■講談社学術文庫20220906
知識は、あるきながらえられる。あるきながら本をよみ、よみながらかんがえ、かんがえながら歩く。これは、いちばんよい勉強の方法だとわたしはかんがえている--
あるきながら思想をふかめ、「日本」の文化や歴史の構造を発見する過程をえがいている。
現地へのアプローチは、権威を利用せず、自分の知人をたぐった。
「わたしのやりかたを、いわゆる取材といわれたくないのである……わたしがむかしからフィールド・ワークでまもってきた接近法なのである」
藩校からつづく高校、大本教、猿山、パイロットファーム……をフィールドワークすることで、日本文明における江戸時代以来の伝統と近代化の問題という垂直軸と、地方と中央の問題という水平軸の構造をうきぼりにしていく。その想像力と構想力は驚くばかりだ。生前にお目にかかったことは2回しかないが、不世出の天才だったんだなぁとあらためておもった。
■福山誠之館
江戸時代の藩校の多くは、地域的閉鎖性と階級的限定があったがゆえに、明治になって廃止された。
では、福山誠之館が戦後まで生きのこったのはなぜか。
備後藩主の阿部家は天下国家を意識してきた。それによって、地域的な閉鎖性をのりこえる中央志向の教育をほどこしていた。
明治のインテリは、明治のはじめを近代化の出発点とみなしたから、江戸時代の伝統と近代化のつながりを見ようとせず、伝統は暴力的に拒否された。
梅棹は、封建制度が発達した日本は西欧とならんで「地方原理」がつよい社会とみており、明治から第二次大戦までは例外だとかんがえる。
福山誠之館をしらべることで、江戸時代にあった近代の芽をあきらかにするとともに、江戸時代の「地方原理」が戦後になって見直されていると分析する。戦後の福山城再建は、あたらしい地方建設の精神的拠点になりうると評価する。
ただ21世紀になると、復活しかけた「地方原理」はふたたび弱体化している。今の世の中を彼ならばどう分析するのだろう。
■大本教
大本教拠点をおく綾部は、1950年に全国のトップをきって、世界連邦平和都市を宣言した。1955年以降は爆発的に進展し全国180以上の市町村が宣言した(2019年の加盟自治体は54、綾部市長が会長)。
綾部市議会の世界連邦都市宣言決議も、核兵器禁止や軍備撤廃などの決議も大本教徒がイニシアチブをとった。
大本教は戦前から、圧倒的なエネルギーを発揮していた。
社会主義が弾圧されると、大本教をあたらしい社会改造運動とみたインテリや学生が入信し、「ますかけひきならす」という平等世界実現の思想に熱中した。
世界主義や人類同胞主義をかかげ、出口王仁三郎の号令で、青年たちはエスペラント運動に驀進した。
「万教同根」と、すべての宗教は根本においておなじだとといたから、大本にくわわるには、転宗を必要としなかった。
大本からは、「生長の家」や「世界救世教」などいくつもの新興宗教が分離した。それほどすさまじい活力だったのだ。
だからこそ、1935年に徹底的に弾圧され、 拠点の綾部と亀岡の施設はダイナマイトで爆破され、ローラーでくだかれた。
戦前のさまざまな弾圧史のなかで、非転向の率がもっともたかかったのが大本で、9割は転向しなかったという。
戦後すぐに復活し、世界連邦の運動などを展開する。綾部市では自衛隊の志願者が極端にすくなかった。心霊主義をつうじて、国をこえ、民族をこえ、世界中のすべての宗教の連携によって、世界に平和をもたらそうとした。そのエネルギーに1960年ごろの梅棹も期待をかけた。
残念ながらその後、大本は分裂し、ナショナリズムが高まるとともの、世界連邦運動も下火になってしまったが、梅棹の理想主義をかんじられる文章だった。
■北海道独立論
