■明石書店2210
数十年前までは、生魚を素材にするすしに不快感を覚える人が世界中に多かったが、今や、すしを食べるのは粋なコスモポリタンとなり、和食がユネスコの無形文化遺産になった。ラーメンも「和食」の一部として世界中で愛されている。そのラーメンの歴史と位置づけを総括的に知ることができる名著。
粉をひいて麺類や包子をつくる技術は中央アジアから中国に普及し、日本には奈良時代に届いた。うどんのように切った平たい麺を熱い汁に入れてたべる「ほうとう」だった。
17世紀半ばに明王朝が崩壊すると、日本の西部に逃げてきた中国人が麺類と肉類への嗜好をもたらした。
濃厚な豚骨スープの九州風ラーメンの起源は、中国の影響を受けた長崎にあるという。
一方、江戸は「眠らない街」となり、1770年代に屋台が登場し、19世紀はじめの江戸には、屋台も含めて6000軒にのぼる飲食店があった。1765年にはじめてレストランが登場したフランスよりも、19世紀初頭までレストランが1軒もなかったイギリスよりも、はるかに先行していた。
江戸時代に麺を好む食文化が確立し、肉食を受け入れる人が増加しつつあった。
明治になると「牛鍋」などが流行し、「文明的」とみなされる新しい味覚がもちこまれた。
同時に、日本の近代化をまなぼうと中国人留学生が来日し、長崎で「ちゃんぽん」と呼ばれるオリジナル麺料理が華僑の手によって誕生する。
1920年代には、植民地の料理が国内で味わえるようになった。
20世紀に入る頃には、中国人留学生や工業労働者を相手にする飲食店が、肉のはいった醤油味の汁麺を出すようになった。
日露戦争に勝利すると、日本は非白人国家にとって近代化の指標となり、多くのアジアの革命家をひきつけた。チャンドラ・ボーズがもたらした「純印度式」カリーライスをは1920年代末にカレーライスのブームを巻き起こした。中国料理の人気も高まった。
ラーメンは正確な発祥地がはっきりしないが、当初は「支那ソバ」とよばれた。「ラーメン発祥の地」を標榜する店は20世紀はじめに生まれている。人口あたりのラーメン屋数日本一の喜多方市に支那そば屋が生まれたのもこのころだ。
日本料理の礎は江戸時代に築かれたが、近代日本の食と味がつくられるうえで重要な役割を果たしたのは、こってりした食品を好む都市部の労働者階級だった。1920年代におきた中国料理のブームの一因は、賃金労働者の増加にある。見た目より味を重視する中国料理が適合した。
大正期にラーメンやカレー、中華料理にまで拡大した日本料理の概念は、戦争によって、伝統的な米、みそ、魚……へと回帰する。戦前に覚えた美食の数々を奪われた。
敗戦後、麺類をはじめとする小麦製品を食べるようになった。
空腹を満たす手段の探究が、インスタントラーメンの発明を促した。
朝鮮戦争の特需で外貨を獲得し、それでアメリカの余剰農産物を購入したことがラーメン人気を後押しした。
高度成長で地方の若者は都会に出ることで増えた一人暮らしの若者は、インスタントラーメンを大量に消費した。
そして、1980年代までは似たりよったりだったラーメンは、90年代はじめから味や種類が急増し、その結果としてラーメンをテーマにした漫画の創作が可能になったという。
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▽19 めん食日本地図 奥村彪生「日本めん食文化の1300年」をもとに
▽35 日本の農林省は、日本の伝統的な料理は当初から健康的でおいしく、世界の羨望の的だったという怪しげな主張を公表しつづけている。
▽41 中央アジアの料理に影響をうけて、麺類やパン(包子)類が生まれ、中国に普及した。粉をひき、利用する技術の歴史は太古の昔にさかのぼる。紀元前5500年のトルコの考古学的遺構からパンを焼くための粉が発掘されている。この技術がモンゴルを通って中国へ。中国では紀元前3500年ごろには、さまざまな地域で粉が利用されていた。
▽42 3世紀の魏志倭人伝には、倭人は「手で物を食べる」と書かれている。これは古代中国では野蛮な行為と見なされていた。
▽43 15世紀にはいってかなりたつまで、日本人は基本的には味気のない野菜中心の食事で満足していた。
▽44 「斉民要術」中国6世紀にかかれた全10巻の農書。最古の料理書として知られる。
