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四国遍路の寺 下<五来重>角川ソフィア文庫 20200413(抜粋)

▽戦国から安土桃山にかけては遍路どころではないが、江戸時代になって盛んに。江戸末になるとふたたび衰えて、明治初めぐらいには88の半分ぐらいは無住だった。
▽熊野の信仰は海を通して全国に広がった。熊野信仰が非常に強いのは東北地方や隠岐の島。鎌倉時代にはすでに沖縄に熊野神社があった。
▽87番 長尾寺 補陀落山という山号がつくのはだいたい海岸の寺。
▽88番 大窪寺 山岳寺院で奥の院の行場から発祥したと推定される。奥の院には逼割禅定の行場と洞窟がある。寺の背後にそびえている胎蔵ケ峰の厳峰は洞窟が非常に多いところ。
▽1番 霊山寺 大麻山から下りてきたと推定される。大麻比古神社までは行きたい。大谷窯という民窯があるのはその麓。もとは大きな甕を焼いていた。甕棺葬…福岡県八女郡の山の中と、熊本県五木村の五家荘ではまだ甕棺葬が行われている。旧家は甕棺を一度に買い込んでおく。
 本土から渡るには鳴門市撫養が便利だったから。ここは商業港で、のちの藍をつくるころに繁昌した。
 1番から10番までの間にはかなりの藍の栽培地。
▽5番地蔵寺 五百羅漢
 寺伝の霊薬「万病円」は修験伝来の薬だろう。大峯・葛城だったら陀羅尼助。…昔の山伏は地方に御札配りに来るときも、御札だけを配るのではなく、山で採った薬草をいっしょに配った。…立山では、前田家がそれに着目し、岡山から藩医を招いて反魂胆をつくらせた。山伏が配っていたのが、だんだんと配置売薬のようなものにまで発展した。山人が定期的に立山の信仰圏をまわったのが元だといわれる。
▽6番安楽寺 昔、山のなかにあった時代は境内に温泉があったから「温泉山」。いまは湯をわかしている。ここの宿坊は88カ所で一番大きいそうだ。駅路寺の伝統を守っています。…札所霊場は、山中から街道筋に出たものが多い。
▽8番熊谷寺 海洋宗教の辺路の寺らしく海が見える。千手観音は、海や湖に関係があるところにたくさん見られる(〓琵琶湖は十一面観音では)
 熊谷寺には補陀落信仰も。那智大社の本地仏は千手観音。
 熊野の信仰は海を通して全国に広がった。熊野信仰が非常に強いのは東北地方や隠岐の島。鎌倉時代にはすでに沖縄に熊野神社があった。
▽10番切幡寺 流水灌頂会 経木をあげて亡くなった人の供養をする。流れ灌頂は四国のそこかしこで見られる。
▽12番焼山寺
 衛門三郎の遺跡として杖杉庵。
▽14番常楽寺 大師堂前に一位(いちい)の大木。一位のことをアララギともいう。これに向かって祈れば眼の病が治るというので「アララギ大師」。一位は神主さんの笏をつくる木。
 奥の院の十一面観音がたぶん平安時代。地蔵堂の地蔵さんは立木のなかに彫り込んである。
▽16番観音寺 ムラの中の小さな寺。こういう札所は、その土地の村の鎮守さんの別当寺が88カ所をそろえるときに割り込んできた。
▽18番恩山寺 辺路という海岸を巡る信仰としては、もっとも典型的な奥の院が海辺にある。…もとは女人禁制で、いまも19番の立江寺への花折坂は女人禁制。…「ツルマキ坂」は女人禁制。
 本堂は頂上にあって小松島港が見下ろせ、奥の院と称する金磯の弁天森も見える。金磯が奥の院の場所だから、ここに行ってみる必要があります。
 …海岸に奥の院をもつ霊場として、屋島寺、八栗寺、宇和島の龍光院などとともに。龍光院は、九島がもとの場所。
▽取星(しゅしょう)寺 番外。信仰対象になる星は二つあってひとつは北斗七星・北極星。もうひとつは求聞持法が成就したときに、明星が降ってくる。そういう現象が起こらないと虚空蔵菩薩がその人に知恵を授けるということがない。星降り。それは流星でもよい。
▽太龍寺 戦前の地図には龍の窟が出ていたが、戦後の地図にはない。弘法大師が行をしたところをセメント会社に売ってしまって、窟はつぶされてしまった。…南の方に行くと石灰を採った跡が見えてきます。そこが龍の窟だと戦前の地図には書いてある。
 そういうことで捨身山(身を捨てる山、捨身の行をする山)が舎心山(心を休める山)ということになってしまいました。
