納経所が霊場なのではない。八十八カ所をぐるりとまわる修行だけでなく、それぞれの札所はもとは独立した修行の場だった。その痕跡が残っているのが行場だった奥の院であり、そこををめぐらないと本来の遍路の意味はわからない、という。
お遍路をしているとき「もっとゆっくり。寄り道をした方がよいですよ」と何度か言われた。「寄り道」なしには遍路の本質は理解できない、ということだったんだな、と反省させられた。
海のかなたの常世を拝む辺路という名の海洋宗教が仏教以前からあり、空海もそれにのっとって修行した。紀州熊野の辺路(大辺路・中辺路・小辺路)も「熊野詣」になる前は海洋宗教であり、本来の「辺路」は大辺路だった。
海岸の札所約30カ所の本尊が薬師さんなのは、海のかなたの常世から民衆を助けてくれる神(薬師如来)がやってくるという信仰があったからだという。
海にいる常世の神様に喜んでもらうため、辺路修行は火をたいた。焼山寺は、山が焼けたように見えるくらい火をたいたことを意味する。それが山伏の柴灯護摩の発祥ではないかと筆者は推測する。また、洞窟がなければ、火をたいたり常夜灯を灯すことができないから奥の院は例外なく洞窟があるという。
常世の神を拝むのは、海に死者を沈める水葬をしたからだ。その儀礼が補陀落渡海につながる。熊野では明治以降でも遺体を沈めていたという話を聞いたのを思い出した。
死者の霊は永遠に年を取らない。だから浦島太郎の伝説が生まれる。常世は室町時代あたりから龍宮と呼ばれるようになった。
もとは「辺地」「辺路」(ヘジ)だったのがヘンロと読まれるようになり、元禄ごろに、88カ所全部をまわるということから「遍路」の字があてられた。
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▽24歳のごろにまとめた自叙伝「三教指帰」で、室戸岬と阿波の大滝岳、伊予の石鎚山で修行したと書いている。
▽お経には、経・律・論の3つがあるので、それを合わせて「三蔵」と呼び、三蔵を翻訳する人を「三蔵法師」と呼びます。
▽室戸岬。東南に向いた洞窟が4つ並ぶ。明星が見えてはじめて、求聞持法が成就する。だから東南あるいは南を向いた洞窟が選ばれる。。
▽空海の足跡があるのは海の見えるところ。岩屋寺は見えないが、山号が海岸山。
▽大辺路がいわゆる辺路で、中辺路と小辺路は海と関係がないから本来は「辺路」という言葉を使ってはいけない。
▽新宮の蓬莱山にある阿須賀神社が若宮であり若一王子で、王子の総元締めだと推定。
熊野の神様は西へ行って、那覇の波上宮まで行っている。そういうところにみな王子を残している。……最初は王子から海のほうを向いて拝んだ。後になると山のほうに信仰の対象が、移って、それが熊野になる。
▽水葬は、深いところに棺を沈める。平維盛が飛び込んだという山成島では、まわりの磯の中に沈めたという伝承を持っている。(〓スズ島もそうだった)
▽ニライカナイ 根の国、先祖の霊のいる国。「ニラの国」「ニイルの国」「ミイルク」と言っていたので、ミロクになった。
…海から流れてきたものが夷神になる。夷というのは外国人のことだが、自分たちの先祖。
▽干満水も、海洋宗教のひとつの跡。石手寺には壺があり、干満に合わせて水位がかわると言われている。
▽室戸岬 空海は「窟籠り」をした。最御崎寺=東寺(室戸岬)、金剛頂寺=西寺(行当岬)。平安時代は両方を合わせて「金剛定寺」だった。
▽薬師信仰 先祖が子孫を哀れむ、そのあらわれとして薬師を拝む。日本人の宗教観の根底には、先祖と子孫のつなががあるように思える。
▽雪蹊寺 土佐は、儒学の新しい風潮がいちはやく入ってきた。朱子学は雪蹊寺を中心に栄えた。
野中兼山〓は朱子学とともに実学を学んで、用水や堤をあちこちにつくった。
明治維新で一時廃されたが、明治17年に山本大玄和尚によって復興された。…おのれの放蕩生活を懺悔するために遍路していた山本玄峰は、大玄和尚に説得されて出家し、近世まれな禅僧になった。こういう儒学の歴史を持ったお寺。
▽青龍寺 奥の院は海岸に。(国民宿舎の隣)
▽弘法大師の入唐は資格としては通訳。筆談で通訳をしていた。