1960年、根釧原野のパイロットファームの農家をたずねてまわった梅棹は「大都市郊外の公団住宅居住者をたずねているような気がした。そこには、規格化された家計簿的人生がある」と、明治以来の開拓の延長ではないとかんじる。
樺太や北方領土があった戦前、北海道は辺境ではなかった。樺太がなくなって、「辺境」という役割をになわされることになった。パイロット・ファームは、戦後における北海道の辺境化の農村版だという。
明治の開拓時代、黒田清輝開拓次官らは、西欧的伝統との接続のもとに北海道を開拓をしようとかんがえた。米作りではなく、酪農を中心とする主畜農業とし。日本人の衣食住の根本的な変革がもくろまれた。
日本のほかの地方では、近代化は工業化・都市化とむすびつくが、北海道では、酪農を中心とする農業の展開のなかに近代主義の夢がもりこまれた。当初は米作は禁じられ、デンマーク農業を模範とし、そこから「雪印」酪農工業がうまれた。
一方民衆は、酪農をまなぶ一方で、生活面では、ふすま・たたみの日本家屋にすみ、米作りを成功させた。それによって、日本人は基本的生活様式をかえることなしに北海道に植民することに成功した。
酪農重視は、北海道エリートたちの「神聖なる復古思想」であり、パイロット・ファームにそれがうけつがれているという。
アメリカやカナダなどの「新世界」は独立をはたしたが、日本の新世界である北海道は、政治的独立ははたせなかった。
明治以後の北海道は、開拓がつくりだした内陸文化圏と、それに先行して沿岸文化圏が存在していた。前者は官製の文化圏だが、漁業労働者、商人、ながれものの自由労働者によって建設された沿岸文化圏は民衆によるものだった。
18世紀以来、松前藩はしばしば反政府的な態度をとり、中央政府の意のままにならなかった。さらに榎本武揚らは「共和国」を樹立する。だがロシアの存在が、北海道の独立をさまたげた。
戦後北海道は革新自治体になった。社会主義の道庁に巨額の建設予算をにぎられてたまるか、と、政府は北海道開発庁をつくった。中央官僚がつくった道庁はすでに土着化し、分離主義的現地政権になっていた。それに対して、開発庁は中央志向的な統合主義を代表していた。
梅棹は、北海道人による、北海道のための独立の政府をもつべきとかんがえるが、地域主義イコール重農主義といううところに北海道の悲劇があるとみる。工業発展がともなう北海道地域主義の成立が不可欠だと指摘した。
■高崎山
ながらく動物の研究は生態学的なものだった。
動物の群れの社会学的な研究には、群れを構成する個体を1匹ずつみわける「個体識別」が不可欠だ。
大平原にいきる馬は可能だが、森にすむサルの個体識別はだれもできていなかった。
京大の伊谷純一郎ら若手研究者が「餌付け」に成功することで、至近距離で行動を観察できるようになった。それによって生態学的段階から、社会学的・社会心理学的段階へとすすんだ。
愛知の犬山は、サルが生息する天然記念物だったが、戦時中にくってしまいサルはいなくなった。名鉄がサル復活をかんがえて京都の霊長類グループに接触した。名鉄の出資でモンキーセンターが発足した
ニホンザルと人間のあいだのすきまをうめるのは類人猿だ。そこから、東南アジアやアフリカの類人猿研究にすすんだ。
世界の最先端をいくサル研究は、西洋人とことなり、日本人がサルに親しみをかんじていたからうまれた、と推測している。
■名神高速道路
自動車専用道路がまだない時代、日本初の高速道路である名神高速の工事現場をたずねる。そこから日本の道路はなぜ悪路なのか、という議論にすすむ。
「工業国にして、これほど完全にその道路網を無視してきた国は、日本の他にない」と、1956年にアメリカの調査団は報告した。
なぜそうなったのか?
