■空海の思想について<梅原猛>講談社学術文庫20200828
空海の宗教は明治以降、呪術的で前近代的なものとされてインテリ層に疎んじられた。親鸞や日連、道元がファンを獲得したのと対照的だった。歴史教科書でも、大師の宗教は貴族仏教・加持祈祷とされ、真に宗教的自覚は、鎌倉時代に始まったと叙述されてきた。
私も、密教は前近代的で古くさいと思い、浄土真宗のような新しい仏教の方が合理的だと思っていた。
それが遍路道を歩くことで、加持祈祷は仏教以前の信仰と融合したあかしであり、新しい仏教が失ってしまった原始的な生きる力のようなものを密教ははらんでいるのではないか……と、感じるようになった。
でも、密教と顕教のちがいも、空海の思想の中身も知らないままだった。この本はその点を哲学者の目で開陳してくれる。
密教は、釈迦仏を最上位に置くほかの仏教とことなり、大日如来をトップに位置づける。大日如来は、釈迦のように歴史的実在性をもった仏ではなく、宇宙のはじめから存在している永遠不滅の仏性である。
仏になった状態を釈迦の顕教では否定を通じてしか表現できない。苦の原因である欲望からの脱却を説くが、現世を苦とする見方では世俗を否定するしかない。それでいいのか? という疑問から大乗仏教が起こり、世俗でもなく、非世俗でもない、きわめて困難な「中の道」を歩めと説いた。
だが空海から見ると大乗仏教でも否定精神が強すぎた。空海以後に登場する浄土教でも、浄土は死後に到達されるとして現世を否定する。禅宗は、無の影が大きすぎる。
空海の密教は、仏教の否定性、虚無性をかなぐりすてる。
すべての存在をさかのぼると、それ自身さかのぼれない存在に到る。アリストテレスはそこに神を置くが、仏教ではそれを不生という。空海の世界観では、すべての存在はすべての時間において、不生なるもの(=神)につらなる。「すべてのもののなかにわれがあり、われのなかにすべてのものがある。それが世界が見えるということであり、最高の仏教の知恵である」と空海は考えた。
「世界は無限の宝を宿している。人はまだよくこの無限の宝を見つけることができない。無限の宝というのはおまえ自身の中にある。汝自身の中にある、世界の無限の宝を開拓せよ」という世界肯定の思想が密教には含まれていると梅原は言う。
遍路道では「お大師さん」の存在は生の絶対的な肯定であると感じたから、ぴったりくる説明だと思えた。
「禅の墨色の世界にたいして、密教の世界は原色の五彩の世界である。それは五彩の色を通って、世界万歳、感覚万歳を叫ばれんがためである。すべての色の世界、すべての感覚の世界をもっているものが、大日如来である。その大日如来と一体となるのが、密教の行の意味である」
なるほど、だから真言宗の寺はカラフルな旗や布がはためいていることが多いのか。たしかに遍路道では何度か「色」を強く感じた。
密教では、あらゆるものが地水火風空と、識(心)の六大からなりたっていると考える。その意味では、大日如来も我々も同じである。世界は、一木一草に到るまで、大日如来という永遠のもののあらわれである。だからわれわれが小我へのとらわれを離れたとき、大日如来と一体となることができる。この世界をよく悟り、その世界によく遊び、楽しむことが密教の教える生の哲学であるという。
身体は、精神的な活動をさまたげる悪であるとプラトン哲学でもキリスト教でも仏教でも考えられてきた。しかし密教は身体性を肯定する。密教は唯物論ではないが単なる唯心論でもない。物質的原理を精神的原理以上に強調している。密教は精神の一元論で世界を塗りつぶそうとしないから、世界の差異に好意的だ。
身体性の肯定、物質の重視、コスモロジーの存在が密教の思想的特徴であると梅原は書いている。
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▽14 空海の著作は世俗的なものに及び、量及び質は一人の人間の著作としては想像に絶する。
▽16 明治以前は、大師と言えば聖徳太子をのぞけば空海だった。宗派を越えて広く尊敬されてきた。万能の天才、すべての願い事がかなえられる神のごとき人として尊敬されてきた。
・・・明治以降、科学は善、宗教は悪となり、とくに呪術的宗教はもっとも前近代的なものとなった。・・・親鸞や日連、道元は、宗教家ではない日本のインテリにも多くのファンをもったが、空海はそういう熱烈なるインテリのファンをもつことはなかったのである。
・・・歴史教科書でも、大師の宗教は、貴族仏教、加持祈祷として簡単に扱われ、真に宗教的自覚は、鎌倉時代に始まったという叙述が一般であった。
▽20 私は十数年前、大きな思想的転向を経験した・・・NHKテレビ「仏像 かたちとこころ」をもとに共著で「仏像ーー心とかたち」〓〓を書いた。 密教的世界の発見。
▽25 「三教指帰」を書いて、仏教が、儒教や道教よりすぐれていることを論証したのは24歳のとき。
▽26 留学生の期間は20年間と決められているのに、空海はわずか2年足らずで帰国。違法の行動。その弁明が「御請来目録」・・・「今までの留学生がけっして持ち帰らなかった新しい書物を持参し、誰も学ばなかった新しい教説をただ一人学んで帰ってきたという主張。
