■日経BP社 20190728
多くの自治体が消滅するという調査結果が出て、話題を呼んだが、寺院はそれよりも早く危機を迎え、全国7万7000の寺院のうち無住寺院は約2万カ寺を数える。
その現状と、寺院再生の取り組みの現場を僧侶の資格を持つ記者が訪ね歩いたルポ。
それぞれの地域の特徴が興味深い。
長崎県の宇久島で、墓石に小さな祠「霊屋」がのせてあるのは、昭和末期まで土葬であった名残だという。
骨壺の大きさは、関東では火葬後すべての骨を収骨するため7寸。関西は容量3分の1の5寸。納骨の方法も、骨壺ごと墓に納骨する場所もあれば、京都の一部のように「土に還す」タイプもある。
葬儀のお布施も、東京では50万円が基準だが、京阪神や名古屋などは20−30万円、石見地方は3万〜5万と格差がある。
尼寺と尼僧は一般の寺以上に消滅の危機にある。1873年に尼僧も俗化が認められたが、「出家」の大前提を守り通してきた。戦後しばらくは「口減らし」のために幼子を尼寺に引き取ってもらうことがあった。そうした不遇な子を尼寺に預けることができなくなって、後継問題が深刻になっている。
廃仏毀釈など、明治以降の政策の影響もおもしろい。
鹿児島県は江戸時代1066カ寺僧侶2964人がいたが、廃仏毀釈によって1874年にゼロになった。廃仏毀釈によって文化財がきわめて少ないため、県の文化財関連予算は少なく、廃仏毀釈に関する調査や寺院復元も進まない。廃仏毀釈で寺を失った墓地は市民墓地として再編されたため、鹿児島市内には広大な市営墓地がいくつもある。
明治政府は、僧侶の世俗化と弱体化を図るため僧侶の肉食妻帯や髪をはやすことを解禁した。伽藍などを破壊する弾圧に加え、俗化させることで「葬式仏教」化が進んだ。
仏教が戦争加担をするのは、日清・日露戦争で、従軍僧が厚遇されたことに始まる。大陸遠征が、海外布教の足がかりになった。
戦後の農地改革も寺院を困窮化させた。高度経済成長やバブル景気で生きながらえたが、「失われた20年」でふたたび危機に陥っているという。
今の時代の寺院の役割はなんだろうか? 長野県松本市の東昌寺(尼寺)は「ご遺族の代弁者こそがお坊さん。お経を上げる行為は、亡くなった人と対話すること。我々を見守って下さいと、向こう側にお願いすること」と言い、死別を経験した人を、地域でケアをする市民団体を立ち上げた。「悲嘆を語りあうワールドカフェ」では「少しずつ日が差し込んでいくような感覚で、ゆっくりと前に歩み出せるようになっています」と言う。そんなお寺があったらいいなあと思う。
玄侑宗久は「先祖や地域など、多くの連続性を感じるということを、生きがいとして感じてほしい」。佐藤優は「生のみを追求して、死は無意味であるという発想は、間違いだと思う。人間は必ず死ぬ。それだから、限界を意識し、充実した生を送ることができる。寺院消滅を防ぐには、人々に死を意識させる活動をすることだ。仏教徒とキリスト教徒が、死について共同研究をする時期に至っていると思う」。
やはり死と向き合うことが大事なのだ。
この本に載っていた島根県の温泉津の沖泊は5世帯6人。何度も訪ねた。長話をしたおばあさんは今どうしているのか。懐かしくて切ない。
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▽6 全国7万7000の寺院のうち無住寺院は約2万カ寺。宗教活動を停止した不活動寺院は2000以上
▽20 長崎 宇久島 墓石の上に、木でできた小さな祠、霊屋がのせてあるのは、昭和末期まで土葬であった名残だという。古くは、貧しくて墓石をもてなかった島人は、死んだ際、大きな樽に納めて土葬にした。
五島列島のなかでこの島だけカトリック教会がない。
…1868年新政府が発布した神仏判然令による、いわゆる「廃仏毀釈」が寺に打撃を与えた。神道こそが国教という思想の元に、全国の寺院が破壊され、神仏分離が進んだ。
▽31 檀家数が200軒以下では、住職が副業を持たなければ難しい。
▽東京 福沢諭吉のミイラ。土葬の場合、最初に墓に入る故人はなるべく地中深くに、埋葬され、その後に亡くなった家族らの遺体を上に上にと重ねていく。
…1977年に改葬。地下4メートル。伏流水で満たされ、遺体がそのまま残っていた。
▽40 骨壺の大きさ。関東では火葬後、すべての骨を収骨するため7寸の骨壺。関西は5寸。容量は関東の3分の1ほど。主要部位の骨だけを骨壺に入れる。納骨の方法も、東京は骨壺ごと墓に納骨するが、骨壺から出し「土に還す」タイプは京都などで見られる。
改葬できるか否かの権限は住職が握っている。改葬申請書に、現住職の署名がなければ改葬はできない。離檀の際にはお布施も必要になる。
▽44 温泉津沖泊 住民は5世帯6人。(あのおばあさんはその一人だった。チンが話した。写真が懐かしい)
▽51 石見銀山興隆期には周辺で130寺以上がひしめいていた。銀山界隈の人口は20万人で、1寺あたり1500人以上の信徒を抱えていた。…大田市の1寺あたりの人口は366人。全国平均は1677人。
▽57 葬儀。東京では50万円の布施が基準。京阪神や名古屋などは20−30万円、石見地方は3万〜5万。東京の10分の1.