江戸時代の東海道で牛車を活用したが、局部的な現象だった。ほかでは、大八車も19世紀に発明された人力車も人がひく。「かご」もふくめて、道路交通は人間の肉体でささえられてきた。
馬車がなかったため、道は「歩道」だった。それが、鉄道と水運の発達にくわえて、日本の「悪路」の根本原因であると推測する。
■出雲大社
アマテラスの次男の子孫が出雲。長男の子孫である天皇家とともに、二大名門のひとつだが、明治になって、明治政府は「男爵」をあたえただけだった。
国家の神殿にどの神を祀るかという問題では、造化3神のアメノミナカヌシ、タカミムスビ、カミムスビは異論はなかった。その3神にくわえて天皇家の祖神天照大神の4柱でよいというのが伊勢派で、出雲国造の千家尊福はそれに反対し、幽冥の主宰神である大国主命をまつらねばならない、と主張した。伊勢派の主張が勝ち、尊福は神道大社教を設立し、天皇制政府の宗教政策に反対して布教活動にはいった。
そこから「神前結婚」についての議論にはいる。
伝統的な形式にみえるが、実は戦後になって盛んになったという。
神前結婚の前は、親類縁者をまえにしてさかずきをかわして誓いをたてる人前結婚だった。
そもそも家族制度そのものが、武家の伝統を導入したもので、庶民にひろまるのは幕末から明治中期にかけてだった。
近代以前は、男女は村の中で公然と集団的に交際し、自主的に結婚の相手を見つけていた。結婚の形態も、嫁入ではなく、足入れ婚、あるいは妻どい婚にちかいものがふつうだった。そこには媒酌人とか、小笠原流の三三九度といった習慣はなかった。
明治的家族制度の崩壊とともに神前結婚がふえる。家族制度の分解がすすんだ都市において発達し、家族制度がのこる農村ではすくない。
小笠原流の人前結婚に対して、神前結婚は、式場が家の外になり、親族以外の友人を参加させる糸口をつくった。媒酌人の立場がよわまり、縁結びの仕事は媒酌人から神の手にかえった。
科学と民主主義が、世俗の世界の皇帝として君臨する一方で、神々は、神聖なる儀典の世界の主宰者となる。科学と民主主義が、神々を放逐するとかんがえるのは、太古以来の日本文明の二元的構成を理解しないもののかんがえである。あたらしい日本の二重構造が発生しつつあるという。
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■福山誠之館
▽26 広島は安芸国、福山は備後の国
▽44 リッターアカデミーも藩校も……地域的閉鎖性と階級的限定は、日本の藩校の特質でも会った。だから、明治になって日本が統一され、身分制のわくがはずれたとき、藩校もまた廃止になるほかなかった。日本には藩をこえて、ひろい世界のなかで自由をうたうところの「大学」の伝統がなかった。
……全国で300ちかくもあった藩校があえなくきえさったのに、福山誠之館など少数のものが生きのこって、新制高校にまでつづくのはなぜか。
中央とのつながりという点に問題の鍵がひそんでいるようにおもう。
備後の領主とはいえ、阿部家は単なるいなか大名ではない。目はつねに、天下にそそがれていた。そのような藩の立場が、藩士の教育にも反映……
▽48 地方にありながら、はじめから、つよく治国平天下意識でつらぬかれた中央志向的。
東京に1890年に育英寄宿寮「誠之舎」。阿部家が土地建物を提供。
▽55 学校や教育のことは、ひとつの素材である。それをとおしてあらわれているところの、日本文明の構造一般にかかわる問題をこそ、主題として取りあげてみたいのである。わたしの主題は、ひとつは、日本文明における伝統と近代化の問題であり、もうひとつは、日本文明における地方と中央の問題である。前者は日本文明の時間的構造にかかわりをもち、後者はその空間的構造にかかわりをもっている。
▽56 (江戸からの)伝統と近代をつないでかんがえるはずなのだが、おおくの場合、その伝統の連続感をたちきって、明治のはじめをすべての近代化の出発点とみなすかんがえかたに慣らされてきたのである。伝統が近代化につながらなかったのではない。つながなかったのである。
……明治以来の日本のインテリの主流は、問題をつねに伝統対近代化というかたちでしかとらえなかった。
▽65 福山城再建。あたらしい地方建設の精神的拠点になりうるだろう。(明治以来のながれに抗する)
