■文春文庫20220112
筆者自身のミッション系の学校での経験、祖父が漁師をしていた外房・御宿で1609年に南蛮船が難破した事実、留学した香港と澳門の経験、キリシタンへの興味からはじめたリュート……。
筆者自身の経験と、キリシタンの歴史が少しずつからみ、融け合っていく。
外国人宣教師やキリシタンたちは火あぶりや逆さづりで虐殺された。だが宣教師たちは「殉教」を望んでいた。むしろ殉教の最前線である日本に自らすすんでやってきた。カトリックは膨大な手間をかけて事実を調査し、殉教した人々を福者や聖者として顕彰しつづけている。記録し記憶しつづけることがカトリックの強さの源泉なのだとよくわかる。
大村では、領主が率先してキリスト教に帰依し、領民を改宗させた。領主の息子や孫はキリシタンを禁じて弾圧し、自らの領民を弾圧し虐殺することになった。宣教師たちは、潜伏したキリシタンを世話するため、みずからも日本に残った。
島原の乱のあった有馬では、旧住民は皆殺しとなったから、半島北部の北目や小豆島から農民が移住させられた。だからキリシタンにまつわる記憶も遺跡も残っていない。
長崎や五島にある教会も、明治以降のものだ。唯一長崎の小学校から出土したサント・ドミンゴ教会跡だけが400年前のものだという。
世界遺産に選ばれた「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は感動的なイメージで彩られているが、事細かに見ていくと、血塗られた歴史だった。だから世界遺産の騒動に筆者は違和感を感じている。
ルポなのに、小説のように感情をゆさぶる。自分が400年前のキリシタンや宣教師、ローマ教皇にも面会した遣欧少年使節の一員になったような錯覚さえ覚えた。
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▽スペインのレコンキスタ
▽60 イエズス会は、医学・航海術・造船術・天文歴法・測量術……遠近法や陰影法を取り入れた絵画技法も伝えた。
……聖画像が宣教に有効であることや、日本人の好みまで把握。
1591年、天草・志岐のレジデンシで、本格的な絵画教育がはじまる。1591年、天正遣欧使節が帰国。施設が持ち帰った活版印刷機により、文字の印刷だけでなく、銅版画の印刷も可能になった。
……宗教改革も、ルターがしるした「95カ条の論題」が活字で印刷されたことで爆発的な広がりを見せたと言われている。プロテスタントの誕生を促した活版印刷機が、日本ではカトリックの布教に大きな役割を果たした。
▽108 新進のイエズス会が急成長したのは、ポルトガル王から与えられた排他的特権のおかげだった。ところが、ポルトガル王家と血縁関係にあるスペイン王フェリペ2世かがポルトガル王位を継承し、ポルトガルがスペインの傘下に入る。
……日本はまるで、ポルトガル対スペイン、イエズス会対その他托鉢修道会の代理戦争の場に。
▽115 少年使節は、スペインや教皇庁にとっても、途中で死なせるようなことがあればメンツにかかわった。彼らはそれほど特別な存在だった。
▽154 家康はアダムスから世界の情報を入手。……アダムスが家康の信頼を勝ち取る過程で、1年半も日本を留守にしたフランシスコ会の痛手は大きかった。
▽157
▽164 フィリピンとメキシコを結ぶ太平洋貿易への参入を切望する家康。交渉に消極的なマニラ当局。……
▽173 家康は、日本でつくった舟が太平洋航海に耐えられるか試し、航海技術を日本人に教えることを求めた。海洋帝国スペインにとって太平洋航海技術は国家機密。……日本には銀がたくさんあるという強みがあるが、その精錬方法を知らないのが弱み。
▽219 島原。37000人が原城に3カ月たてこもり、12万もの軍から総攻撃を受けて皆殺しとなった。人の姿が消えたのである。それでは石高が維持できないため、半島北部の北目や小豆島から農民が移住させられた。そうめんは、小豆島から来た移民がつくりはじめたと言われている。
▽221 土地の記憶を受け継ぐはずだった人間はみんな死んでしまったのだ。住民は入れ替わった。記憶がつながるはずもない。
▽225
▽232 原城の犠牲者の取り扱いが難しいのは、協会が説く「世俗権力への服従」「無抵抗」を破ったからだ。世俗権力に徹底抗戦を挑んだ彼らの死は、カトリック教会では「殉教」と認められない。
▽245 外房では、漁業の技術がなく、1609年、ドン・ロドリゴも「食卓に魚が上ることは稀なり」と書いている。
そんな状況が激変するのは、1617年からだ。イワシの群を求めた漁民たちが紀州西北岸から押し寄せて先進漁法を伝え、房総半島の太平洋岸は江戸に地階一大漁場として発展する。
▽252 処刑に集まったキリシタンは、殉教者の遺物を手にするだけでは飽き足らず……役人にかまわず火の中に飛び込んで、遺体を引き出した。……殉教者の「聖遺物」を崇敬する……処刑が頻発するに従い、熱狂ぶりはエスカレートしている。
▽259
▽262 日本で迫害の嵐が吹きあれはじめたのとは対照的に、ヨーロッパでは殉教が起こりにくい時代になり、新たな聖遺物が出現しにくい状況担った。……日本で殉教したキリシタンの聖遺体を神父たちが大切にし、そのいくつかが海外に送られた。
……ある種の気味悪さ。それが当時の人のおそれの感覚?