▽47 料理店が存在するようになるのは中国では宋代(960-1279)末期。それは世界でも最古にちかい。ある料理がどのような見かけでなんと呼ばれるという考えが一般的になるのは、印刷媒体が急激に普及してから。
▽50 7世紀まで日本人は肉を食べていた。ツル、鹿、イノシシはあらゆる階層が食べていた。
▽56 うどんやそばのさきがけとなった麺は、おそらく奈良時代に中国南東部から日本へわたった。この麺料理は「ほうとう」と呼ばれ、うどんのように切った平たい麺を熱い汁に入れてたべる。
▽58 805年、唐から帰国した永忠は長安にくらべて日本人がいかに粗末な食事をしているかを知って衝撃を受けた。緑茶を最初に持ち帰った僧のひとり。だが、緑茶は不人気。日本人がお茶を飲む習慣をもつのは、13世紀に禅宗がおこり、日宋貿易のころから。
▽60 宋になって麺のこしが強くなる。生地にかんすいを加えるようになった。日本のそばやうどんにはこの独特の歯ごたえがない。当時の中国では、植物を焼いた灰を煮詰めてつくったアルカリ性の水を小麦粉に加えて麺の生地をつくった。
▽65 日本の小説では、中世の中国の小説のように食べ物が描写されることはなかった。食べることの楽しみがまったく欠如しているのだ。樋口清之によると、平安朝文学は「食欲不在の文学」だった。こうした状況は17世紀の江戸時代までつづいた。
▽70 鎌倉時代、宋にわたった覚心は、金山龍遊江寺で味噌の作り方を、径山寺では金山寺味噌の作り方おw学んだ。1254年に帰国し、和歌山に興国寺(当時は西方寺)を開山し、金山寺味噌の製法をつたえた。
……やがて、味噌おけの底にたまった汁もおいしい調味料であることがわかった。これがたまり醤油のはじまり。
16世紀後半以降、醤油は大量に製造されるようになった。
▽73 たつの市「うすくち龍野醤油資料館」 1660年代にうすくち醤油が開発された。当初はこの醤油が関東でも幅を利かせたが、江戸中期以降、関東では濃口醤油が主流になっていった。「淡口醤油は食べ物の味を隠さない。塩分濃度が濃口より高く、食べ物本来の味を引き立てるのです」
▽76 1429年に朝鮮からきた大使は「日本は人口が多いが食べ物は少なく多くの奴隷が売買されている」
15世紀末から16世紀はじめの京都は「日本のなかでももっとも汚く、悪臭をはなつ場所のひとつであり、今日工業化が進む第3世界のスラム街を連想させるものだった」
▽78 17世紀半ばに明王朝が崩壊すると、日本の西部に逃げてきた中国人たちが麺類と肉類への嗜好をもたらした。
麺類がまったく存在しなかった社会に、仏教僧によって粉をひく技術や麺を作る技術が伝えられ……味噌やその副産物である醤油がつくられ、日本人の味覚の幅が広がり。
▽83 江戸初期には、江戸で消費される醤油は関西の淡口醤油に圧倒されていた。……輸送技術の向上で、朝方に野田で積み出した樽は江戸川をくだって夕方には江戸の問屋河岸に到着するようになった。
……淡口醤油は、江戸に近い野田の濃口醤油には経済的に太刀打ちできなかった。
▽91 中国料理は西日本全域に広まった。九州風ラーメンは濃厚な肉の味のする豚骨スープ。その起源はおそらく、中国の影響を強く受けていた長崎にあるのだろう。
中国人や帰国した日本人の僧が質素な禅宗の精進料理をもたらす一方で、中国商人を介してつつあわったのが卓袱料理。ひとつの皿に盛った料理をとりわけて食べる。一人一人に小さな膳がある伝統的な日本の食事とは大きく違っていた。卓袱料理は今日も、和洋中が融合した料理として好まれている。
▽92 中国では皆が同じ食卓を囲み、大きな皿に盛られた食べ物を各自が自分の皿にとりわけて食べる。当時の日本人はこれに仰天した。
▽95 江戸の住民はそばにご執心。……江戸は眠らない街となり、夜更けから明け方まで屋台を営業した。……遊女は、夜更けの麺売りの大得意先だった。1680年代には江戸には、蕎麦の屋台が何千軒もあった。ウナギ、天ぷら、寿司とならんで、江戸の4大名物食に数えられた。
▽99 数百年前には「強飯」が一般的だった。平安時代に普及し、19世紀半ばまで食べられた。うるち米を蒸したもので、やや堅く……
鎌倉時代と江戸時代の最大の変化の一つは、食べることの重点が、単なる腹を満たす手段から食べ物のおいしさを味わう喜びへとかわったことだ。