高野山と東寺を、金剛界と胎蔵界のような形で結んだと理解しないといけない。四国には金剛界と胎蔵界が方々にある。
▽足摺岬が辺路として重要なのは、補陀落渡海をした人が多かったから。
▽44番大宝寺と45番岩屋寺はもとはひとつのものだった。逼割禅定。大宝寺と古岩屋と岩屋寺は一連の行場だった。
▽四国の霊場で、奥の院の難儀な行をするのは、岩屋寺と八栗寺。
▽八坂寺 地獄極楽堂という信仰と教訓を兼ねたような施設をつくっている。本尊の阿弥陀如来は、鎌倉時代のもので重文。ここをまつったのは八坂氏という山伏で、熊野十二所権現をまつったから、熊野信仰がここに及んでいた。
▽西林寺 杖淵という泉から200メートル。杖淵を奥の院としているのはそこが旧地だから。
▽浄土寺 本尊の厨子の室町時代の遍路の落書きで有名。空也上人の木像。
▽繁多寺 東山の南側に浄土寺、北側に繁多寺、周辺には2つの八幡がある。繁多寺の奥の院は山の上のお堂だった。東山の行者たちが麓に招かれて下りてきたので、畑の寺ということで繁多寺という名がついたのだと思います。周辺は畑寺町。ぜひ山の上まで登ってみる必要があります。一遍上人の木像がある。
▽石手寺 水天堂には干満水。甕がひとつ置いてあって、半分ぐらい砂利が入っている。…石手寺境内は雑然としています。雑然とした寺は庶民が近づきやすい。…大師堂の左手の裏には兜率天洞という地獄巡りがつくられている。
▽太山寺 松山の西、屏風のように松山市街と海を隔てる山脈。太山寺と円明寺は、いずれも山の頂上に奥の院を持っている。本堂は鎌倉時代。重文。
▽稲荷は食べ物の神様。山にも海にも村にもある。
▽時宗の本山は、藤沢市の遊行寺。そこにいる遊行上人が管長さん。遊行上人に任命されると、正月に1回しか自坊の遊行寺に帰れませんでした。
▽円明寺 切支丹燈籠。本当に切支丹燈籠、マリア観音であるかどうかは不明です。織部燈籠がしばしば切支丹燈籠と言われているからです。
▽延命寺 もとは53番の円明寺と同じ名前だったが、明治以後に延命寺に直した。
▽南光坊 本尊の大通智勝如来は、大三島の大山祇神社の本地仏だったため、神社の別宮の南光坊にまつられたのだと思います。もとは納経受け付けは神社がしていた。神仏分離以降、神社の別宮と南光坊の間に道路ができて分けられた。
▽57番栄福寺 江戸時代までは石清水八幡宮。神仏分離以降、八幡宮の別当寺が栄福寺という寺名を名乗った。別当寺が札所になった例は多い。
…八幡さんは南のほうの海から島づたいに入ってきた神様。
…志摩を歩いていると、海岸にある神社がほとんど八幡さん。
…山岳寺院は神社中心。別当寺は神社に付随したもので、本体はあくまで神様です。
…お宮さんの横に別当寺を建てて、山伏なりお坊さんなりがいたのが本地堂。そういう関係を栄福寺はよく示している。
▽仙遊寺 仙人遊んだから仙遊寺と縁起にあるが、泉が湧くという泉涌寺。本堂は昭和28年に再興。
…山岳宗教 仏教などの影響を受けない時代を原始修験道と呼ぶ。洞窟の中にこもって、神とひとつになる修行をした。次の段階は託宣の方法に道教的・陰陽道的なものが混じる。星をまつったり、龍という動物をまつるようになる。役行者のころからそこに密教が入る。平安時代に成立した密教を主体とする山岳宗教を中期修験道と呼ぶ。醍醐の三宝院、圓城寺、聖護院のような本山ができて教団化される。
▽60番横峰寺 奥の院は石鎚山。修験道には本尊を複数でまつる性格があって、過去・現在・未来の三体をまつる。神仏分離以後の前神寺の蔵王権現も三体蔵王権現。もとは山開きの時は、常住まで三体蔵王権現が上がりました。分離以後は、神社は別に石土大神をまつるようになった。「石土」といったのは、木の生えない岩峰だったから。
…〓嵯峨天皇の時に初めて死刑を廃止した。次に死刑が復活するのは、平清盛の保元の乱のとき。350年間は死刑が行われなかった。古代国家において死刑が行われなかったという例は、ほかにありません。
…横峰のいちばんの霊場は星ケ森。
▽61番香園寺 モダンな建物。3階建ての2階が本堂で、2,300の椅子席。3階が500名収容可能な宿坊。奥の院が白滝不動。
▽63番吉祥寺 成就石。高さ1メートルほど。真ん中に10センチほどの穴が開いていて、目をつぶって金剛杖を突いて歩いて行って、うまく穴を通れば願いがかなうという庶民信仰。