文化人たちはなぜお城ブームに反対するのだろうか。かれらのおおくが、依然として明治的な優等生だからだとおもう。体制派も反体制派も、けっきょくは統一政府が好きなのであって、地方原理の勃興をこのまない。
▽68 戦後は、ふたたび日本に地方原理がおこりつつある時期である(2000年以降残念ながら中央集権がつよまる)
■大本教
▽74 亀岡はむかしは亀山といった。明智光秀。1935年12月7日夜半。武装警官が亀岡と綾部を襲撃。第二次大本事件。
▽79 グンゼ(郡是)は綾部に。熱烈なキリスト教主義につらぬかれていた。
▽81 綾部市は、日本における世界連邦運動の聖地になりつつある。全国のトップをきって、世界連邦平和都市の宣言を1950年におこない……第2号は1952年の亀岡。1955年以降は爆発的に進展。全国180以上の市町村が宣言。
(〓2019年の加盟自治体は54、綾部市長が会長)
▽87 綾部の世界連邦運動に反対したのは「共産党だけです」。
綾部市議会で世界連邦都市宣言決議案を提案したのは大本教徒。核兵器禁止や軍備撤廃などの決議も大本教徒がイニシアチブ。
▽88 宗教活動は「大本」が、社会的・思想的活動は「人類愛善会」
▽93 戦前のさまざまな弾圧史のなかで、非転向の率がもっともたかかったのが大本。9割はがんばりとおした。
綾部と亀岡のすべての財産・施設は徹底的に破壊された。……土地は、坪9銭というけたはずれの値で、綾部・亀岡両町にひきとらせた。
▽95 綾部は祭祀の中心、亀岡は宣教と運動の中心。亀岡には、数十棟の華麗な殿堂があった。山陰一をほこる印刷所もあった。すべてはダイナマイトで爆破され、ローラーでくだかれた。
▽99 国粋主義でありながら、反体制的であり、反政府的。革新右翼に通じる。右翼急進分子は、大本だきこみの努力をしていた。
▽101 大本からはいくつもの新興宗教が分離しているが、……大本の機関紙を編集してた谷口雅春は、大本の文書宣伝技術をもって「生長の家」をたてた。岡田茂吉は手をかざして病気をなおす法をもって「世界救世教」をつくった。……
▽102 反資本主義、反軍国主義。
大正時代にはいり、社会主義に対する弾圧がはげしくなるとともに、大本には、インテリ、学生層の入信者がふえてくる。宗教を背景にしたあたらしい社会改造運動とかんがえられた。「ますかけひきならす」という平等世界実現の思想に熱中。
▽104 王仁三郎は「日本だけが尊いわけがない」といいきった。開祖出口ナオの排外的国粋主義とはあいいれなかった。
大本の世界主義、人類同胞主義が大きく表面にでてくるのは、開祖が死んで、王仁三郎の独裁が成立してからである。
▽111 出口王仁三郎の号令一下、大本の青年たちはエスペラント運動に驀進した
▽118 「万教同根」すべての宗教は根本においておなじ。大本の運動にくわわるには、転宗を必要としない。
▽129 心霊主義をつうじて、国際的連帯。……ベトナムのカオダイ教。1932年にはラマ教とも。国をこえ、民族をこえ、世界中のすべての宗教の連携と協力によって、世界に平和をもたらそうと。
▽140 世界の新興宗教との比較のうえにたって、世界の文明史のうえに位置づけたら……
ほとんどすべてがつよい国際主義、世界同胞主義。従来の宗教のもつ、排他的独善性への反省がつよい。おおくのものが心霊主義とむすびついている。ほとんどすべてが第一次大戦のあとで展開。上記の特徴は、この歴史的状況のからあらわれてくる。……当時のはげしい唯物論的社会主義思想にたいする反動の役割をはたす。それでいながら、国や民族をこえた国際的平和主義に走っていく。
▽146 綾部市では自衛隊の志願者がすくない。……イギリスにおける迫害をのがれたクエーカー教徒たちはアメリカにわたり「同胞愛の都市」フィラデルフィアを建設した。
■北海道独立論
▽154 20年前には函館のほうがおおきかったが、いまは函館25万に対して、札幌は50万。
▽157 樺太がなくなって北海道は「終着駅」と化し、「辺境」という役割をになわされることとなった。
▽163 1955年に世界銀行調査団が北海道をおとずれ、根釧原野をみて「酪農の適地だ」とおりがみをつけ、開墾用機械とジャージー種輸入に対して融資を約した。
▽173 パイロット・ファームは北海道開発のショー・ウインドウとなった。