▽282 列聖調査 殉教者を「記憶する」ために調査し、記録し、伝えつづける。
▽287
▽292 島原の乱の二の舞をおそれた大村藩は608人を捕縛。あまりの多さに困って近隣諸藩に協力を請い、分散収容した。牢内病死者78名……411名が斬首の刑に。……大規模な殉教だが扱いが小さい。……外国人司祭が死に絶えた後に起きたことを、積極的に伝えようとする者がだれもいなかったからではないだろうか。
▽303 大村の迫害は、大村家にとっては自分の領民を殺すことを意味する。しかも元はといえば、彼らをキリスト教に改宗させたのは自分たちなのだ。
……住民が殲滅させられた有馬も壮絶だが、生き延びることを選択した大村もまた、壮絶な場所だったのだ。
▽331 洗礼を授けた日本の信徒に対する責任、それが宣教師の潜伏理由だった。
▽337 横たわることもできない牢内で、虫だらけの汁や腐った魚を食べることすら耐えがたいのに、彼らは殉教までの準備期間ととらえ、さらにきびしい修行を積んでいた。自らをむち打つ苦行や断食……
▽339 彼らはいつ処刑されるかを戦々恐々と待った死刑囚ではなく、その死刑こそ、彼らにとっては栄光なのである。……彼らがメンタルだけでなく、フィジカルの面でもきわめて強靭だったことを思い知らされた。
▽349 「すべての人々が秀頼の勝利を望んだのは、秀頼が日本におけるキリスト教の自由な布教と多数の教会建設を約束していたからである」
▽359 ユネスコ世界遺産には、唯一の400年前の教会遺構であるサント・ドミンゴ教会跡は含まれていない。
▽361 「先祖が外海から五島に移住してから、貧しかばってん平和に暮らしとったとです。本当の差別が始まったのは、明治に入ってから。その歴史をきちんと知ってほしか」……今回の世界遺産推薦は、「キリシタンの世紀」を「信徒発見」という美談でハッピーエンドに仕立てているように思える。日本の信徒のみならず、数多くの外国人を殺したという視点も抜け落ちている。
世界遺産となり……となったらあ、弾圧の実態を巧妙に隠した美談の史観がさらに広く流布されるのではないだろうか。
▽363 殉教したキリシタンは、記録されただけでも幸せだと思う。この列聖・列福制度こそが、カトリックの浸透力を支える柱なのだろう。
▽371
▽374 日本ではじめてたばこをもたらされたのは1601年、フランシスコ会士ジェロニモ・デ・ジェズスが家康に謁見した際の手土産と伝えられるが、その11年後には、日本人修道士たちが吸うほどにまで広まっていた。
▽382
▽399 福者になるには1つ、聖人の時に1つ、計2つの奇跡が必要。
ヨハネ・パウロ2世の列福には、フランスの……修道女のパーキンソン病の治癒が奇跡と認められた。列聖で認められたのは2011年、コスタリカの女性が祈りを捧げ、脳動脈瘤から回復した奇跡。彼女は枕元に立ったヨハネ・パウロ2世の姿を見たという。
▽405「上からの布教」を目指したイエズス会と、辻説法や貧しい人々への施しを重視した托鉢修道会。
▽422
▽434 バスク人と倭寇 倭寇は福建人や広東人が多かった。
▽472 スペインでは1930年代、フランコの時代に、聖職者の大殉教が起きていた。内戦中に殺された殉教者は、2001年に233名、2007年に498名、2013年に522名が列福された。
▽504 イスラム国による斬首と火あぶり。4世紀前の日本人が神父やキリシタンに対し、各地でおこなっていたこと。しかも、たやすく死なせてなるものかと、柱にゆるく縛るだけで、「とろ火」で長時間苦しめた。……汚物のたまった穴に逆さづりにし、こめかみに穴を開け、何日間も吊すという方法も編み出した。
□若松英輔の解説
・研究者にとって文献や物証が「事実」の道標だが、歴史家は、それに加えて、経験的実感と詩的あるいは美的直観を働かせる。作者は歴史を知的に解析しない。「音」によってそれを感じ、……
・本書は、はじめて記された日本におけるキリスト教の歴史を、もっとも高次な意味における「感情」でとらえた、「日本キリスト教感情史」というべき作品なのである。
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