■淡海文庫 20210924
近江商人の出身地は、琵琶湖の湖西の高島、蒲生郡の八幡と日野、神埼郡の五個荘、愛知郡の愛知川沿いから犬上郡、機業地の長浜周辺にいたる地域にひろがっている。渡来人によって開かれた古代以来の近江の先進性を基盤に、中世には多数の市と座商人を生み出し、戦国期には佐々木六角氏に代表される楽市令や石高制をいち早く採用したような地域だった。江戸時代から近江には、畳表や蚊帳、売薬、麻布など、全国で通用する地場産業があった。これらも近江商人発祥の基盤となった。
近江八幡と高島商人は江戸初期から登場。蝦夷地や奥羽地方にわたり、盛岡や松前などの城下町に出店をもうけ、中心的商人に成長した。
日野商人は、元禄前後から日野椀・売薬・帷子・小間物などをもって、関東から東海道沿い、京阪間に多数の出店をもうけた。
江戸中期以後に、五個荘や愛知川沿いの湖東商人が登場。京坂や東海道で仕入れた呉服・綿関係品を関東・東北で売却。関東・東北の呉服・生糸・紅花類を名古屋・近江・京坂・丹後などで売った。
はじめは商品を天秤棒にかついで往復したが、出先の有力者になじみができると、そこに商品を馬や船で別送し、土地の商人をあつめて販売や委託の商談をした。小売行商ではなく大量の商品をあつかう卸行商だった。
行商で目星をつけた要地に出店を開き、出店間の情報ネットワークを利用して価格差に注目する取引は、「諸国産物廻し」とよばれた。
都市型商品の売り込みによる文化の伝播と地方商品の仕入れによる産業育成につながり現代の商社活動のさきがけのような存在だった。
近江商人は江戸・京都・大坂を中心に迅速な通信網をもっていた。1860年3月3日、井伊直弼が暗殺されると、その情報はわずか3月7日正午に丁吟に届いた。当事者の彦根藩に情報が届いたのは7日夜半だったという。
異境を行商し、異国に出店するには、信頼を得なければならない。他国行商の心得が「三方よし」という言葉に表現された。「安くうりすぎたかな」と悔やむような取引を極意とせよと、顧客満足度を高めることを重視する。
あつい信仰心に裏打ちされた勤勉、始末と世間への奉仕精神も重要な要素だった。
近江商人は真宗の信者が多い。真宗では報恩の業として、家業に精進することが説かれる。近江商人の宗教倫理と経済倫理は真宗においてもっとも合致した。真宗や近江商人にとってのプロテスタンティズムだったのだろう。
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▽異境を行商してまわり、異国に開いた出店を発展させるためには、、もともと何のゆかりもなかった人々から信頼を得ることが肝要であった。それが他国行商の心得「三方よし」という言葉に。
▽私利に対する欲を抑制するために神仏への信仰を厚くすることを説く。……強い信仰に裏打ちされた勤勉、始末という個人的要素だけで泣く、世間や社会全体への奉仕の精神を強調。→日本生え抜きのCSR
▽「安くうりすぎたかな」と悔やむような取引を販売の極意とせよ。顧客満足を高めることこそ、家業永続のもと。
▽出身地は、湖西の高島、蒲生郡の八幡と日野、神埼郡の五個荘、愛知郡の愛知川沿いから犬上郡、機業地の長浜周辺にいたる地域に偏在。琵琶湖周辺の鉄生産をはじめとする、渡来人によって開かれた古代以来の近江の先進性を基盤に、中世には多数の市と座商人を生み出し、戦国期には佐々木六角氏に代表される楽市令(楽市楽座)や石高制をいち早く採用したような地域から出現した。〓
▽近江八幡と高島商人は江戸初期から登場。江戸の一等地に八幡商人が開店。高島・八幡の商人は、近世初期から蝦夷地や奥羽地方にわたり、できたての城下町に出店をもうけ、中心的商人に成長。盛岡の小野・村井は高島商人、松前にでかけたのは田村・岡田・西川ら八幡商人。
やや遅れて日野商人が出てくる。元禄前後から日野椀・売薬・帷子・小間物などをもって、主に関東から東海道沿い、京阪間を商圏に。醸造業と呉服太物などを取り扱いながら多数の出店をもうけた。
江戸中期以後に、五個荘や愛知川沿いの湖東商人が登場。麻布などの特産物の持下り商いに従事。京坂や東海道で仕入れた呉服・綿関係品を関東・東北で売却。関東東北の呉服・生糸・紅花類を名古屋・近江・京坂・丹後などで販売。
金堂町は、近江八幡市の新町とともに近江商人の本宅群の存在が評価され、重要伝建に。