▽100 参勤交代 街道や旅、需要によって「消費者という即席の階級が創出された」 江戸の慣習や食習慣を領地に持ち帰る「文化の運び手」の役割を果たした。麺類を食べることや麺料理が日本中に広まった。
▽113 水戸光圀がラーメンの発明者という伝説。
▽115 16世紀初頭、庭師や大工が1回に食べる飯は3合から4合。室町から江戸初期には、富裕層は1日2回、やがて3回の食事をとるようになり、経済的に余裕のあるものは、白米を食べる量も増えていった。
▽116 日本食の基準をつくったのは江戸でありそれがラーメン登場の土台をつくることになった。江戸には数多くの食べ物屋があり、1765年にはじめてレストランが登場したフランスよりも、19世紀初頭までレストランが1軒もなかったイギリスよりも、はるかに先を行っていた。
▽118 江戸では1770年代に屋台が登場し、19世紀はじめの江戸には、屋台から路上に簡単な卓をならべただけの店、実際に店を構えるごく少数の店まで、6000軒にものぼる飲食店があったといわれる。
□明治維新
▽129 日米修好通商条約 中国人は仲介者の役割。漢字で筆談でき……視察に来日した西洋企業の多くは、香港や上海の中国人スタッフを日本へ派遣し、貿易業務の連絡にあたらせた。
▽131 1880年代までの横浜では中国人が他の外国人を圧倒していた。……1883年には中国人が外国人のほぼ4分の3を占めるまでになる。
▽135 1882年福沢諭吉は「肉食せざるべからず」と題した一文を発表。肉食は文明かを促進すると主張した。
▽141 幕府は1612年牛馬を食用に解体処理すること、および自然死した牛馬を売ることを禁じる命令をだしている。17世紀にこうした禁止令がたびかさなった結果、肉食に対する反感が広く浸透し、やがて強い禁忌となって定着したとみる者も少なくない。
▽143 明治初期には「牛鍋」という牛肉入り料理が突如として人気を博した。
▽146 19世紀末、麺を濃厚な肉のスープに入れて食べるというアイデアを思いついたのは横浜の華僑たちだった。
……軍隊は地域ごとの食のばらつきを改善し、若い兵士に郷土食以外のさまざまな料理を体験させる機会を提供した。
▽147 帝国軍は陸海軍とも脚気の大流行にみまわれた。
▽149 森鴎外は「非日本食論ハ将ニ其根拠を失ハントス」と題した一文を出版し、白米を主食とした食事をつづけるべきで、服飾として肉や野菜など多様な食品を加えればよいと説いた。
福沢諭吉は、肉を主体としたパン食に移行すべきだっと主張した。
民間人の福沢は、食料自給力への関心が薄かったのに対し、森鴎外は、もし肉とパンを大量にとりいれれば輸入に依存することになり、国家安全保障上の理由から危険な事態になるとかんがえた。
……陸軍が日本食の伝統にこだわったのにたいし、海軍には変化が訪れた。海軍で脚気の大流行がおき、調べたところ階級が低いものほど脚気になりやすいことが判明。また、イギリスの水兵には発病例がないことから、高木はタンパク質の不足が脚気の原因だと確信し、予防策として、水兵により多くのパンや肉や野菜を与えるよう提言した。
……軍艦「龍驤」で、376人うち169人が脚気になり25人が死亡。寄港たホノルルで食料をすべて廃棄し、肉や野菜を積み込んだ。日本へ帰還するまでにほとんどの水兵が回復した。
▽154 江戸時代にすでに麺を好む食文化が確立しており、肉食を受け入れる人が増加しつつあった。近代化が都市化をうながし、旅行機会を増やした。来日する外国人の増加とともに、日本人の舌にあい、かつ「文明的」だとみなされる新しい味覚がもちこまれた。
▽155 日本の近代化をまなぼうと中国人留学生が来日。
長崎で「ちゃんぽん」と呼ばれる最初のオリジナル麺料理が華僑の手によって誕生。
▽166 1920年代には、植民地各国の料理が国内で味わえるようになった。帝国の拡張によってはいってきた新しい味がまじりあい、そこからラーメンが生まれる。
▽174 栄養学者の川島四郎は、ロシア艦隊が旅順で負けたのは適切な栄養を摂取することを知らなかったからだと指摘。野菜を接種できず、ビタミンC欠乏による壊血病にかかった。大量の大豆を保管していたが、「豆もやし」にはビタミンなどが含まれることを知らなかった。
▽179 中国人留学生の第一波は、日清戦争後の1896年だったが、13人のうち4人は帰ってしまう。大きな原因のひとつは日本の食事に耐えられないことだった。