▽39 空海一代で真言密教は根を下ろす。奈良仏教は、最澄という好戦的な法敵をもっていた。最澄に比べれば、空海に対しては奈良仏教は好意的だった。
▽41 ほかの仏教が釈迦仏の教えであるとするのにたいし、密教は大日如来の教えであるという。「大日如来は法身仏。釈迦如来のように歴史的実在性をもった仏ではなく、宇宙のはじめから存在している永遠不滅の仏性である」・・・釈迦仏教を否定する。
・・・釈迦の仏教は衆生を化するための方便の教えであり・・・大日如来の説法は、本当の自らの悟りの境地をいっている。自分自身が楽しんでいる。そういう境地をありのままに誰にも遠慮なく説いているというものである。
▽51 顕教と密教 密教の特徴を、法身説法と果境可説のふたつにおく。
びる遮那(大日如来)も説法するととく。
完全に仏になった果位を顕教では否定を通じてしか表現できないと考えるが、密教では、肯定的、積極的に説くという。
釈迦の仏教は、苦の原因を欲望に見て、それからの脱却をとく。現世を苦とする見方の根底には、人間を死の相、無常の相においてとらえる見方がある。それでは仏弟子は世俗から離れてひとり悟りの道を楽しまねばならない。それでいいのか?・・・龍樹らによって起こされた大乗仏教の思想は、伝統仏教の世俗否定性にたいする批判から起こった。
世俗でもなく、非世俗でもない、そのいずれにもとらわれない、きわめて困難な、きわめて危ない、中の道を歩め。
大乗仏教は、現世否定の精神を大幅に訂正したが否定精神を内面に深く宿していた・・・空海はそれでは不十分だという。現世に対する否定精神を否定する。それが密教の精神であり、それこそ、大乗仏教の究極的な精神であると空海はいう。
▽57 世界は無限の宝を宿している。人はまだよくこの無限の宝を見つけることが出来ない。無限の宝というのは、何よりも、お前自身の中にある。汝自身の中にある、世界の無限の宝を開拓せよ。そういう世界肯定の思想が密教の思想にあると私は思う。
▽58 浄土教は世界否定の思想が強い。・・・真の浄土は、死後にのみ到達されるものという観念。われわれが住むこの世界が全体として否定されている。・・・禅の場合、世界は、無の影をあまりに多く宿しすぎていると思う。
▽64 即身成仏。父母からもらった肉体のままに、仏になるということ。・・・あらゆるものが地水火風空の5大と、心すなわち識からなりたっている。6大は互いに混じり合って、あらゆるものを構成している。あらゆるものが6大からできているとすれば、すべてのものはすべてのものをその内面に含んでいる。・・・世界の一部をとってみれば、そこに世界の全部がやどっているのである。
▽67 われわれは六大からなりたっていて、宇宙の中心仏である大日如来と同じ性質である。しかし、われわれは小さい自我にとらわれているために、このような自己の本質をよく理解しない。小我へのとらわれを離れ、自己の内的本質に目覚めるとき、われわれのなかに大日如来は入り来たり
、われわれは大日如来と一体となり・・・。
▽70 身体というのは、精神的な活動をさまたげる悪なるものと多くの宗教で考えられてきた。プラトン哲学もキリスト教もそういう傾向が強い。仏教もそう。しかし密教はここで身体性の原理をはっきり肯定するのである。・・・密教は、単なる唯心論ではない。物質的原理を精神的原理以上に強調している。
身体性の肯定、物質の重視、コスモロジーの存在を密教の思想的特徴を考える。
▽71 自己は世界に対して完全に透明になっている。われはあるがgとく、なきがごとく、世界はあるがごとく、なきがごとく、すべてがわれにおいてあり、われはすべてにおいてある。
▽74 密教は世界をその表現の相においてとらえる。この表現というのが声字である。…われわれが感覚で受け取ることのできる世界の告知はすべて、声なのである。密教は表現的世界を重視する。表現的世界が無限に深い意味をもっていることを強調する。
▽76 この表現的世界を置いて、実在の世界はどこにも存在しない。
▽78 物質といえども、我々の感覚を離れてあるわけではなく、また、感覚が物質なしに存在しているものではない。これは、われわれの感覚を離れた物質の存在を考える唯物論とも、物質の存在なしに精神を考える観念論ともちがった立場である。
▽79 空海は大日如来に、釈迦如来より、もっと高次な仏を見出す。
▽86 密教が世界の差異に好意的。差異に好意的であると言うことは、物質的世界に、好意的。精神の一元論で世界を塗りつぶすことをしない。
▽87 客観的世界は永久に客観的世界であるわけではなく、主体的世界も、また永久に主体的世界であるわけではなく、主客、互いに相照らし、その立場を変えることがある。主客相入転換の思想。
…世界のなかに仏があるばかりか、仏のなかに世界がある。
▽88 大日如来が、法界性身の身にとどまるならば、大した力を持たない。大きな力を持つのは、その姿を変えて、さまざまな姿で現れるからである。それが報身と応化身と等流身である。…釈迦もまた大日如来の応化身、永遠なる法身の、歴史的現れに過ぎない。