 …本堂の横の求聞持堂は、日本で一番有名な求聞持堂です。求聞持堂があるので有名なのは厳島の弥山、高野山真別所の求聞持堂。
▽23番薬王寺 厄坂
▽大師信仰の根底には霊水信仰があって、それが水大師という形に。庶民信仰や原始信仰に存在していた神様がいつのまにか弘法大師に置きかえられて、何々大師という大師信仰ができた。
 ヨーロッパの有名な霊場は、ほとんど泉を持っています。ルルドの泉。…イギリスでもアイルランドでも、マリアの霊場といわれているところは、水が信仰の対象になっています。キリスト教以前の、二段ないし三段ぐらいの宗教遺跡が発掘されると、たいていもとの場所は泉です。
 …岬ははい上がって、はい下りて、砂の所は波打ち際を通り…。その道がそのまま残っているのが八坂八浜(昔会った超ゆっくりお遍路さん〓)
 鯖大師はそのなかの一つの浜にある。
 峠には手向けの神がある。峠を通るときに、そこの神様に何かをあげると安全に旅ができるといわれた。手向けで一番多いのは生飯(きば)、その生飯が鯖にまちがえられて、魚の鯖と生飯が入れ替わったと考えてよいでしょう。
 その手向けの神が、ある場合は行基になり、ある場合は大師になって、その物語をもとに、坂の登り口のところに大師堂がつくられます(坂の手前にはよく大師堂があった〓)。もとは手向けの神のお堂です。
 日本の庶民信仰の対象になったのは、水の神様、山の神様、峠の神様、あるいは田の神様です。それが仏教の方では弘法大師や水大師、鯖大師となったのです。
▽西寺(金剛頂寺) 東寺(最御崎寺) 西寺の行当岬は行道岬。室戸岬から行当岬まで1日に1往復ずつしていた。
▽最御崎寺 御蔵堂を土地の人は「みくろ洞」と呼んでいる。「南呂志」という土佐藩が編集した地誌のなかでは「御厨人窟」(みくりやどうくつ)。実はこれが正しい。炊事の世話をする2人の従者がいた。高野山ではその2人を愛慢・愛語菩薩として奥の院にまつってきました。料理番をつとめるから「御厨人」。
 …「くわず芋」伝説。石芋といって、湿地帯によくある。かたくて煮ても焼いても食べられない。
▽25番津照寺 楫取地蔵。もともと楫取は海のかなたから渡ってきたのだと思います。 室津港は寛文年間に野中兼山によって改修された。「自分が人柱に立つ」といって切腹した責任者が一木神社にまつられています。
▽26番金剛頂寺(西寺) 山号は龍頭山光明院。ここでも火がたかれていたということがわかる。神峯寺にも頂上に龍燈巖がある。弘法大師は火をたいて、虚空蔵菩薩の求聞持法を勤めた。
▽神峯寺 奥の院にあたる現在の神峯神社まで行くべき。修行者が寝泊まりするに格好の窟があって、岩屋地蔵がまつられています。現在の札所はもとの籠堂があったところ。
 本堂の上に立岩と横岩。白い岩で月夜にはかなり光って見えたかも。火をたけばなおさら光ります。龍燈のしかけがよくわかる。
 …聖火をたく辺路修行者がいて、海上、海辺の民から「神の峯」として仰がれたのだと思います。聖なる山であったがゆえに、女人禁制でした。
▽国分寺の本尊は千手観音だが、古い薬師如来がある。古代において栄えたお寺はみな薬師如来が本尊です。
 国分寺は、奈良・平安までに国家の費用で建てた伽藍を維持できない。全国66の国分寺がそのまま残った例はない。国分寺の名で宗教活動をするお寺として、塔頭の1か寺か2カ寺か3カ寺が残る。国分寺であったときの本尊さんを塔頭寺院なり近所の寺院なりに移している。古い薬師如来の多くはこうして残った。…国分寺はほとんど全部が薬師如来を本尊にしている。
▽神宮寺から安楽寺と善楽寺。30番の札所が2つある。昭和17年に合併するという協定ができた。もとは土佐一宮の神宮寺が札所になったもの。
 神仏分離で神宮寺が廃寺になったとき、本尊の阿弥陀如来は安楽寺に移された。それで30番が2ヵ寺になった。昭和17年に「3年以内に30番は善楽寺として、安楽寺は奥の院を名乗る」と覚え書きができたが、終戦の混乱で実行されなかった。(平成5年10月1日以降は安楽寺が奥の院と決まった)
▽高野山の納骨は、死んだら高野山に行くといって、魂を高野山に送っていた(〓納骨する習慣も熊野にはあったのでは?)