▽175 パイロット・ファームの農家を歴訪しながら、大都市郊外の公団住宅居住者をたずねているような気がした。そこには、規格化された家計簿的人生がある。
▽182パイロット・ファームは、明治以来の開拓の単純な延長ではない。戦後における北海道の辺境化、終着駅化の農村版である。
▽183 日本文明はもともと35度線の文明である。古代以来、日本の文明の中心的地域はすべてこの線にそってならんでいた。それをたどって、北九州から瀬戸内海、近畿、東海、関東と着々と領域をひろげてきた。
▽186 トインビー 酪農を進歩的とみて、北海道での米作りは過去にしがみつく保守的農民とみた。伝統的な日本文明史との断絶において北海道を評価するみかた。
……日本の伝統と絶縁し、西欧的伝統との接続のもとに北海道の開拓をしようという思想は、開拓の歴史の当初からあった。
ケプロンと黒田開拓次官 主畜農業。日本人の衣食住の根本的な変革が目論まれている。トインビーは、ケプロン・黒田構想が実現されたかぎりにおいて、北海道の開拓を評価した。
▽191 日本のほかの地方では、近代化は工業化あるいは都市化とむすびつく。北海道では、農業の展開のなかに近代主義の夢がもりこまれた。
ケプロン・黒田以来の北海道の近代主義の花は酪農である。デンマーク農業を模範とした。明治的近代主義の伝統をになう北海道主義者たちは、現代においてはデンマーク主義者としてあらわれる。……その土壌から「雪印」酪農工業がうまれてきた。
▽195 民衆は、生産面においては、サイロの採用、酪農、主畜畑作などをまなびとったが、生活面では、日本の伝統はほとんどゆるがなかった。ふすま・たたみの日本家屋にすみ……おどろくべきことだが、コメをくった。
▽195 開拓初期には米は禁制。その後もくりかえし酪農は奨励された。にもかかわらず民衆はコメをつくった。……北海道の米作は成功し、日本人は基本的生活様式をかえることなしに、北海道に植民することに成功した。
▽197 酪農重視は、北海道エリートたちにおける、一種の神聖なる復古思想である。パイロット・ファームを企画した思想のなかに、北海道的理想主義のよみがえりをみることができるようにおもう。
▽202 アメリカやカナダなどの「新世界」は独立をはたした……日本の新世界・北海道は、植民と開拓はみごとなせいこうをおさめたが、政治的独立ははたせなかった。独立が今後の北海道にのこされた最大の課題ではないか。
▽204 明治以後の北海道は、開拓がつくりだした内陸文化圏と、それに先行して、もうひとつの沿岸文化圏がすでに存在していた。前者は官製の文化圏、それに対して、漁業労働者、商人、ながれものの自由労働者によって建設された沿岸文化圏こそは、民衆の文化圏。(今は前者も後者も力がなくなり、独自性がきえてしまった?〓)
札幌などの内陸文化圏のことばは標準語にちかいが、浜弁は東北弁にちかく、わかりにくい。それこそは、官製開拓がはじまるまえに北海道に土着した、沿岸文化圏の光栄ある共通語であったのである(ゴールデンカムイの世界、ニシン漁……〓)
▽206 松前藩には参勤交代がない。禄高による藩士の知行がない。藩士は、一定地域における漁業権、交易権という形でうけとった。武士といいながら、漁師か商人かわからないような存在であった。そこに、京阪の商業資本がながれこんだ。江差・松前は「江戸にもないにぎわい」と称された。
……18世紀以来、松前藩はしばしば反政府的でさえある。かならずしも中央政府の意のままにならぬ、独自の体制が成長しつつあった。
▽211 明治新政府は榎本の嘆願を拒否した。榎本政権がロシアとむすんで幕府の再興をはかることをおそれたといわれている。……北方におけるロシアの存在が、日本の新世界、北海道の独立をさまたげた。
▽216 戦後北海道は革新が知事に。社会主義の自治体に巨額の建設予算をにぎられてたまるか、と。北海道開発庁は政治的緊張の産物。それによって道庁は建設予算をうばわれた。道庁はすでに中央官僚ではなかった。土着化し、土民化したところの、分離主義的現地政権であるにすぎなかった。
……開発庁はより中央志向的な統合主義を代表し、道庁はより北海道志向的なモンロー主義を代表するものとみなすことができるだろうか。
▽224 異質・統合、異質・分離、同質・統合、同質・分離の4つの方式。