…世界は大日如来の現れ、一木一草に到るまで、大日如来の顕現である。
▽90 この世界は、智者にとっては楽しみ。永遠のものの現れ。現れた世界はそれなりに楽しい世界なのである。密教において、悟りはまた楽しみなのである。
この世界をよく悟り、その世界によく遊べ、それが密教の教える生の哲学である。
▽93 声字というのが、ただの言葉ではなくて、すべての現象、我々が感覚でもって知っている一切のものであった。感覚でもって知りうる世界が実相であり、…そこで語られる偉大なる世界肯定の思想出会った。
…「真言宗」と名づけさせた言葉の哲学が、言葉の神秘主義が明らかにされなければならない。
▽97 すべての存在をさかのぼると、それ自身さかのぼれない存在に到る。アリストテレスは第一原因といい、神とするが、仏教ではそれを不生という。もはや何物から生じたものではなく、生じもせず、滅しもしないものをいうのであろう。
因縁をたどると、不生に到るが、そのような不生の存在を自覚する時、因縁の世界は超えられ、一切が不生の現れということになる。
…すべては不生なるものの現れである。空海の世界観において、すべての存在はすべての時間に置いて、神に連なっている。不生なるものに連なっている。
…すべてのもののなかにわれがあり、われのなかにすべてのものがある。それが世界が見えるということであり、最高の仏教の知恵であると空海はいう。
▽104 空海は否定の仏教、寂滅の仏教をきびしく批判する。そういう否定の境地、寂滅の境地は真の悟りではない。寂滅の果てに、なお、存在するもの、それこそ三密である。三密の賛歌をなぜ歌おうとしないのか。
・・・密なる存在そのものは、苦、空、無常、無我の四相をこえて、因縁をこえて、自在に、自性のままに活動するというわけえである。
・・・仏教の否定性、虚無性をかなぐりすてようとする。
▽107 否定と沈黙の彼方に回復された、肯定の世界、言葉の世界が、密教の世界、大日如来の世界である。・・・すべてのものの中に、大日如来は存在している。それゆえにわれわれが小さな自我を捨てるとき、われわれは大日如来と一体となり、大日如来のような境地に達するのではないか。
密教では無我をいわない。無我のかわりに大我をいいう。無欲のかわりに大欲をとく。
▽108 禅では、無我、無欲をとく。それが人間に死を命じることでないとしたら、いたずらに、人間のエネルギーを枯渇せしめることになりはしないか。
密教は、何よりも、強烈な生命力を説く仏教である。
永遠に否定の深淵に人間を置き去りにすることを好まない。もう一度人間に、生命の歓喜の歌を歌わせねばならぬ。
・・・禅の墨色の世界にたいして、密教の世界は原色の五彩の世界である。それは五彩の色を通って、世界万歳、感覚万歳を咲けばれんがためである。すべての色の世界、すべての感覚の世界をもっているものが、大日如来である。その大日如来と一体となるのが、密教の行の意味である。
▽111 密教は、仏教宗派の中では、華厳にいちばん近い。一の中に一切があり、一切の中に一がある、という思想は、密教が、この一切の中に、全世界があるという思想と相通じている。(くまぐす)
▽114 晩年「般若心経秘鍵」を書いた。般若心経のなかに、すべての仏教の教義も、事相も含まれているという解釈である。最高最上の真言密教の秘法が隠されているというのである。
▽117 自ら楽しんで大笑、他人を救って大笑、三世諸仏は皆、このような観をなすという。
空海は三世諸仏の大声の笑いを聞いていると思う。世界の諸仏は皆笑い、とりわけ、大日如来が大声で笑っている。空海もともに笑って、笑いによって大日如来と一体になっている。
自ら生きることは楽しい。
他人を利することもまた楽しい。
・・・私はこの笑い声の愛好者としての空海を心から愛するものである。
□解説
▽121 江戸時代までは空海は聖徳太子とともに庶民にとっては霊威の人物であり、救済主であった。
近代人は霊威の存在、万能の天才に懐疑の目を向ける。近代人は個別的な天才をたたえる。親鸞・道元・日連は近代の知識人の好むところであったが、空海は疎外されていた、と著者はいう。
▽124 在来の大乗仏教は現世否定の精神を打ち出したのに対し、密教はまさにその否定精神をうちに深くやどしながら、しかも現実に還ってくるのだといっている。
▽127(密教は)「浄土真宗の哲学や禅の哲学とも全くちがっていた。大日如来の光のもとに、万象が照り輝く、絢爛たる不思議な宗教的世界」
▽128 和辻哲朗「古寺巡礼」は、・・・すばらしい美の発見はあっても、それを生んだ仏教思想や信仰は欠落してしまっている。それはいわば顕教の目で見た世界であったといえよう。その立場からは、密教は次元の低い世界なのだろう。だが、非合理なカオスのなかにこそ生命が秘められ、無限の財宝が隠されている。それはまさに密教的世界である。
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