▽禅師峰寺 累々たる巨岩が重なりあっている。「しおのみちひ岩」は「志を見岩」とも呼ばれています。これはほうぼうにある干満岩。潮の干満によって上下すると信じられていました。海洋宗教の聖地であったことを示すものです。
▽33番雪蹊寺 雪の足跡という意味。雪蹊寺も種間寺も奥の院が海岸にある。
 お寺の半分は神社。右が秦神社、左が雪蹊寺。長宗我部氏はもとは秦氏。神仏分離では、寺をつぶして神社を建てなければならないということで、長宗我部元親の木像をご神体に秦神社というお宮を建てた。
 明治17年に寺の復興が許された。
 文化財が多いので、本堂が収蔵庫になっている。
 明治17年に山本大玄和尚が再興する。目が悪いので紀州から四国遍路に出て、明治22年に大玄和尚に救われ弟子となったのが臨済宗の山本玄峰老師です。生涯に17回の四国遍路をして、何回目かの時に目が開いた。
…奥の院。古いクスノキに仏像を彫ってあった。立木に刻んだ薬師如来。その部分だけ切って本尊に。
▽36番青龍寺 奥の院は海に突き出た断崖の上にある。奥の院の本尊が不動明王。
 渡し守は青龍寺の童子をつとめていた8人衆。弘法大師のお供をしてここまで来て、渡し守の権利を持っていた。宇佐の対岸の井ノ尻(旧遍路道?〓)というところに住んでいた。今も8軒残っています〓。 浦ノ内の「鳴無神社」まで渡御していた。
 宇佐大橋は昭和49年開通。
 もとは弘法大師が修行するような行場だったのが、しだいにお寺を人々がお参りしやすい平地に移していくということがある。近くの建物が整ったお寺に本尊だけを持っていって、もとの札所の名前に変えてしまう場合も。もとの修行の場所は奥の院という名前で残る。
▽岩本寺 仁井田五社の福円満寺の札所権を、窪川のまちの宿坊であった岩本寺が手に入れた。かつては五社から足摺岬までの途中の宿坊でした。
▽「三度栗」1年に3度も実る栗。栗についていろいろな奇跡が伝えられるのは、米麦粟などを栽培する以前の縄文期の主食が栗で、そういう栗の需要がいろいろな奇跡譚を生んだのだと思います。
 刺さない蚊、血を吸わない蛭も。
▽38番金剛福寺 室戸の最御崎寺・金剛頂寺とならんで四国の大霊場。中世においてはお堂がひとつあっただけ。
…賀東上人。補陀落渡海をめざして足摺岬で修行していたのに、小坊主が先に船に乗ってしまった。…足摺岬は、補陀落渡海の中心になっていた。
…水葬は熊野の那智あたりで行われています。江戸半ばをすぎると補陀落渡海をする人もなくなりました。それ以降は補陀洛山寺の住職は臨終が近づくと船に乗って船出する。死んでしまっても生きている形で船出した。浜の宮の海岸の大きな鳥居を出るまでは、普通の生きた人として話をする。鳥居をくぐったとたんに全体が念仏になって、船に乗るということになっている。
▽伊勢の外宮は食べ物の神様。豊受大神。内宮のほうは豊作を祈願する神様として農民の信仰を受けていた。明治維新以前の伊勢参りには、皇室の先祖にお参りをするという観念はひとつもない。
▽足摺岬 ここから渡れば容易に補陀落世界まで渡れると考えられた。この岬に行けば常世はすぐそばです。(たしかにそういう感じがする〓)
□解説 頼富本宏
▽「発心」(さとりへのスタート)・「修行」(さとりへの実践)・「菩提」(さとりへの予感)・「涅槃」(さとりの確認)の胎蔵界曼荼羅四転説
▽五来氏らは「辺地(路)修行先行説」。海洋宗教、「常世を拝む」そして火を燃やす龍燈という宗教民俗。
▽最初小さな庵やお堂が建てられ、次第に拠点化し、さらに人気のある仏像が安置されると、仏法僧を完備したいわゆる寺院ができあがる。
 このように自然発生的な霊場化に加えて、五来氏は奈良時代から発生しはじめ、平安時代の中・後期に発展した神仏習合信仰に注目した。八十八カ所札所の半数以上がかつて、いや現在も熊野権現を祀っている。四国九州の海辺地域には熊野信仰の美術遺品が多く伝わっている。
 類型わけの好きな五来氏が「十一面観音は山の観音」「千手観音は海の観音」などと判別するのは結論を急ぎすぎの嫌いはあるが。…平安時代の中頃に「神と仏」を表裏一体として祀る宗教文化は、四国遍路の霊場化と軌を一にするものであった。…一霊場に意味と機能の違うふたつ以上の聖地・聖域を想定することは必要な発想であったと思われる。

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