本尊は毘沙門天。七福神は、日本の神様2体(恵比須と大黒天)、インドの神様2体(毘沙門天と弁財天)、中国の神様2体(布袋と福禄寿)で6福神。福禄寿と寿老人は一体の神様だったのに、両者が別になって七福神になってしまった。
▽前神寺 ケーブルで上がったところが常住(江戸時代から成就)という常住僧がいたところ。もとはここに前神寺が合った。前神寺の蔵王権現を、石鎚神という神像に変えてまつって石鎚神社となった。石鎚神社は前神寺の一部。
…神仏分離以降、前神寺の境内にあった権現神殿が石鎚神社になって、戦後、その上の所を整地して現在の石鎚神社ができた。那智神社と青岸渡寺が後ろ表になっているのと同じように、もとは神社と寺院は相接していた。
前神寺は石鎚権現社の別当職をつとめました。江戸時代中頃には前神寺が石鎚修験の先達を支配していた。
三十六王子 …黒川王子、今宮王子。黒川も今宮も山先達の村。山案内人がいた(今は廃村では〓なぜ「王子」なのか)…最後の36番が天狗岳王子。(王子の名は熊野の影響のあらわれ?)
▽65番三角寺 奥の院は、山を越えて6.3キロ南東の仙龍寺。四国霊場全体の総奥の院と称している〓。もっと上に奥の院跡があるから、旧奥の院から三角寺と仙龍寺が分かれて山麓に下ったのでしょう。
…四国霊場は行をする場所。行をすることによって大師の御徳をいただくのだということを忘れて、判子を集めたから功徳があると思っています。
▽66番雲辺寺 阿波にあるけど、讃岐の霊場とされる。…別名四国高野と呼ばれ、高野山と同じように学問をする場所だといわれていた。
…山号は巨龜山。海とのつながりを暗示する亀石の存在からこの山号を得たのだろう。
…千手観音は海に縁があり、十一面観音は山に縁がある。…補陀落渡海をする人たちは、千手観音の像を舳先につけて船出したといわれています。
…山頂から四つの国が望まれるので、四国坊と呼ばれる四ヵ寺が合った。
…水堂があるが、つい最近、篤志家が建立されたもの。ずっと下の谷の水源からモーターで上げている。
▽67番大興寺 天台宗寺院と真言宗寺院の両方から成り立っていた。弘法大師の大師堂と天台大師の天台堂がある。〓
鎮守の熊野権現の別当寺だと考えられる。68番神恵院も、本来は琴弾八幡宮が札所。一宮はすべて札所で、八幡さんも札所になる。神仏分離後は、別当寺あるいは本地堂が分離して札所になった。
▽神恵院・観音寺 琴弾八幡宮の本地仏の阿弥陀如来をまつった本地堂を、神仏分離で廃絶してしまうのは惜しいということで、観音寺が引き受けた。住職は1人。
…琴弾八幡宮から海のほうを見ると、海岸の砂丘に外周350メートルぐらいの寛永通宝のレリーフが〓。3年に1度ぐらい修理している。
…琴弾八幡〓は、船をご神体にしている。海から来た神様ということで、船あるいは船板がご神体になる。
▽70番本山寺 五重塔は大正2年に造営。本堂は鎌倉時代。
八十八カ所で唯一、本尊が馬頭観音。かつては牛馬の安全を祈る信仰があった。
…大般若経600巻が村回りをする行事がある。
▽弥谷寺 古い時代は、日本人の死者の葬り方は水葬からはじまる。その次に山中の谷に死者を捨てる風葬。奈良時代になると、山に横穴の群集墳をつくって死体を葬る。つぎに土葬になり、つぎに火葬に。
…弥谷寺は洞窟が多い。たくさんの行者が集まる。修行をする時は、五穀を避けて自然の木の実を食べる(木食)。
…本堂そのものが求聞持窟と呼ばれる洞窟。…本堂の前には位牌堂。瀬戸内の島々の人が死者供養に来る。洞窟のなかに護摩堂があるので、「護摩の窟」と呼ばれている。
▽72番曼荼羅寺と73番出釈迦寺はひとつの寺だった。奥の院が我師拝山。
…我師拝山の捨身岳。奈良時代までの辺路修行者は実際に捨身をした。718(養老2)年に出された養老律令の「僧尼令」27条には「焚身捨身を禁ず」という条項がある。それほど命を捨てる修行者が多かった。
今でも滋賀県の一部では15歳になったら大峰山に参らせます。「覗き」の行は捨身のひとつの残存形態。
▽五岳とは香色山、筆の山、我師拝山、中山、火上山。我師拝山を中心にした信仰ができている。(ゴツゴツの山の名前か?)