▽64 江戸期、全国的に新田開発。幕府が奨励したのが「1村1寺」
▽福島県会津坂下 斎藤さんは自坊の光明寺の他に被兼務寺院13か寺総勢950軒。
▽無住寺院の檀家に対し、新宗教が誘いをかけ、檀家が引き抜かれてしまう。
▽被災寺院 街の復興が進んでも、宗教施設の復興は置き去りにされている。東北沿岸の街殻、物的にも精神的にも宗教が消えようとしている。
▽長野県松本市の東昌寺(尼寺) 「ご遺族の代弁者こそが、お坊さんなんだと。お経を上げる行為は、むこうがわにいる亡くなった人と対話すること。我々を見守って下さいと、向こう側にお願いすること」。飯島さんは、生老病死のトータルケアを目指す市民団体「ケア集団ハートビート」を立ち上げた〓。死別を経験した人を、地域全体でケアしていく社会を目指し活動。「悲嘆を語りあうワールドカフェ」「語りあう会の参加者は、少しずつ日が差し込んでいくような感覚で、ゆっくりと前に歩み出せるようになっています」
▽97 京都の祇王寺も尼寺 花街に生きた高岡智照が再建。39歳で出家1994年に98歳で亡くなるまで庵主をつとめた。
…尼僧を養成する道場も閉鎖が相次ぐ。
…1873年に尼僧も男同様の俗化が認められていたが、尼僧たちは「出家」の大前提を守り通している。愛知県や中部・北陸に尼寺が多い、
戦後しばらく「口減らし」のために幼子を尼寺に引き取ってもらうことがあったという。…不遇な子を尼寺に預けることができなくなり、尼寺の後継問題が深刻になっているともいえる。
▽玄侑宗久 父は「お寺の仕事は交際業だ。まちがってもサービス業ではない」。年末年始は檀家さんへのあいさつだけで忙殺される。家庭を訪問してカレンダー配り。家を1軒1軒まわると、その方の様子がよくわかる。生きているうちからその人のことを知っておかなければいけないのは当然でしょう。
…隣組が葬儀を取り仕切れるのに、喪主の息子が地元にいない。葬儀のお返しも何もできないので、結果的に葬儀屋さんに任せることになる。
▽無意識の力を引き出すのが僧侶の役割なのです。宗教的な技術をもって、阿頼耶識に入っている。
…自分の死後、どこに埋葬されようがかまわないというのは、連続性が意識できなくなっているのかも。先祖や地域など、多くの連続性を感じるということを、、生きがいとして感じてほしい。
…変化の激しい経済とか政治の影響を受けない存在も、我々の暮らしには必要なんです。それは宗教、哲学、道徳などです。
▽122 熊谷市の曹洞宗・見性院
ゆうパックで遺骨を送る。
…バブル期以降、セレモニーホールが増え、近年は自宅葬や寺院葬が見られなくなった。…檀家制度によりかかった僧侶の堕落。檀家制度を廃止して「会員」とした。首都圏全域から「会員」が集まるようになった。旧檀家の一部からは反発も強く…
▽126 「直送」。病院から葬儀屋に行き、納棺だけすませるとダイレクトに火葬場に送る。僧侶は10分ほどの短い経をよむだけ。
1975年ごろを境に、病院で亡くなる人の割合が自宅で亡くなる人の割合より多くなり、近年では老人施設における「死」が増加している。
▽132 国立市の日蓮宗・一妙寺 2014年に落慶。新たに寺をつくる「開教」制度。人口分布にあわせて寺院を再配置する必要に迫られる。
▽千曲市の臨済宗妙心寺派の開眼寺 ビジネスマンから僧侶へ 柴田さん。