……留学生が増えるにつれ、留学生向けの食事を出す飲食店が次々と出現する。
……魯迅の弟の周作人は、日本の弁当について、日本人はごはんや惣菜がさめていても気にしないが、中国人は熱々の食べ物を好み、冷や飯をきらうと述べている。
▽183 ラーメンが誕生するための消費者市場が形成されるには、「ポスト工業化とポストコロニアルの過程」を必要とした。第二次大戦後、さらなる変革を経験しなければならなかった。
日本は近代化と帝国の喪失という経験を経て、伝統に根ざした食文化からいっそう離れていく。
▽184 20世紀に入る頃には、中国人留学生や工業労働者たちを相手にする飲食店が、肉のはいった似たような醤油味の汁麺を出すようになっていた。
▽190 日露戦争に勝利すると、東南アジアなどの人たちは日本人を、白人国家を打ち負かしたはじめての「有色人」国家とみなした。20世紀初頭の日本は非白人国家にとって近代化の指標となり、多くのアジアの革命家をひきつけた。
……ボーズは、かくまってくれた相馬夫妻への感謝のしるしとして「純印度式」カリーライスをだす喫茶部を開くよう提案した。この料理は、1920年代末にカレーライスのブームを巻き起こした。
同じ頃、中国料理の人気も高まっていた。
▽198 エリート層は中国料理を口にするのを躊躇した。中国料理を後進的な文化のものだとみなしていた。その国の料理と衛生状態が文明度をはかる物差しだった。
▽199 1908年の新聞記事。かつて女性はたったままの体を後ろにそらせて排尿したとしたうえで、東京の女性が小用をたすときにしゃがむのは、淑女にあるまじき行為だと嘆いた。
男爵で美術史教授は、西洋人の排泄物はいかにも高尚だと書いている。日本人は消化の悪いものを食べるので、排出されるカスが多いのに対し、西洋人は消化のよいものを食べるので排泄物も少なく、「サァと刷毛で撫でた様な、極く細い両端の尖った、糸のような糞だ」というのである。
▽205 1922年札幌の竹家食堂ではメニューに中華料理をいくつか加えた。北海道帝国大学の近くにあり中国からの留学生が180人もいて、よく出入りしていた。とくに人気があったのが「支那ソバ」だった。シコシコと弾力がある麺。……
ラーメンは正確な発祥地がどこかも、ラーメンという名前の由来もはっきりしない。……当初多くの人は単に「支那ソバ」と呼んでいた。流しの支那ソバの屋台をひくのは中国人が多く……
▽207 ラーメン発祥の血を標榜する店は、竹家以外にもいくつもある。1910年、東京浅草の「来々軒」が開店。
1915年、喜多方市にラーメン屋が開店。喜多方市は現在では80軒ものラーメン店が林立し、人口あたりの軒数は日本一。
1925年、浙江省出身の……がラーメン屋を開業。
▽209 日雇い労働者の一膳飯屋の存在と、東京がもともと麺類のメッカだったこと、都市住民がやすくておいしい食事を求めたことが、ラーメンが普及する下地をつくったといえる。
▽211 支那ソバ(1940年代末までそう呼ばれていた) 大半の人は「いかがわしい」イメージをもっていた。低俗で下品だったからこそ、夜の盛り場で楽しむにはぴったりの食事だった。
▽216 日本料理の礎は江戸時代に築かれたが、近代日本の食と味は明治末期から大正初期にかけて中国料理をとりこむことでつくられた。そこで重要な役割を果たしたのは、こってりした食品を好む都市部の新たな労働者階級だった。1920年代におきた中国料理のブームの一因は、賃金労働者の増加にある。見た目より味を重視する中国料理を自分たちプロレタリア階級にふさわしい料理としてうけいれた。
▽218 1925年、ラジオ放送開始。1920年代後半には、即席の食品や食材が次々誕生。
▽219 戦争で、中国料理の普及は妨げられる。大正期には日本の食の本格的な革命のお膳立ても整っていたものの、1940年代の軍国主義にはばまれ、ラーメンのようなハイブリッド食品がふたたび本格的に出回るようになったのは1950年代半ばになってからだった。
□第二次大戦
▽229 平均的な労働者の家庭では収入のおよそ30%が食費にあてられ(アメリカは20%)、小作農かは収入の60%が生活費にあてられた。1930年代にはいっても日本人男性の平均寿命はわずか46歳だった。
▽236