▽74番甲山寺 甲山は北向きに岩窟がある(採石場のあたり?〓)
▽海岸寺〓 善通寺の海の奥の院。寛政年間に大師誕生所を善通寺と争ったことも。大師の産湯の井戸がある。
▽75番善通寺 東院と西院に分けられる。西院は佐伯氏の住居、東院は白鳳期の伽藍。しかし西院も現在は御影堂が建って誕生院と名づけられている。東院は、金堂と五重塔…がある。
…埋仏は白鳳期の仏頭にあたるもので、地震などでうもれたものをほりだしてすえていたよう。…金堂が永禄元年の兵火で焼け、本尊が破壊され、埋もれたのを首だけ掘り出したのが現在の仏頭だとおもわれます。
…再興の勧進者だった善通という個人の俗名をつけたらしい。
…親鸞堂があるのも浄土教に関係がある。
▽76番金倉寺 八十八カ所のうち、海岸の寺約30カ所の本尊が薬師さん。海のかなたの常世から薬師如来、すなわち民衆を助けてくれる神がやってくるという信仰があったから。道隆寺も善通寺も、本尊は薬師如来。
…「金蔵寺文書」には100通以上の文書が残っていて、古代・中世の様子が具体的にわかる。
▽77番道隆寺 「道隆寺文書」
…白鳳期のお寺は渡来人が建てたものが多い。…渡来人が灌漑用水をつくって開拓できたのは水準器を持っていたから〓。だがそのうち日本人が習得してしまって、渡来人は次第に没落していく。そして白鳳期のお寺もだんだんに滅びていった。やがて勧進聖らが出てきてこれを再興する。…飛鳥・白鳳期の寺を道隆という勧進聖が再興したようだ。(善通寺も!?)
▽78番郷照寺 唯一の時宗の寺。宇多津の港に臨む高台にあって、仏光山の名のごとく灯台の役を果たした。あるいは庚申堂の常夜灯だったかもしれません。
▽79高照院 別名天皇寺。崇徳上皇が亡くなって、市街をしばらく水につけて腐敗を防いだという伝承。…八十場の泉の水に浸した。暑いときにいくと、泉にところてんが浸してあって、自分で自由に押し出して酢をかけて食べて、お金を置くようになっている。(〓今も?)
▽80番国分寺 国分寺と一宮はみんな札所になっている。
…国分寺が衰えたのは、国家がつくったものは国家が面倒を見切れなくなるとつぶれてしまう。奈良の元興寺極楽坊。現在の奈良の市街地は、国家の保護がなくなり、元興寺が衰退していくにつれて、そのあとに行商人が住み着いてできたもの。
讃岐の国分寺は、金堂の七重塔さえあったら奈良時代の国分寺もこういう状態だと思われるぐらい、たたずまいがよくのこった。礎石と金堂と塔の礎石はほとんど完全に残っている。
…奈良時代の銅鐘は重要文化財。高松城に鐘を納めよ、と命じられて持っていったら、藩主が病気担って、鐘の祟りだと考えて返却した、という文書が残っている。
▽84番屋島寺 鑑真和上が開いたことになっている。…弘法大師が再興したということで真言の山に。
▽五剣山八栗寺 一ノ剣から五ノ剣まで立っていたが、江戸時代中頃の地震で、五ノ剣が折れたと言われている。…聞きしに勝る行場。たいていの人は、本堂と歓喜天がまつられている聖天堂までで帰られる。歓喜団という中にあんこをいれて油で揚げた歓喜天の団子を毎朝あげる…
…行道がかつての遍路の一つの作法。「めぐる宗教」。
…栗は占いに出てくる。1年間に2度3度実を結ぶという三度栗伝説
▽86番志度寺 「志度寺縁起」現存している縁起絵のなかで一番大きい。宝物館にある。
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