかけられて弥陀と一体の自己に気づき、弥陀に全的に服従し、一方でその主体性において自由自在に生きた」という「妙好人的近代」が真宗移民と報徳仕法が重なった地域で成立して、「主体的に」間引きを根絶し、プロテスタンティズム的資本主義にも似た適性を発揮して経済的好機をものにしたと考えなければ、日本いnおける産業革命の先駆ともいうべき激変は説明しきれないのではないか。…経済発展のみが「少子化」を防ぐ。
▽真宗移民は加賀藩の制禁をかいくぐっておこなわれた。
▽…北陸門徒が北関東や相馬でしめした勤勉や団結…豪雪地帯としての特性や十分に発達した講組織における横の連帯も寄与…
▽東日本 近世農民は小さな耕地での営農に適した家族構成をとる必要があり、直系家族では家業の後継者を意識しての少子化がはかられた。そうしたことの合理的解決法として間引きがおこなわれ、その罪悪感を緩和するためにさまざまな俗信が発達したのである。
▽北関東および相馬の真宗移民は間引き対策として実施され、めざましい成果をあげ、さらにその影響を周辺部におよぼして東日本に劇的な人口増加をもたらした〓〓。
▽相馬の地を踏めば、幕末において報徳仕法と東西本願寺教団はあきらかに連携していた。それが切り離され、報徳仕法のもつ社会的実践面を失って教条化した真宗教団と、宗教的内省面を失って営利化した報徳仕法がともに天皇制イデオロギーにとりこまれて弱体化したのではないか…
▽ 北関東では「加賀っぽ、越後っぽ」、「越後っぽは肋骨が一本足りない」などと蔑まれ、相馬では「加賀者が加賀泣きしている」とからかわれる旧加賀藩領からの真宗移民が、「故国で罪を犯して逃げてきた者達」と噂され、比較的に新しい越中利賀村から移住した人々が「咎(とが)」を連想させる故郷の名を語りたがらないなど、自分達が新百姓の子孫であること、ひいては真宗門徒であることさえ表に出したがらないという状況を生んでいる。

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