▽228 北海道、北海道人による、北海道のための独立の政府をもつことをかんがえたほうが将来のためによいのではないか。……北海道をして北海道の道をあゆましめよ。
▽231 重農主義からはなれた北海道地域主義が成立しなければ自立は無理である。地域主義イコール重農主義というところに北海道の悲劇がある。
■高崎山
▽239 伊谷純一郎が高崎山の研究をはじめたのは1950年
▽257 都井岬 御崎馬 もとは秋月藩の軍馬補充所。維新ののちに地元がもらいうけて牧組合をつくった
▽265 動物の群れの社会学的研究には、群れを構成する固体を1匹ずつみわける「個体識別」が不可欠。
▽267 奈良公園の鹿。1946年春には10頭ぐらいしかいなくなっていた。
▽275 馬や鹿に比べて猿がむかしいのは、「個体識別」。世界中でだれもやれていなかった。
……餌付けが成功することで、至近距離で行動を観察できるようになった。「個体識別」のうえにたってものがいえる。生態学的段階から、社会学的、社会心理学的段階へとすすんだ。
▽291 霊長類研究グループのほかに、サルにたいしてつよい関心を抱いていたのが、猿を実験動物としてつかう医学者たち。
▽293 犬山 戦前はサルがいて天然記念物だったが、戦時中にとってくってしまった。名鉄がサルの復活をかんがえて教徒の霊長類グループに接触。名鉄の出資で、モンキーセンターが発足。
▽298 ニホンザルの社会と人間の社会とのあいだのすきまをうめる社会があるとしたら類人猿敷かない。東南アジアやアフリカへ。
■名神高速道路
日本初の高速道路である名神高速の工事現場をたずねる。
▽330 ふるい東海道の舗装につかったという「車石」。江戸時代には、このレールの上を車が牛にひかれてはしって(あるいて)いた。
▽346 「日本には道路の予定地はあるが、道路というものは存在しない」「工業国にして、これほど完全にその道路網を無視してきた国は、日本の他にない」1956年のアメリカの調査団「ワトキンス報告」
日本の産業は、水運と鉄道によってささえられた。
▽351 江戸時代の東海道における牛車も、局部的な現象にすぎなかった。……ほかの地方では乗用どころか、荷を引く牛車さえもなかったのである。
大八車も人がひく。19世紀に発明された人力車も人がひく。「かご」以来、日本の道路交通は、人間自身の肉体によってささえられている。
……馬車がなかった……だから、道というものは車をとおすためのもの、という観念がまったく欠けている。……道は本質的に「歩道」である。
……馬車がなかったことが、日本人の道路観念におおきな影響をおよぼしているのにちがいない。
■出雲大社
▽373 千家家と北島家
ふたつの国造家。南北朝時代に継承権をめぐる兄弟のあらそいから分裂して、わかれた。
戦後も対立。御札に「出雲大社」と印刷してあるのが大社教(千家)で、「出雲大神」とあるのが出雲教(北島家)。
▽375 大化改新によって、神事と政務とが分離する。それまでの国造は神事のみを担当し、政務は郡領の所管となる。ところが、出雲では両者が分離しないで、平安朝の初期まで大化改新以前の古代的秩序が保存された。
▽377 アマテラスの次男の子孫が出雲。長男の子孫である天皇家とともに、二大名門のひとつであるはずだ。それが明治になって、明治政府はこの名門に対して男爵をあたえただけというのは、なにか不公平のような気がする。
▽382 近代以前に伊勢と出雲は、地域をこえた信徒組織をつくりあげていた。明治になって、出雲大社教に発展してゆく。組織の指導者は第80代国造千家尊福である。
▽384 神殿にどの神を祀るかという問題。
造化3神、アメノミナカヌシ、タカミムスビ、カミムスビは異論はない。それから、天皇家の祖神天照大神、この4柱でよいという伊勢派の意見に対して、出雲国造千家尊福はまっこうから反対した。
世人をみちびく顕幽の2界の神によって、生死ふたつながらの安心をえさせねばなrない。幽冥の主宰神である大国主命をまつらねばならない、と。
伊勢と出雲の対決。
これに負けて尊福は神道事務局からの分離へ。
弟に宮司の職はゆずって、自分は神道大社教を設立し、 布教活動へ。天皇制政府の宗教政策にまっこうから反対して独自の道を歩む。日本という国のもつ二元構造の根深さ。
▽391 神前結婚 伝統的な結婚式の形ではない。戦後さんになった形式であるといえる。