▽239 戦争中は、明治時代に展開された料理法や文明開化、肉食などについての議論は消え去り、愛国主義的な幻想にもとづくあやしげな栄養理論が出まわった。たとえば軍属の栄養学者だった川島は、健康のために卵は殻まで食べるようにと説いた。
▽242 「日本軍戦没者の過半数が餓死だった。……飢えと病気にさいなまれ、痩せ衰えて無念の涙をのmながら、密林のなかで野垂れ死んだ」
大正期にラーメンやカレー、中華料理にまで拡大した日本料理の概念は、戦争によって、伝統的な「栄養に富んだ」食事ーー米、みそ、魚ーーへと回帰していた。
▽247 日本人の平均的カロリー摂取量は1950年にようやく戦前と同じ水準に回復した。……戦前にせっかく覚えた美食の数々を戦争に奪われた日本人は、戦後、しだいに米にかわって、麺類をはじめとする小麦製品や他の食品を食べるようになった。帝国の領土拡大をはかった時代以上に積極的に、植民地由来の料理に挑戦するようになっていく。
……空腹を満たす手段の探究が、インスタントラーメンの発明を促した。
▽260 1946年5月19日には20万人のデモ隊が皇居の前に結集する「食糧メーデー」が起きた。だが占領軍が小麦を援助。46年8月の盆祭りでは、「マッカーサー元帥に感謝する」と横断膜をかかげて盆踊りをおどった。GHQの統治の成否は食糧供給いかんにかかっていた。
▽262 米国は日本に軍事基地を維持する一方、日本はアメリカの軍需物資を製造することに。これが、朝鮮戦争の特需によって、経済復興をはたすことにつながった。外貨を獲得し、それでアメリカの余剰農産物を購入。その農産物がラーメン人気の上昇に一役買うことに。
▽263 宇都宮の餃子。餃子を副菜ではなく主食として食べた。これは中国の伝統的な食べ方。……14師団が中国に駐屯した結果、餃子についての知識を持ち帰ったという説も。
▽266 余剰小麦と中国料理の才、国際的な味に対する体験願望がちょうどかみあった。最初に中国からの引き揚げ者たちが屋台をはじめると、経済成長に貢献した学生や労働者が、安くて満腹感の味わえる、脂っこくておいしいラーメンや餃子に押し寄せた。
▽267 主婦連合。日常品の配給や価格システムの不備を批判してきた。やがて「いのちとくらしを守る運動」へ。シンボルはしゃもじ。
▽269 1958年大阪近郊の安藤百福がインスタントラーメンの製法を編み出した。
……小麦が普及し、小麦粉製品が米の代用品として盛んに売り込まれた。麺類売上増。
▽277 日本の食文化の第一の革命は、江戸時代初期、上層階級による白米消費の増加でもたらされた。第2は、明治初期、新しい宮中晩餐会の様式が生まれたことによるもの。第3は、戦後の変化によってもたらされたもの。
……都市部が過密化、男性社員を地方に派遣する「単身赴任」。地方の若者は都会に出てくる。1960年代から70年代にかけて増えた一人暮らしの人々は、夜遅く帰宅してから、安上がりなインスタントラーメンを大量に消費した。
戦後の日本は工業化と復興という点では大正期と共通するものがあるが、社会ははるかに平等になっており……
▽281 喜多方「蔵の街」に関心があつまる。それまではラーメン屋は10軒かそこらしかなかった。
戦後失われてしまったかのようにみえる本物の日本を見出そうというマスコミのキャンペーン。「本物の」といううたい文句は、その土地の食品を売るための有力な手段として活用できると考えられた。
▽286安藤百福がアメリカへ。アメリカの家庭にはごはんや汁そばを入れられるどんぶりのような器がない。アメリカ人はラーメンを紙コップにいれてたべていた。これが、発泡スチロールのカップの開発につながる。
▽288 池田市のインスタントラーメン発明記念館(2017、カップヌードルミュージアムに改称)。
▽320 1980年代のラーメンはみな似たりよったりで今のような多様性はなかった。90年代はじめから味や種類が急増し、その結果としてラーメンをテーマにした漫画の創作が可能になったという
▽328 静岡市の「清水すしミュージアム」 旧清水市は、寿司屋の数が日本一多かった。だが1990年代には地域経済がおちて、寿司店の大半は廃業してしまった。
▽336 ラーメンの元祖あらそい
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