リタイヤ組専門の修行道場。「やりがいのある余生を送るためにお坊さんになりませんか」
▽170 コンビニより寺の方が多い。
地方都市刃、1村○カ寺といったように計画的にちらばっていることが多い。幕府の寺院政策の名残。
東京の場合、寺が一カ所に集中する「寺町」を形成しているところがいくつもある。大寺院の門前に塔頭寺院が広がるケース。関東大震災で焼け出された寺が集団移転=千歳烏山の寺町。としまえん近くも11か寺が集中。これも大震災後の集団移転。
▽178 廃仏毀釈で寺が絶滅した鹿児島県。江戸末期まで1066カ寺僧侶2964人がいたが、1874年にゼロに。150年前の仏殺し。
▽184 明治以降、肉食妻帯、髪をはやすことを解禁。明治新政府の狙いは、僧侶の世俗化、弱体化を図ることだった。…浄土真宗を除き、「肉食妻帯」はご法度だった。
伽藍などの物的破壊に加え、僧侶を俗化していく一連の弾圧によって「葬式仏教」化がはじまる。
…守られたはずの神道も…明治政府は伝統的な神仏をすべて殺した後に、ただ一種の神々のみを残し、その神々への強い信仰を強要した。現人神。(梅原猛の「神殺しの日本」)
▽186 鹿児島は廃仏毀釈によって、文化財の数がきわめて少ないため、県の文化財関連予算の規模は小さく、廃仏毀釈に関する調査・寺院の復元などが、進んでいないのが実情だ。
▽188 鹿児島は一人あたりの生花の消費量が日本一、ご先祖様に対する思いがひときわ強い。鹿児島市内には広大な市営墓地がいくつもある。廃仏毀釈後、寺を失った墓地が、市民墓地として再編されたからだ。。仏教は崇拝しないが、祖先は大切にする。寺と墓が切り離されている。
▽194 江戸末期の鹿児島藩では、キリスト教に加えて、一向宗もきびしい取り締まりの対象だった。「花尾山」の隠れ念仏堂。
▽201 仏教の戦争加担
日清・日露戦争で、従軍僧は厚遇される。大陸遠征が、海外布教の足がかりに。国と仏教界が、勢力拡大のために、互いに利用し合う構図。
…墓石の先頭がとがった奥津城(軍人墓)。
仏教教団の自己批判が始まるのは、1990年の真宗大谷派から。95年には浄土宗や浄土真宗本願寺派や日蓮宗などがつづいた。だが2015年、戦後70年の節目にして、過去の過ちと反省へ言及する動きは見られない。
▽農地改革に翻弄された寺
兼務住職の問題、空き寺問題は農地改革が起因していることが多い。
▽267 農地改革で寺は困窮した。しかし高度経済成長・バブル景気が経営を下支えし、仏教界は生きながらえることができた。
だが失われた20年で状況は一変。
…旧開智学校 廃仏毀釈で破壊・解体された寺院の建材が使われた。
…寺の存在意義 「あなた自身を見つけられる場所だから」。自分につながる亡き人と再会できるのが寺院。「過去」に思いをはせることで、自分の存在意義を確かめる。きっと再び、明日に向かって歩き出せるはずだ。
▽佐藤優
宗教が衰退しているのは、死に対する意識が変化しているから。生のみを追求して、死は無意味であるという発想は、間違いだと思う。人間は必ず死ぬ。それだから、限界を意識し、充実した生を送ることができるのである。
寺院消滅を防ぐには、都会で、人々に死を意識させる活動をすることだ。仏教徒とキリスト教徒が、死について共同研究をする時期に至っていると思う。
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