……一説によると、大正天皇の即位のときに、それにあやかって東京大神宮ではじめたのが、民間における神前結婚のはじめだという。また一説によると、大正天皇のご成婚の記念として、やはり東京大神宮ではじまったという。この説をとれば1900年である。全国的に流行しはじめたのは戦後の現象。
▽393 神前結婚のまえは、人前結婚だった親類縁者をまえにしてさかずきをかわして誓いをたてた。
むかしの人前結婚といまの人前結婚のちがい。第一に場所 むかしは新郎の家。結婚式は「嫁入り」の式だった。ひとりの男とひとりの女が、公衆の前に夫婦であることを宣言するという意味での、あたらしい人前結婚とはちがう。
第二に仲人 ふたつの家の家格におうじて、つりあいのとれた仲人がいた。
▽394 家族制度そのものが意外にあたらしい。庶民が、武家の風にそまって、めんどうな制度を家のなかにもちこむのは、幕末から明治中期、極端にいえば明治民法そのものによって形成されたものとさえいえるのではないか。
明治以後の知識人の、「家」とのたたかいは、あるいは前近代から近代への脱皮のくるしみではなくて、日本の近代それじたいのなかにしかけられた、わなのなかのたたかいであったかもしれない。
……近代以前は、わかものと娘は、たがいに村の中で公然と集団的に交際し、自主的に結婚の相手を見つけていた。
……結婚の形態も、嫁入婚ではなくて、足入れ婚、あるいは妻どい婚にちかいものが普遍的であったのではないか。そこでは媒酌人とか、小笠原流の三三九度とか、ばかばかしい習慣はすべて意味をうしなう。
▽395 神前結婚は、明治的家族制度の崩壊と歩調をそろえている。家族制度の分解がすすんだ都市において発達し、家族制度がのこっている農村では、発達がわるい。
小笠原流の人前結婚に対して、神前結婚はいくつかの点であきらかに現代につながる性質をもっていた。式場は家から外にでた。これは、親族以外の友人・知人を参加させる糸口をつくった。第二に、媒酌人の立場がよわまって……縁結びの仕事はふたたび神の手にかえったのである。
▽398 神前結婚という形式だけをとっていうと、創始者はおそらく、出雲大社教の初代管長、千家尊福である。明治20年代。
▽402 あたらしい日本の二重構造が発生しつつある。科学と民主主義が、世俗の世界の皇帝として君臨するだろう。神々は、神聖なる儀典の世界の主宰者となる。科学と民主主義が、神々を放逐するであろうなどとかんがえるのは、太古以来の日本文明の二元的構成を理解しないもののかんがえである(出雲と伊勢、天皇と将軍、天皇と出雲国造……)
■空からの日本探検
▽409 稚内 「さいはての地」という実感は私にはない。稚泊連絡船の発着地だったし、北方領土への中継地としてにぎわっていた。カフェーなんかがたくさん軒をならべていた。
■日本探検始末記
▽421 近江菅浦をとりあげるつもりだった。「管裏文書」中世の文書がでてきたことで有名。ヤンマーが村内に20ばかりの小工場を建設してた……村落共同体が解体せずに、そのまま現代的な精密工業村へ移行する道をさぐってみようとかんがえた。
事業開始にあたっては、ヤンマーの社長と菅浦の口調とが、菅之浦大明神の社頭で契約書を交わしたという。菅浦村落共同体は、みじんのゆるぎもないままに、工業村に移行したのである(〓今は?)
【長浜くらしノート [https://naga-labo.org/daily/5067/]】
■解説 原武史
▽434 「わたしは、日本文明は、もともと分散にむかう地方原理がかなりつよい型の文明であると見ている。封建制が成立するということが、地方原理のつよさをしめすものである」という文明観。幕藩体制という名の封建制が成立した江戸時代こそが、日本文明の全面開花した時代として見直されてくる。
▽436 大本が理想とした世界連邦の夢は完全に遠のいている。大本教じたいも、80年代以降、宗教法人大本のほかに大本信徒連合会と宗教法人愛善苑の3派に分裂したことで、かつての勢いはなくなってきている。
▽441 「日本という国は二重構造がすきな国である」アマテラスとオオクニヌシ、天皇と出雲国造、伊勢と出雲……けれども両者は非対称の関係にあり、梅棹は常に後者から前者を、さらには日本全体を見ていたところがある。
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