▽はじめは商品を天秤棒にかついで往復したが、出先の有力者になじみができると、そこに商品を馬や船で別送し、その土地の商人を集めて販売や委託の商談をした。小売行商ではなく大量の商品を扱える卸行商だった。相手の商人の人柄や土地柄などを吟味する商才を要した。
▽行商で目星をつけた要地に出店を開いた。出店を中心に枝店を広げた。出店間の情報ネットワークを利用して商品の需給を調整しながら価格差に注目した取引は、持下り商いの大規模化した諸国産物廻しとよばれる取引。
……北海道との貨物回漕のために、加賀や越前の船を荷所船と称する特別仕立てのチャーター船に組織した。……都市型商品の売り込みによる文化の伝播と地方商品の仕入れによる産業の育成に貢献することになり、現代の商社活動のさきがけ形態。
▽強い信仰心、それに裏打ちされた勤勉、始末と世間への奉仕精神。
▽秩父事件 蜂起軍は高利貸しを焼き討ちしたが、近江商人の矢尾家の出店は無事だった。営業を保証した。日ごろから徳義を重んじ、地元に配慮した経営への評価の賜物だろう。
▽伊藤忠兵衛は八目村(豊郷町)。
日本生命の創始者の弘世助三郎は彦根。
保険会社を構想した発端は、多賀大社の信仰者団体として組織された多賀教会。1880年の信徒は60万人を超えていた。有力会員だった助三郎は、会員の相互扶助のために多賀教会を主体とする生命保険会社創立を企図していた。
明治14年に明治生命、21年に帝国生命が創設されたことは、関西における発の生命保険会社を創立する契機となった。
▽近江商人が1年間に歩行した記録。神埼郡川並(東近江市五個荘川並町)の太物商奥井万吾は1893年に記した述懐のなかで、その昔、1カ年で奥羽方面へ二度下り、その間にも出雲と伯耆の山陰道へ木綿仕入れにでかけたので、合計千里(4000キロ)歩行したと述べている。3,4貫目(11〜15キロ)の荷物を天秤棒でかついで旅をした。
▽湖東地方は浄土真宗が盛ん。近江商人も真宗の信者が多い。真宗では浄土思想から、極楽往生できることへの報恩の業として、家業に精進することが説かれる。府政や貪欲やぜいたくを悪心として排除する立場につながる。近江商人の宗教倫理と経済倫理は真宗においてもっとも合致した〓。
……伊藤忠兵衛は熱心な真宗門徒で、商いは自利利他を実現するものだから「商売は菩薩の業」との信念を抱き、店員の精神を奮い起こすことを仏教に求めている。篤い信仰心は、謙虚をうながし、悪心をおさえる規範となることによって、家業永続への祈りに結びついた。
▽天保の飢饉で藤野四郎兵衛 住宅の改築と寺院仏堂の修繕工事を実施。不況時の公共事業の役割。工事従事者に銭を払うだけでなく、その家族へも雑炊を施与した。「藤野の飢饉普請」。一方的に金品をほどこすのではなく、相手の立場も考えた。
▽江戸時代から近江には、全国に持ち下っても通用する地場産業があった。畳表、蚊帳、売薬、麻布など。近江商人発祥の理由のひとつにこの地場産業と結びついた行商をあげてもよいだろう。
持下り商いの注目すべき点は、小売行商ではなく、商品を大量にあつかう卸行商だったこと。
……全国各地に出店した近江商人は、東西の価格差や産地と消費地の値段の開きに注目して、出店相互間で商品の回転をおこなう、諸国産物廻しとよばれる商法を大胆に導入した。
▽ 江戸初期から松前へ進出した八幡と薩摩・柳川(彦根市)出身の両浜商人も、米・味噌・塩・古手などの生活必需品を北海道に運び、ニシン・鮭・数の子・昆布などの水産物を上方へ移送し、巨利を得た。さらに、高島郡大溝の小野・村井の商人団は京都と南部盛岡で多くの出店を開き、南部の紫根・紅花・生糸・青苧・漆・蝋などの「登せ荷」を上方へ……。
出店間の情報ネットワークを利用する諸国産物廻しは、持下り商いの大規模化したもので、富の源泉となった。
▽近江商人の在所では、施餓鬼などの法事を通じて退職した元店員との交流はなくなるまで続き、その没後も物故者法要が営まれた。
▽1860年3月3日朝、井伊直弼暗殺。丁吟ではその情報はわずか3日半で3月7日正午に届けられた。当事者の彦根藩でさえ、江戸藩邸から彦根へ情報が届いたのは7日夜半だった。
当時の近江商人は江戸・京都・大坂を中心に迅速な通信網をもち、非常時にも敏速に対応する体制を取っていた。
▽東洋紡も、日本生命も、近江銀行も、近江鉄道も・
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